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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

1 超党派を掲げる久松県政

 久松知事初当選

 昭和二六年四月の知事選挙は、選挙戦の半ばで保守二候補のうち、佐々木長治優勢、青木重臣脱落の気配が濃くなったので、自由党本部は急ぎ党員の佐々木支援を黙認、さらに小西英雄代議士の動きで佐々木を追加公認したため、一人の知事に公認候補二人という不思議な成り行きとなった。青木支持の高橋英吉県支部長は戦線を離れて上京途中に「我過てり、旗を巻いて帰る」と早々敗北を宣言、佐々木あて陳謝激励を行うなど、党内に乱れた動きが目立った。選挙通の間では、佐々木の当確を動かぬものと見ていたようであるが、開票の結果は久松定武の東・中予での予想を超える伸びと終盤の巻き返しが奏功、南予中心の佐々木とわずか二、六四一票の差でその当選が決定した。
 久松定武は大正一三年(一九二四)東京帝国大学経済学部卒業、三菱銀行ロンドン支店勤務を経験、天皇家にもゆかりのある旧松山藩主久松家の当主。昭和一九年貴族院議員、二三年参議院議員を歴任し、高い知名度に気さくな庶民性も持ち合わせ、「殿様人気」に乗って一気に政界に躍り出た。終戦前後、松山市東野で農園を経営し滞英中に学んだ農業知識を地元民に披露したりして、選挙に強い土着性も身に付けていた。しかも保守せめぎ合う激流をぬっての出馬当選は、並々でない度胸と勘の良さで、強運にも恵まれたものといえよう。そして初心清新の政治家らしく「ボーイスカウト精神」を高唱し、ボーイスカウト県連盟会長には二五年自ら就任、その団員は青少年の心身向上、社会奉仕を実践し誠実・勇気・自信をモットーに戦後社会に新風を吹き込んでいた。五月四日に初登庁した久松知事は、民選知事として脱官僚で行きたい。また社民推薦で当選したが、超党派不偏不党をとなえ、翌二七年年頭に「緑風会」精神で県政に当たることを掲げた。
 「緑風会」は、昭和二二年参議院のみの会派として九二人の議員で結成され、当時第一党となった。良識の府としての理想を掲げ、保守的ながら是々非々を建て前としていたが、政党中心時代に衰退して行き、四〇年六月消滅した。

 県風振興

 新しく発足した久松県政は、予想を上回る人事の改革刷新を断行した。まず五月、副知事に羽藤栄市(前四国電気通信局長)、出納長に戒田敬之(前県労働部長)を選任した。続いて六月以降二七年末までの間、青木県政の衝にあった総務部長東郷一郎、土木部長青笹慶三郎、民生部長松本貞水、衛生部長木村省三、教育長杉野常夫が総退陣、これに代わって総務部長野村馬、土木部長大野唯糊、民生部長松友孟、経済部長諌山忠幸、衛生部長安部雄吉、労働部長武林範定、教育長岡村威儀を新任、一部は中央人事に即しつつ部長級の陣容一新を行った。庁外人の異色起用として羽藤をはじめ、特に農業団体から農務課長に岡田慎吾、農業協同組合課長毛利正光、畜産課長佐々木賢一の就任は、農政を重視するという選挙公約の線に沿ったものであった。また、企画室次長(部長級)竹内正己、秘書課長塩見博、秘書課嘱託白形光蕾らは特異な影響力を初期の久松県政に発揮し、庁内の伝統に異質な新風を吹き込んだ。同時に久松知事は、選挙期間中地方公務員法に禁止されている政治活動を行った者は、断固として処置すると県議会でも言明し、異例の厳しさをもってこれに臨み、課長・地方事務所長級より六人の依願退職者を出している。
 七月、知事は庁風刷新を期して、県庁職員に奉仕(SERVICE)節約(SAVING)迅速(SPEED)研究(STUDY)の四S運動を提唱し、官僚意識から脱皮した公共奉仕、住民自治を使命とする公務員道の確立を説き、綱紀粛正、服務規律の向上、能率や節約などに重点をおいて実施された。具体的には惰性に流される旧慣を戒め、宴会などの簡素化は中央からの出張者接待にも及んだ。
 親しまれる県庁ヘー官僚政治を排し「愛郷心に根ざして県政を県民の手に」との選挙公約の姿勢に立って、開かれた県庁の第一線には、二七年公聴課を改め広報文化課を設置して、視聴覚メディアなどの活用に努めた。また、「県民室」を設置し来庁者、見学者の便宜を図り新生県庁への第一歩を踏み出した。昭和二八年国体を機に、松山市堀之内に建設された県民館も文化集会、体育の殿堂として、県の新しいサービス機能の発展を目指したものである。同二七年の県の旗・県の花の制定ぱ、失われようとする県または県民のアイデンティティ(連帯感・帰属意識)の回復を意図した試みであった。特に県旗は、当時日本一の生産を目指していた果樹園芸の花形、みかんにヒントを得たもので、県のシンボルとして県内官公庁の主要建物に日の丸とともに翻り、県民になじみ深いものとなった。

 東京・大阪等県外事務所開設

 久松県政の初期、県外事務所の設置が相次いで行われた。愛媛県東京事務所は既設の東京都新宿区市ヶ谷出張職員宿舎に兼ねて、昭和二七年五月発足(初代所長中山逸美)、二八年同事務所は千代田区平河町(現県東京宿泊所)に独立・新設され、さらに三六年五月同平河町都道府県会館六階に移転した。二九年一一月、愛媛県東京物産斡旋所が東京駅構内鉄道会館六階の全国物産街に軒を並べ、県産品コーナーとともに開所した。同所は東京事務所の一機構であったが、後に県物産協会に運営委託された。東京事務所は中央政・官・財各界への陳情及び事務連絡、経済行政事務、関東愛媛県人会の連絡事務などを担当したが、特に行財政の事務の増量・複雑化は、一層中央・地方の緊密かつ迅速な連絡対応を必要とし、さらに経済的に東京圏の比重増大も加わって、重要度は増す一方となった。職員数も草創期の八人から六一年には一七人と、倍増以上の大拡充となった。知事をはじめ県からの出張者は、至便の平河町界隈に県政東京基地の拠点を構えて活動するようになった。
 県外事務所の草創は、昭和二七年二月愛媛県物産大阪斡旋所の開設であった。県産品の斡旋、宣伝、市場調査、就職斡旋連絡などの経済行政を主としたが、立ち遅れていた近畿愛媛県人会への取り組みをてこに、関西財界との交流協力への期待も大きく膨らんでいた。本来、本県と京阪神の経済交流は最も大きく、例えば今治タオルは七割の仕向先を占めていた。このように京阪神は、農林水産物の仕向先市場の大宗であったが、復興途上の無秩序な過渡期経済の被害を生産県が受けていたので、正常取引の指導監視の要請が強かった。このため市場調整用の県立物産倉庫が昭和三一年、大阪市北区中之島安治川通りに設けられ、木炭を主体に食品雑貨などを保管した。また、昭和三〇年西成区に県立肉畜冷蔵庫が設置され、三二年には牛四四七頭、豚四、一一九頭などを取り扱い、全国一の供給県として「伊予牛」の名声維持に寄与した。両倉庫は市況をにらんで出荷調整するための保管を業務とし、のち県経済農業協同組合連合会へ運営委託された。大阪事務所の斡旋額は三五年ころ約一億円で、当時は東京を一~二割程度上回っていた。中・高校卒業者の京阪神地区への就職は毎年一、〇〇〇人を超え、特に高校卒業者の求人先確保のため、奈良県生駒町に県人就職者通勤用の県立生駒寮を昭和三二年に設立して、就労の便を図った。その後経済の変遷とともに肉畜冷蔵庫は四一年、物産倉庫は四三年、生駒寮も同年それぞれ廃止された。
 大阪事務所(初代所長尾崎一水)、は二七年一一月、愛媛県物産大阪斡旋所を改称してスタートした。当初の大阪市東区内本町から移転を重ねて、四五年現在の同東区瓦町愛媛ビル(愛媛相互銀行と共有)に居を構え、四七年から県物産協会大阪支部が同ビル内に物産コーナーを設けた。同事務所は職員数当初六人で出発し、農林水産物担当や職業安定などの専門職員が駐在したこともあり、最盛時には常勤九人を数えた。昭和六三年現在わずかに二人となったが、このことは経済行政の推移と関西の経済環境の厳しさを反映しているといえよう。
 愛媛県小倉事務所は、九州への県物産の販路拡大や観光宣伝の期待に乗って、昭和三四年七月小倉市浅野町小倉ステーションビル三階に職員三人の陣容で設置され、後に九州事務所と改称された。九州経済圏との交流の限界は予想外に早く、九州愛媛県人会の事務所存続要望は相当強かったが、四六年四月廃止された。県人会は、五八年時で関東(二、〇〇〇人)、中部(一、〇〇〇人)、近畿(三〇〇人)、京都(二五〇人)など一二の県人会の外、ブラジルなど中南米にも七県人会があり、特に関東、近畿の県人会は、地域開発、企業誘致など県政への参加協力面が大きい。

 県立松山農科大学の国立移管

 昭和二〇年四月、伝統ある県立松山農業学校(松山市樽味町)を母胎とし改組・昇格した県立農林専門学校が新設され、四国唯一の農林専門学校として、三年制、農業・林業・農業土木の三科、定員一五九人を構える県下農業教育の最高学府となった。同校は、二六年までわずか四期
の卒業生を送り出した短命校であったが、終戦前後の激動期に陸海軍諸学校出身者や外地引揚げ生徒などを、定員外に多数受け入れて独特の豪快な気風が育ち、後に継承昇格した大学課程の後輩にも伝わる校風の原型が培われていた。
 昭和二三年学制改革期に国立愛媛大学設立の機運が高まり、これと連動して、県立農林専門学校の大学昇格に関する設備充実の意見書が同年六月県議会で可決され、県政の主要施策として新制大学昇格への歩を進めた。同二四年三月国の設立認可を得、同年四月新制県立松山農科大学が開校された。さらに県立松山農科大学を、二四年発足早々の新制国立愛媛大学へ移管を図るという、当初からの念願を果たすため運動が進められた。県側は教育内容の向上と併せて県行財政軽量化の狙いもあり、一方草創期の愛媛大学にとっては、総合大学の実を挙げる農学部の設置は望ましいことでもあった。二五年二月の県議会で国立移管に関する意見書が満場一致可決され、高瀬荘太郎文部大臣をはじめ、関係方面への陳情が相次いだ。
 青木・久松両県政にまたがる懸案であったが、政官界一体の努力が実り二九年四月からの五か年学年進行方式で、新制愛媛大学農学部への移管が実現した。県立松山農科大学にかかわる校地、農場用地(約三八町歩)、演習林(約三六〇町歩)など実測約四〇〇万反(約六、三九一万円)、建物約四五万坪(約七、〇二二万円)、工作物、機械器具、図書標本など総計約二億一、〇〇〇万円相当の県有財産の国への寄附、三二年三月末までに一六一人の教職員定員の国への移管、加えて二九年の協定による新制大学に必要な施設整備充実費六、〇〇〇万円余の県の義務負担など、移管に関連する県の総負担額は三億円近いものであった。
 三三年三月県立松山農科大学は廃止となり、衣替えした愛媛大学農学部は農学・林学・農業工学・農林化学・総合農学の五学科二五講座、定員一二〇人で発足した。特色としては、旧松山農業学校の伝統継承校ともいうべき附属農業高校の併設で、県立松山農科大学発足の二四年七月時、同校は五〇人の定員であったが、昭和六三年現在は定員一二○人、全国唯一の国立大学附属農業高校として異色ある存在を誇っている。