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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

2 新しい行政

 県立産業能率研究所

 昭和二三年二月県内企業の診断指導を目的として設立された。県商工課所管で、当時県立の専門診断機関としては大阪府に次ぐ全国二番目の設置、青木知事のねらいとする「金をかけないで能力向上を図る」機能が注目された。事務所は二五年松山市一番町の県庁前に設けられ、職員数は当初一二人で発足、個別診断、特に工場診断を主体に研究指導が行われた。その後、時代の要求に従い、二八年から商店診断、二九年から産地診断、三三年から組合診断、三六年から近代化促進診断を実施し、三九年からは県商工課と協同で実施して来た診断事業を本所が一元化して行うようになった。二三~三九年間の診断箇所数は工場七一七・商店二二一、巡回指導が工場三二九・商店四二、工場の近代化診断四七となっている。国の中小企業振興施策の一環として従来の研究所を母体に、経営指導育成事業及び技術指導面も加えた総合的指導機関としての県中小企業指導所が四一年四月新発足した。

 公聴・広報

 「知らしむべからず、よらしむべし」は戦前の不完全な民主化近代化行政の実体をなしていた。終戦後、地方の民主化徹底のため愛媛軍政部の指導で、県に昭和二二年七月知事官房公聴課(のち総務部所属)が設置された。さらに二三年から弘報(のち広報)重視が政策となり、二七年七月広報文化課の設置をみる力有能な発展を期待する旨の訓話を行った。公聴(のち広聴)活動は個人団体を問わず、下情上通民意の導入を図り、県行政への不平・不満・要望を文書・口頭あるいは現地公聴会で直接聴取し、行政上の反省と是正に資する事業である。二三年当初は食糧の供出、配給、農地、建築、福祉、衛生などの不満・要望など切実なものが多かった。二四年度五四件、二五年度八二件と県税、生活保護、農地、地代家賃、教育などの簡易な質疑照会が増え、食生活など改善の兆しが著しかった。
 二三年から軍政部の勧告で広報が強化され、町村に弘報(広報)委員会が設置されたが、二五年にはその数約三〇○、委員数一万一、〇〇〇人余を数える有力組織となり、二四年の新聞紙面の計画利用八八〇件、ラジオ利用四五六件とマスコミ利用も「農家の窓」「産業相談」「農事放送」などと多岐にわたった。刊行物では年七回、二万一、〇〇○部の県政総合誌『愛媛県政』(のち月刊広報愛媛)かべ新聞、ポスター(四万七、〇〇〇枚)、パンフレット(二万部)、リーフレット(一六万枚)、二六年後半から年数回の写真グラフ(三、〇〇〇部)など民主化のつぶてが県下をかけ回った。
 二五年九月、県に新鋭のニュースカー「えひめ弘報車」が登場して県下を巡回(二七年には年間一万八、〇〇〇㎞走行、二四四回出動)、女子職員がスピーカー放送を行い、併せて娯楽の乏しい農村漁村で映画及びスライド映写会・紙芝居を行うなど「動く県庁」としてサービス行政の先駆となった。二七年所管の県民室(のち県民談話室)が県庁本館二階に開設され、二七年には利用者は四万三、〇〇〇人に及び、「開かれた県庁」として好評であった。また、芸術文化の向上を期して近衛管絃楽団、三浦環記念音楽会などを県の主催で行ったことは、久松県政の文化カラーの一面である。