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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

3 行政組織・機構

 戦時体制の解体と機構改革

 終戦前は中央集権による官治行政であったから、県の行政組織は国の下達機関としての性格を持ち、官吏である知事がこれを統轄していた。従って県機構の中軸をなす部制は、「地方官官制」により定められ、その下における分課は知事の権限とされ、「愛媛県処務細則」で定められていた。昭和二〇年終戦時における県庁機構は、知事に直属する知事官房(従前は部に相当し、知事官房長が秘書・人事・統計・庶務及び会計の五課を統轄していたが、昭和一九年七月地方官官制の改正で、秘書・文書事務を除くすべてが内政部に移管され、知事直属の官房主事を長とする知事官房となった)と内政部以下四部・二七課(室・所を含む)で構成されていた(表3-16)。
 終戦後非軍国主義化、民主化のため諸種の指令がGHQから次々に発せられ、これに伴い県機構も戦時体制を支えてきた諸制度が廃止、改変されるにいたった。
 二〇年一〇月四日、GHQは「民権自由に関する指令」(略称)を出して、思想警察の廃止並びにこれに関係のある警察官の罷免を求めてきた。このため警察部の特別高等課を同年一〇月一〇日に廃止したのをはじめ、二一年七月までに兵事厚生課、国民動員課、社寺教学課等が改変され、また、新たに食糧課、渉外課、復興第一課、同第二課、経済警察課などが設けられるなど、当時の社会情勢に対応する機構改革が行われた。さらに、地方官官制の改正により、二一年二月には内政部が内務部に改められ、経済第一部・同第二部が統合されて経済部となり、三月には土木部(監理課・道路課・河港課・復興課)、一一月には教育民生部(教育課・衛生課・社会課・労政課・勤労課・保険課)及び農地部(農地課・開拓課・耕地課)が設置され、二一年末には、知事官房と内務部以下六部三四課(室・所を含む)と急激に機構が膨張した。
 これより先、府県制の改革について政府の手により精力的に検討が進められ、府県知事の公選制を含む第一次地方制度改革の法律が二一年九月に公布された。しかし旧憲法下であったため、この改正による初の公選知事も地方自治法施行までの身分は、国の官吏とされていたのである。そのほか、選挙管理委員会及び監査委員の設置等行政委員会制度が導入され、執行機関の多元化の方向がとられはじめてきた。

 地方自治法の施行と機構改革

 昭和二二年五月三日、日本国憲法及び地方自治法が施行され、新しい地方自治制度が発足し、これに基づく行政組織機構が次々と改組されていった。新しい部制については、地方自治法(第一五八条)の規定により、総務・民生・教育・経済・土木・農地・警察の七部と定められていたので、この部に対応する分課が順次進められ、地方官官制時代から続いた知事官房も二三年一月に廃止され、その事務は総務部へ移された。また、知事の法定代理機関としての副知事、会計の公正を確保するため独立の権限を有する出納長については、二二年七月九日、宮内伊彌(当時広島県経済部長)、市川辰次郎(当時県会計課長)がそれぞれ発令され就任した。なお二三年の法改正により衛生部が一月に、また任意設置制であった労働部が二月に条例で設置された。一方警察並びに教育行政が知事の直接の所管から離れ、行政委員会制度として独立したため、県行政は知事部局の一般行政、公安委員会の警察行政、教育委員会の教育行政の三本建てで運営されることとなった。これらは、いずれも地方行政の民主化・地方分権化を目標として行われたものであった。
 二三年度以降二六年度までは、おおむね、七部四〇~四三課の機構(表3-17)で推移し、表面的には変動の少ない時期となったが、警察・教育の両部が分離しながら、なお、細分された分課となったことは、行政需要の増大を物語るとともに内務省解体後の中央政府の地方公共団体に対する施策が縦割り化したことの表われとみることができる。

表3-16 昭和20年8月現在の県庁機構

表3-16 昭和20年8月現在の県庁機構


表3-17 昭和23年度~昭和26年度 県庁機構

表3-17 昭和23年度~昭和26年度 県庁機構