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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

2 官選知事による戦後の県政

 土肥知事

 土肥米之は広島県出身、明治三一年生まれ、東京帝国大学法学部卒業、本県在任中の四国地方行政協議会参事官から昭和二〇年四月愛媛県知事に昇格したが、四か月で終戦を迎えその収拾工作に奔走した。大詔を受けた知事告諭には「戦争以上の苦難を覚悟して君民親和し、一致団結して皇国興隆に邁進すべし」とあり悲壮感が漂っている。同年八月一三日全国地方長官会議に出席した土肥知事は事前に重大事態を知り、一四日帰途川之江に立ち寄り、明日行われる陛下の重大放送に備えて三島警察署長に対し治安確保の特命を発した。当時三島町(現伊予三島市)には豊富な武器弾薬を擁し、県下最大の武装部隊で志気旺盛な「あかつき部隊」(陸軍船舶兵約六、〇〇〇人)が駐屯しており、一触即発の妄動に出る危険性が察知されたためである。翌一五日早朝帰松した知事は各部長を集め「如何なる事態に立ち至るかも知れない、軽挙を戒め最善の努力を……」と声涙下る訓話をした。大詔発表後いずれの官公署も同様、戦時書類の焼却が松山城の城山を焦がすばかりに続けられた。
 幸い県下では武力抗争の気配は無く逐次復員が始まり、平静に占領軍を受け入れる用意ができた。次いで真剣に憂慮されたのは占領軍の慰安施設の問題である。横浜に上陸した米軍部隊には現実に少数ながら婦女暴行及び未遂、略奪、傷害等の事件が起こったので、人心の不安混乱は打ち消し難かった。愛媛新聞は二〇年九月一二日付に政府関係の消息通の談として「東京地方は平静で人々は逃げ隠れはしていない。米兵は進駐の記念品を欲しがる傾向がある。米兵の中には親切な者もいるが、白粉口紅をつけたりモンペをはかずに居たりするとそういう女性は醜業婦と誤解されるから要注意。日本婦人としてき然たる誇りをもって冷静に対応すること……」と、過度の恐怖心は無用だが風俗習慣の相異に留意するようにとの見解を伝えている。大部隊の進駐した二〇年一〇月二二、二三両日にはその進路の歩行者制限や、商店、遊廓、芸妓屋の閉店などが慎重に配慮されたが、大きなトラブルはなかった。だが旧久松邸(現県立美術館分館)と城南荘(松山市北持田町現県立生活文化センター、当時丸善石油所有)の二施設はじめ、上流邸宅や道後の「鮒屋」など一流旅館の接収は権力者の交替をまざまざと知らされた。一方庶民の買い出しなどで乱れた交通モラルに四国鉄道局は、一〇月一四日から交通道義高揚月間を実施し、「進駐軍に笑われるな」とのスローガンで国辱的な車窓からの乗降、改札口以外の通行などを戒めている。一〇月二〇日知事は、「進駐軍から兵舎修築用の資材、特に木材の要求があったが、本県の窮状を見かねて進駐軍は、調達の八割までを広島方面に切り替えたり、旧日赤病院跡の幕営地への病院建設計画を了承したり……」と、進駐軍の好意的・協力的な寛大さをたたえており、大きな摩擦はまぬがれたとみられる。二〇年一〇月二六日終戦処理に奔走した土肥知事は依願免官となった。

 豊島知事

 豊島章太郎は広島県出身、明治三二年生まれ、東京帝国大学法学部卒業、大阪府内政部長から土肥の後任として知事の座に就いた。「政治の根本は食糧確保にある……道義昂揚も生産増強もこの一点にかかる」との第一声がその治績のすべてを物語っている。食糧供出の向上が最大目標であり、完遂者とそうでない者との間の不公平は黙視できない。また復興再建についても、官吏の出過ぎた指図を戒めて民間当事者の創意と実力を活用せよと喝破している。当時戦災地復興は松山市一八%、今治市三%、宇和島市二%と立ち遅れが甚だしく、木材の伐採、製材は無制限とし、都市計画と並行して建築制限も極力自由化し自力再建の奨励策を打ち出した。またこの三市六〇〇戸の戦災者用賃貸住宅の建設を進めたが、一戸二世帯で一世帯当たり四・五畳と一畳の超ミニ住宅であった。昭和二〇年一二月の衆議院解散に際し知事は、「選挙運動そのものに官の介在する余地はなく毛頭選挙干渉などの意図はない。法定の範囲内の取り締まりをするだけだ」と強調した。警察行政の変ぼう振りは最も甚だしく、佐山警察部長はサーベル行政・官僚行政を改め、民主警察に徹して警察官の越権行為を厳に戒め、「遵法即ち法治国の民主精神」で行政に当たると県会で説明した。明治以来内政全般にわたり警察国家日本の中核であった警察行政は、昭和二二年末の内務省解体への途を足早に歩んだ。だが二一年正月を迎えての供米不振に対応する非常措置に当たって、警察官が農家庭先で実力行使をちらつかせることもあり、「お上の警察」の威光はまだまだ効用を発揮していた。
 二〇年産米の供出には知事は最も苦心し、「農民がもう指導者にはだまされないという気持ちも分かるが、この秋こそ父祖伝来の農民魂=義農精神をよみがえらせ、より悲惨な都市の引揚・戦災者らを飢えから救え」と一二万農家に訴えた。四国四県知事会議は代替主食に南瓜増産を決議し、本県も二一年五月南瓜三〇〇万貫の増産、六、○○○反の植付を趾画し、学校・官庁をけじめ宅地、鉄道敷地にまで励行した。また未利用資源活用には海藻等五万石を目標とした。この年酒類の醸造は禁止となり、住友化学の合成酒や、切干いも原料の理研酒などが幅を利かした。食糧食い延ばし運動(五~一〇%)が六、七月末まで実施され、二一年二月にスタートした隠退蔵物資(食糧、衣料等生活必需物資)の摘発は春ころから激化した。昭和二一年一〇月三日豊島知事は食糧確保に奮闘の跡を残して任期一年足らずで岡山県知事へと転出した。

 青木知事と松下知事

 後任の青木重臣は長野県出身、明治三二年生まれ、京都帝国大学法学部卒業、元大東亜大臣青木一男の実弟で、内務省警察畑を歩き福岡県内政部長を経て昭和二一年一〇月本県知事に就任した。時に四七歳の若さであったが、昭和七年大阪のゴーストップ事件で、政府監察官として軍部の横暴に断固対抗した気骨が語り草となるほど鼻っ柱が強かった。青白きインテリタイプではなく、柔道で鍛えた硬派の勝負師型官吏で、東京都麻布六本本の警察署長時代に暴力団取締りで〝猛牛〟の勇名を馳せた。地方制度の改正を目前に青木知事は、「市町村が完全自治体となり、警察司法の一部も事務委譲の形勢であり、地方制度は大変革する。最後の官吏として県政に緩みを来さぬよう任務を尽くす。公吏となってもやることはやる」と第一声を発し、緊急の食糧問題と取り組み、困窮者援護、薪炭、住宅対策に努めると述べた。二二年二月官公労を中核に革命前夜の様相を呈した二・一ストでは、国鉄、全逓、県教組などの労働組合参加構えにかかわらず、県職組は内部でもめながらも不参加を決め、四国四県で本県のみが独自の態度をとった。時の松下県内務部長は「公務員ストは供出農家や引揚・戦災者らの窮状から見て公僕のすべきことではない」と賛意を表している。この時ストに参加構えの県教組も教育の特殊性から授業は極力続けるとの苦肉の方針であった。青木は当面の急である食糧確保に邁進し、警察行政のベテランらしく供出には強権発動をバックに督励し、隠退蔵物資の摘発にも強気で当たるなど、このテキパキとした行動力が評価されたが、一面強引過ぎるとの批判も受けた。二一年一一月には県教育民生部を独立させ、一二月宇和支庁を廃止して南・北宇和郡にそれぞれ地方事務所を置き、「南予県」独立の風聞を吹き飛ばすなど着々と行政実績を上げ、翌春に迫った知事公選を待った。
 昭和二二年三月青木に代わりわずか一か月の間、内務部長から昇格した松下一が本県最後の官選知事となったが、知事選挙期間中の臨時知事で二二年四月に依願免官となった。松下は大阪市出身、明治三七年生まれ、東京帝国大学法学部卒業、その知事在職中「食糧供出は県庁職員から」と道義高揚のスローガンが県庁内にはられていた。
 昭和二二年四月初の公選知事となった青木は「公選では知事は支配人で重役は県民である。県政の主体は県民、県民代表の県議会の重要性は倍加した」と所信を述べている。一年後には「地方分権は名目的で税制、特に分与税、起債制度なども従前と変わらず、官僚知事制度延長の形で補助金行政の実態は変わらない」と地方自治の時代に臨む官僚出身知事の自信の程をほのめかしている。