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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

1 終戦と混乱

 終戦

 昭和二〇年八月一五日「戦局必ズシモ好転セズ…大勢マタ我ニ利アラズ…」終戦の大詔を伝える玉音放送が青空の下を流れた。県下も空襲で死者一、二三四人、重軽傷者一、七〇九人、全焼家屋二六、三〇二戸等常在戦場化しつつ、住むに家なく日々の食糧にも事欠きながら、青壮年を戦場に送り出し銃後を守った老幼婦女は、余じんくすぶる焦土や荒れ果てた田園に呆然自失した。虚脱感の半面「やっと戦争が終わった」安堵感もつかの間、未復員者への憂慮や前途の生活不安が津波のように押し寄せた。その夜から県下陸海軍部隊の復員が始まり、駅や港に群をなしたが、もはや軍紀の維持は難しく、各地の駐屯地、営舎幕舎で軍需物資の争奪が起こり、一般県民も参加して食糧、衣料、器材などはたちまち持ち去られ、取り締まるべき警察力は無力であった。極度の生活の窮乏、地に落ちた「日本帝国」の倫理観、やがて進駐する連合国軍への恐怖感等を背景に、局地的短期的に軍需物資目当ての混乱が突発し、秩序麻痺の無法地帯が出現したが、大規模な波及はなかった。
 軍国の道を歩んで一五年、不敗と信じられた日本は敗れた。明治以来父祖の血涙で築き上げた「近代国家」は土台から崩れ落ち、日清戦争以前の四つの島に閉じ込められ、破壊され荒れ尽くした国土や産業、頼みの家族や住居を奪われた裸同然の県民、国体や伝統を根こそぎ否定する価値観の転向、しかも前途に待つ連合国の厳しい占領管理は再建の前途多難を思わせた。廃墟からの懸命の出発であり「第二の近代化」への途は不確実な霧の中の門出であった。

 連合国軍の進駐・占領統治

 終戦後三島・松山・宇和島・御荘・城辺などに展開した陸海軍部隊は、逐次解散復員、愛媛県義勇隊も八月末に解散し、本土決戦体制は慌ただしく崩れ去った。昭和二〇年一〇月一一日、アメリカ陸軍第二四歩兵師団先遣隊司令官アイヴルバーカー大佐、ディッカーソン中佐らが来松して、土肥知事と進駐交渉に入り連合国軍の四国占領が始まった。師団司令部は、松山市の旧県立図書館、師団長宿舎は旧久松邸(現県立美術館分館)、道後の「鮒屋」・「虎屋」旅館などは将校宿舎に、旧歩兵22連隊、旧松山海軍航空隊、旧松山赤十字病院跡、旧愛媛県師範学校、旧城北練兵場、新田中学校などは幕営地として接収された。二二日には第一〇軍団、第二四師団、第六軍団の将兵約一万人が、ロジャース少将指揮下に松山市梅津寺へ上陸し、接収建物には忽ち星条旗が翻った。
 当初四国占領の司令部は松山市にあり、二五日には土肥知事ほか四国四県の知事が旧県立図書館に召集され、司令官ウッドラフ少将がGHQの占領基本政策(反軍国主義・民主主義・自由と人権の尊重が骨子である。)を伝えた。占領開始以来松山市民の一部に恐慌状態が起こり、婦女子は市外の知己へ避難し、家宝や旧軍人の遣品・写真まで隠したりしたが、進駐部隊の軍紀はおおむね厳正でこうした騒ぎは間もなく鎮静化した。
 日本軍の接収解体が終わると四国軍政司令官れスター司令官を最後に進駐部隊は逐次撤収し、地方の管理は愛媛県庁内(三階正庁)の第九一軍政部に移管された。さらに二一年七月に米極東軍第八軍に属する四国地方軍政部(高松市)の下に「愛媛軍政部」と改称され、シャールス中佐が就任した。愛媛軍政部は、アメリカを主とする連合国が日本政府を通じて行う「間接統治」の下部機構として、県内の政治行政の監視と民主化進展の情報収集に当たった。続いて就任したヒルトン・カーディン・マーシャルレイらの各司令官は、供出や納税の督励、ヤミ物資摘発、選挙監視のほか、労働争議の現場にまでジープで出動するなど、民主化揺籃期の各界に強い影響力を及ぼした。特に軍政部との折衝調整に当たった県渉外課は、国情の理解度の相異による誤解も多く労苦を重ねた。
 昭和二四年七月愛媛軍政部は愛媛民事部と改称、二五年四月には四国地方民事部(高松市)へ大幅に権限委譲、同年以降GHQの直轄となり、事務所は県庁内、旧歩兵22連隊司令部跡、旧県立図書館の三か所に分散して置かれていた。それらは講和条約の発効とともに二七年六月には全部引き揚げ、ここに七か年の間接統治は終了し、援助物資と沖縄行き重労働に象徴される「アメとムチ」の交錯する占領行政は終わった。

 復員・引揚

 第二次世界大戦による人的被害は甚大であった。明治以来、愛媛県護国神社の県人祭神四万六千余柱のうち四万二、九〇〇柱(軍属を含む)は今次戦争の戦死者であったが、敗戦の風は冷たく護国神社の社名すら一時御幸神社と改めて、時代の嵐を堪えしのいだ。また、重度戦傷病者への手当、傷病恩給は細々と続いたが、一般の軍人恩給は昭和二一年二月に停止された。遺族年金の復活は講和後の二七年、一般軍人の恩給復活は二八年までそれぞれ持ち越された。遺族年金を改めた公務扶助科が「兵」の位で年額一〇万円を支給されるに至るまでは、杖とも頼む夫や息子を失った県下四万三、〇〇〇人の遺族は、戦後の荒波に翻ろうされた。県下四、〇〇〇人の戦傷病者は戦争の傷痕そのものであり、三八年以降「戦傷病者特別援護法」に基づき、ようやく年額一千数百万円の療養費及び補装具の給付が行われることとなった。
 昭和六〇年代の今日なお、戦傷病者二、一四四人、年間療養費などの給付一〇一人、入院一〇人、未帰還者六人と戦後の影は長く尾を引いている。行政としては昭和二〇年一二月発足した国の愛媛地方世話部を引き継ぎ、二二年五月県の教育民生部(のち民生部)世話課が復員等軍事援護業務を所管、後に二九年県福祉課が引揚者、遺族援護も併せて所管した。
 戦後続々と始まった復員・引揚で県下の軍人五〇、二三一人、一般邦人六〇、七〇七人とその大半は二〇年度に、次いで一部が二三年度までにほとんど引き揚げ、三〇年まで年間一、〇〇〇人台の引き揚げが続いた。こうして舞鶴援護局の閉鎖した三三年度には四〇〇人の未帰還者を残していたが、その大半は内戦下の中国残留者とシベリア抑留者であった。二七年引揚再開に備えて、舞鶴には戦災都市近況写真や児童作品を飾る愛媛郷土室が設けられ、シベリア帰りや、工人帽姿の中国帰りの人々を県駐在員らが温かく出迎えた。

 食糧危機・インフレ

 終戦の衝撃が醒めないうちに食糧危機が襲いかかって、巷には日本人一、〇〇〇万人餓死説が真剣にささやかれるようになった。全国的にも昭和二〇年産米は冷害と枕崎台風の影響で平年作の三分の二、大正・昭和期を通じて最大の凶作となった。
 本県も平年作の五八%の不作、それに加えて終戦で供出意欲が急落し、二四万石の割り当てに対して供出実績は約半分の一三万石、前年供出量の三分の一を割る非常事態となった。人々は食糧確保に狂奔し換物が横行しヤミ価格は高騰した。新円切替時の二一年二月に月五〇〇円の統制賃金となったサラリーマンベースはさらに高騰物価との格差が開く一方で、二二年の労資闘争で五〇〇円は白米三升分との通り相場となった。幸い二一年産米は平年作を上回る大豊作で八一万石を収穫、甘藷も豊作で四、九六一万貫と愁眉を開いたかと思われたが、二二年夏秋の端境期には早場米を含めても消費需要量八〇万石に対し供給量六〇万石(米換算)で、絶対量が不足して相変わらず食糧危機は去らず、宇和島市など局地的に三~一四日の遅欠配を生じた。翌二三年も二〇万石程度の不足が続き、同年一月には主食代替としてキューバざらめ糖五日分か配給され、松山市内では松山高等学校、松山経済専門学校など各学校が前代未聞の「砂糖休暇」で休校する始末となった。
 主食の配給量は二合一勺が二一年一一月から二合五勺に増配された。二二年七月からは禁止されていた料理飲食店(県下約三、〇〇〇軒)も二四年に営業再開となり、めん類がメニューに出るなど復興へ活気づいたものの副食外食券持参、旅館の宿泊は飯米持参と窮屈な時代が続いた。二三年二月県食糧課で起こった外食券二〇〇表(一〇万食分)盗難事件は、カネよりモノの世相を物語っている。魚類は漁具等の資材や燃料不足から漁穫高の激減が長引き、二三年でも都市部の鮮魚配給は一人当たり三・七匁、農村は加工水産物五匁で一〇カロリーを下回るささやかさであった。二四年野菜の統制が解除され、代替主食の配給に辞退が現れはじめ、物価も安定に向かい食糧難時代はこの辺で峠を越えたものと見られる。
 終戦直後の激烈なインフレは戦時経済の矛盾を一気に噴き出した。終戦にもかかわらず軍事、軍需関係経費の支出や、占領経費等戦時下の三倍にも上る巨額の財政資金の放出は軍需品の無秩序処分、財産税対策の換物などが加速並行し、たちまち浮動購買力となって食糧等生活必需物質の買い付けに集中した。一面、先行不安や資材難などによる過小生産恐慌状態と相まって爆発的なインフレが昂進した。二〇年八月から二一年一月までの半年間に、卸小売ともに県内物価は二倍以上(米一升二・二倍の四五円、麦一升四倍の二〇円、小麦粉一貫三・二倍の八〇円、甘藷同四倍の二〇円)に上昇した。二一年四月から八月の間に物価はさらに一七%上り、農水産物価格の高騰は農漁村にかつてない好況をもたらし、二一年五月ころ農漁村の現金保有率は、実に県全体の四八%を占める有史以来の新円天国を謳歌した(数字は伊豫合同銀行一〇年史調べ)。同年一一月には公定価格撤廃に続き、災害による野菜の品不足、鮮魚の水揚げ減、県外での買い付け、大都市市況の波及などもあり、物価の上昇は新円切り替え、軍事補償打ち切りなどの荒療治にもかかわらず勢いを緩めず、二二年米一升一四〇円、砂糖一斤五六〇円、二三年米一升一八〇円、砂糖一斤三二〇円と続いたが、二四年にようやく米一升一三〇円と鎮静に向かい、天井知らずの戦後インフレは終わりを迎えた(数字は県商工課調べ)。