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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

3 重化学工業と都市の発展

 重化学・繊維工業地帯の形成

別子銅山の繁栄を基礎に、その関連企業の進出により、大正~昭和初期にかけて新居浜は県内最大の重化学工業地帯として成長していった。ちょうどこの時期、住友財閥は、外国からの技術導入、外国との資本提携を積極的に進め、傘下に電気・金属・化学・板ガラス工業を発展させていた。また、住友系企業の中心体である住友総本店は、大正一〇年(一九二一)、会社組織に改組されて住友合資会社と改称され、
以後、系列企業の本社からの分離独立、株式会社化が推進された。新居浜地域の重化学工業発展の動きは、このような背景のもとに進められたものであった。
 大正二年(一九一三)、新居浜肥料製造所が設立され、硫化鉱製錬の際の副産物を利用して硫酸、過燐酸石灰、配合肥料の製造にあたった。同社は、後にアメリカからの技術導入によって、合成硫安や硝安の製造に成功し、メタノール、ホルマリンなど工業薬品分野にも進出した。
 別子銅山機械課に起源を持つ住友別子銅山㈱新居浜製作所は、昭和九年(一九三四)に独立し、住友機械製作㈱と称した。同社は、起重機、巻揚機、鉱山用機械、原動機、その他各種産業機械の製作及び修理にあたり、昭和一五年、住友機械工業㈱と改称した。その間、産業界の戦時体制が強化される中で、住友機械もまた軍需産業部門への進出を開始し、呉海軍工廠との結び付きを強めた。昭和一六年の同社の生産高一、二〇〇万円の中に占める軍需関係は、実に八〇%に及んだ。
 金属製錬の分野では、アルミの需要増大を背景に、昭和九年、住友アルミニウム製錬㈱が設立された。当時、我が国でのアルミニウム箔製造は手打ちで、機械による製造は同社が最初の試みであった。
 別子銅山を含めて、新居浜を中心とする住友系企業に電力を供給することを目的に、住友別子鉱業所電気部が独立し、大正八年、土佐吉野川水力電気㈱が設立された。同社は、昭和九年に四国中央電力㈱と改称、さらに、昭和一八年に住友共同電力㈱となった。その間、住友系各社の発展に伴って増加する電力需要に応じるため、主として吉野川上流の電源開発を進めたが、戦時体制下の電力の国家管理により、昭和一四年と一六年、水力発電設備の大部分及び主要送電線路を日本発送電㈱に出資、譲渡した。
 以上のような、新居浜市を中心とする住友系企業の新設、発展とともに、この時期における県内の工業発展を支えたのは、沿海部に相次いで進出してきた化学繊維工業であった。大正四年に始まる我が国の化学繊維製造は、大正末~昭和初期にかけて、製造技術の発達及び需要の拡大を背景に本格的な発展期を迎えた。そのような背景のもとで、県内にも大規模化学繊維工場の進出が相次いだ。瀬戸内海を利用する海上交通の便に恵まれていたこと、大量の良質な工業用水の需要に応えることができたのが好立地条件となったものである。
 県内最初の化学繊維工場は、昭和七年(一九三二)、新居浜に設立された日本化学製糸㈱であった。これは大原・住友の共同出資によるもので、昭和九年、倉敷絹織㈱に合併され、以後は同社新居浜工場として人絹・スフの生産にあたった。その後、同工場は、戦時体制下の企業整備の波を受け、昭和一七年をもって生産を中止した。
 倉敷絹織㈱は、既設の新居浜工場に続いて、昭和一〇年、加茂川水系の豊富な工業用水を求めて西条工場を設立した。以後、同工場は倉敷絹織の主要工場の一つとして人絹・スフの生産にあたり、戦時下にあっても軍需関係の衣料の生産を続けた。
 昭和九年に設立された明正レーヨン㈱(昭和一五年に明正紡績に合併)は、周桑郡壬生川町(現東予市)に工場を新設した。同時に、親会社である明正紡績川之江工場にも人造繊維紡績機が設置された。この両工場は、昭和一六年、明正紡績と富士瓦斯紡績が合併して富士瓦斯紡績㈱が設立されたため、同社壬生川工場・川之江工場となった。
 昭和一一年に東洋レーヨン㈱と東洋綿花の共同出資によって設立された東洋絹織㈱は、翌一二年、伊予郡松前町に同社愛媛工場を設立した。同工場はスフの生産とともに、その紡績・機織・染色を一貫して行う工場であった。なお、昭和一六年、東洋絹織は東洋レーヨンに合併され、同工場は以後、東洋レーヨン㈱愛媛工場となった。

 国鉄予讃線の開通とバス・海上航路の発展

明治三九年(一九〇六)「国有鉄道法」が公布されて以来、全国に鉄道網が張りめぐらされていった。しかし四国の国有鉄道敷設とりわけ愛媛県内への進出は遅れた。国鉄の敷設が進まなかった理由としては、(1)県内の山がちの地形が鉄道敷設工事を困難にしていたこと、(2)峠にはばまれた不自由な相互の交通連絡のために海上輸送が早くから利用されていたこと、(3)政争が激しく路線の敷設をめぐって争いが絶えず、一体となった強力な誘致運動が出来難かったこと、(4)四国は経済効果・国土防衛の見地よりみて、さほど重要地域と考えられていなかったことなどがあげられる。
 すでに明治四四年(一九一一)に、帝国議会で多度津-松山間の鉄道敷設に関する建議案が可決され、多度津以西への工事が開始されたが、県の東端川之江まで国鉄が開通したのは大正五年で、西条は同一〇年、今治には同一三年までかかった。昭和二年(一九二七)に至って、ようやく県都松山までの開業が実現した。これは我が国の県庁所在地で国鉄が開通した最も遅い記録である。
 国鉄の開通の遅れは、民間鉄道とバス・船舶の発達を促した。
 伊予鉄道は大正期の一〇年間、松山電気軌道と激しい乗客の奪い合いを演じ、電化と経営の近代化を推進したが、大正一〇年松山電気軌道を吸収合併して軌道の整備を図った。伊予鉄道に刺激されて、宇和島鉄道が大正三年宇和島―近永間を開通させ、同一二年には吉野生まで延長した。また愛媛鉄道が大正七年に大洲-長浜間、同九年に大洲ー内子間を開通した。しかし八幡浜あるいは郡中への延長による三者の相互乗り入れは、峠にはばまれ、資金難と難工事で実現しなかった。
 その間隙をぬって、峠を越え各地を連絡して輸送に当たったのがバスであった。県下における本格的なバス輸送は、大正五年八幡浜に伊予自動車が設立され、八幡浜ー松山間を運行したことに始まる。その後、県内各地に多くの中小バス会社が設立され、それに伴って路線も延長された。しかし、一方では、各社間の競争も激しくなり、同一路線に数社が乗り入れて競争する例も珍しくなかった。そのため、大正末ころから、乱立下による混乱・競争を防ぎ、経営の安定を図ろうと、企業の統合を目指す動きがあらわれてきた。さらに、昭和一〇年代以後、戦後体制が強化される中で、県内のバス事業にも国家の統制が及ぶようになり、地域的な単位での統合が進められた。その結果、中予地方は三共自動車㈱(伊予鉄道㈱自動車部)、東予地方は瀬戸内運輸㈱、南予地方は宇和島運輸㈱のもとにほぼ統合され、各地域での一円的運行が行われるようになった。
 島である愛媛県にあって本土との往来は・船舶に頼らざるを得ず、すでに明治期から、大阪商船をはじめとする各汽船会社が、阪神地方と四国・九州を結ぶ定期船を運航し、それらが県内各地に寄港していた。航路には時期によって変遷がみられたが、昭和五年(一九三〇)ころには、大阪―別府航路、大阪―若松航路、大阪―大分航路、大阪-鹿児島航路(以上大阪商船)、大阪-細島航路(宇和島運輸)、大阪-大川航路(尼崎汽船)、大阪-新居浜航路(住友別子鉱山)が運航されていた。これらのうち、最も人気のあったのは大阪-別府航路で、豪華旅客船による阪神-四国-別府遊覧コースとして喜ばれた。そのため、運航回数も、当初の月六回から次第に増やされ、昭和三年以後は国鉄松山開通に対抗して昼夜二便の運航が始まった。
 その外、愛媛県と中国・九州を結ぶ航路、県内各港を連絡する沿岸航路も盛況であった。特に、国鉄線の松山開通以前にあっては、中国航路は、県内から尾道や宇品経由で東京阪神への連絡コースとして利用され、石崎汽船・大阪商船・東予運輸汽船などによる運航が行われた。しかしこれらの沿岸航路とりわけ県内各港と連絡する航路は国鉄の西進により衰退していった。
 国鉄松山駅開通に伴い、伊予鉄道は松山駅との連絡のため大手町線の敷設を図るかたわら、三津浜経由で松山に入る国鉄への対抗措置として、昭和六年に高浜線の電化・複線化を完成し、従来の「坊っちゃん列車」に代わって、時速五五キロの最新ボギー電車による運転を始めた。また国鉄郡中駅が開業すると郡中線を郡中港駅まで伸ばして国鉄との輸送の緊密化を図った。愛媛鉄道と宇和島鉄道は、国鉄に買収されてその鉄道敷設の促進に寄与した。
 国鉄延長は松山以西についても引き続き工事が行われ、昭和一〇年(一九三五)、愛媛鉄道を買収改良した部分を加えて大洲まで、次いで同一四年に八幡浜まで開通した。また、昭和一六年に宇和島-卯之町間が開通し、買収した宇和島鉄道の宇和島-吉野生間と合わせて、宇和島線として営業された。残された八幡浜-卯之町間については、軍事的側面からも開通が急がれたが、戦時下における資材不足の中で工事は容易に進まなかった。同区間は、伊予鉄高浜線レールの提供、地元民の勤労奉仕などにより、昭和二〇年(一九四五)六月に至って開通し、川之江に列車が入って以来三〇年の歳月を要して予讃線はようやく全通を見ることとなった。
 大量の乗客と物資を運んで都市の発展と地方開発に貢献する国鉄の開通が大幅に遅延したことは、愛媛の地域の発展、地域間の連絡結合を阻んだ。県都松山は中核都市に成長しないままに東予が阪神と、南予が九州と結ぶ分断経済が継続した。峠でさえぎられた地域間の格差とりわけ南予の後進性は改善されることなく、戦後県政の主要課題として残された。

 八幡浜・新居浜・西条市の誕生

昭和一〇年代、戦時体制の遂行による時局行政の強化をねらって、新市の誕生や市と町域の拡充のための周辺村の編入合併が、県の勧奨で推進された。これにより、本県では八幡浜・新居浜・西条の各町が周辺村と合併して市制を施行し、松山市が一〇か町村を編入して市域を拡大した。
 西宇和郡八幡浜町は、今治・宇和島の市制施行に刺激されて大正一一年から神山・千丈・矢野崎の一括合併による市制実施の折衝を開始したが、八幡浜町の財政状態に危惧の念を抱く周辺村は合併に気乗り薄であった。昭和三年三月県は地方課長親泊朝輝を現地に派遣して三村長を八幡浜町に招致し合併の利便を説いたが、神山村長酒井宗太郎のみが即刻賛意を表しただけであった。後に初代八幡浜市長となる酒井が大正一三年に書いた『八幡浜及八幡浜人』のなかで「一面、村としての施設は完備を遂げた。何を苦しむで大借銭持ちの、そして未だ前途に於けるゴタゴタした施設が幾つも幾つも転つているような八幡浜に何故に行きたいか」と非合併論者は主張するが、「只だ重箱隅を楊子でホジクるような眼前の利害に理屈を付けて」いては大八幡浜の建設を考えることは出
来ないと嘆いている。昭和五年一月一日の矢野崎村編入に続いて神山町・千丈村・舌田村との合併がなり八幡浜市制を施行したのは昭和一〇年(一九三五)二月一一日であり、その間合併交渉の再熱・頓挫を繰り返し、機運が起こってから一四か年を要していた。
 新居浜市は昭和一二年(一九三七)一一月三日に新居郡新居浜町と高津村・金子村の合併で誕生した。別子銅山はじめ住友五社工場とその下請工場で日々発展する新居浜は昭和一〇年の国勢調査で一万六、〇四九人、隣村金子村は一万三、六〇四人を数えた。このころから新居浜町では隣接村を合せて早く市制施行をとの意見が高まったが、住友住宅街などを擁して発展する金子村が時期尚早を主張して進展を見なかった。しかし四国一の工都として飛躍する新居浜を町のままで放置することは客観情勢として許されなくなっていたので、県当局も合併の積極介入に乗り出し、昭和一二年二月一八日に新居浜・金子・高津の各町村関係者を集めて市制実施が急務であることを説いた。以来合併のための会合がしばしば持たれ、六月二二日金子村一宮神社で開催された三か町村合併委員連合会で県の提示した合併条件裁定書を満場異議なく承認し、事実上合併が成った。
 新居浜に隣接する西条町は、旧西条藩の城下町であり新居郡役所の所在地として東予の政治・文化の中心地であった。大正一〇年国鉄西条駅が開業し、同一四年二月一一日神拝・大町・玉津の三村を編入合併して人口二万に近い大西条町が創成されていた。昭和一一年には倉敷絹織西条工場の誘致に成功して町勢発展が約束され、さらに干潟地の埋立てと加茂川河水統制事業の実施により臨海工業都市としての躍進が期待される情勢にあった。県は隣接する飯岡・神戸・橘・氷見の一町三村を併合しての市制実施を勧奨、内務大臣からの西条町ほか各町村会への諮問・答申を経て、昭和一六年(一九四一)四月二九日から市制を施行した。
 こうして今治・宇和島に加えて八幡浜・新居浜・西条の東・南予中心地に市制が施かれた。県都松山市では大正一五年二月一一日の素鷲・雄群・朝美・御幸四村に続いて、昭和一五年八月一日三津浜町と味生・久枝・潮見・桑原・堀江・和気の六村、同一九年四月一日道後湯之町と垣生・生石の二村をそれぞれ編入して、市域を拡大し都市機能を高めていった。とりわけ、昭和一五年(一九四〇)の七か町村編入は、松山市制五〇周年及び皇紀二六〇〇年の記念事業として近代的産業都市に脱皮する県都新生を企図した大合併であり、古川・持永・中村の歴代知事はこれの実現に努力した。この合併で、松山市は港湾を確保し格好の工業地帯を擁して近代都市発展の諸条件を具備した。この時に交渉がまとまらなかった道後湯之町
ほか二村編入は四年後に実現したが、道後湯之町の編入合併は町民の意志を無視しての強制であったとして、戦後まもなく分離問題が起こった。
 昭和一八年四月には喜多郡河辺村・宇和川村・大谷村合併による肱川村が誕生、同一九年四月には宇摩郡三島町への松柏・中曽根・中之庄三村の編入があったが、戦後、河辺と松柏の住民はこの合併・編入を不満として分離運動を展開した。非常時下の町村合併が強圧的に行われたことへの住民の反発であった。

 伊豫合同銀行の創設

大蔵省は、昭和八年八月、一府県または経済的に一単位とみられる地域内における銀行の合併・合同を勧奨してゆく方針を打ち出した。これは、銀行の経営基盤を強化し、地域内での金融の安定を目指すものであったが、その後の戦時体制下にあっては、軍需産業に安定した資金を供給するという側面からも必要とされた政策であった。
 昭和七年末現在で普通銀行一二行を数える愛媛県にあっても、大蔵省の方針のもとに順次合併が進められていった。南予地方においては、昭和九年八月、第二十九銀行(西宇和郡川之石町)・大洲銀行・八幡浜商業銀行が合併し、豫州銀行が創立された。同行は、その後、内子銀行・宇和卯之町銀行を合併し、昭和一三年二月、南予地方の金融界を統一した。
 中予地方においては、昭和一二年二月、県内最大の銀行である五十二銀行(松山市)と仲田銀行(松山市)が合併し、松山五十二銀行が創設された。同行は、さらに、三津浜銀行・(旧)伊豫銀行(松山市)・久万銀行を買収し、中予地方での地盤を一層強固なものとした。
 その外、東予地方においては、既に今治商業銀行が今治綿業地帯を背景として地盤を固めていた。ここに、県内の金融界は、東予の今治商業銀行、中予の松山五十二銀行、南予の豫州銀行がそれぞれの地域の中核の役割を担う金融機関となり、県下の銀行合同は大きな前進をみるに至った。しかし、戦時経済の要請からも、大蔵省の目指すものは「一県一行」の実現であった。
 大蔵省・日本銀行松山支店・県の指導仲介のもとに、三行間での合併の動きは昭和一五年秋から始まった。その結果、翌一五年六月、正式に合併契約書が調印され、県下唯一の普通銀行である伊豫合同銀行が誕生した。新銀行の初代頭取には旧松山五十二銀行頭取平山徳雄、代表権を持つ常務取締役には末光千代太郎(豫州銀行系)、仲田包寛(松山五十二銀行系)、丹下辰世(今治商業銀行系)が就任した。