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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

2 昭和恐慌と対策

 経済恐慌農村不況

第一次世界大戦時の好景気で発展し、近代化を進めた本県の産業は、戦後の恐慌で大打撃を受け、立ち直れぬままに昭和の金融恐慌の波に巻き込まれた。この恐慌の特徴は、大戦期成金の頂点に立つて躍進した鈴木商店の破産と台湾銀行の破綻に象徴される金融の混乱にあった。
 金融恐慌が発生するほぼ二か月前の昭和二年(一九二七)一月二四日、今治商業銀行が三週間の休業を発表した。同銀行は東中予一帯に一一支店を持つ資本金二五〇万円の有力銀行であったが、今治綿業界の綿糸暴落による不振で回収不能金が山積していた。これに不良貸付けなどの噂が流れ、同行の支店・出張所に預金者が殺到して取り付け騒ぎが起こった。今治商業銀行の休業は県民を不安に陥れ、五十二銀行など県内各地の金融機関で通帳と印鑑を携えた預金者の引き出しの列が続いた。各銀行は、日本銀行広島支店に特別融資を要請してこれに対応しようとした。県では香坂知事が声明を発して県民に冷静になるよう呼びかけた。この結果、一時険悪であった情勢も鎮静し、今治商業銀行一行を除いて他行は平常な営業に戻った。今治商業銀行のみは休業を続け、日銀からの特別融資を受けて八月一九日から二〇七日ぶりに業務を再開した。
 三週間のモラトリアム(支払猶予令)を実施して金融恐慌を切り抜けた政府は、恐慌のさなかの昭和二年三月に制定公布した「銀行法」に基づき、中小銀行の整理統合を促した。県でも財界と図って合同計画を立てたが、地域の利害や金融事情がからみ円滑には進行しなかった。さらに昭和三年一二月に芸備銀行(現広島銀行)が愛媛銀行・西条銀行・伊予三島銀行を吸収合併したことは県銀行界に衝撃を与えた。これに加えて農村不況で同五年一二月伊予絣の機関銀行であった今出銀行が休業、同月内子銀行も減資整理を発表した。こうした事情から合併が具体化し、昭和六年一五行、同九年には九行に整理され、東・中・南予それぞれに今治商業銀行、松山五十二銀行、予州銀行の地域中心銀行が誕生した。昭和七年(一九三二)一一月には県政財界の熱望していた日本銀行松山支店が開設した。
 金融恐慌は県下産業界にも打撃を与え、今治織物同業者組合などでは五割の操業短縮、伊予絣機業協成会はモラトリアム実施時の一か月間休業した。昭和四年(一九二九)一〇月アメリカで始まった世界恐慌の波は日本経済を直撃した。輸出依存度の高い県下の繊維業界の受けた打撃は特に大きく、多くの工場が操短から休業へと追いこまれ倒産するものも少なくなかった。失業者の数は激増して、昭和七年末には一万人(内務省社会局調)を超えた。
 この七年が不況のどん底であり、そのしわ寄せは抵抗力のない農漁村に集中的に現れた。農産物価格の低落と繭価の暴落による収入減に加えて工場などの休業による副収入の減少と職工の帰農による人口増が農家の窮乏に拍車をかけた。
 県農商課では、昭和七年六月に県下の農漁村地域を米麦・養蚕・山間畑作・園芸・漁業に区分して温泉郡南吉井村・北宇和郡日吉村など五か村を選定して係員を派遣し、農村の不況調査を行った。かねてから窮乏にあえぐ農村問題のキャンペーンを開始していた「愛媛新報」は、県の調査結果を掲載し、随行記者の「如何にすれば農村は救はれるか」と題する探訪記事を連載した。その見出しは、「税金も完納から滞納へ 鼻血さへ出ぬ惨! 今は全くの捨て鉢」「娘の身売りは一時凌ぎ 懸命に働ても尚損 お菓子のかわりに沢庵をしゃぶる恵まれない子供」「空弁当を持って行く哀れな小学生 涙なしには見られない嘘の様な漁村のこの頃」「不況の嵐に襲はれ遂に娘を泥沼へ こうでもせねばやつて行けぬやりくり算段」といった衝撃的な文句で惨状を要約していた。
 こうして恐慌下、多くの農家の家計収支が赤字であり、多額の負債を抱えて破局状態にあることが明らかにされていった。七月に東宇和郡各町村の社会事業主任ら三〇人が県庁に救済方を陳情した文面では、郡内農家の八八%に当たる七、八一七戸が負債を抱え、一戸当たりでは一、四三九円にもなり、米麦と養蚕の全収入でも負債利息の八〇%にしかならないといった状態を訴えて、負債整理、公租負担の軽減、低利資金の融通、土木工事の起工、義務教育の国庫負担などを要望していた。この東宇和郡同様、県内各地域の町村長や農会長・産業組合長らも連日大会を開き、県庁へ融資や救済事業を訴えた。今や農漁村の救済は最大の内政・社会問題となり、政府・県は昭和七年以降農村経済更生・救農土木や負債整理に取り組み始めた。

 県財政の緊縮市町村財政の窮迫

昭和四年(一九二九)に成立した浜口雄幸民政党内閣は、慢性的な不況を打開しようとして財政緊縮・国債整理と産業合理化に積極的に取り組んだ。地方財政については組閣早々の七月、府県知事に対し昭和五年度当初予算を前年度当初予算に比し一割五分以上減とすること、新規の施設は計画しないことを訓令、昭和四年度既定予算の実行についてもこの趣旨に準じ措置することを指示した。また地方債は災害復旧事業・失業救済事業など緊急に避けることができないもののほか許可しないことにした。
 地方財政緊縮訓令を受けた愛媛県は、昭和四年度県歳出予算を練り直して職員不補充、旅費・需用費など一割減、補助費二割減、継続事業費の減額・打切り・繰延べなどで当初予算の一割近くを整理減少して金額八九万余円を削減した。昭和五年度当初予算についても原案六五三万円余で前年度当初予算に比べて一八〇万三千余円(二一・六%減)を減額するという大手術を施した。県知事木下信は、県会での予算編成方針の説明に当たり、(1)新規増員を控え職員整理を断行したこと、(2)旅費及び事務費を出来るかぎり節約したこと、(3)各種事業費及び補助費は、必要の程度が比較的薄いもの、所期の成果を収めたもの、継続事業中比較的効果の薄弱なもの、必要であるがその費額が巨額で財政上負担に耐えないものを削除減額したことを緊縮事項として強調した。清家吉次郎ら野党政友会は、土木・教育・産業各方面においてすでに計画施行中のものを縮少するのは県民の意思を無視するものであり、現内閣が緊縮節約を地方にまで強要するのは自治の侵害であると論難、県会多数を利して教育・勧業補助費など二万余円の増額修正を県にのませた。
 昭和四年度通常県会で議決された五年度当初予算は、その後七回の県参事会と翌年の通常県会で追加更正され、七七五万六千余円の年度予算となった。これは四年の年度予算に比べ一二五万余円の緊縮であった。同六、七年度も当初予算六二〇万円台という緊縮方針が継続されたが、昭和七年後半からの斉藤実内閣による時局匡救事業の開始で九月臨時県会に総額二一五万余円の大型追加・更正予算が提出されて、この年の年度予算九二八万六千余円、翌八年度は一千万台に達するという膨張予算に転じた。
 経済恐慌の中での昭和三年と六年の町村財政歳入と主な財源をグラフで示すと図2ー16のようになる。歳出では義務教育費が昭和元、二年度で総額の四二%を占め、市町村はその重圧に苦しんでいた。政府は義務教育費の国庫負担金を増額し、また大正一五年三月に地方税制を改正して市町村に戸数割・反別割の独立税を新設するなどしたが、財政窮迫の打開には至らなかった。不況下滞納者が続出して税収入の増徴は望めず財源に占める税比率は年々下降、いきおい市町村債やその他の収入で補充しなければならなかった。
 浜口内閣は昭和四年七月の「地方財政整理緊縮二関スル件」で、市町村にも府県に準じて一割五分程度の予算節減を指示した。県下市町村では、その削減対象を教育費に求め、小学校の整理統合、高齢・共働き教員の整理と代用教員の大量解雇を実行した。さらに市町村は教育費の大部分を充当している教員給の根本的引き下げを断行しなければ当面の財政難緩和は望めないとして、昭和五年の町村長会で教員給の一割引き下げを決議した。これにより、昭和六年には各郡市単位に一割~五分程度の教員給寄付が強要された。

 時局匡救事業

経済不況は昭和七年(一九三二)に頂点に達した。昭和七年度の本県予算は税収の激減で執行不能に陥り、総経費五分減の実行予算を組み直さねばならなかった。
 昭和七年八月、「時局匡救議会」といわれる第六三帝国議会で、救農土木事業・農山漁村経済更生計画を中心とした時局匡救事業費一億七千余万円の投資が認められた。県当局は、内務・農林両省の訓令に基づき事業実施要項を決定するとともに各市町村に希望事業の申請を求めた。その結果、県下三市二七三か町村からの申し出があり、その事業資金の総額は二、五〇〇余万円に達した。
 九月一五日臨時県会が開会されて、二一二万八千余円の時局匡救応急施設費を可決承認した。県当局は、各市町村から提出された事業内容と金額に対して産業就業人口、不況の程度、疲弊の実情を勘案して割り当て作業を進め、一〇月三日に配当事業費と種別を各市町村に通知した。配当総額は一八一万余円、最高額は温泉郡北吉井村の九万一千余円、最低額は越智郡龍岡村の二、〇一五円であった。助成内容は、土木事業中市町村道橋梁改良二二六件、農業土木事業中小用排水改良九二件、小設備六六件、小開墾六六件などであった。同日、県は「時局匡救事業助成規程」を令達して、市町村道改良・河川改良・林道開設・港湾船溜修築などは事業費の四分の三以内、小開墾・小設備・小用排水・牧野改良・築磯などは二分の一以内を助成の基準とすることを明らかにした。また、「救農上木事業実施上ノ訓令」で、事業の執行に当たっては、(1)市町村永久の福祉に最も効果のある方途を選ぶこと、(2)住民に広く就労の機会を与えること、(3)事業は住民窮乏の実情にかんがみ速やかに執行して必ず年度内に完成することなど、事業執行上遺憾なきを期するよう督励した。
 時局匡救対策の第二の柱である農山漁村の経済更生計画に対する助成
については、一一月一五日に愛媛県農山漁村経済更生委員会を知事の諮間機関として設け、県農会・県水産会などの各種組合から代表者二一名を選んで委員に委嘱した。また九月臨時県会における「中小商工業者救済産業資金二関スル建議」を受けて、商工省を通じた貸付資金七〇万円を県内の金融機関に配付し、中小商工業者に対して積極的に産業資金を融資するように呼びかけた。
 二年目に入った昭和八年の本県時局匡救事業は、総額二九五万余円を計上して前年度を七九万余円も上回る規模で実施された。増額の理由として、一戸知事は、(1)指定港湾事業や県営河川改修事業を含めたこと、(2)用排水並びに水産関係事業に継続事業が多くあることなどを県会の予算説明で指摘した。
 ところが、三か年計画の最終年に当たる昭和九年度になって、巨額の赤字累積を憂慮する大蔵省が国庫助成を当初計画より大幅に縮小した。このため、愛媛県の匡救関係費の総額は一六五万余円になり、前年度に比べて一三〇万円の大幅減であった。各市町村への分配金も平均一、二〇〇~一、三〇〇円程度で、河川・港湾・道路をはじめこの年の事業の多くは未完成のままで終おった。そのうえ、この年には、五~八月の干害ついで九月二一日に室戸台風が襲来し、三年間の匡救土木事業による改修の成果が水泡に帰する所も少なくなかった。
 時局匡救事業は対象が広範で末端への分配額が少額となり、不公平配分が指摘されたりして、期待されたほどの効果はあがらなかった。しかし、八億円の財政資金が全国の市町村に配布されたのは未曽有のことであり、これにより農山漁村の過剰労働力を吸収し、景気回復に向けて誘い水的な機能を果たしたことは認めねばならない。

 自力更生満蒙開拓

農山漁村の窮乏に対応して、昭和七年「救農議会」と呼ばれる国会で、救農土木事業と農山漁村経済更生計画が承認された。農林省は経済更生部・経済更生中央委員会を設置して「経済更生計画樹立方針」を決定、府県に通達した。これに基づき県知事二戸二郎は、一一月一五日「農山漁村経済更生二関スル訓令」を発して、経済更生運動(自力更生運動)の目標と基本方針を示し、不況に対処する一時の応急対策ではなく、農村疲弊の素因を根本的に探究し、農家の自力をもって禍因を除き農業の恒久的繁栄を図ることを訴えた。
 県と市町村には経済更生委員会が設置され、運動の促進を図り実効を期するため、毎年補助対象の村が指定された。昭和七年には、温泉郡伊台村・三内村、越智郡九和村・小西村、新居郡神郷村、宇摩郡天満村、喜多郡御祓村、西宇和郡町見村、東宇和郡魚成村、北宇和郡旭村の一〇特別指定村ほか一一町村が経済更生モデル村として自力更生に取り組むことになった。伊台村(現松山市)では、村長白石積太郎が中心になって基本調査を整え、これを分析検討して、(1)更生的精神、郷土並びに農業愛好心の強調、(2)耕地の拡張、(3)余剰労力の活用、(4)負債整理、(5)農業経営・販売・生活改善による失費の節約と収入の増加を自力更生基本方策とした。これにより、負債整理組合を設立して隣保共助のもと各戸の責任で償還計画を樹立するなど、全村あげて経費節約収入増加に励み、負債を償却した。また特別助成で農民道場・医療診療所・共同出荷統制場・農産物集積倉庫・共同作業場・醤油共同醸造場の建設、共同収益開墾地の造成、農道改修、自作農創設維持を促進して成果をあげた。伊台村及び同村農会は全国優良更生農村・経済更生事例として表彰を受け、模範村として知られるようになった。
 経済更生運動は昭和一一年から第二次計画に移り、更生計画を実行するための特別助成が図られた。日中戦争が勃発して臨戦体制の強化とともに経済自力更生運動は次第に戦時農政の一環に編入され、銃後における生産力拡充を重点とする戦時色の濃厚な運動に変質した。増産のため勤労奉仕による労働力の調整、体制を支える下部指導者層の養成と精神運動の強調に加え、「満州集団農業開拓移民」の奨励が行われるようになった。
 満州開拓移民は昭和七年の満州国成立以来数年間は試験的に実施された。本県でもこの時期に少数の開拓団が渡満、一二年以降の本格的移民期に入って九開拓団約二、〇〇〇人が海を渡った。これら一般開拓団のほかに一三年度から満蒙開拓青少年義勇軍制度が実施され、一五~一九歳の県人青少年が内原訓練所(茨城県)で教育を受けたのち満州の広野に送られた。満州移民に関しては「農村における土地と人口の調節を図り根本的に農村の更生をはかる」ことが強調され、渡満者は「お国のためになるし、村のためにもなる」という認識で応募した。
 満州拓殖会社による満州開拓民送出し計画で、昭和一三年に四国四県混成の「黒馬劉四国村開拓団」(県人二一九人)が入植したのを最初に、一四年には「東黒劉予土阿村開拓団」(県人一二九人)、「柞木台開拓団」(県人推定一三一人)と続いた。一五年からは愛媛県人だけでまとまって、「許敏河愛媛村開拓団」(四〇三人)、「壬生川郷開拓団」(二五一人)、「荘河伊方開拓団」(推定二四九人)が入植、一八年には「連雲伊予郷開拓団」(推定三四三人)、「双遼宇和島開拓団」(推定二〇八人)、終戦直前の二〇年にも「萬陽郡中開拓団」(六〇人)が渡満した。入植地は図2‐17のとおりである。経済更生事業の活路を満州開拓に賭けた伊方村、分郷を意図した伊予郡北山崎村、南伊予村・北伊予村三か村の伊予郷、転廃業者を主体とした壬生川町・宇和島市などその送り出し計画の契機はそれぞれ異なっていたが、国策に沿って開拓県人が海を渡り、寒冷な異国の土地での農耕に従事した。
 こうした一般開拓団とほぼ同じ時期に愛媛の青少年が義勇団に応募、約二、〇〇〇人が渡満して、他県人との混成の一二の義勇隊、県出身者のみで結成された五つの義勇隊に分属、ソ連国境に近い満蒙地帯に配置されて農兵隊としての役割を担った。これら満蒙開拓団の編成・活動と終戦時の苦難、悲惨な流亡は愛媛新聞社の『赤い夕陽―愛媛県人開拓団の記録ー』(昭和四八年刊)に詳しい。

 一戸・大場知事銅山川分水問題

愛媛県における時局匡救事業に取り組んだ知事は一戸二郎であった。一戸は、昭和七年六月二八日に本県知事に任命された。挙国一致を標ぼうする斎藤実内閣は、多年にわたる政党人事を是正する内政刷新の見地から地方長官の大幅更迭を断行、免官知事一六人、休職からの復活者七人、新進抜擢が一一人、転任一二人、留任二〇人という大異動であった。新採知事の一人一戸二郎は、東京に生まれ大正六年七月京都帝国大学法科大学を卒業、農商務省事務官・書記官、内務省社会局事務官・書記官、台湾総督府事務官・秘書課長などを歴任、昭和三年岐阜県学務部長、同四年内務省社会局労政課長を経て、三九歳の若さで本県知事に抜擢された。地方庁勤務をほとんど経験していない地方長官を愛媛県に迎えるのは最近には例がなく、その意味で一戸は新しい型の知事であった。
 七月六日、家族と共に着任した一戸知事は、県庁正庁に庁員一同を集めて、「今日は国家的にも国民的にも極めて重大な時期で、すべてに安定を欠く、商工業は萎縮沈滞し、農山漁村は疲弊困憊の極にあり、失業者は巷にあふれている。さらに外国との関係も重大さを加へるといふまつたく非常時である。全国民が総動員で、協力一致してこの難局打開に当らねばならぬと思ふ。」「今日の時局は尋常一様では解決できぬのであるから、私は必死の覚悟で局に当る決心である。されば県治上県内の諸問題についてはあくまでも正しく明るく、解決の途を発見したいと思ふ。われわれの良心と県民各位の良心でことを解決したい。良心の県政、信念の県政といふ心持である」と訓示した。
 「地方の経験は殆んど無く、その上愛媛は相当難県であるといふことを聞いてゐたので、果して無事に職責を全うし得るかにつき心配した」と、一戸知事は本県赴任時の心情を回顧しているが、若き知事の率直で真剣な態度が各方面に好評であった。在任中、一戸が懸命に努力したのが銅山川分水問題であった。
 農業恐慌に苦しむ農民の中で、宇摩郡の人々は恐慌に加えて干ばつに打ちのめされていた。法皇山脈が海に迫り常時ほとんど地表水を見ることが出来ないこの地方は、嶺南を流れる吉野川の支流銅山川の豊かな水量に思いをはせ、徳島県からの分水に希望を託してきた。大正一四年二月県知事佐竹義文は銅山川疏水事業の推進を内務大臣に上中して県営による事業遂行に乗り出した。宇摩郡では銅山川疏水事業期成同盟会を結成して郡民大会を開き、疏水の早期実現を望んだ。この年一二月の県会には同郡選出の山中義貞らが銅山川疏水の県営促進を要望する建議を提出し、満場一致で可決された。愛媛県の分水運動が本格化するにしたがい、分水する側の徳島県の反対運動も激しくなった。昭和四年九月、本県知事市村慶三は疏水事業計画から発電事業を切り離し灌がい用水のみを県営とする案に変更して徳島県と交渉した。しかし翌五年八月、徳島県知事は分水不承諾を通告してきた。
 この事態に至って内務省がようやく積極的に介入した。昭和六年五月、同省土木局長は両県知事との三者会談で分水裁定案を提示した。八月には内務省から再度斡旋案が示され、難色を示す徳島県の説得に努めた結果、一一月一一日に愛媛県知事笹井幸一郎と徳島県知事土居通次との間で分水覚書を交換した。一二月の本県県会は銅山川疏水事業とその予算案を満場一致で可決したが、徳島県会がこの分水覚書を承認しなかったので実施に移されなかった。
 昭和九年の干害で、宇摩地方は収穫皆無の水田が四〇〇町歩に達する致命的打撃を受けて、「悽愴悲惨ノ状況」となった。干害対策のために開かれた九月臨時県会では、「分水問題解決セサル限リ、農村ハ全ク破滅シテ容易二旧態二復シ得サランコトヲ痛感ス」といった銅山川分水即時断行の意見書が可決され、県会議長らが上京して内務省に陳情した。本県知事に就任以来徳島県にしばしば赴いて分水協定の交渉を続けてきた一戸二郎は、宇摩郡の干害の惨状を訴えて徳島県の善処を求めた。その奔走には宇摩郡の人々に大きな感銘を与えたが、結局徳島側を動かすに至らず交渉は進まなかった。「銅山川問題では随分努力したつもりだが、今に見通しがつかず最後まで未解決で本県を去ることは県民諸氏に対しても何とも申訳がなく、又自分としても残念至極である。とにかく銅山川問題はなかく解決困難で、今後も知事の命とりだ」との談話を残して、一戸知事は奈良県に去った。二年六か月に及ぶ在任は、昭和期の本県官選知事では長い任期であった。
 昭和一〇年(一九三五)一月一五日、岡田啓介内閣の後藤内相によって断行された地方長官の大異動で、一戸の後任の本県知事には関東州庁長官の大場鑑次郎が就任した。大場は、山形県出身で東京帝国大学法科大学を卒業して明治四四年文官高等試験に合格と同時に愛媛県試補を命じられ本県に赴任、大正二年愛媛県警視・保安課長に昇格、同三年六月北海道庁理事官に転ずるまで二年六か月本県にあった。その後、高知県理事官、関東庁事務官、警察局保安課長、東京府内務部長、台湾総督府文教課長を歴任して昭和八年関東庁長官となり、ついで本県知事に就任、一戸同様二年六か月在任して官界を去った。
 大場県政の最大の事績は、長い間の課題であった銅山川分水問題を解決したことであった。大場知事は一戸前知事が離任直前に徳島県側に示していた疏水事業計画中発電事業を除外する譲歩案を踏襲して、内務省を仲介とする対徳島との折衝の末、昭和一一年一月三〇日銅山川分水協定が成立した。大場愛媛県知事大戸塚徳島県知事は、「本分水ハ愛媛県宇摩郡三島町外一一ケ町村内既存田ノ灌漑水ヲ補給スルヲ以テ目的トス」 「愛媛県二於テハコノ分水ヲ以テ発電ヲ営マザルモノトス」など一二項目の協定書に調印、ここにようやく銅山川疏水工事が開始されることになった。
 昭和一二年(一九三七)一二月四日、待望の銅山川疏水事業地鎮祭と起工式が挙行され、翌一三年八月隧道工事に着手した。しかし戦争長期化による資材・労務不足で工事は遅々として進まなかった。また軍需生産拡充のための電源開発や戦後の国土再建のための河川統制が加わって三度にわたり分水協定が改められた。その都度、徳島県との交渉や設計変更で工事は中断した。

 宿毛湾入漁問題

 銅山川分水問題と並ぶ県際問題に宿毛湾入漁問題がある。愛媛・高知両県の間における宿毛湾入漁協定の歴史は古い。宿毛湾での漁業紛争は、明暦二年(一六五六)二月、沖ノ島で宇和島藩・土佐両藩の境界問題が起こり、宇和島藩主二代宗利の時代に宇和島藩沖ノ島庄屋土居六之進が、徳川幕府に訴状を出したのが発端であるといわれる『愛媛県旋網漁業史』)。この境界紛争は、漁場使用の問題も含まれていたが、幕府の裁決は、三年後の万治二年(一六五九)、土佐藩に有利な形で解決している。
 廃藩置県後の明治五年に再び紛争が発生した。明治新政府は、紛争の解決を図るため、同七年に太政官達をもって、沖ノ島・鵜来島・姫島の三島を高知県の管轄に決定した。水産庁漁業調整課長であった金田禎之は、『漁業紛争の戦後史』の中で、その後の経過について、「明治七年、愛媛県の伊予領であった宿毛湾沖ノ島・鵜来島・姫島の三島が、そっくり高知県の土佐領に移管された。それ以来、海面の管轄は必ずしも明確でなく、紛争が一層激しさを加え、以来今日まで、一〇〇年をこす長い間の漁業紛争の歴史が続いている。この間、漁業制度の改正・漁法の改良などはあったが、愛媛県側は早くから、まき網漁業、底びき網漁業などの運用漁業の導入が積極的に行われたのに比べ、高知県側は、これと対象的に、釣・延縄漁業、定置網漁業などの消極的な漁法が現在でも漁業の主力を占め、このような漁業形態の相違が、今日に至るまで、漁業紛争に拍車をかける要因となっている」と述べている。
 明治七年の太政官達後も、三島周辺の漁場使用については従来の慣行などもあって、紛争は絶えなかった。
 明治一一年(一八七八)、愛媛県令岩村高俊は、紛争の原因は海面における両県の境界が明確でないことによるものであるとして、高知県と交渉した結果、いわゆる「十一年線の協定」といわれる境界線が定められ、「大藤島より宇和郡鼻づらと幡多郡鵜来島の中央を見通し、北に面するを伊予国とし南に面するを土佐国とし、以て両国海面の境界は確定」とされた。この線は、後に、愛媛・高知両県の専用漁業権の境界線となり、また、明治三〇年以後両県知事の協定による漁業調整上の境界線の基を成したものとして重要であった。
 明治三二年四月、従来、慣行として土佐沖に出漁していた東西外海村漁民に対し、慣行を無視した漁業制限を行おうとした高知県が、警察船を出動させて愛媛県漁民を連行する事件が起こった。この紛争は農商務省の仲介によって、両県漁業関係者の間で協定を締結し解決した。これは、両県の文書による協定の第一号であり、この結果、愛媛県の東西外海村漁民は、足摺岬以西の海面において入漁料を支払うことによって、高知県漁民と同等に操業できることとなった。
 明治三九年(一九〇六)に、高知県地先一円に対する大型専用漁業権が免許されたが、大正五年の更新の際、その条件として、前の両県業者間の協定を尊重し、東西外海村の入漁を阻むことができない旨、農商務省告示として明示された。
 大正三年(一九一四)六月、高知県は、「漁業取締規則」を改正し、知事の許可を得なければできない漁業に、「火光を利用する網漁業」を入れた。当時、愛媛県では、いわしまき網漁に火光利用が発進普及しつつあった。高知県は、この火光利用による、いわしまき網漁業は、農商務省告示による「鰮縛網漁業」の中には入らない別種の漁業であるとして、知事の許可を与えない方針をとった。これに対し、愛媛県では、昔から「沖取網」といって火光利用を行ってきており、当然、鰮縛網漁業に該当するものであると主張して、意見が対立した。
 昭和三年五月一二日、愛媛県知事尾崎勇次郎より農林省水産局長に、この件に関する疑義照会が行われた。これに対し、同月三〇日、水産局長より、農商務省告示を以て免許・許可されている専用漁業の種類のなかにある鰮縛網漁業には、火光利用も差し支えないものであり、愛媛県の見解が正しい旨の通達が出された。東西外海村の漁民は、その通達に基づき高知県知事の許可を求めたが認められず、再び激しい漁業紛争を見るに至った。
 愛媛県側は、入漁を強行するとともに一方では行政訴訟を起こして争った。高知県側は、その入漁を阻止するために、取締船を出して愛媛県の漁船をだ捕したが、愛媛県側は、大型発動機船を出してこれを取り返すなど、両県漁民の間には、流血の惨事をも引き起こす有り様であった。そのため、両県の斡旋によって、双方の漁業者代表が協議を重ね、昭和四年(一九二九)一一月に新たな協定が締結された。
 この協定では、愛媛県側の火光利用について、鰮巾着網・鰮揚操網漁の漁船一一統の入漁を認めた。協定は、その後、八回の更新を重ね、操業区域・入漁条件などに若干の変更はあったが、昭和二四年末まで存続した。その間、比較的問題なく経過した。それは、昭和八年から一二年ころマイワシの好漁期に入ったことと、昭和一六年からは太平洋戦争に突入し、操業そのものが十分には出来難い状況となっていたことなどが背景にあった。

図2-16 昭和初期の市町村歳入と主な財源

図2-16 昭和初期の市町村歳入と主な財源


図2-17 愛媛県人の旧満州入植地

図2-17 愛媛県人の旧満州入植地