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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

5 デモクラシーの諸相

 知識人安倍能成

日本のオールド・リベラリストの典型といわれる安倍能成は、明治一六年(一八八三)松山市大街道の町医者安倍義任の八男として生まれた。同二三年外側尋常小学校(現番町小学校)に入学した。小学校のころ、父の命令で『大学』『中庸』『論語』『孟子』の四書をはじめとする漢籍を多く読んだが、少年雑誌『小国民』(学齢館刊)の方に親しみを覚えたようである。高等小学校時代の明治二七年には日清戦争が起こり、子供心に戦争の勝敗を心配して新聞を読み始めた。さらに『日清交戦録』(春陽堂刊)、『日清戦争実記』(博文館刊)を読んで熱烈な愛国者を気取った。
 高等小学校二年を修了すると入学試験を受けて松山中学校に入った。この年、生涯の師夏目漱石が松山中学校から第五高等学校(熊本)に転じ同中学校で直接教えを受ける機会はなかったが、漱石の描いた『坊っちゃん』の雰囲気は濃厚に残っており、安倍はそうしたなかで松山の文人的気風を学んだ。安倍が中学二年のときに上級生が同盟休校して校長が免職となり、松山出身の野中久徴が新しい校長になった。松山に名士が来ると校長はその話を生徒に聞かせた。衆議院議長片岡健吉、仏教改革家島地黙雷、文部大臣西園寺公望、樺山資紀らが松山中学校を訪れ話をしたが、講話の内容はさして記憶に残らなかったようである。安倍の上級生には今井嘉幸・松根豊次郎(東洋城)・片上伸、同級生に戸塚巍・久保勉・原真十郎ら、下級生に伊藤秀夫がいた。
 明治三四年松山中学校を卒業したが、すでに在学中から家計が傾き新聞配達をしていた安倍は、高等学校への受験を延期して校長の計らいで母校の助教授心得となって英語を教えた。翌三五年第一高等学校に合格して住みなれた松山を離れた。
 第一高等学校に入った安倍の同期には、藤村操・魚住影雄・岩波茂雄らがいた。明治三六年五月藤村操が「巌頭之感」を残して華巌の滝に身を投じた事件は彼に深い影響を与えた。「藤村操の死はたしかに時代的意義を持って居た。日本は明治以来欧米列強の圧迫に囲まれて富国強兵の一途に進んで来た。ところが朝鮮問題を中心として日清戦争があっけない勝利に終わり、更に十年を経て日露戦争が起こる前後から、国家問題とそれを中心とする立身出世に余念のなかった青年の間に、国家でなく自己を問題にする傾向が起こって来た。〝人生果して意義ありや〟といふ人生に対する煩悶が、自我の眼ざめて来る青春期に起こって来るのは自然必然のことである」と安倍は『我が生ひ立ち』の中で記している。文芸的才気と奔放な感情を持って個人主義の見地から一高の校風改革を提起した魚住影雄は安倍の思想形成に最も大きな影響を与えた。岩波書店の創始者岩波茂雄との交友は一高の寮生時代から始まり、岩波が一高を中退した後も続き、生涯を通じての親友となった。このころの安倍は自我形成の悩みから次第に宗教的思想に関心を寄せた。
 明治三九年安倍は一高を終えて東京帝国大学文学部哲学科に進んだが、大学時代の最も大きな出来事は夏目漱石との出会いである。一年の夏休みに野上豊一郎に連れられて漱石山房を訪ねたのが最初で、その後しばしば出入りして、小宮豊隆・森田草平・寺田寅彦・阿部次郎ら漱石の門人だちとも深く交わるようになった。高浜虚子とは同郷の誼で以前から知り合っていたが、漱石を介して一層親密に交わった。安倍が大学卒業後文筆をもって立ったときには漱石の門人として迎えられ、虚子の「ホトトギス」や国民新聞の「国民文学」欄、朝日新聞の「朝日文芸」欄さらには読売新聞などにも寄稿した。
 大正元年、安倍は故藤村操の妹恭子と結婚し、女子英学塾(現津田塾大学)・慶応義塾大学などの講師を務め、大正九年から法政大学教授となり、翌年には一高の講師をも兼任した。同一三年からは京城帝国大学教授となった。安倍は赴任に先立ち一年半のヨーロッパ遊学の旅に出て、西洋文明・哲学への理解を深めた。京城帝大での一五年間は、安倍にとって最も勉強や仕事の出来た時期であり、「自分が如何なる場合にも、正直に自己の自由を守り、個性を詐はらぬ」(『我が生ひ立ち』)という信念を確立したのもこの時期であった。昭和一五年母校一高の校長に迎えられ軍部の圧力に屈せず、終戦後の昭和二一年文部大臣として占領軍の教育改革に毅然とした態度で対応した自由主義者安倍能成の人物像はよく知られている。文相を退いた後は帝室博物館長を経て学習院の院長となり、約二〇年間その職にあった。
 明治の気骨と大正自由主義を併せ持って自己の信念を貫いた安倍能成が、唯一の長所と自負するのは記憶力であった。それを大いに発揮したのが自叙伝『我が生ひ立ち』(岩波書店、昭和四六年刊)である。その前半は一高に進学するまでの松山での幼・少年時代の生い立ちを周囲の物象・人間と共に安倍の志す「ワールハイト(真実)」と郷土への愛着をもって綴っており、明治時代の松山を知る優れて魅力ある世相史となっている。
 安倍能成より一年前に松山中学校を卒業し、明治「煩悶」の時代と大正「デモクラシー」の時代に思索し時代と共に思想の遍歴をした郷土出身の文芸批評家に片上伸がいる。片上は松山中学校在学中から新体詩をよくし雑誌「新声」に天弦の号で投稿、東京専門学校に進んで坪内逍遥らの指導を受けた。卒業後は島村抱月主宰の「早稲田文学」記者となり、自然主義文学を擁護して、安倍能成と論争を繰り広げた。やがて母校の教授となり、芸術至上主義を唱え大正新教育運動で文芸教育論を展開した。ロシアに留学中一〇月革命を経験して人道主義的・理想主義的傾向を強め、のち再度のロシア行で文学の社会性を強調する唯物史観のプロレタリア文学理論に取り組むなど、時代と共に四たび活動の視点を変えた。

 新教育運動と松高自由主義

 大正デモクラシーの時代風潮を背景に、教育界では新教育運動が展開された。大正一〇年八月、東京高等師範学校講堂で八人の教育論が発表され、これが「八大教育主張」として全国に流布した。これらは、従来の教師中心、教科書中心の伝統的教育を乗り越え、子供の創造性や自然性を生かした教育を目指す点に共通したものがあった。八大教育論の中には、本県出身の片上伸が主張した「文芸教育論」、河野清丸の「自動教育論」があり、本県の教育界にも少なからず影響を与えた。本県の男女両師範学校附属小学校が交互に主催する愛媛教育研究大会で、自由教育に関する研究発表や討論が行われるようになった。やがて赤井米吉(元愛媛県師範学校教諭、明星学園創設者)により米国のH・パーカストの創案になるドルトン・プランが紹介されると、愛媛県師範附属小学校がこれの実践を開始した。ドルトン・プランは、一九二〇年にアメリカのドルトン町で実施された教育計画で、生徒の能力に応じて教師と生徒が自主的に学習計画を進めることを原則としたものであった。大正一三年四月パーカスト女史が来松して松山高等学校で講演するに及んでこの新教育プランの関心が一段と高まった。愛媛県師範附属小学校は、同一四年一一月の第五回愛媛教育研究大会で三年間に及ぶ実践成果を発表したが、このころからドルトン・プランは教育の正道でないとの批判が教育現場から起こり、附属小学校は校長の裁断で大正一五年をもってこれの実践を打ち切った。
 教育現場では、川崎利市が新居郡泉川小学校・大町小学校で個別教育を実践して注目されたが、児童の父兄から自由放任に過ぎると反発が起こり数年で挫折した。愛媛の保守的風土の教育界では、全国を風靡した大正新教育思想は根を下すことなく、短い期間の実験段階で終わったのである。
 本県にあって大正デモクラシーの風潮を享受して、教養主義・自由主義でもって青春を謳歌したのは松山高等学校(松高)の生徒たちであった。
 初代校長由比質は、第一回入学式の式辞において、「松高ユーバーアルレス」「世界に冠たる松高の建設に向つて邁進すること」を宣言し、〝松高自由主義〟の理想を掲げた。「デカンショ節」を放歌高吟して市街を濶歩する松高生に、城下町の静粛を破られた市民は驚がくし、新聞は「松山高等学校の厄介なる剛健主義」とこれを非難して〝カルチュア・ショツク〟を起こしたが、大正一一年一一月の開校記念祭の市民への解放などを通じ、松高が存立する松山という地域の中で胸襟を開き、市民と共に歩み成長して行こうとする姿勢を見て、四国に初めて生まれた最高学府を温かく見守るようになった。松高の存在は松山市街の活性化と市民文化の形成を促がし、近代種目の導入や中等学校競技会の催しを通じてスポーツの発展にも貢献した。〝エリート集団〟松高生のかもし出す雰囲気と言動は、中学生の羨望の的になり、入学競争を激烈にした。
 こうして〝松高自由主義〟が地域に根を張り始めた大正一四年四月由比校長が鹿児島七高に去り、第八高等学校生徒監であった橋本捨次郎が校長の職に就いた。橋本校長は着任早々から学則・寮則の全面改訂にとりかかり、自由な学校生活を規制した。大正一五年一一月、生徒たちは校長排斥に立ち上がり同盟休校を実行した。先輩団もやがて生徒に同調、「愛媛新報」はじめ地元各新聞が生徒に理解を示す論説を展開して二一日の松高問題市民大会で橋本校長の不適格を決議するまでになった。松高生の半月余に及ぶストライキは、父兄会の要請で県知事香坂昌康と北予中学校長秋山好古が調停に乗り出して、「校規の許す範囲内における生徒の自由を認めること」の条件で一人の犠牲者を出すことなく一応の解決をみた。
 橋本校長と生徒の反目はその後も続き、宮本顕治らの同人雑誌「白亜紀」検閲問題やボート部建設基金不明問題などが起こった。橋本に代わり松高教頭から校長に昇格した金子幹太は、学校と生徒の融和策として〝松高家族主義〟の確立を提唱した。しかし創立当初の自由な校風が許容される時代はすでに過ぎ去り、深刻な社会不況と言論統制の中で、社会科学研究会は解散させられ読書サークルも監視の対象となった。規制が強化される過程で、昭和五年(一九三〇)六月一学生の放校処分に端を発して松高生は再度同盟休校を実行したが、前回のような地域世論の同調は得られず、生徒たちの足並みも乱れて空しく解除しなければならなかった。純粋な知的欲望を鼓舞し、大正デモクラシー実践集団として地域の人々に強烈な印象を与えた松高の教養主義と青春の自由は、その後の軍国主義教育の中で埋没し、学校そのものも戦後の教育改革で終焉した。

 青年団・婦人会の育成

大正時代には、デモクラシーの気運と高揚を背景に、学校教育以外の教育活動として社会教育の振興が図られた。社会教育は明治時代末期には通俗教育と称して、教育団体や青少年団体を主体に通俗講演会・談話会・幻灯会・各種展示会が実施され、通俗文庫などが設置されていたが、日露戦争時に戦意高揚に活用されて以来それらの事業・施設が普及していった。通俗教育振興の担い手として期待されたのは青年団体であった。政府は、内務・文部大臣連名で大正四年九月、同七年五月に「青年団体二関スル件」の訓令を発して青年団の組織化と育成に努めたが、指導の強化と青年の修養の強調が青年団の活動内容を形骸化していった。
 こうした状況のなかで、大正七年(一九一八)七月、臨時教育会議が通俗教育の改善に関する一一項目の答申を行い、文部省・各府県に通俗教育に関する施設の計画及び実行の任に当たる主任官の設置などを求めた。同一〇年、「通俗教育」は社会の善導を意図するものとして「社会教育」と改められ、同一三年には文部省に社会教育課が公的に設置された。これと前後して府県にも社会教育主事が配置されるようになり、愛媛県では大正九年七月に県庁内務部学務課内に社会教育主事が置かれた。これは全国的にも早い時期の設置に属し、職務規程によれば、通俗教育、青年団・処女会並びに補習教育、生活改善、思想善導などに関する事項を担当した。この年一〇月、県当局は「愛媛県社会教育案」を定め、社会教育機関と他の教育関係諸機関との連絡について明記して、社会教育に対する本格的な取り組みを始めた。各郡市でも社会教育主事を任命するところが多くなった。また、大正デモクラシー思潮の影響下青年団体の運営は青年自身にゆだねるべきとの世論が起こり、政府は大正九年一月の第三回目の訓令で青年団の自主自立化の運営方針を打ち出した。
 本県の青年団体は、明治末期から大正初期にかけてほとんどの町村に設置され、補習教育・講話会や通俗文庫による知識の習得、武術・体育・運動会による体力の錬磨、風俗改善・勤倹貯蓄、道路改修作業、夜警・消防などの活動を続けていた。郡青年団・連合青年会も、明治四一~大正八年の間に各郡に結成され、大会などを通じて同一郡内町村青年団員の交流を図ってきた。女子青年団体である処女会は、大正一〇年ころにほぼ県内各町村に存在して、同一三年までには郡市の連合処女会が相次いで結成された。青年団の自主化・自治化の訓令以後、青年団長には従来の学校長・町村長に代わって青年団員中の有力者が選ばれた。その活動はすべての面で活気がみなぎり、国会・県会議員の選挙などにも参加して、特定の候補を推薦支援するなど政治面への進出も目立つようになった。
 青年団活動の活性化に対応して、大正一二年には県社会教育主事中矢清七郎と曽我鍛が中心になって愛媛青年処女協会が設立され、そこを発行所として機関紙「青年と処女」が発刊された。この雑誌は、各青年団・処女会の情報交換としての役割を担うと同時に青年処女の娯楽誌・教養誌として思想の啓蒙に寄与したが、同一五年末に経営難となり廃刊した。
 大正一四年(一九二五)四月、大日本連合青年団が創設され、二八道府県連合青年団が加盟した。この当時愛媛県は県単位の連合組織を持っていなかったが、九月香坂昌康(後の大日本連合青年団理事長)が本県知事に赴任したのを契機に、県連合青年団の設立準備が進められた。同一五年二月の三市一三郡青年連合団代表協議会でその設立が決議されて団則が定められ、昭和二年四月結団式が挙行された。翌三年一二月には愛媛県連合女子青年団が結成された。すでに町村の中枢集団として位置づけられていた青年団体は、このころから教化運動の推進団体としての役割が加わった。県学務部は、県・郡市連合男女青年団を通じて町村青年団の組織と事業に関与し、青年団長・幹部講習会の実施や市町村青年団の講習会に講師を派遣するなどして直接間接に指導の徹底を図った。市町村青年団・女子青年団の団長には市町村長・小学校長らが再び就任して、教化団体ついで国民精神総動員団体としての性格が強まった。
 一方、社会教育団体として、上流婦人の団体である愛国婦人会とは別に、民力涵養運動推進の中で地域の婦人を網羅する形での主婦会・婦人会などの地域婦人団体の組織化も進められた。昭和五年大日本連合婦人会が設立された当時、本県には一六五の地域婦人会があった。これらの多くは、戦時下、国防婦人会の傘下に吸収され、青年団体と共に教化動員・国民精神総動員の実行部隊に編入されていった。
 社会教育施設としての本県の図書館は、愛媛教育協会が皇太子殿下御成婚記念事業として明治三六年七月に松山市二番町の旧松山藩校明教館に附属図書館を設置したのが最初であり、同四四年には私立伊達図書館が宇和島町広小路に開設した。
 大正期は、全国的に多くの図書館が設立された時期であり、本県でも大正二年の愛媛教育協会明徳図書館(同一四年今治市立に移管)をはじめ同協会新居・喜多・南宇和部会による図書館、同一三年の町立三津浜図書館などが設立された。その他、各地方縦覧所・町村文庫・青年会巡回文庫なども社会教育・公民教育振興の施設として増設された。昭和二年には愛媛県図書館協会が組織され、これを指導すべき県立図書館設置の必要性が強く認識されるようになった。昭和八年七月「図書館令」改正で中央図書館制度が設けられるに及んで県立図書館の設置が具体化した。県立図書館は、松山市の提供になる二番町の土地七八七坪の敷地に、前伊予鉄電社長井上要の寄付金一〇万円と県費六千円を工費として同九年八月に起工、翌一〇年五月に鉄筋三階建の豪荘な図書館が完成した。

 大衆文化の勃興

大正から昭和初期にかけての文化の特色は大衆文化の発展であった。日露戦争後すでに義務教育が徹底して、就学率は九七%を超え、ほとんどの人が文字を読めるようになった。この結果、新聞が急速に部数を拡大して各家庭に浸透した。
 本県の地方紙は、「海南新聞」と「愛媛新報」のほかに「伊豫日々新聞」と「南豫時事新聞」などがあった。大正期に積極的企業経営で躍進したのが愛媛新報であり、大正二年から夕刊を発行して部数を伸ばした。同紙は、憲政会系の機関紙であったが、社長高須峯造の経営方針で市井の社会経済問題にも関心と理解を示してよく報道したので、労働者・農民層にも読者を広げた。これに対し政友会系の「海南新聞」は、一八年間社長の座にあった藤野政高が死去して以来低迷を続け、やがて成田栄信が社長となって社勢挽回に努めたが、政友会支部幹部と対立して大正一二年一月政友会と絶縁するに至った。多年の機関紙を失った政友会は、同年八月「伊豫新報」を発行した。
 三紙のうち愛媛新報は、大正一三年の第二次護憲運動で知識人・青年・学生・労働者を中心とした政治への関心が高まるとこれを盛んに報道論説、同一五年の松山高校同盟休校事件に際しては学生側に同調する論陣を張るなど、大正デモクラシーの高揚に寄与した。昭和に入り、海南新聞は香川熊太郎が社長を引き受けて不偏不党の中立を掲げ、総じて公正な言論報道を行い娯楽欄を多くして面白く読ませる努力を払い、大衆紙への脱皮を図った。このころになると、大阪朝日・毎日新聞が松山支局を設けて地方版を拡充したので地方紙は次第に講読者を奪われ、販売合戦が熾烈になった。この中にあって愛媛新報の経営が次第に傾き、昭和一五年一月に廃刊した。海南新聞・伊豫新報・南豫時事新聞は統合して同一六年一二月一日から「愛媛合同新聞」(のち「愛媛新聞」)を発行した。
 出版界では、「中央公論」「改造」などの総合雑誌や岩波文庫が知識人・学生に迎えられ、大正末期には「文芸春秋」と大衆雑誌「キング」が相次いで創刊されて爆発的売れ行きを示した。また文学全集などを一冊一円で売る〝円本〟が登場して低価・大量出版のさきがけとなった。「キング」と〝円本ブーム〟は大衆が活字文化に親しみ始めた象徴であった。その購読欲を満たすため松山の弘文社書店・向井書店など各地に書店が生まれた。
 この時代は、「青鞜」の平塚らいてう、女優の松井須磨子など〝新しい女〟が活動を始めた。本県出身の女性では、大衆文学の源流「立川文庫」(明治四四年創刊)の発行者山田敬とその孫で〝猿飛佐助〟などキャラクターの創作に寄与した池田蘭子、代議士森肇の娘で帝国劇場の看板女優として脚光を浴び、のち新派で井上正夫とも共演を重ねた森律子、農業指導者岡田温の娘で松山高等女学校・東京女子大学を卒業して昭和五年『正子とその職業』などで文壇にデビューした岡田禎子らが活躍した。また宇和島生まれの高畠華宵は「講談倶楽部」「少年倶楽部」「婦人倶楽部」「実業之日本」など雑誌の挿絵にモダンな美少女を描いて、竹久夢二の独特の美人画と並び称された。また女性解放に関心が向けられた時代相を反映して、「婦人公論」「主婦の友」「婦人倶楽部」など女性向けの雑誌も次々と創刊された。
 東京・大阪でラジオ放送が開始されたのは大正一四年二九二五)であり、以後放送網は全国に拡大した。愛媛県民がラジオ文明の恵みを受けるのは広島放送局が本放送を始めた昭和三年(一九二八)七月からであり、受信機を設置するには広島逓信局長名の「聴取無線電話私設許可書」が必要であった。受信機の多くは安い鉱石ラジオを使ったが、真空管の受信機で良いものは一八円、月給一か月分に相当した。このためラジオを持つ家は限られていたから、電器店などの店頭にはスピーカーをつけたラジオが置かれて放送を流し、甲子園での全国中等学校野球大会の実況中継などは黒山の人だかりが出来た。昭和一〇年(一九三五)夏の松山商業学校全国優勝にラジオの前で歓喜した市民の熱狂ぶりは語り草となっている。学生野球などのスポーツはラジオの影響力もあって大衆娯楽の一つになり、その普及にも役立った。松山放送局が開局したのは昭和一六年(一九四一)三月であり、大街道・湊町商店街には万国旗
が飾られ、開局記念放送実演大会が国伎座で催された。
 この時代の最大の大衆娯楽は映画であった。大正元年一一月県下最初の常設活動写真館「世界館」(のち有楽座)が松山大街道に開館、翌二年五月には松山市駅前に松山館が開設した。松山館は大正七年に焼失したが、大街道に演芸館、魚の棚に松栄館、柳井町に大正座などと活動写真館が相次いで開館した。大正九年には寄席南亀亭が洋画専門の敷島館になった。宇和島・今治にも鶴島館・キリソ館・共楽館・帝国館などが続々開館した。映画が演劇を凌駕するようになると、大正一五年松山の新栄座が帝国キネマと特約して映画館に変わったのをはじめ昭和になってからは県下の劇場で映画の常設館に転ずるものが続出した。やがてトーキーが現れて映画全盛時代が到来、観客数が飛躍的に増大した。昭和一〇年代の松山には新栄座・有楽座・弁天座(のち松山東宝)・大衆館などがあり、市民だけでなく近郊の人々は時代劇・現代劇の大衆娯楽映画を鑑賞に松山に来ることを楽しみにした。外国を認識するうえで映像の与えた影響は大きく、知識人・学生にとって洒落た洋画を観ることは必須の教養であり、フランス映画「望郷」や「舞踊会の手帳」、ドイツ映画「会議は踊る」、アメリカ映画「オーケストラの少女」などの感激は強烈で新鮮だった。またすぐれた国産の映画作品も作られるようになった。しかし、次第に戦争色が映画にも反映して人々は娯楽面でも暗い時代を迎えた。
 蓄音機はすでに明治時代から輸入されていたが、レコードが大量に売れ始めたのは大正期半ば以後であり、それと同時に「枯れすゝき」「籠の鳥」などの歌謡曲が全国に流行していった。洋楽が一部の知識人・学生の間でもてはやされ、喫茶店で静聴する「運命≒新世界」などの交響曲に新鮮な芸術的感動を覚えた。松山高等学校講堂は当時松山では数少ない音楽会堂であり、古典的な二階席のたたずまい、ギリシヤ風の玄関・白亜の柱が月光に映える音楽会の夜は、ロマンチックな華やかさを見せたという。これらのメディアを通じて、新しい様々な外国の思想や文学が紹介された。そのなかで、マルクス主義が知識層に強い影響を与えたことが、この時代の一つの特色であった。松山高等学校・松山高等商業学校にも社会科学研究会が生まれ、当局を狼狽させた。
 都市を中心とする文化の大衆化は、生活様式にも大きな変化をもたらした。洋服の普及、和洋折衷の食生活、鉄筋コンクリート造りの公共建築、家庭における電灯の普及、水道・ガス事業の発展などがこの時期に見られた。松山などの都市には喫茶店と共にレストランに当たるカフェー(ABCカフェー、松山カフェーなど)が現れ、現代のバー街に当たる赤い灯・青い灯のカフェー街も生まれた。また久松伯爵別邸(萬翠荘大正一一年建築)、石崎汽船本社(同一三年)、愛媛県庁舎(昭和四年)、日本銀行松山支店(同七年)など洋風の建造物が異彩をはなった。しかしこのような大衆文化や生活の近代化は農村にまでは普及せず、都市と農村の文化的格差は依然大きかった。