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愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

4 県政の発展

 大正期の県知事

大正期において県政を担当した知事は七人であった。その在任期間は、深町錬太郎三年五か月、坂田幹太一〇か月、若林賚蔵二年四か月、馬渡俊雄二年二か月、宮崎通之助三年二か月、佐竹義文一年四か月、香坂昌康一年八か月であり、いずれも(東京)帝国大学法科卒業、文官高等試験合格の内務官僚であった。
 深町知事は石川県出身、逓信官僚から内務官僚に転じ、愛知県内務部長からの昇任であった。赴任早々、前任者・伊沢知事が決定していた松山中学校移転問題が紛争に発展、替地を求めてこれを決着させ、これに関連して日本赤十字社愛媛支部病院の建設を軌道に乗せた。また懸案となっていた産米検査を開始したほか、本県史上初の本格的な治水事業である二〇か年継続土木事業の着手など実務家として手腕を発揮した。次の坂田知事は山口県士族で、藩閥を背景に持つエリート官僚であった。坂田は、議会に対してかなりの高姿勢で臨んだ深町に代わり、無理をしない予算編成、議会の審議は尊重するという柔軟な態度が好感をもって迎えられ、同志会は全面的に同調、政友会は静観の態度をとった。このため、坂田は如才のない腕利きと評された。
 大正六年、坂田は香川県へ転出、交代人事で若林知事が着任した。若林は新潟県旧村上藩士族、島根・奈良・山梨・佐賀・香川の各県知事を歴任した老練家であったが、任地の各県で原案執行を度々強行し、〝原案執行知事〟の異名を受けた。本県においても、県会に対して高姿勢で臨み、本来与党であるべき政友会をも批判派に追いやったため、議会とは終始緊張をはらむ対決の状態となった。大正六年通常県会では、東予農学校新設問題が大いにこじれ、原案否決、再議指令、原案再否決、原案執行の最悪のコースをたどって両者が対決し、この問題はその後に尾を引いた。翌七年通常県会では、増額・増税予算案を政友・憲政両派提携で減額修正し、米騒動・米価調節に対する県当局の不手際を厳しく指摘するなど県政との対決が演じられた。
 大正八年、前新潟県内務部長の馬渡俊雄が県知事に就任した。馬渡は東京府出身、思想家として著名な加藤弘之の三男で馬渡家の養子になった。在任中、三〇か年継続土木事業計画や県立中等学校学級増加のための五か年継続事業などの施策を積極的に推進した。これは、当時の原政友会内閣の土木・教育振興方針に沿った施策で、憲政会などからは政友会が知事と図って党勢拡張に利用したものだと非難された。このほか、
多年紛擾の源泉であった伊予鉄道と松山電気軌道の合同斡旋、今治市制の実現などに尽力した。
 後任の宮崎知事は静岡県出身、警視庁警務部長からの栄進であった。宮崎は、前任の積極政策を引き継ぎ、県会多数派を占める政友会の後援もあって平静な県政運営を進めたが、一方で度重なる地方財政の抑制と風水害復旧に追われた。この間、郡制廃止に伴う善後措置、一五か年継続模範林造成事業、今治港湾など修築事業、皇太子殿下行啓の奉迎などに当たった。大正一三年、第二次護憲運動が展開される中で知事は、清浦内閣の推す政友本党の選挙支援を行い、休職に追い込まれた。
 次の佐竹知事は東京市の出身、和歌山県知事からの転任であった。佐竹が対応したのは大正一三年通常県会だけであったが、加藤高明内閣による財政整理のため、極度の整理緊縮を余儀なくされた。こうした中で佐竹が新規に打ち出した県立工業試験場今治移転案は松山市当局と政財界一丸となった反対で廃案、懸案解決を意図した県費支弁河川慣行区域に関する諮問案もまた、内容に精査審査の余地ありとして地域利害に阻まれた。佐竹の転任に際して「海南新聞」は、「政友会系の色彩、極めて鮮明なるに拘はらず、憲政会内閣の寵児」となったのは、「温厚順良なる資性」の一面「憲政会政府の為めに粉骨砕身の精根を尽したる功績」によると評した。
 ところで、府県の長官である知事は、「地方官官制」による国の官吏で、その待遇は勅任官であった。本県に赴任した七人の知事のように、彼らは帝国大学法科・政治科に学び、文官高等試験合格前後に内務省に入り、各府県の事務官、警察部長・内務部長(書記官)を歴任して、四〇歳代早々に知事に昇進、三、四県の知事を経験して五〇歳代で勇退している。明治期の知事は、「牧民の官」(人民を治める長官)と称せられ、「良二千石」ともてはやされた。その地位は旧藩主に比すべきもので、広く官界から人材が求められた。ところが、最初の政党内閣である隈板内閣が成立すると、自由任用制をとっていた府県知事など勅任官に多数の政党員が任用され、本県にも室孝次郎が知事に赴任した。大隈内閣に代わった第二次山県有朋内閣は、この政党員の猟官運動を封ずるため明治三二年三月に「文官任用令」を改正して、勅任官は一定の要件を備える奏任官であった者から登用しなければならないとした。この結果、府県知事は内務官僚から選任されるようになり、一~三年の定期異動を繰り返した。また大正七年(一九一八)の原敬政友会内閣成立以後は政党の勢力が強くなって国政・県政に関与することが慣例化したので、知事は、県政を推進し自己の留任を図るため時の内閣の与党県支部と結び、内閣が代われば他の政党に近づくといった政党への傾斜が一層進んだ。

 大正前期の県財政

日露戦争後の軍備拡張と国力充実を中核とする「戦後経営」は、国の財政規模を急激に拡大させた。その歳出では、戦前の明治三六年度を一〇〇とすると、同四一年度二五五にまで急増しつづけ、その後大正五年度まで、最高二五九(大正三年度)から最低二一三(明治四二年度)と二倍以上の高水準で推移した。この財源は国債の発行と戦時下で二次にわたった「非常特別税法」による大増税で賄われ、その大増税は地方税源の厳しい抑制をもとに強行された。非常特別税は本来、有効期限を平和克復の翌年末日とされていたが。
「戦後経営」の財源を必要とする政府は、これを大正二年四月まで継続した。税制の上では、日露「戦後経営」は戦時体制の継続であり、非常特別税の平常化として現れてきた。
 戦後、地方団体もまた、戦時中に中止あるいは繰り延べてきた各種事業や施設を復活しただけでなく、さらに産業・土木の振興のため新規拡充を図ることとなった。その上、こうした地方団体自身の発展に基づくもののほかに、戦時及び戦後における委任事務の増加が加わった。明治三八年の「伝染病予防法」の改正や「屠場法」・「巡査給与令」の制定、同四〇年の「癩予防法」・「小学校令」の改正などである。膨張する地方費の財源は、非常特別税の平常化により国税付加税が圧縮されていたため、必然的に戸数割など地方独立税の強化、公債の増発で賄わざるを得なくなった。このため、西園寺(第一次)内閣は、明治四一年三月「地方税制限二関スル法律」を公布し、国税付加税の制限を緩和したほか新たに府県に所得税付加税の徴収を認めた。ただし、戦前にはなかった制限超過の課税については、二段構えでその費目及び課税額に関し厳重な制限を加える歯止めをかけた。
 以後、徴税の便宜のための賦課率改正はあったが、大正八年の改正まで実質は変わらなかった。そのことは、直接国税の増収がない限り、県税中の国税付加税の増収はあり得ないことを意味し、愛媛県においてもその点は例外ではなかった。本県における国税付加税賦課率をみると、国税三税(地租税・営業税付加税・所得税付加税)のいずれに対しても、国の定めた定率を超えており、さらに法第五条第一項の特例(「特別ノ必要アル場合ニ」「内務大蔵両大臣ノ許可ヲ受ケ」て付加税賦課率の一〇〇分ので一以内の制限外課税が認められる)法第五条第二項による制限外賦課(第五条第一項の制限をさらに超過する場合、「特二内務大蔵大臣ノ許可ヲ受ケ」て課税、「負債ノ元利償還」、「非常災害」の復旧工事、「水利」、「伝染病予防」に限定)を続けている。つまり、明治四一年の地方税緩和によって、政府は定率において国税に対する付加税の課税にゆとりをもたせたのであるが、「戦後経営」に端を発した地方財政の膨張は、定率の緩和だけでは財源不足を補いきれず、第五条の特例による制限外賦課を行わなければ、地方財政
が成り立たなかったことを示している。
 図2‐10は、明治後期から大正前期にかけての県民の租税負担の推移を示したものである。愛媛県の場合は明治四〇年度から、県内市町村の場合は同三九年度から急激な膨張を示し、大正三年がピークとなり、一時停滞ののち、第一次大戦を契機に同六年から急上昇している。大正元~五年にかけての緊縮財政は、明治四〇~四一年の恐慌とそれに続く不況の漫性化を背景に行われた政府の行財政整理とそれに並行した地方財政の整理・刷新の厳しい措置によるものであった。
 大正五年一〇月、寺内正毅内閣の成立により国は積極財政に転換、愛媛県でも同六年度当初予算は前年に比して一八・九%、二七万余円を増額し積極財政に転じた。この予算膨張の背後には、大戦景気による物価上昇があったが、単に物価高に対処するというだけのものではなかった(因みに、同予算案を編成する大正五年の物価上昇率は前年比八・一%であった)。増額の内訳は、教育費一三万余円、土木費四万余円、勧業費三万余円で、いずれも明治末年からの緊縮方針で抑えられていた諸施設の建設や新規事業の繰り延べが、この時期に限界に達して一挙に噴出し、大戦景気がはずみになったといえる。
 図2-11は、明治末期と大正前期の県歳出構成を示したものである。それによると、土木・教育・警察の順位には変化がないが、勧業関係費が次第に比重を増し、大正前期で一二・一%に達し、警察関係費と肩を並べるにいたっている。産業革命期を終え、本格的な展開期に入った資本主義経済のもとで愛媛の地域経済の対応が象徴的に現れはじめたといえよう。このほか注目すべき点として総務関係費の増加があるが、これは物価上昇に伴う給与改定・臨時手当が主であり、また、「その他」の異常な伸びは米価調節のための外米購入費や高等学校創立寄付金の臨時的なものによる。
 大正前期の県歳入の特徴をみると、第一に日露戦争後の急激な抑制解除による歳出膨張にっれて歳入総額も急増したが、それが大正元、二年にピークに達し、以後同五年までほぼ維持され、第一次大戦の影響を受け
てくる同六年度以降さらに膨張に転じてくることである。第二は、県税一〇税と税外収入の比率の変化である。両者の比率は明治末期(同三七~四四年)の年平均で県税七二に対し税外収入二八であったが、大正元~七年の年平均では六〇対四〇となり、しかも県税の割合は大正前期も年を重ねるごとに低下し、同
七年度には五一にまで落ち込んでいる。比重の上がった税外収入のうち、国庫補助金及び国庫下渡金の割合は低下気味で、中心をなすのは県債であった。次に県税の構成では、国税付加税と県の独立税(営業税・雑種税・戸数割)との比率の変化である。明治末期では付加税五三・三に対し独立税四六・七であったが、大正前期では四八・九対五一・二と逆転している。これは、基本的には国の税源確保を優先する政策が地方独立税の膨張を強いた形であるが、直接的には大正初期の不況と農産物価格の下落を配慮した地租賦課率の低減であり、一方で相対的に富者に軽く貧者に重い賦課の戸数割や商工業者などを担税者とする営業税・雑種税を増徴する大衆課税の強化であった。
 第一次世界大戦前の日本経済は長い不況にあえいでいた。それは明治四〇年~四一年の恐慌以降、同四三年~大正二年前半の緩慢な中間景気を間にはさんで同三年八月の「大戦」勃発まで続き、しかも、その大戦勃発は右の不況のうえに輸出並びに輸入の途絶、減退を含めて経済活動の混乱と萎縮を起こさせ、不況を一段と深刻なものとした。しかし、それから一年余を経過した前後からまず工業が不況を脱し、順次好況へと転換していった。大正六年以降は、いわゆる「大戦景気」の時期に入り、同七年一一月から翌八年四月までの軽微な大戦終結ショックを中にはさんで翌九年三月ころまで、ほぼ四年にわたり未曽有の異常な好景気を経験した。
 愛媛県では、主要工産物生産額が戦前水準(大正元年)に回復するのが大正四年で、翌五年に前年比五〇%増、同六年に前年比五二%増、同七年に前年比四〇%増と異常な速度で上昇した。一方農産物の生産額が戦前水準に達するのは大正六年で、工産物に比べて一年ないし二年遅れている。成長率も大正七年に前年比四一%増と低い。
 こうした急激な経済変動は激しい物価騰貴をもたらし、国民生活に脅威を与えた。好況と物価高を背景に、民間賃金の平均は、大正六年三月から九月にかけて戦前(大正元年)の水準を突破し、翌七年三月には戦前水準の二倍を超えるものが多くなった。民間に対して県・市町村職員の給料は、物価に連動して引き上げにくい仕組みのため、その上昇のテンポは鈍く、特に下級官員の生活難の状況が度々新聞に報道された。愛媛県の場合、大正六年には六月と一二月に合わせて一か月分余の臨時賞与を支給し、同七年には「臨時手当支給規程」を制定して、同年六月以降、毎月臨時手当を支給することとしたが、それでも物価騰勢に合わず、同年一〇月に規程を改正して臨時手当額をさらに加算するなど、対応に追われた。

 土木事業の推進

 本県は元来地形が複雑で、山岳が連なりあい、平野部が少ないため、各地域に都邑が分立して各地域相互間の陸路連絡は極めて不便であった。陸路の不便は一方では、古来から海上交通の発達を促したが、天然の地形を利用したに過ぎなかった。また、河川は四国の分水嶺が北西に偏しているため、肱川を除いては一般に流路が短く、流れは早く、水量は少ない。そのため、慢性的な水不足の反面、ひとたび豪雨にみまわれると河川は氾濫しやすく沿岸一帯は被害を度々こうむった。こうしたことから、愛媛県がその近代化と統一を図るうえにおいて、道路・港湾・河川の整備改良は急務かつ根本策であった。
 明治期において県が推進した継続土木事業をみると、まず小牧県政下で明治二九年度からの七か年計画、つづいて本部県政下で明治三五年度からの一〇か年計画、さらには安藤県政下で明治四一年度からの二二か年計画が樹立されたが、いずれも財政難から繰り延べ・更正を再三余儀なくされた。伊沢県政下の明治四三年通常県会で、先の二二か年計画は更正され、継続年期を一九か年とし、県営としては国県道の改修、主要河川の水源土砂扞止と修築、主要港湾は浚渫のみにとどめ、港湾改修や里道整備は郡市町村の経営に移管する土木の基本方針を確立し、併せて下級公共団体への県費補助規則も決定した。この結果、県政上で多年にわたる土木に関する政争は一応終止符を打つとともに、県土木行政の根幹が確立した。
 大正期に入ると、まず深町県政下で大正三年度からの二〇か年継続治水事業が開始された。内容は、主要一九河川を対象に水害防止のため、水源の植林、地盤保護、砂防工事を行うものであった。この事業は、大正年間から昭和にかけて継続され、その後昭和一四年まで、次に昭和一七年まで、さらに昭和二三年までと年期延長・増額の更正を続け、戦中・戦後の多難な時期にわたり県下の治水施設に寄与していった。ただ、本格的な河川改良事業については、当時本県に国の直轄で改修を行う治水計画対象の大河がなく、昭和になるまで実施には至らなかった。
 次に、馬渡県政下の大正九年通常県会で、三〇か年継続土木事業計画が成立した。この背景には、大正八年四月に制定された「道路法」があった。同法の施行に伴い、各府県では法の基準に従って内務大臣の認可を受けて府県道の認定を行う必要が生じた。また「道路構造令」により国道・府県道の幅員などが規定されたため、従来の道路政策は根本的に改められ、本県でも既改修分を含め継続土木事業自体を修正しなければならなくなった。三〇か年計画の概要は、事業費総額一、六〇〇万円余、うち一七四万円は明治四一年度から大正九年度までの施行分、残り一、四二六万余円が大正一〇年度から三九年度に至るもので、道路は国道一線・府県道四〇線の改修で一、四〇〇万円余、一二河川の改修費二三四万円余と海岸改修費二七万円余を対象としていた。なお趣旨説明に立った馬渡知事は、府県道の認定については今後未改修路線も対象に加えること、河川改修は県費による河川調査が終了したので今回事業に編入し、海岸も付け加えたから、県下の道路・河川・海岸に対する土木方針は確立したと述べ、さらに残された港湾問題や里道への補助政策については土木補助規則改正を将来の課題としていた。
 府県道の認定は、大正九年の三七路線を最初に、同一〇年三三路線、一二年七九路線、一三年一五路線と漸増していった。このため、昭和二年通常県会において、従来の三〇か年計画は昭和二年度限りで廃止され、代わって新たに一、〇一五万円に及ぶ一五か年計画(道路整備事業のみ)に切り換えられ、従前計画中にあった「河川海岸改修事業」は分離されて別途に従来費額相当分を計上することとなった。しかし、この計画はやがて近づく昭和恐慌の嵐の中で大縮減・打ち切りの運命をたどり、県民悲願の土木事業の推進は第二次世界大戦後に持ち越された。

 中等学校の拡充

 我が国の中等教育は、明治三二年(一八九九)の「中学校令」改定と「高等女学校令」・「実業学校令」の制定でその多様化の基本類型が示され、教育機関の増設が図られた。本県では、県立中学校が松山・西条・宇和島の三校となり、その後大洲・今治両分校が独立して五校に増え、また私立北予中学校が同三三年から開校していた。高等女学校は府県の設置義務化に伴い同三四年四月から松山・今治・宇和島の三県立校が開校した。実業学校は、同三四年に愛媛県農業学校、三五年に県立商業学校が松山に開校したほか、郡立宇摩・新居・周桑の農業学校と西宇和郡立商業学校、組合立弓削商船学校がそれぞれ設立された。これらの六中学校、三高等女学校、八実業学校に続いて、日露戦争後の教育の振興、進学志望者の増加に対応して郡立農業学校・高等女学校の増設や済美高等女学校など私立学校が新設され、明治四五年(一九一二)には合計三六の中等学校を数えるに至った。
 大正期に入ると中等教育熱は一層高まり、松山中学校・松山高等女学校など特定の学校のみに見られた入学難が全県的に広がり、ほとんどの学校が競争率二倍を超えた。県は志願者の多い学校の生徒定員を増加したが、入学難を緩和することはできなかった。名門校をはじめとする中等学校受験のため準備教育が始まってその弊害が指摘され、中等学校の増設が叫ばれるようになった。
 こうした県民の要望と産業界の発展を背景として、県会では毎年のように郡立学校の県立移管や学校新設を求める建議が提出された。郡立学校整理の論議を経て大正七年には東宇和郡立農蚕学校の県立移管(宇和農業学校)と県立西条農業学校が新設された。次いで大正九年からの中等学校五か年継続拡張計画で、県立三島中学校・松山城北高等女学校・東宇和高等女学校の新設と既設学校の学級増加が図られ、三新設校は同一一年四月から開校した。また郡制廃止に伴い、宇和・新居・周桑・喜多・八幡浜の郡立・町立高等女学校、新居・伊予・南宇和・宇摩郡立の各農業学校と北宇和郡立宇和島実科女学校が同一一年四月以降県営に移管された。大正一二年(一九二三)時には県立中等学校は二九校にのぼり、ほかに市町村立・組合立・私立中等学校も増設されて中等教育機関はようやく拡充した。工業学校は大正一一年に工業徒弟学校から改組した松山市立工業学校があったが、各方面の要望にもかかわらずこの時期には県立移管による設備充実は行われなかった。
 松山市立工業学校の県営化が実現したのは、日本経済が恐慌を脱して活気を取り戻し生産要員養成のための工業教育振興が強調されはじめた昭和九年であり、その後、時局下産業戦士確保のため県立新居浜工業学校の新設、町立吉田中学校の県立移管と工業学校化、市立今治工業学校の設立と県立移管、県立八幡浜商業学校・市立宇和島商業学校の工業学校への改組が進められた。一方、景気回復に伴って中等学校入学志望者が再び増加したので、中等学校未設置もしくは市立・組合立・町立のままで取り残されている地域を重点に県立学校の新設移管が行われた。県立北宇和農業・上浮穴農林・宇和島水産の各実業学校の新設や私立北予中学校、組合立大洲農業学校、私立新居浜高等女学校、市立新居浜・組合立越智・市立八幡浜の各中学校、町立川之石・三島・長浜の高等実科(家政)女学校の県立移管がこの時期に実施され、私立新田・子安中学校や松山商業女学校などが誕生した。また昭和一五年には県立弓削商船学校の国営移管が実現した。
 師範教育は愛媛県師範学校に加えて明治四三年に愛媛県女子師範学校が設立されたが、昭和一八年(一九三三)に両校は統合して官立愛媛師範学校となった。昭和一〇年に誕生した県立青年学校教員養成所は同一九年に官立愛媛青年師範学校に発展した。

 松山高等学校・松山高等商業学校の創立

 第一高等学校を筆頭とする高等学校は、明治二七年(一八九四)六月の「高等学校令」によって設立され、同四一年名古屋の第八高等学校に至るまで次々とナンバースクールが誕生した。第一次世界大戦による好景気を迎えると、大正デモクラシーの風潮の中で高等教育機関の増設を求める声が各地に起こった。本県でも県会、松山市会、松山商工会、県教育協会など各界あげてこれに関心を示し、大正六年九月二〇日愛媛県民有志大会を開催して、松山への高等学校誘致運動を開始した。四国内では香川県が誘致に熱心で有力なライバルであったが、高松市を制して同年一二月松山市に高等学校新設が内定し、大正七年三月の帝国議会で松山高等学校が新潟・松本・山口の各高等学校とともに承認された。
 教育の振興を主要施策とする原敬内閣(文相中橋徳五郎)は、同七年(一九一八)一二月に「高等学校令」を改正して高等学校の充実を意図し、翌八年四月一四日の「文部省直轄諸学校中改正」で、前記四高等学校を追加した。ここに松山高等学校は明確な制度的根拠を得て、第三高等学校教授由比質が初代校長に発令され、九月から授業を開始することになった。
 松山高等学校の校地は松山近郊の道後持田に決定、県費六〇万円をはじめ松山市・温泉郡のきょ出金と民間有志寄附金で用地購入などの創立費がまかなわれ、校舎建築が始まった。その間、教授陣の発令、生徒募集・入学試験の実施、仮校舎松山市公会堂の整備、寄宿舎の確保、「松山高等学校規則」の制定などが進められた。大正八年九月一日第一回入学式が挙行され、壇上に立った由比校長は、「諸君は高等学校に入学した以上将来国士となるべき者だ。私は諸君を国士をもって待遇する。諸君は国士をもって任じなければならないから万事束縛なく自由に事に処することができる。但し自分の行動に対しては責任を飽くまで持たなければならない」と訓辞した。翌八年八月校舎の竣工なったので〝持田が原〟の田園風景が広がる新装のキャンパスに移った。松山高等学校の修学年限は三年で文・理に分かれ、一学年の生徒定員は一六○人であった。大正一〇年になって文部省は大学・高等専門学校の学年暦を改めて第一学期の開始を四月一日としたので、この月に全学年四六八人が揃った。
 松山に官立高等学校が設立されると、さらに専門学校設立を要望する動きが起こってきた。松山高等学校教授北川淳一郎は「私立高等商業学校設立私案」を「海南新聞」大正一〇年一二月四~五日付に投稿して、「松山をして文化の中枢となし、他の学校所在地に優先せしむる為めには、松山に少くとも二校の高等程度の学校の存在することが必要である」として、設置に際しては土地・建物・校長の三大要素からして私立北予中学校を利用すれば実現が容易である旨を説いた。北川構想を受けて、加藤恒忠(松山市長)、加藤彰廉(北予中学校長)、井上要(伊予鉄電社長)らが中心となって高等商業学校設立の準備を推し進め、松山地方有力者約三〇人をもって協賛会が組織された。
 高等商業学校設立計画は、加藤彰廉が作成、両加藤と井上要はこの計画書を持って宮崎知事と交渉し、創設費・経常費の半額を県費で支出する旨の口約を得た。残る半額は民間からきょ出することにした。加藤市長はかねて親交のあった新田帯革製造所社長の新田長次郎を大阪に訪ね、寄附を懇請して快諾を得た。事態は予想以上に順調に進んで、大正一一年九月松山高等商業学校設立発起人会を開催するまでに至ったが、政府の財政緊縮方針で県からの補助金支出ができなくなり、また設立に際し三〇万円の積立金を必要とする旨の文部省通告などで計画は頓挫をきたし、難関に直面した。この事情を新田長次郎に説明した
ところ、新田はあくまでも目的貫徹を強調し、県の補助金肩替りだけでなく積立金・学校経営費も引き受けた。この新田の全面的な私財援助で、大正一一年二一月財団法人設立と松山高等商業学校設立願が提出され、翌一二年二月に文部大臣の認可を受けた。
 松山高等商業学校は、大正一二年(一九二三)四月二五日に開校した。この時の入学者は六一人であった。翌一三年四月、北予中学校に隣接した〝味酒が原〟の地に新築中の鉄筋コンクリート造りの校舎が竣工したので、ここに移転した。これと同時に生徒定員を二五〇人に改めた。大正一五年三月第一回卒業式に際し、加藤校長は、「出でては有為多能、適くとして可ならざるなく、実用的才幹を発揮し、これの務めに対しては忠実勤勉、誠心誠意、以て人の信頼を博し、入っては益々知識を研き、徳を積み、真理を貴とび、正々堂々俯仰天地に恥じざる底の人物たるの修養を怠らざらんことを望む」と訓辞した。この「実用」「忠実」「真実」の〝三実主義〟を校訓として同校は発展の一途をたどり、多くの経済人を輩出した。

 今治・宇和島市の誕生

 我が国では、明治二二年と昭和二九~三三年に全国的な規模で大規模な町村合併が断行された。これは、政府が地方行政末端機構の再編成のために主として農村間の合併を進めたものであったが、その間の合併は都市の発展に伴う周辺村の都市への合併編入という形で自主的・個別的に行われた。
 第一次世界大戦後、都市型産業の発展と人口の都市集中を原因として市制施行や市域拡張のための町村合併が盛んになった。本県では、越智郡今治町と北宇和郡宇和島町が周辺村を吸収合併して市制を施行した。
 綿業の街今治は、大正七、八年の好況により全国屈指の生産地に発展して、「四国の大阪」と称されるに至った。これに伴い織物工場は隣接地日吉村に伸び、同村の人口は明治四〇年時四、三七二人であったのが一〇年後の大正六年には七、九二二人に急増した。同時期の今治町の人口も一万六、四八一人から一万九、三四二人に増えたが、もはや土地膨張の余裕がなくなり工場はもとより今治中学校・今治区裁判所も敷地を日吉村に求め、今治築港の起工個所、国鉄予讃線今治停車場も同村内に予定されていた。旧藩時代今治町と日吉村は商家と武家の居住地に分かれていたが、商工業の発展により両者の関係はいよいよ密接の度を加えて一市街を形成するに至ったので、これを合併して一個の自治体とすることが諸般施設の計画上最も緊要事となった。県当局でも明治末期伊沢知事の内命を受けて越智郡長片野淑人が両町村有志に合併を勧告して以来歴代の知事・郡長がその実現に努めてきた。大正七年四月二一日東予巡視のため今治町に来た若林知事は合併の必要を説諭、これを受けて、両町村議会は合併委員を選出、七月三一日に郡衙で郡長と両町村長・委員が会合して第一回合併協議会を開催した。その後、四回にわたり協議会を重ねて、翌八年一月九日郡長立合いの下に合併協約書の調印が成った。こうして大正九年(一九二〇)二月四日付内務省告示第五号でもって二月一一日から今治市制施行が告示された。初代市長には片野淑人が就任した。以後、今治市は昭和八年二月一一日近見村、同一五年一月一日立花村を編入して市域を拡大していった。
 宇和島町は大正六年五月一日に旧城下町の外郭を構成する丸穂村を編入して人口二万一千余人に増加した。この時期から市制実施が計画されていたが、海陸ともに宇和島町の咽喉の地に当たる八幡村との合併は容易に進展しなかった。大正九年二月、この地域で衆望の高い前代議士山村豊次郎が宇和島町長に就任して、この問題に熱心に取り組み、著名な法学博士穂積陳重が八幡村有志を東京の自宅に招いて宇和島が市制を実施することは地方発展のために時宜を得た処置であり、八幡村との合併がその前提となることを懇ろに説いた。こうした関係者の努力で、大正一〇年(一九二一)三月二八日、「旧宇和島町ノ住民ヨリ市長ヲ選出スルトキハ助役ハ旧八幡村ノ住民ヨリ選出スルコト」「市役所ハ公会堂付近二移転シ向ウ三ヵ年間二工事二着手スベキコト」などの合併条件の協定書が両町村の間で調印され、同年八月一日をもって県下三番目の都市宇和島市が誕生した。人口は三万二、二九四人で、初代市長には山村豊次郎が就任した。
 綿工業の発展を背景に町村合併による障害が少なかった今治市に対し、恵まれた地勢にあった八幡村が宇和島町の合併要求に容易に応じなかったのが市制施行の遅れた大きな理由であった。市制実施後の宇和島市は、八幡村との合併条件に基づいて大正一三年市庁舎の移転新築に着手した。位置は丸ノ内一番地で工費およそ九万円、翌一四年七月に落成した新庁舎は鉄筋コンクリートの堂々たる建物であった。この年上水道の建設にも着手し、ついで港湾改修にかかるなど都市としての体裁を着々と整えていった。昭和九年九月一日には九島村を合併して市域を西に伸ばした。

 地方制度の改正と郡制廃止

 明治の地方制度は、「府県制」「郡制」と「市制」「町村制」で運営されたが、資本主義経済の発展と寄生地主の地位の低下に対応して、前者は明治三二年(一八九九)三月、後者は同四四年(一九一一)四月に全面的に改正された。新「府県制」では、府県の性質を法文上明白に「法人」と規定して府県知事の
職務権限など府県行財政を整備し、府県会議員については従来の大地主議員制・複選制を廃止して国税三円以上を納める公民により直接選挙で選ばせることにした。新「市制」「町村制」では、市町村の執行機関の改組とその権限の強化拡大、国の事務委任の拡充、財政制度の改革による市町村財政力の向上を図って市町村行政の能率化が促進された。なお、府県会・市町村会議員の任期は従来六年で三年ごとに半数改選していたのが、この時の改正で任期を四年とし全員改選となった。その後、大正デモクラシーの風潮の下で選挙権の拡充が図られ、大正一〇年(一九二一)の市制・町村制中改正と翌一一年の府県制中改正で単に納税要件をもって選挙資格が与えられることになった。また従前市町村会は納税額の多少に応じて選挙人を振り分ける等級制を実施していたが、この時に町村会のそれが廃止された。
 こうした改正の過程を経て、大正一五年(一九二六)六月府県制・市制・町村制中改正が公布された。この改正は、前年五月の「衆議院議員選挙法中改正法律」に伴うものであり、国政レベルにおいて実現した普通選挙制を地方議会にも拡大しようとしたのが、今回の地方制度改正の根幹をなすものであった。これにより、選挙資格から納税要件を除きすべての公民(二五歳以上の帝国臣民男子で二年以来その市町村住民)に選挙権・被選挙権が認められた。また市会議員選挙における等級制を廃止し、市長は市会で選任され、市町村行政に関する国家の監督権緩和など全般的に地方自治権の強化が図られた。府県制は昭和四年(一九二九)にも一部改正され、府県会に条例・規則の制定や議案の提案権を与えるなど議決機関の権限を拡充した。こうした一連の地方自治権の拡充強化は、大正デモクラシーの地方自治への反映を示していた。普通選挙制による県会議員選挙は昭和二年九月、市町村会議員選挙は同五年一月に全国一斉に実施された。
 郡制については、制定当時から政府内や元老院会議から郡の自治体化は疑問であるとして反対意見があった。その後、郡制施行の前提であった郡の分合が遅々として進まず、自然郡制の施行も遅延気味となった。このため郡制廃止の声は早くから現れ、明治三七年以来無用の長物の郡を廃して民力休養に努むべきであるとする郡制廃止案がしばしば国会で問題にされた。大正一〇年三月、原敬内閣は郡制廃止法律案を提出した。その提案理由には、府県と町村が地方事務の多くを担当しており、郡は本来その発展の地盤を欠いでいる、郡制の廃止は地方行政組織の簡素化になり、町村自治活動を促進させることになるなどを列挙していた。この廃止案は原案通り衆貴両院を通過し、大正一〇年(一九二一)四月一二日「郡制廃止二関スル法律」が公布され、一二年四月一日から施行された。
 郡制廃止に伴い、従来郡費をもって施設経営されていた郡道や郡立実業学校・高等女学校の県移管が進められた。また郡制廃止後、地方行政官庁として残されていた郡長・郡役所も政府の行政整理の対象となり、大正一五年六月の一地力官官制」改正により全廃された。この改正は七月一日から施行され、郡は単なる地理的区分を示す名称に過ぎなくなった。郡役所廃止に代わって必要な場合には支庁が設置されることになり、本県には宇和支庁が発足した。庁舎は宇和島市広小路の旧宇和郡役所をそのまま使用した。

 県行政機構の推移

 大正二年六月、「地方官官制」が改正された。この改正は、明治三八年改正以来の全文改正で、主な改正点は内務部・警察部の二部制を具体化し、従来の奏任事務官三人を内務部長・警察部長・理事官と改称した。これに伴い本県では同年七月二五日に「愛媛県処務細則」を改正したが、事務分掌は明治四〇年の改正時と変わらなかった(表2‐11)。
 「地方官官制」は以後毎年部分改正がなされたが、主として官吏の定員改正に伴うものであった。主なものをあげると、大正五年に工場法設置に伴う工場監督官の新設、同八年に理事官定員を専任四人と規定、同一二年に愛媛県などの理事官を五人、に増員、同一三年九月に小作官の新設、同年一二月改正で内務部長・警察部長を書記官に、理事官を地方事務官に、警視を地方警視に、小作官を地方小作官に、技師を地方技師にそれぞれ名称変更した。
 愛媛県では、官制改正に伴いあるいは独自の立場で「処務細則」の改正を行ったが、大正八年九月には全文改正による大規模な事務分掌の改革を行った。その内容は、(1)内務部で農商課と水産課を統合して勧業課としたこと、(2)警察部高等警察係を昇格させて高等警察課としたこと、(3)工場法施行に関する分掌機関を警察部保安課から独立させて工場課を新設したことなどであった。また、同一〇年三月には、社会教育・青年団指導・生活改善並びに思想善導など社会問題に関する事務を管掌する社会課を内務部に新設した。
 県庁機構はその後大正一二年五月に再改定され、内務部の勧業課・林務課が農林課と商工水産課に編成替え、警察部に刑事課が新設されたが、刑事課については高等警察課と分掌事務が重複するとして翌年廃止され、農林課・商工水産課も同一四年改正で勧業課・林務課に復した。
 大正一五年六月三日、「地方官官制」が全文改正された。この改正は、郡役所の廃止や時勢の進展に伴う事務分掌の増加に対応したものであった。主な改正点は、(1)内務部・警察部に加えて学務部を新設したこと、(2)内務大臣は府県を指定して土木部・産業部・衛生部を置くことがあるとしたこと、(3)知事が必要と認めるときは支庁・出張所を置くことができるとしたこと、(4)書記官を三人に増員したのをはじめ地方事務官など高等官吏定員の大幅増を図ったことなどであった。これに伴い本県は、「愛媛県処務細則」を改正して、従来内務部にあった学務課・社会課と新設の社寺兵事課の三課からなる学務部を独立新設、さらに内務部には地方課と蚕糸課、知事宣房には統計係をそれぞれ増設し、七月一日から施行した(表2‐12)。

 大正後期の県財政

大正五年下期から日本経済を包んだ大戦景気は、同九年三月一転して、戦後恐慌に変じた。政府の巨額救済融資で同年下半期に沈静し、翌一〇年には中間景気の様相を呈しはじめたが、同一一年には、ワシントン海軍軍縮の決定や加藤友三郎内閣の財政緊縮方針を背景に、全国的な銀行恐慌が翌年上半期に及んだ。日本経済の沈滞のさなか、大正一二年九月一日に関東大震災が発生、我が国は甚大な打撃をこうむった。政府は、種々の金融上の非常措置をとる一方、復興のため膨大な国家予算を計上した。このため、大正二~一四年にかけ復興景気が現出したが、同一三年四、五月ころから不況の兆候が現れはじめ、護憲三派の加藤内閣の緊縮政策開始もあって不況が顕在化してきた。このように大正後期の日本経済は、「不況から不況へ」を基本的動向としていた。また同期の物価・賃金の動向は、大正八年をピークに下向し、同一〇年以降、八年の指数から一〇~二三程度低いところで上下し、比較的安定傾向であった。
 国の財政規模は、大戦中の五年間に戦前(大正元年、同二年)の約二倍、同一〇年度(原内閣の編成した最後の予算)には二・五倍に膨張したが、慢性化した不況、連年巨額の輸入超過による国際収支の悪化、その他の事情によって、同一一年度以降その膨張にストップがかかった。関東大震災の善後策のため中断があるが、ほぼ一貫して緊縮財政から大きく逸脱することはなかった。図2ー12は、大正後期における国・愛媛県・県内市町村の三つについて、歳出額の推移を示したものである。大正八年以降、国家財政の伸び率に対し、地方財政のそれは格段の増大を表している。愛媛県の場合、歳出規模は大戦中から戦後にかけて著しく拡大し、大正元年を基準にとると、七年は二倍、八年が二・二倍、九年は三・四倍に膨張し、同一三年には大正後期最大の五倍となっている。市町村の場合を同じ基準でみると、大正八年が二倍、九年は三倍、一〇年は三・三倍、一一年は四・三倍、一五年が最大の四・五倍に及んでいる。
 こうした大戦中・戦後の県財政歳出が急激に膨張した第一の理由は、物価の高騰に伴う、(1)俸給・手当・旅費など人件費の大増額、(2)建築・修繕や需用品・消耗品その他物件費の大幅騰貴、(3)既定事業費の増額によるものであった。第二の理由は、第一次大戦を契機とする産業の飛躍的発展と高度化、さらには戦後の慢性的不況を背景とした行政の拡大にあった。政府は、低率の国庫負担金を盛り込んだ多数の特別法令を公布して地方行政領域を拡げ府県経費を膨張させた。公布された法令には、「精神病院
法」・「結核予防法」・「トラホーム予防法」及び「伝染病予防法」の改正など衛生関係、「道路法」など土木関係、「職業紹介法」・「恩給法」・「中央卸売市場法」など社会事業・社会政策関係、「実業教育費国庫補助法」改正、「青年訓練所令」など教育関係、さらに「馬籍法」、「人口動態調査令」など多種多様であった。このうち、特に県財政膨張への影響力が大きいのは、「道路法」と「恩給法」の施行であった。第三の理由は、農林漁業を中心とする多様な勧業振興策であった。政府は、助成・奨励・補助の名を付した多数の農商務省令を公布して、補助金・奨励金を誘い水にして農林漁業振興の推進を図り、府県費を膨張させている。
 大正後期、八~一五年の平均による愛媛県の歳出構成を示すと、図2-13のようである。大正前期の図2-11(二六三ページ所載)と比較すると、第一の特徴は社会事業費が順位をあげ議会関係費と逆転したほか順位に変動はない。「その他」の項が大きいが、これは恩給金補充費の逐年の増加のほか、臨時的出費である松山高等学校創立費寄付金と貸付金があるためである。また、総務関係費では、県吏員費・県税取扱費が主であるが、特に大正八、九年度の臨時手当支給が大部を占めている。特徴の第二は、土木と教育の合計が約五〇%を占めていることである。大正前期には四五%に落ちていたが、明治期並みに回復している。土木関係費の膨張は、(1)事業対象に港湾・索道・上水道・下水道が加わってきたこと、(2)大正一〇年度以降、「道路法」の実施に伴い、路幅の拡張、認定府県道の増加による継続土木費の増大、(3)連年の災害復旧対策費(特に大正一二年の台風災害は明治二六年以来の国庫補助対象)などによるものであった。教育関係費の増加は、中等学校進学志願者の激増により生徒の定員増または学校新設の
要が生じたこと、産業の高度化につれ学校の設備改善が図られたこと、郡制廃止に伴う郡立中等学校の県立移管を断行しなければならなかったことによる。第三の特徴は構成比一〇・三%の勧業関係費である。大正前期の構成比一二・一%からは比率を下げているが、農林漁業などの振興政策が反映され、目立っている。
 図2‐14は、大正後期における愛媛県の歳入構成を示したものである。特徴をみると、その第一は歳入額が短期間に急増していることである。大正八年度は同元年度の約二・三倍、それからわずか五年後の同一三年度には、同八年度の約二・二倍、同元年度の五倍という異常ともいえる膨張をとげ、その後はほぼ横ばい状態となっている。次に県税収入と税外収入の伸び率、割合の変化である。両収入とも大正一三年度まで急増し、それ以後は横ばいになった点は歳入額の動向と軌を一にしながらも、同一一年度までは県税収入の増加テンポが速く、同一二年度からは税外収入の伸び率が県税収入のそれを抜き、同一三年度には伸び率はさらに開き、その結果、税外収入が県税収入に迫り(四六対五四)、そのままほぼ定着している。この税外収入の増大の原因は、県債及び繰越金の膨張にあった。このように、大正後期前半の歳出急増に対する財源は大増税と税外収入の両方に頼っていた。
 県税の大増税の背景は、大正八年三月の「時局ノ影響ニヨル地方税制限拡張二関スル法律」と翌九年八月の地方税制限に関する「明治四一年法律第三七号中改正」の施行であった。前者は、膨張する歳出の財源補強のため、従来の制限率の八〇%(市区町村は六○%)の大幅増徴を認めた応急当分の立法であった。しかし、この程度の制限緩和=増徴では急増する歳出に対応できないとして、賦課制限率そのものを一挙に戦前の約三倍程度に拡張したのが後者の立法であった。その内訳は、府県では地租付加税制限率は「宅地」が一三%から三四%に、「その他の土地」で三二%から八三%に、営業税付加税の制限率は一一%から二九%に引き上げられた。なお所得税付加税については従来の一〇〇分の四が三・六に引き下げられた。これは同年七月の「所得税法」の改正により国税負担が強化されたためであった。
 図2-15は、大正七~一五年の県税構成を示したものである。大正八年以降、国税付加税と県独立税双方の増徴振りが明らかである。
 こうして国税付加税は二度にわたり制限率緩和措置が講じられ増税されたが、それ以上に強化されたのが県独立税であった。大正一〇年度では、同七年比で国税付加税は約一・八五倍に対し、県独立税は二・四倍に達している。国税付加税は、国の財源を優先しながらも米価の下落や農業の不振が考慮されているが、県独立税は、零細営業者の負担する雑種税の税率引き上げと新税創設、累進率が低く、富者に軽く貧者に重い戸数制の増徴で、大衆課税が一段と強化されたためである。戸数割につい
ては、大正一〇年一〇月、全国共通の初めての賦課規定である「府県税戸数割規則」が制定公布され、翌一一年度より施行された。明治一一年七月の「地方税規則」以来、政府は戸数割賦課の基準も方法も示さず府県会の議決に一任し、府県もまた市町村に対して政府と同じ態度をとってきたため、問題視されてきた不公平是正を目的としたものであった。
 大正後期の県税のうち、県独立税が最高となるのは特別地税を除くと一二年度で、国税付加税の場合は一三年度である。また、税外収入及び歳入総額が最高となるのも同一三年度である。これは県民の担税能力が限界にきたことを示すもので、一二年度以降それを超える歳出の財源には税外収入分が当てられたわけで、それが大正一〇年代の歳入の基本的特徴であった。
 なお、大正一五年度の歳入の項にある「特別地税」は、大正一五年の税制改正において、地税の負担の公平を図るため課税標準を地価から賃貸価格に改訂したが、同時に地租に免税点が設けられ、免税点以下の土地に対しては府県税として「特別地租付加税」が創設されたことを示している。