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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

一 愛媛伝説の処遇

 『日本傅説名彙』(昭25 日本放送出版協会)は柳田国男が民俗学的立場から、「伝説」を究明しその整理を指向して刊行したものである。「伝説の分類」の最初に挙げた柳田国男の六分類によって、そのなかに愛媛の伝説がどのようにとりあげられているかを挙げて、日本の伝説研究のなかにおける愛媛伝説の位置づけを概観する。

※伝承町村名および現市町村名の誤りは傍点(・)を付して改めた。「三、水の部 白髭水」の伝承地が〝旭村(現広見町)〟とあるのは記事内容よりして報告者の住所を録したものと推察し、伝承地を〝三浦村(現宇和島市)〟とした。なお県名・郡名は省略した。

 一、木の部 杖椿 常福寺境内にあり、弘法大師巡錫の際、携えていた椿の杖を挿しておいたのが根づいて大木となったという。嘉永五年に至って火災にかかり、現在のものはその萌芽だという。(大日本老樹名木誌)宇摩郡川滝村(現川之江市) 石芋 弘法大師が民家に食を乞うたとき、芋を煮て食っていたが、惜しんで与えなかったため、その芋は石芋となった。(史蹟と伝説)松山市外吉藤
 二、石・岩の部 <汐止石> 旧周布郡今在家村鶴の掛の路傍に神功皇后御凱旋の日、ここに上陸し給い、小千高則が家に行啓あらせられ、この石にかけ給うといい、今も里人はおそれて近よらないという。(伊予温故録)周桑郡吉井村(現東予市) <兜石> 河野時直が戦に負けてこの山中に走ったとき、鎧兜を脱いでこの岩に被せて去った。追兵はこれを見て、あえて近づこうとしなかったという。(伊予温故録)湯山村福見川(現松山市) <衣干岩> 海上にあって、岩の形は屏風のごとく、中腹に奇松がある。この岩は菅公左遷のとき、風波の難に遭って、船をここに停めて、衣を岩の上に干したという。(伊予温故録)桜井村(現今治市) <甑石> 白色の高さ四尋ばかりの石で、その形は甑に飯を盛ったようである。除夜には炊気がたつのでかく名づけているという。村人はこれを砕いて燧石とし、その代わりに他の小さな石をおいておくとこの石になると伝えている。(温泉郡誌)難波村庄(現北条市) <牛石> 往還に臨む大岩で、その上に牛の足跡と子供の足跡がある。(伊予温故録)坂戸村(現宇和町) <蛇石> 中山川の蟹瀬という淀にある。高さ四尺五寸、幅八尺と四尺の石である。水を漑げば蛇の鱗が現われるという。昔、大洲藩主が庭石を運ぶと一夜のうちに元の処に帰り、再び運ぼうとすると数百人の力でも動かなかった。この石は巫ヶ淵の大蛇の玩具で、しばしば鎌倉山に運び、人畜を害したので、天竜院の名僧が封じて禍を絶ったという。今もここには蛇虱とて鰻の子に似たものがいるという。(旅伝 三)立川村(現内子町) <瞽女石> 旧下浮穴郡上林村に師弟の形をした石がある。それは昔、瞽女が来て村人に案内を頼んだが肯いてくれず、ついに迷って路頭の石の辺で飢死した。後に崇りがあるので、修験をして鬼を追いはらった。それでこの土地を儺村といい、後に笑村となまったという。(伊予温故録)拝志村上林(現重信町) 夫婦石 昔、猪木邑と大窪谷に二つの石が並び立ち、高さ各々四尋あり、山神石と名づけた。享保七年の洪水で二つともここに流れて来てまた並び立った。それを夫婦石といったが、今は流失してその所在がわからない。(温泉郡誌)立岩村猿川原(現北条市)
 三、水の部 <弁慶橋> 五良津山から関川に沿うて下ると、弁慶橋がある。これは平家の残党が関川の奥深く分け入ったのを、弁慶が追いかけてきた処と伝えている。(旅伝 五)新居郡(現新居浜市) <十夜橋> 四国街道の往還筋にある。弘法大師が異人の饗応を受けたという物語があり、この橋に一夜露宿したのが、十夜も寝たような思いをしたという。(伊予温故録)徳森村(現大洲市) <弘法水> 弘法大師が巡錫の際、水がなくて困っている処で、杖で地を突いて教え、また自ら掘ったという井戸がある。(新居郡誌)新居郡(現新居浜市) <桝洗池>味酒妙円寺の池の西にある。昔、勝山に貧者があり、何とかして長者になりたいと神に願って長者となったが、また何とかして貧乏になりたく、人に教えられてこの池で桝を洗い底を叩いた。すると果して望みのごとく貧乏になり、飢死した。もと貧者の住んでいた山の名は飢山といわれていたが、慶長七年加藤嘉明が築城するとき、山の名を訊ねられて、勝山といったのが、かく呼ぶようになった。(伊予温古録・温泉郡誌・史蹟と伝説)朝美村(現松山市) <白髭水> 昔、大津波のとき白髯の老人が波頭に乗って沖の方から漕いできたが、たちまち消え失せたといい、それでこの浦の名を船隠といっている。(国学院報告 昭和14年)三浦村 (現宇和島市) <塩売淵> 昔、塩売がこの淵の傍に昼寝をしていたところを、大蛇が出て呑もうとしたとき、籠の中に塩の代に取った剣があったので、自ら抜け出して大蛇を追った。大森彦七がこの剣を乞受けて日本三銘刀の一と称せられたという。(伊予温故録)麻生村(現砥部町)
 四、塚の部 <千人塚>野々市原で戦死した高尾城勇士の首を集め、小早川勢が祀ったといい、千人塚とも、また首塚ともいう。(新居郡誌)橘村(現西条市) <犬塚>別所村との境に犬塚池があり、堤の下に犬塚がある。昔、仙遊寺と栄福寺と両寺に愛せられた犬、仙遊寺の鐘が鳴れば佐礼山に来り、栄福寺の鐘が鳴れば八幡山に登った。ある日、両寺の鐘が一時に鳴ったので南北に狂い走り、ついにこの堤の下で死んだという。(伊予温故録)八幡村(現玉川町) <首塚>成留屋の上手を登った処に曽我兄弟の首塚がある。鬼王団三郎が曽我兄弟の梟首を盗み取り、故郷宇和郡鬼ヶ城の麓、目黒の里に持ち帰ろうとしたが途中の吟味厳しく、ついにここに兄弟の首を埋めて弔い、自分は目黒に帰って鬼王寺を建てたという。(旅伝四)大瀬村(現内子町) <足塚>藤繩三島神社の御殿の上に足塚という石寄がある。昔、神主が鳥居を通るたびごとに天狗が頭を撫でるので、劒を以てその足を切ったと伝え、今も古風の諸刃の剣を蔵している。(伊予温故録)中山村栂原(現中山町) <経塚>小松境の国道付近にある経塚は、京塚とも境塚とも書くという。(新居郡誌)氷見町西町(現西条市) <八人塚>田の中の塚を八塚といっている。石地蔵を安置してあり、天長中、農夫右衛門三郎の愛弟子八人を葬った処という。(伊予温故録)「日本伝説」には右衛門三郎という者が、ある日、弘法大師が八度も訪れて施物を乞うたが与えず、最後に鉢を取って投げつけた。それより毎日八人の子供が死んだ。これを葬った処といっていると誌してある。原町村(現砥部町) <七童子塚>児塚にありて、石を積んで墓標としている。文和年間この地に妙本坊という寺があって、そこに学ぶ七人の童子がある日、杜鵑花と干柿とを合食して皆死んだ。住職もこれを愍み、この二物を食って死んだという。(伊予温故録)長田村(現伊予三島市)
 五、坂 峠 山の部 <白米城>矢野若狭守行定、土佐の長宗我部元親に攻められ、城南の用水路を切られた。よって白米に灰を交え庭に打水の態をなし、敵兵の退くを追撃して破った。(旅伝七)菅田村大竹松野城跡(現大洲市)
 六、祠堂の部 <片手薬師>危篤の病人が左片手を挙げて、かろうじて拝し祈るに、なお効験があるという。(伊予温故録)田窪村海稲(現重信町) <沓脱天神>菅公左遷のとき、桜井浜に上陸してしばらくこの郡に留まり、朝使勘責し、ひそかに左の沓を脱いだままここを立退きたまうというのでこの名がある。(伊予温故録)久保田村(現松山市)

 以上摘記したごとく二二件の伝説が収められている。その資料の多くは『伊予温故録』から取られている。