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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

四 成育・成人に関する習俗

 ヒモオトシ

 近年盛行の七五三の下地ともなったのが、ワタギとかヒモオトシ・ハカマギ等の習俗である。生児が初めて迎える一一月一五日(旧暦とも)に親戚が一ツ身の柄物で綿入の着物を祝いに贈ってきた。赤飯・餅で客をもてなすワタギ・ワタギイワイの風習が松山地方を中心にみられる。氏神参りもする。三歳・五歳・七歳前後に紐をやめ帯をつける儀礼がある。嫁の里から帯が贈られ、子の成長を祝うのである。三歳になった男・女(北条市・重信町ほか)もしくは女(大西町)は、帯を結び宮参りをする。ヘボナオシ(中島町)・ヒボハナシ(北条市)、ヒモバナレ(宮窪町)、ツケヒボハナシ(城川町下相)と呼び、三歳の年の一一月一五日(野村町ほか)か誕生日(宮窪町ほか)に行う。また三歳の誕生祝いを「三つ誕生」といい、嫁の里から三つ身の着物を贈り、一ツ身にかわって着させた(南宇和郡、西条市西之川ほか)。宇和島市日振島で男女三歳になった一一月一五日に小豆飯を炊いて祝うとともに晴着で氏神参りをする。これをカミオキという。同市嘉島・戸島には、四歳の暮れに、かつて腹帯を贈った帯親と呼ばれる伯叔母が、帯を買って贈る「四ツのヒモオトシ」の習俗がある。ヒモハナシを女五歳の一一月にするところ(吉海町椋名)や、男五歳で袴着というところもある(大西町)。七歳の男女がトキハナチノオビといって六尺か七尺の帯を結ぶところもある(久万町永久)。「七つ前は神のもの(うち)」といわれた誕生から七つまでの時期は、こうした儀礼をとおして成育の過程が確認されてきたのである。

 初潮祝いと月の忌

 古くは、初潮をみて初めて女は、一人前の女性として遇されてきた。いわば成女式にあたる初潮祝いには、母が喜んで赤飯を炊いて祝い、近所や親戚にも赤飯を配るのが普通である。初潮をみたあと、月の物(月経)をベッツ(宇摩郡)・ツキヤク(松山市森松)・サワリ(今治市大浜)「ヒマヤニナル」(西条市西之川)といい、食器や蒲団を別にしたり、家族の終わったあと食事をとったり、ヒマヤ(今治市中寺ほか)・月小屋(朝倉村)・テンノコヤ(魚島村)と呼ぶ別小屋とかミソベヤのような別室で起居するといった生活上の変化が生じた。月経の間、このように忌み慎んで生活をおくることを月の忌あるいは赤不浄(新宮村馬立ほか)と呼び、とくに神棚のある室に入ること・宮参りすることなどは遠慮しなければならなかった。茶釜の蓋に触ったり、茶の葉を入れることすら忌む(重信町)。月経の間、風呂に入らず、もし月の物の人が入ったあとに入ると、失明するともいう(松山市高浜)。大人風の髪形(くしあげ)をして着物の肩あげをおろしてもはや子供でないことを外見上でもはっきりさせた(東宇和郡内)。今治市大浜ではブク家に籠り、一切、外出しないが、ムラにブク家がない時は、月サワリの女たちが、ある家を借りて共同生活をした。中島町では、初潮をみた女は「おなごの道になった」として祝った。無月経の女をカラオナゴと呼んだ。久万町では初潮があると便所の神に必ず赤飯をあげ、着物の下褄を三針縫い、雨だれのところを「月に三日、日は七日」と言って三度、往復した。別子山村瓜生野では初潮でユマキ祝いをする。仮親から湯文字を貰い、仮親に対しては親ヅトメとして盆・正月に礼をつくした。月の物が終わってヒマヤから出る時、魚島村など海岸部ではアガリといって海に入って体を浄めた。玉川町桂などの内陸部では、それを川で行った。そして、月経中つかったヒマヤダライの汚水は、便所の脇の穴へ捨てて木の蓋をした(西条市東之川ほか)。
 なお、今日も、ヒマヤが残されているのは西条市西之川(一間四方)のみであるが、昭和二〇年頃まで玉川町高野(二間四方)・大三島町肥海(一間四方)・小松町黒川(一間四方)などにも存在した。

 成年式と一人前

 子供が成長をとげて一人前として社会的に承認され、大人の世界へ仲間入りするに至る儀礼が成年式である。かつて徴兵検査をもって成人と認めた以前には、男一五歳・女一三歳前後をもって、社会生活上、大人としての能力を認められ、村普請・神輿かき・労働一般・村役において一人前の賃を貰うなり、一人前として扱われた。男子は一五・六歳になると若衆組とか青年団・若連中あるいは消防組に加入する。この加入式がまた成年式の意味をもつといえる。長浜町青島では、一五歳で成人と認められ、一七歳になると親方のところへ酒一升を持参し、親分子分の縁を結んで、以後は青年宿で起居した(若者仲間については上巻第四章参照)。魚島村には成年に達すると、エボシオヤとかオヤブンと呼ぶ仮親をとる風習があった。また女子は、前項でみたように一三、四歳で初潮を経験すると、肩や腰のヌイアゲをおろしたり、フデトリ(北宇和郡)といって鉄漿のつけ初めをし、また娘宿(瀬戸町塩成)・娘組(伊予三島市富郷)に入ることで、一人前とみなされたのである。
 事例1 松山市高浜―男は一七歳で元服の祝いをする。これでヤクがぬけてオセになったという。
 事例2 松前町―一九歳に元服祝いといって前髪を落とし、名を変えた。以後は羽織を着る。親類からはよろこびを贈り、またヤドヤ(若者宿)で炊いた小豆飯が届けられた。
 事例3 丹原町―男一三歳で赤褌をする。フンドシヲカクといい、成年の祝いである。
 事例4 別子山村瓜生野―男子一三歳の祝いをフンドシイワイといい、親が六尺棒を祝いとして贈った。若連中へは一七歳で入った。
 事例5 久万町―男一五歳に、晒木綿一反を親が贈り、フンドシイワイといい、小宴が催された。その年から酒一升持参で若い衆(若連中)入りした。
 事例6 一本松町―女子ばかりができたあと、立願どおり男児を授かった時、早速に若者組の連判状に子供の名を書きつけ、組入りさせるアタマガタメという習わしがあった。
 事例7 柳谷村柳井川―男二〇、女一五歳で宮参りをして成年式とみなす。
 右のように元服祝い、褌祝い、宮参りなどの儀礼が男子の成年式とみられる。この成年式と若者組加入が合致するもの(事例5)と、そうでない場合とがある。成年式を迎える年齢はところにより区々である。事例2にみられる前髪落としは、近世の古文書に

天保十、十二月四日 一田中九兵衛伜田中九八郎 当年十四才ニ相成申候ニ付袖留願直為致 追而似合之節 前髪為 取申度旨 願之通御聞済之事         (三浦庄屋史料―田中家史料③)

とあって、宇和島藩に対する願いが認められ、庄屋の伜が一四歳に袖留(一人前の形に短い袖をする)をし、また前髪とりをしたのである。事例6は、男児を早く成長させ、一人前にさせたい意志が実親のほかに、若者組の世界にも存在していたことを示す。
 一人前と認める規準としては、右の諸事例のように年齢によるほかに、労働のための体力と熟練した技能による点も見逃してはならない。米一俵を担ぐ(吉海町田浦・吉田町奥南ほか)、一六~二〇貫の力石を担ぐ(長浜町下須戒・野村町白髭ほか)、肥たごのツギモチができ、茶堂の二〇貫の力石を担ぐ(河辺村植松)、一八貫の肥桶を担ぐ(野村町)。草刈を一日五畝できる(吉田町奥南)、一日五、六畝を耕起できる(松山地方)。薪割りは一尺ニ寸の松丸太四〇荷をつくる(一荷は割木四把で、一把は目方にして三貫五百―大三島町肥海)。山での薪ごしらえが一日二荷、遠方の山だと一荷をする(松山付近)。漁師がイワシ網が曳ける。女は着物が縫え、機が織れる(朝倉村朝倉下)。女が手織りが織れるようになる(重信町)。四国遍路や石鎚参拝といった、一種の肉体的試練も一人前の規準とされた。いずれにしても、一人前の規準として、年齢でなく個人の労働力に求める方が素朴な判定方法と考えられている。
 また、精神的な成長も、若者頭、若衆宿の宿親、先輩たちの指導、村の諸行事への参加等を通じて、達成されてきた。その結果、名実ともに、婚姻を機に所帯持ちとなる資格が得られるのである。