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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

三 育児に関する習俗

 「あの人は今、コヤライやけん、えらいわい」とか「コヤライがすんだけ、やれやれや」という。コヤライとかコアライというのは、この世に生をうけた子供たちを親たちが苦労して育てあげ、一人前にしていくことである。今日、生活改善の名で簡略化の一途をたどった伝承が多いが、ここにコヤライにまつわる習俗を拾いだしてみる。

 乳付けと母乳

 初産の時には乳の芯を解くといって、二、三日、乳房をもみやわらげる。乳が出はじめても、最初のものは飲ませない(新居浜市)。乳の飲み初めには男児に女児を持つ母親、女児には男児を持つ母親から乳を貰う。乳付けという(三崎町大佐田・久万町・吉海町仁江ほか)。乳の出ない人はモライチチをし、乳を貰った子と与えた子同士はチチキョウダイの関係になる。一方、乳のあまる人は、南天や桑・銀杏の木の根元に次子が生まれるまで乳を預ける。「お預けします。ないようになったら戻して下さい。」と唱える(美川村)。乳が出にくいときは、新居浜市の瑞応寺の大銀杏へ参る。スリコといってモチ米八、うるち米二の割合で米を炒り、ひいて絹篩でおろした粉を湯で溶かしたものを食べる(新居浜市・今治市波止浜)。オモユや飯を炊く時にできる湯を飲む。大豆を煮るか焼いて食べる。コチ(魚)の頭を食べる(今治市)。伊予豆比古命神社境内にある乳の神に甘酒を献上したり鯉のウロコを乳房にはる(松山市)。小田町の乳出の大銀杏に祈願し、木の皮をいただいて帰る(柳谷村立野ほか)。軒下の雨溜りに出来た砂を三合集めて、茶袋に入れ、三合の水を入れて一合に煎じ、産後から三か月間、用いる(今治市)。一升徳利に胎盤をつめ、あるいは産湯を燗壜に入れて、人の踏む位置に埋め、水をかけながら乳の出るように祈る。ノゾキ岩(赤松海岸)の石を欠き取って、これを祀る(宇和島市)。土居町浦山の乳母御前神社は、乳の少ない女が参拝している。
 反対に乳の出をわるくするのは、黒ささげを食べるとか乳を壁にふりかけたときなどである(今治市波止浜)。

 サ ン ヤ

 出産三日目をサンヤと呼ぶのは南予に多い。三日目までは生児にゴコウを飲ませ(城辺町ほか)、「サンヤの乳つけ」「サンヤのイミヤシナイ」といって、以後は哺乳にかわる。またこの日、頭にちょっとソリを当てたり(内海村・御荘町ほか)、コトリバアが産着を縫って着せ神棚を塩水で祓い浄めた。宇和島市九島では、サンニチといい、嫁の実母や姉から小豆飯が贈られる。一方、吉海町仁江では、三日祝いの儀礼に名付け、産毛剃り、乳付けを行っている。乳付けを中心とする三日祝いで、モライチチ(チチモライ)をすると、両親は子どもが一五歳になるまで、貰った人に年玉や歳暮を贈る習いであったのは、野村町惣川などである。

 生児のデゾメと孫見せ

 生児の初外出と孫祝いの習俗がある。初外出の日は初宮参りの日のほか、それ以前の所定の日と決まっているところもある。そのとき、里に生児をつれていき、挨拶をする習俗が一般的である。松山市では、男二一日目、女一三日目がヒアキで、デゾメといってその日にはじめて屋外に出し、母親の里が近ければ連れていく。その時、生児の頭に新しいシメシを被せて外出する。中島町では三三日ころアルキゾメとかカオミセといって、宮参りをした時、隣近所や女親の里へ生児を連れていく。クマオの方角を避けて家を出、途中四か所の辻を通って行くとよいという。東宇和郡では一一日目がデゾメで「お天道さんに当てたらバチがあたる」といってオシメを頭にのせて外出した。この日、トリアゲバアサンを招き、産婦は別火をやめる。また里方へ初歩き(孫見せ)にいくと、耳かけ銭(穴のあいた銭にヒモを通したもの)を貰う。この耳かけ銭は南予地方に特有の習俗で、宇和島市日振島や九島では耳開け銭と呼ぶ。他人の忠告に従順であるようにという意味で行うという(日振島)。北宇和郡内のハツアルキは、男一五日目までの半日(奇数日)、女子は丁日(偶数日)で、産婦が赤子を抱いて近隣や里を廻る。さて、外出の際、子供の額にクドの墨などをつけるとたまげたり、ひきつけたりしないなどの伝承がみられる(伊方町ほか)。弓削町粟手では生後二一日目までの間に外出するとき鍋墨をつけた。大洲市では宮参り前の外出時、氏子になっていない状態で何か魔物に憑かれてはいけないので「いんのこ いんのこ」と唱えて歩いた。中島町でも夜間外出中、イキアイにあうといって「いんのこ いんのこ」と唱えて、指頭で額の生え際あたりに墨をつけた。新居浜市東須賀・西原では、男は額の真ん中へ太く墨をつけ、女は縁の方へ小さくつけた。お墨つきを頂くとは長寿出世を祝う意であるという。今治市馬島では、初外出すると、他家の者が「よう来た、よう来た、犬の子、犬の子」と唱えながら、魔が憑かないためといって、鍋墨をつける。同市波止浜では、三〇日目の初宮参りが済んだあと、母親は初子を連れ樽魚を持参して里方に行くことになっている。

 七夜と名付け

 名前は生後一週間のうちに付けるのが一般的で、そうしないと子がバカになると関前村岡村ではいう。三日目(上浦町瀬戸)、五日目(内子町)、六日目(大三島町肥海)、一〇日目まで(一本松町広見)に名付けるところもある。夏に生まれた子は、オシになるといって雷が鳴らない内に早く付ける(玉川町ほか)。ヨウカナナヨといって八日目に名付けるところ(双海町上灘)、男は八日、女は七日にするところ(長浜町櫛生)などがある。また七夜までに庚申の日、寅の日があると、その日を避けて、それまでに命名する。名付けは多くオヒチヤとよぶが、ナビラキというところもある(伯方町伊方)。七夜に紅白の餅を搗いて、親戚、近隣の子供、産婆を招いて祝うのである。招待された家は、産着を贈る(宇和島市ほか)。フジギヌ・モスリン・ユカタのオヨロコビをもってくる(松山市由良)。近親者・里が産着(上下二枚くらい)と共に宮参りの着物をもってくる(宮窪町余所国)。今治市馬島では、嫁の里からウブギ・ヒチヤギモン・お産見舞としての餅の三種を贈ってくる。ウブギは初宮参り用の晴着、ヒチヤギモンはふだん着である。また大洲市では、名付けの日にはヒキアイへ赤飯を重箱につめ、名前を書いた紙を添えて「数になりまして、お世話になります」と言って配った。地域社会での披露も行われるのである。初産の時の宴会は盛んで、晴着を着せた生児を客に順々に抱いてもらい(北条市浅海本谷ほか)、生児の額に紅で「犬」の字を書いたり(大洲地方)、眉毛などに口紅をつけたりする(内海村平碆)。今治付近の燧灘沿岸地方では七夜に産の神様をお返しするため、膳を子の枕辺に置き「産の神様御苦労様でした」と言う。膳には必ずオコゼの丸煮にしたものをのせる。母親か産婆が子を抱いて明きの方にむかわせ、子の名を言ってきかせる。これをヨビゾメという(小田町、津島町御槇)。
 命名には、祖父とか太夫(伊予三島市ほか)が祖父母の名の一字をもらって付けるとか(松山市ほか)、子福者につけてもらうとか(新居浜市)、長寿の人の名をもらったりした(松山市高浜)。また占いによる命名もあった。よい名を三つほど紙にしてコヨリにして神棚に供え、欲のない子供や祖母に引いてもらって名を決めた(玉川町桂ほか)。人名を書いた紙をまるめ、桝の中に入れてころがし、一番よく離れた人の名を付ける(美川村有枝)。ヘソノオを首に巻いて生まれた子にケサの名を付ける(柳谷村ほか)。双子の名は「福吉・徳吉」のように似た名前を付けたり(中山町)、鶴亀と命名する(大洲市大川)。夜泣きをする子にはヨネ子と付けると、よく寝るようになるとか、たくさんの子供ができるので、留吉、末子、ヨシオ、スエヨシ、シメコ、ヨシコ、トメコなどと名付たこともあった(西条市西之川、新居浜市ほか)。新居浜市東須賀では、付けられた名は、図8―2のように認めて神棚の下に張る。中には次の子ができるまで張ったままにする家もある。新宮村では、生まれた子を一週間はお日様に見せない、産髪も見せてはならないとして、一週間目に剃り、そのとき名付け祝いもする。小田町寺村では、シチヤに、エクボができるといって、米粒を頬に当てる。

 産毛おろし

 産毛を残すと子が弱くなるとか(柳谷村西谷)、剃ると黒い髪になるとかいって一度は産毛を剃ってしまう(重信町上村ほか)。三日目のサンヤにソリハジメといって血の濃い者が産毛おろしをしたが、現在は額部を剃るまねにとどめる。中島町では、三三日目の宮参りに剃る。産毛剃りまでは日光をはばかり、座敷へも連れて入らない(新居浜市)。七夜に剃る例が多いが、その前日の六日目に頭付きの魚を頂かせてから剃るところもある。久万町のウブゲオロシは、こめかみと襟足に少し毛を残しておき、他は剃り落とした。頭の前方の産毛(上浦町甘崎)とか、半子(耳の横)、カジンコ(首の後)以外の産毛(一本松町)とかを剃る。男児は丸坊主、女児はお椀かつぎ(丸くのこす)に剃り、そった産毛は南天の根においた(中山町栗田)。ヘソノオとともに保管するところもある(今治市波止浜ほか)。産婦の方も眉を剃るところがある(中山町影之浦)。子が母親を恐れるようにとか、眉が角に見えるといけないからだという。三〇日目ぐらいに剃るのは柳谷村西谷である。魚島村では水子卒業の祝いとして「二八日」を盛大に祝う。親族を招いてご馳走ごとをするのである。

 宮参りと氏見せ

 生児がヒアキ・ヒアケとなって、初めて氏神参りをし、氏子となる儀礼を、お宮参り、鳥居参り、東予地方ではウジミセとかウジコヅケ(大三島町肥海)・ウジヅキ(東予市周布)・ゲンザン(西条市大保木)・ゲンゾマイリ(魚島村)と呼んでいる。
 多くは三三日目に宮参りであるが、産婦が忌明けにならないので、生児は里の母か姑あるいは産婆に抱かれて参詣することが一般的である。女の方の忌明けが遅れる傾向であるが、表8―2のとおり、男児の宮参りの時期の方がおくれる地域もある。初宮参りの時期と氏子入りのそれかずれることもある。今治地方で三三日目にトリイマイリといってヒアキを祝い、祖母が子を抱いて鳥居まで参り、七五日か百日目に母親が子供を連れて宮参りし、氏子となる。大三島町宗方などでも三三日の初宮参りを経て、百日目で氏子入りする。宇和島市でも三三日目に宮参りするが、九月の秋祭りに神主に拝んでもらって氏子になる。新居浜地方のウジミセは、米一升か鏡餅、あるいは両方、のちには銭包を持参する。神社で祈祷して神札と箸を授与、その箸は、百日目のタベゾメに用いる。瀬戸町三机では、三三日の宮参りに男児は社殿の左、女児は右の柱に登らせる格好をとって「何家のだれだれです。どうぞ氏子にして守って下さい」と祈願する。帰途、親類や知人の家へ挨拶にいき、耳カケといって紙に金を包んだものを耳に掛けてもらう。名付けのお七夜までに親元から届けられた産着を着せているので、それらをよくみてもらう。宮参りに氏子札をくれるところもある(宮窪町浜)。今治市阿方では三三日目、生児を鳥居まで連れていき「どうぞお帳へつけ下さい」と唱えて拝む。同市馬島でも祖母が鳥居まで連れていき、泣けば「お帳についた」といって喜んだ。子供が死んだりすると、「トリイマイリの時、お帳につかざったからだ」などという。神前で、泣き声を氏神に聞いてもらうことで、氏子入りしたとみるのが一般的である。わざと、つねって泣かせる。内海村の魚神山などでは、初宮参りの帰途、必ず知人宅に寄って、泣いたかどうかを聞いてもらい、「寄るところがなかったら、藪へでも寄れ」との諺があるほどである。香川県の西讃から久万・松山地方あたりにかけて、「庭草を踏ませる」といって氏神の境内の土を踏ませる風習がある。今治市大浜では、トリイマイリに、生児の手に砂を握らせる風習がある。初宮参り前の外出はなるべく避け、出るときは、オシメを頭から被せるといった風習があるほか、宮参りの途中に川を渡る場合、針を川の中へ投げ捨てる呪いをするところもある(三間町曽根ほか)。宮参りには生児にノシ模様の着物を着せるのが普通であるが、小田町では、一人立ちする時の儀式に着るものだといって背縫いのある着物を着させない。

 食い初め

 クイハジメ、ハシゾロエ、タベハジメと呼び生後一〇〇日目に行うことが多いが、一一〇日目(長浜町青島、日吉村)、一五〇日目、(松山市、新居浜市)の場合もある。新居浜市東須賀ではカナガシラなど魚二尾と御神酒徳利を付け膳に据え、神棚に供え、魚と御飯粒を子に食べさせるまねをし、あとは母親がいただく。西条市西之川ではモモカイメシといって、米粒を口に入れてやる。関前村岡村では、百日目の食い初めをモモカイとか一粒食いといい、嫁の里から子供の茶碗、箸などを貰い、白飯を盛って三粒食べさせる。嫁の母親、とりあげ婆さんを呼んで祝う。南予地方ではカナガシラ(カナンド)のほか、川原石二個を膳に添え、子にねぶらせる。頭が堅くなるという。津島町御槇ではこの日、エラビドリをしたという。いずれにしても南・北宇和郡ではモモカ祝いをモモカのハシタテ、モモカノタベゾメと呼んでいる。今治市馬島ではモモカマイリといって、母親も一緒に氏神に参り、また甘酒をつくって神棚に供え、村中にも配った。大洲・八幡浜市あたりでは「百日ももの実」・「百日ももの実ほど」とかいい、桃の実を、あるいは桃の実ほどを食べさせる風があった。また、初生歯は遅い方がよく、早すぎると弱いという(新居浜市・松山市)。初生歯の抜け替わりの際、上歯は床下に、下歯は屋根上に捨てると早く生えるという。その時、「ネズミの歯より早く生えよ。雀の歯より早く生えよ」(今治市波止浜)「オレの歯とスズメの歯とはいやいご、オレの歯は先にはえ、スズメの歯あとからはえ」(西条市西之川)と唱えながら捨てる。

 初亥の子

 亥の子には、男が生まれた家は初亥といって亥の子宿をつとめ、亥の子石(ゴーリン)を祀り生児の無事健康を祈る。赤・青の亥の子幟を祝いとして親戚が贈る(菊間町・北条市山間部)。宮窪町浜では、初めての子の場合、中の亥の子の日に馬追い団子と呼ぶ団子を新米でつくり、子を背負って峠の山の神にお供えに行く。氏神へも藁馬と米の串団子を供える。今治市・北条市ではその他、近親縁者を招いて酒宴を張り、子供たちにもオミキ銭、菓子などを振舞って、初亥の子を祝った。

 初正月

 生児が初めて迎える正月には、嫁の里から種々の贈り物があり祝った。中島町では長男ならば弓の餅、長女ならばまりの餅を里から贈ってくる。羽子板、破魔弓を贈る風もある。双海町では男にユミイタ、女にテマリが贈られる。ユミイタは木の箱台の上に長さ約六〇㎝の弓二本を立て、周囲に矢を立て並べたもので、これを床の間に飾る。テマリは柳の木に吊下げて部屋に飾った。西条市西之川では男に弓料(五〇〇~一、〇〇〇円)、女に羽子板料を年の暮れに届ける。越智郡島嶼部ではユミイワイ・ハグイタイワイと呼ぶが、関前村や伯方町では男児なら笹に、女児なら柳の枝に餅をつける(柳餅)。親戚からこれらを貰って床の間に飾っておくのである。

 初節供

 丹原町明河では、男児の初節供(五月五日)をハツノボリ、女児のそれ(三月三日)をハツビナと呼び、里の親からそれぞれ鯉のぼり、雛人形を贈る。伯方町北浦などでは武者人形、からつでこなども贈られ、チマキやヒシモチをつくって祝う。五月節供の祝いは五歳まで(重信町)とか、七歳まで(玉川町)で、これをタチアゲ・タテアゲといい、鯉のぼりの立てじまいをする。久万町では、三月節供に紙ヒナを、五月に天神さまを貰う。紙ビナは家の改築などで井戸をつぶすときに、鎮物として用いた。中山町では男の節供にのぼりのほか、勉強をよくするようにとお天神さんを里から贈られる。五十崎町宿間では、長男の節供に親族とヒキアイ(十人組)が鯉のぼりを贈る。一本松町でも、組内から初ビナといって内裏雛を貰う。佐田岬半島、南宇和郡では、近隣や親戚から贈られた三〇本ほどの鯉のぼり、吹き抜け等を合わせて並べ立てて祝う。八幡浜市穴井の座敷雛は、江戸末期から伝わるといわれる。四月二日夕から三日にかけて行われる長女の初節供の祝いである。座敷いっぱい盆栽ほかの小道具で庭園をつくり、内裏雛を中心に親戚から贈られてきた各種の人形を配置して豪華に飾りたてる。鉢盛り料理も供える。

 初誕生
     
 初めての誕生も盛大に祝う。産婆、また産着を貰った人を招待するとともに赤飯や誕生餅(柳谷村ではチエモチ、城川町上影ではハガタメモチ)をつくり、近隣、親戚に配る。北条市別府や伊予市上野では、嫁の実家から紅白のオイワイモチを搗いてきて、それを近隣、親戚に配る。宇和島市九島では二五個搗いて里から祝いとしてもってくる。配る餅の数はアズキモチを奇数(柳谷村柳井川)とか五個ずつ(重信町ほか)とか五合モチ(松前町)と決まっているところもある。里から贈られるものは餅のほか、履物(吉海町)、帯(伊方町)、三つ身の晴着(重信町)などがある。
 一升餅のタンジョウモチを子に背負わせて歩かせ、たくさん歩くと元気な子になるといって喜ぶ風習は県下一円にみられる。歩かせるとき、わざと転ばせたりもする。新宮村馬立では、箕の中で、重箱に入れて風呂敷に包んだ餅を背負わせて歩かせる。その餅を切って近隣に配る。野村町惣川では、一升餅を力餅とも呼び、「福」の字を書いており、子に背負わせたあと、親類中に配る。関前村岡村では一升桝に山盛りの米を炊き、その飯をウブと呼び、「ウブじゃ、一ぱい食べていんどくれ」といいながら床の間のウブの神に供える。内海村家串では、一升餅を子に背負わす前にウブノカミに供える。この日、エラビドリという占いをした。箕の中に筆や金・そろばん・菓子などを入れておいて子に拾わせ、最初にとった品物によって、その子の将来(職業)像を占った(新宮村・北宇和郡)。また、この日、紋付きの着物を着せたり(丹原町田野上方)、里から贈られた産着を着せて、嫁と母親と子が氏神に参詣するところもある(北条市猪木)。

 拾い親と厄子

 死産や生児の死亡が続き、また弱い子が続く場合とか、親が厄年の時に生まれた子(厄子)の場合、生児を、子福者の家の前や四つ辻などへ捨てて、拾ってもらった親を仮親とする習俗がある。オヤトリ(西宇和郡)・オヤドリ(城川町)・契約親(吉海町)・親代わり(小田町)と呼ぶ。トリコはヒロイオヤに対して盆暮の贈答をした。オヤヅトメ(東宇和郡)という。トリコはヒロイオヤに名を付けてもらうこともある。吉海町仁江では三つ辻に捨てて、通りがかりの三人目の人に拾ってもらう。予め頼んでおくのでなく、親が子を抱えて立っている時もある。ヒロイオヤに名を付けてもらい、契約親といい、一生、親子の交わりが続くという。久万町露峰では三つ辻で、初めて通る人に「子供をこうてくれんか」という。同町上直瀬では、子供を箕の中に入れて拾ってもらい、ヒロイオヤには盆、正月に年玉として重ねの餅を持っていく。中山町小池では、拾い親がつけた名をよく使う。正月にお年玉として米一升、二升餅、足袋、下駄を持っていく。この親子関係は、成人あるいは結婚するまで続き、仮親の葬式には「実子」として出席した。松山市興居島や宇和町では、双子は一人を捨てて身内に拾ってもらう。松山市森松では丙午の女児は一度捨てて拾ってもらうと長生きするという。男四二歳、女三三歳で生まれた子をヤクゴ・オニゴと呼び、厄負けするとか、育ちが悪いといって捨て子にする風があった(関前村、南・北宇和郡ほか)。北宇和郡では「四二の二つ子」「三三の二つ子」は忌み、捨て子にして拾い親に産着を着せてもらい、名付け親にもなってもらった。南宇和郡では、ヘンロに拾ってもらうとよいといった。

 乳母・子守り
       
 乳母をきめる時、梅毒などは乳ごしに伝染するといって、よく調べて厳選する(新居浜市・宇和島市ほか)。
 子守りは家族でするほか、近所の女子を雇うことも多かった。南予地方では一〇~一二、三歳(三瓶町周木ほか)の女子が一年または半年契約で子守りにいった。出替わりは二月入り(二月一日)と八月入りが普通であった。給金はなく、食べさせてもらい、帰るとき土産に着物を貰うのが普通であった。寝起きは自家に帰ってする(三瓶町周木)。美川村では、生後一〇〇日頃から二、三歳までの子に一〇~一三歳のモリサンをつけた。衣食を共にし、給料制が多かった。盆、正月に着物を新調してもらった。モリサンを雇えない家では、親が畑で仕事をしている間、ホゴに入れておいたり、年長の手が守りをした。内子町論田のオモリサンは、半年もしくは一年の契約期限が切れる日に給金が支払われたほか、盆、正月に下駄や足袋を貰った。オモリサンを雇わない家では、一か月もしたら子を背中におぶって山仕事に行き、盥の中に入れて遊ばせた。西条市西之川では半年間で一円六〇銭の給金を貰った(明治四〇年ころ)。金でないときは、縞木綿一反を歳暮として貰ったのが一般的であったという。モリは昼間はずっと生児をマキブトンに巻いて背負い、シメを加える。乳がいる時は畑に連れていって母親が飲ませる。瀬戸町大久や吉海町椋名などでは大きな座蒲団でくるんで背負った。城辺町あたりでは、オンボ・オンブといって男のヘコオビで背に負った。スケと呼ぶ子負い帯(八~九尺の布)を使うときもあった。まだ首のすわらない生児はオクルミと呼ぶ蒲団にくるんでオンボしたり抱いた。少し大きくなると、寒いときは背負った上からネンネコ半纒やデンチをはおった。半纒は袖口が広く、よい綿を十分に入れたので軽くて温かかった。西条市西之川下谷の伊藤ヤク(明治二九年生まれ)が一一歳のとき半年間、モリにいった時にうたった手毬歌は、「あんな向こう。チシャの木にスズメ三羽にヒヨ三羽 一羽のスズメのいうことにゃおれらの屋敷はせまけれどムシロ三枚ゴザ三枚あわせて六枚しきつめて ゆうべ迎えた花嫁を座敷にすわらせて エリとオクビぬわしたら エリとオクビをえしらいで えしらなこちむけ おしえたる」といったようなものであった。なお、伯方町北浦では子守りにいき、その家で見込まれ、嫁になることも多かった。

 育児の俗信

(1)夜泣き 菊間町付近では、乳児の着物を干したまま夜になっても放って置くと、その子が夜泣きをするという。夜泣きを防ぐ呪いなどには次のものがある。橋のある四つ辻につれていき、頭に足半草履をのせ、橋の一部を削りとって帰る。それに火をつけて「火を見い、火を見い」といいながら子供に見せると治る。またコモを編むツチノコをひっぱりながら「この子はオッチか、オッチはこの子か」といい家の周囲を三度廻ると治るといわれた。杵を担いで三回、家を廻るとか(西条市西之川)、藁を打つヨコヅキに縄をつけ、親子でひっぱり「ウブのカミサマを迎えて帰ったか、よう帰ったよう帰った」と言いながら家を三回まわる(河辺村)。丸木橋を子を抱いて渡るとか(吉海町椋名)、橋の木を削って来て、煎じて飲ませる(重信町上村)。正月一四日のドンドンの焼け残りの木をかませる(玉川町)。神楽の火の舞に使ったコエマツを貰って来て、床の間に置く(内海村網代)。子が何かに驚いて夜泣きなどすると、ウブ(魂)が抜けたといってウブイレをする風習が主に南予に多い。幼児を臼の中に入れて呪文を唱えて杓子で招くとウブがもどるという。宇和島市大浦では、水をはった土器に一文銭を入れて沈めておく。杓子を持ち「穴から出て穴へはいる四柱の神にお願いします。天竺の大人さまの使う孫杓子、当年何歳になります。何々のウブを返してやんなさい」と呪文を唱えながら、米三粒を一粒ずつ水に浮かして杓子で招く。米はくるくると舞いながら一文銭の穴の中におさまる。三粒が完全におさまるとウブは返ったことになり幼児に水と米を食べさせる。その他、呪文も多い。「千里奥山の古狸、昼は泣くとも夜は泣くな」(魚島村)、「猿沢の池のほとりで鳴くからす、昼はないてもこの子夜は泣かすな アビラオンケンソワカ」(内海村家串)などがある。「野山の奥の白孤、昼は泣いても夜は泣くな、葛の葉、黒住大明神 アビラオンケンソワカアビラオンケンソワカ」と呪文を書いたものを枕の下に貼っておく(津島町御槇)。内海村魚神山では、敷居に水を供え、その水を子になめさせる。
 (2)疳虫 石鎚道者(山伏)に祈祷してもらって治すことが多い。両手の掌に墨で(△の中に大)または(△の中に鬼)あるいはオニと七回書いて呪文を唱え、天気のよい日に両手を太陽にかざすと、爪の内側から白髪のような疳虫が出てくるので、その虫をとる(内子町)。「カンノ虫ヲトル」「カンノ灸ヲスエル」と書くと爪の内側から煙のような細いものが出るともいう(久万町永久ほか)。掌に南という字を書き重ねるとか(城川町高野子)、猿の胃を飲ませる(久万町上畑野川)。
 (3)ヒキツケ 美川村日野浦では、緑便の時と同様に呪い師(女)が水の入った皿に銅銭を沈め、その穴に米を落とす。それで家を三回まわって呪いをした。また、ヤママユという虫を黒焼にして食べさせる(中山町村中)。
 (4)はしか きんかんに砂糖を混ぜて飲むとか、便所の前でナスの木を燃やせばハシカを病まない(今治市波止浜)。はしかは麦の頃にかかるのでムギバシカといい、エビの皮を貰って煎じて飲ますと、熱が内に引かない、内に引くと子どもは死ぬという(内子町論田)。
 (5)発熱 呼吸が止まりそうな時、神社などで南天の葉に呪言を書いたものを受けて、これを水に洗い落としたのを飲ませれば治る(宇和島市)。
 (6)異常便 青い粒の便が出ると子供が驚いてウブが抜けたといい、先述の子泣き封じと同様な呪法をとる。中山町重藤では、子どもを背負って扇子を振りながら家族総動員でめいめい勝手に「何々のオブの神サマ返れ、返れ」と口々にどなりながら、屋敷の周囲を七回まわれば、乳児は健康をとりもどすという。
 (7)その他 幼児が早く死にやすい家ではホウの木の塔婆(六面)を建てるとよいという(今治市・大洲市ほか)。鍋のツルをくぐらせると元気に育つ(北条市浅海本谷)。産後の初糞を保存しておき、ホヤケや痣の生じた時、それを塗れば治るという(今治市波止浜)。他家で生まれた子のカニババ(胎便)を塗るときもある(今治地方)。帯をこわして幼児の着物を作れば、その子の育ちが悪い。大洲市大川では、産児の批難をしたり、また鏡を見せてはならない。また乳児と同じ年の猫は飼わないし、身長が伸びなくなるので、杓や鎌を担がない。

 幼児の灸

 新居浜市内にかつてあった灸は次のとおりである。荒川灸は、西条市加茂の伊東家の疳の灸で、各地から子供を背負って山へ登る者が多かった。のち伊東氏は西条駅前あたりへ出た。新須賀灸は、新居浜市新須賀の某家に伝わる疳の灸のことである。大谷灸は、西条市玉津大谷に伝わる胃腸の灸で、阿島灸は、新居浜市阿島の高橋氏の胎毒の灸である。

図8-2 命名札二種

図8-2 命名札二種


表8-2 初宮参りの時期

表8-2 初宮参りの時期


図8-3 県下の初誕生の儀礼(愛媛県民俗地図)

図8-3 県下の初誕生の儀礼(愛媛県民俗地図)