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愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

二 神楽・田楽

 1 神  楽  芸

 神楽は神事芸能の代表的なもので、カグラということばの語源には諸説があるが、神霊を迎える神座を意味するカムクラから出たものらしく、神座を設け巫者が神霊のよりつきやすい植物を身にまとい手にも持ち(これが採物である)、舞いながら神がかりし託宣したのが古い形で、記紀にいう天の岩屋の前で舞った天鈿女命を遠祖とする猿女氏の伝えていたものは、巫者の身によりつかせた神霊を祭りの参加者の体内にいわい込めてその人の生命力を蘇生させる鎮魂のアソビであったと考えられ、これは平安時代になると衰退したが巫女神楽(巫女舞)はこの系統をつぐものと考えられ、宮中や諸社の祭事に行われた種々の神楽が母胎となって宮中の内侍所御神楽(一一世紀初には隔年、やがて霜月の恒例行事となる)が成立する一方、民間でも里神楽と呼ばれる巫者の神楽が行われ、湯釜の湯を採物で振りかけて生命力の復活をはかる湯立神楽も流布し、近世になると神招ぎ・鎮魂の舞と記紀神話にちなんだ能風の歌舞とを組み合わせた出雲の佐太神能ができて各地に普及し、獅子舞を神の使者また悪魔調伏の神体と見立てて舞わすことも伊勢・熱田の御師や山伏によってひろめられ、前者を大神楽、後者を権現舞といい、山伏はまた山伏神楽・番楽・能舞などと呼ばれるものを主として東北地方にひろめた、というのが『民俗芸能辞典』などに見える現代の通説である。民俗芸能と化したこれら種々の神楽芸が全国に伝えられており、愛媛県にもその事例が見られるわけである。
 (1) 巫女神楽
 少女が手に鈴などの採物を持って神前に舞う巫女神楽(巫女舞)は、全国に多くの例があるが、一つ一つの由来や相互のつながりは、おおむね、よくわからない。愛媛県にも神社の秋の例祭に行われる例が伝存している。
 形態は互いに相似ているが、土地により巫女の人数などに多少の違いがある。
 北条市宮内の巫女神楽(市神楽・鈴神楽ともいう)は高縄神社・三穂神社などの拝殿で舞われ、四、五歳から一〇歳までの女児の一人舞で、神職の子女が舞うことを原則としている。祝詞奏上ののち、千早に袴、天冠、白足袋の装束で右手に鈴、左手に扇を持って舞う。歌詞はなく、太鼓一と締太鼓一(ないときは太鼓の縁を打つ)のリズムにつれて、扇の左手をあげ鈴の右手を腰につけて左に三度旋回し、次に右手をあげ左手を腰につけて右に三度、次に始めと同じく左に三度旋回し、この間、要所で鈴を振る。巫女は神の子として神聖視され、神主の次席に座することになっている。
 同市八反地の巫女神楽は国津彦命神社の神楽殿とお旅所で舞われ、同様一人舞であるが、ここには別に浦安の舞が四人舞として行われている。
 喜多郡河辺村北平の巫女神楽(鈴神楽という)は神納天神社の拝殿とお旅所で奏される二人舞で、鈴のついた矛と扇とを持つ。同村川崎の三島神社の巫女舞も、同様のものである。
 以上いずれも起源・由来は不明であるが、川崎のものについては藩政時代の吉田家の舞の免状(花岡新蔵所有)があるという。
 西宇和郡伊方町湊浦の八幡神社の中殿とお旅所で舞われるもの、東宇和郡明浜町で高浜の賀茂神社・狩浜の春日神社の境内・お旅所・民家の庭先などで舞われるものは、北条市八反地にも例のあったのと同じく、昭和一五年制定の浦安の舞である。湊浦のものは各部落に割り当てて選ばれた女児(六名一組)の二組一二名、明浜町のものは女児四名で、太鼓一(湊浦は大太鼓、明浜は小太鼓)で舞われる。
 巫女神楽は(浦安の舞の、地元での変化を生じたものを含めて)このほかにも例はかなりあると思われ、温泉郡重信町浮島神社の秋の例祭の練りに伴うものなどその一例であるが、全体の実態はなお不明である。
 (2) 出雲流神楽
 神楽は平安朝の一一世紀初め以来宮中で、はじめ隔年、やがて霜月の恒例行事として行われるにいたった一形式を御神楽といい、その他の民間で行われるものを里神楽という。里神楽には種類がいろいろあって、採物神楽・湯立神楽・獅子神楽などに大別される。その採物神楽のなかに、仮面をかけず直面で弓・太刀などの採物を持った舞人の一人または複数による舞と、女・老人・鬼などの仮面をかけてそれぞれの装束をつけた舞人(以上いずれも男ばかり)の所作とが組み合わされ、短歌形式の歌につれたり、祈祷・問答・劇的な振りなどを入れたりしながら何段もつづく形式のものがあって、出雲流神楽(または出雲系神楽)と総称される。西日本に広く分布していて、出雲の佐太神能などの系統と見てこう呼ばれるのであるが、起源や分布の経路にはわからない部分が多い。愛媛県のものもこれに含まれる。(高知県の津野山神楽や福岡県のものは山伏が伝えたという伝承を持つ。)
 神楽全体が起源に不明な点のあるもので、とくに里神楽は、いつごろどこにどんな形態のものが行われ、また分布していたかという点が、室町期へ、鎌倉期へ、さらに平安朝期へとさかのぼっていくと、はっきりしない。
 ずっと古い時期のことについては、のちに触れることにして、平安朝末期あたりから見ていくと、『梁塵秘抄』巻第二、四句神歌に

  上馬の多かる御館かな、武者の館とぞ覚えたる、呪師の小呪師の肩踊り、巫は博多の男巫

と、博多から都わたりにのぼってきた男巫のことが歌われていて、ここから当然、瀬戸内の泊まり泊まりで神がかりのアソビをした男性の巫者が平安朝末期にはあったのであろうという推測が生じるが、こういう巫者と伊予との関係は定かでない。そのことは同書に「わが子は二十になりぬらん、巫してこそ歩くなれ」(四句神歌)などと歌われた女性の巫者と全国各地の巫女舞とのつながりがはっきりしないのと同様である。
 和歌にも、平安末期から鎌倉期にかけて

つくづくと寝覚めて聞けば里神楽託言がましきよにこそありけれ   (藤原俊成 長秋詠藻、夫木抄)
神垣やお前の浜の松風に浪も打ちそふ里神楽かな         (藤原良経 秋篠月清集、夫木抄)
山もとやいづくと知らぬ里神楽声する森は宮居なるらむ   
(西園寺実兼 玉葉集巻第六冬、夫木抄)

など、里神楽の詠じられた例があり、とくに良経の歌は津の国の住吉の社頭の景を詠じたものと考えられるから、瀬戸内の地域にはこの時期、住吉とのかかわりのある社で里神楽が行われていたのではないかとも推測されるけれども、この点についても実態は定かでなく、これらの神楽と伊予との関係も不明である。
 室町期になると、謡曲に

久しき代々の神かぐら、夜の鼓の拍子を揃へて、すずしめ給へ、宮つ子たち(高砂)
げにさまざまの舞姫の、声も澄むなり住吉の、松影も映るなる、青海波とはこれやらん(高砂)
八人の八少女、五人の神楽男、雪の袖を返し、白木綿花を捧げつつ、神慮をすずしめ奉る。〈中略〉神楽を奏し少女の袖、返す返すも面しろやな(蟻通)
ありかたの影向や、返す心も住吉の、岸うつ波も松風も、颯々の鈴の声、ていとうの鼓の音、和歌の詠吟、舞の袂も同じく、心詞に現るる、その風等しかりけり(雨月)
御殿しきりに鳴動して、宜禰が鼓も声々に〈以下略〉(龍田)
(地)舞楽の役々とりどりに、琵琶・琴・和琴・笛竹の、夜は更け行けども缶の役者、などや遅きぞ白大夫、〈中略〉(シテ)さてその役は、(ツレ)韓神・催馬楽、(シテ)庭燎の影や、(ツレ)朱の玉垣、(地)輝けるその中に、白大夫が小忌の袖より、取るや笏拍子とうとうと、打つも寄るも老いの波の、雪の白大夫が缶の、笏拍子は面白や(道明寺)

などの辞句が見える。このうち「道明寺」の例は舞楽や管絃の遊びに御神楽をとり合わせた幻想的なものであるからしばらく別として、あとの例には、住吉を含む諸方の神社の社頭で巫女や神職たちによる里神楽が室町期に行われていたことの反映かと思われる辞句がある。ここに描き出されている神楽は、宮中の御神楽が琴・笛を主とし打楽器としては笏拍子だけを用いるのとは様式を異にし、楽器には主として打楽器が、あるいは打楽器のみが用いられたもののようであり、この点、現存する民俗芸能の神楽と共通していると考えられるのであるが、ここにいう「鼓」が、手で打ついわゆるツヅミなのか、バチで打つ太鼓なのかが必ずしも定かでなく、したがって、太鼓をおもな楽器として用いる現存の民俗芸能の神楽と、どのようにつながるかは不明である。
 そこで中世以前に伊予の地で神楽がどのように奏せられたかという問題については、現在ではよくわからないとするしかないが、だからといって神楽が中世にまったく奏されなかったとも言えない。
 県内に現存する神楽本で年代がはっきりしていて古いものは、宇和島市伊吹八幡神社の神主渡部豊前守応曹が元文三年(一七三八)に撰した『伊予神楽舞歌并次第目録』絵入り五冊本(伊予神楽神奈岐会所蔵)ならびに一冊本(同八幡神社所蔵)であるが、その序(『愛媛県史 資料編 学問・宗教』に原文の翻刻が収められている)にいつの頃よりか神代の祈事をまなんで男神子四国神楽と申し伝ふるなり。しかるに有来神楽歌等考へ見るに、多くの神歌、或いは梵語を交へ、仏語を引きて、天竺・唐土の古言を出だす。おろかなるかな、我が朝のあらゆる神明の掟を除きて、他の国の沙汰を借ること、中興〈の〉社職〈の〉誤りならん。〈中略〉去る初秋集会の砌、連中の嘆き故、折からいつの時おや待つべきとおもひい及ばざる言の葉もふる事を引きて出だすものなり

とあるのによれば、このとき歌詞は改訂されたのであり、それ以前には仏教色を有する歌詞のものが行われていて、その起源は不明であったという歴史が浮かんでくる。
 また上演記録で古いものは、右の伊吹八幡神社の神主渡部山城守実綱の『伊吹木山記』に、元和元年(一六一五)藩主伊達秀宗が同社参詣のおり神楽を執行したとある記事であるとされるが、このときが最初の演奏というわけでもない。また越智郡大三島にも、後述するように中世期に神楽が流入したという伝承がある。
 こういうわけで、伊予に神楽が近世初期以前になかったとは言えないが、同時にまた、いつごろからあって、いつごろ現在の形態につながる原型ができたのかといった、由来や系統のくわしいことは、なお不明である。
 なお前記の伊予神楽神奈岐会の絵入り神楽本には「湯立之事」という付録がついていて、湯釜の湯を笹でまわりにふりかけて神がかりや祓えをする湯立神楽がある時期まで行われていたことがわかる。この種の神楽は比較的最近まで行われており、現在、弓削町に湯立神事の例がみられる。
 県内には現在、出雲流神楽に属すると見られるものが、互いに共通点と相違点を持ちながら、十余件行われている。

 伊予神楽

 宇和島市及び北宇和郡内の諸神社の祭に、神職からなる伊予神楽神奈岐会によって拝殿で演じられるものが伊予神楽と称される。宇和島市三浦東の天満神社、三間町宮野下の三島神社、吉田町立間の桂天満神社・八坂神社で三月、広見町内深田の大元神社、宇和島市宮下の三島神社、同宇和津町の宇和津彦神社で四月、同伊吹町の和霊神社で七月、同遊子の綿津見神社で九月に演じられるのが、定期的に行われる例である。

 曲目及び次第は次のとおりである。(◎印は現在常時上演されるもの、○印はまれに上演されるもの、×印は前記『伊予神楽舞歌并次第目録』には載せられているが現在上演されない曲を示す。)

  一  天神地紙勧請太麻之事 
  二  一揖座着之事     
  三  神酒頂戴之事     
  四  榊の手洗之事     
  五  奉幣大事之事     
  六  御祓之事       
  七 〇天地開楽      
  八 ×巫之神楽    
  九 ◎諸神造酒祭     
 一〇 ◎式三番舞
 一一 ◎喜余女手草之舞
 一二 ◎悪魔払
 一三 ◎大蛇舞
 一四 〇神清浄舞
 一五 ◎弓之舞
 一六  御崎神祇舞
 一七 〇四剣天舞
 一八 ◎花神祇舞
 一九 ×仁天剣舞
 二〇 ◎内舞
 二一 ◎火焼之舞
 二二 〇長刀矛之舞
 二三 ◎古今老神之舞
 二四 〇飛出手力男之舞
 二五  神躰鈿女之神楽舞   
 二六 ×東方之神皇子之舞   
 二七 ×右大臣之舞      
 二八 ×南方之神皇子之舞   
 二九 ×西方之神皇子之舞   
 三〇 ×北方之神皇子之舞
 三一 ×中央之神皇子之舞
 三二 ×左大臣之舞
 三三 ×政所翁之舞
 三四 ◎妙剣之舞
 三五  神送之神楽

 上のように一つの儀式の「次第」(プログラム)のなかに歌舞の曲目が一要素として含まれ、儀礼と歌舞とが組みあって一具をなしているのは神楽の通例であり、御神楽・里神楽に共通した点である。
 常時演奏されるものだけで約二時間、まれに上演されるものを加えると約三時間を要する。
 舞の場には注連縄に、奉書紙に神紋・日月・鳥居などの形を切り抜いたもの(「象嵌」という)をつけて張りめぐらし、その内で舞が行われる。
 舞は、持物・装束また曲によって用いられる仮面などの扮装に曲ごとの相違はあるが、和歌を詠じまた問答をなす部分と、器楽につれて舞う部分とが交互に組み合わされるのが基本の形態で、おおむね、すり足で小走りに舞われ、歌も手ぶりも総じてテンポが早い。ただし老体の仮面をつけて舞う「古今老神之舞」のように、楽も舞も緩徐で、足の運びも異なる例もあり、形態の細部は曲により異なる。
 楽器は、大太鼓・締太鼓・銅拍子・笛各一を用いる。奏法は曲により相違がある。
 以上は、次に述べる他の諸例とも、基本的に共通する点である。
 なお歌詞については、のちに他の諸例のとも合わせ、ひとまとめに述べる。

 大三島の神楽

 越智郡大三島町には、明日と大見とに神楽が伝存している。
大三島の神楽は、鎌倉末期、元徳三年(元弘元年=一三三一)に伊勢大神宮度会神主の支族河崎氏の末流が大三島の大山祇神社に下向して伝承したと伝えられているが、現存のものの源流をそこまでさかのぼらせる根拠は別になく、いまの形態の由来や伝播の経路はなお不明である。天文一〇年(一五四一)に宮浦の岩崎八幡を明日村に移し、近隣数力村に神楽が伝播したとも伝えられている。現在は明日と大見とに残っているわけである。
 明日の神楽は、同地の八幡神社の祭儀「おみとびらき」に行われる。毎年旧正月の吉日に行われるが、日は現行暦の新年の氏子の初総会で決定される。この神楽が執行されるまで、部落の行事は行わないものとされる。
 神楽は同地の舞太夫家の男子により、舞太夫中の年長者を指導者として行われる。元来は一〇年に一度行われる大神楽があったが昭和一二年正月を最後に大神楽は廃絶し、現在は小神楽のみが行われている。
 詞章の写本は、書写年代不詳の一本(川崎弘美蔵)が愛媛県史『資料編 学問・宗教』の「神道」第三節に翻刻収載されている。目録と本文とで曲名及び順序が異なるので、左に目録によって曲名を掲げ、本文との相違点などを( )内に注記する。

①朖(朗)詠 ②幣舞(「反閇」の意か。) ③注連ロ(本文は②の次に「手草」があり、以下順番がずれる。) ④神迎 ⑤行(本文「礼行トモ云」) ⑥勧請(本文「神くわんじやう」) ⑦礼 ⑧荒神(  本文「ヤヱガキ」) ⑨四天 ⑩岩戸(本文「岩戸之巻」) ⑪弓関 ⑫異国(本文「異国之次第」)⑬  二天(本文にはこの次に「柴 別紙に在り」と名目のみ見える。) ⑭太刀関 ⑮手草他に「柴」の詞章が収められた享和三年(一八〇三)本、表紙に「王子之巻」とある嘉永五年(一八五二)本がある(いずれも川崎弘美蔵)。
 現行の小神楽は、「ごしんたく」「岩戸開き」「神迎」の三曲を主とする。
 当日の早朝、舞太夫一同、身を清めて神主の家に集まり、神札百体、御幣(白・赤・青)百本、ボンデン一本を作り、午後は一時までに社に参拝し修祓・献饌ののち舞太夫の長が「神迎」または「二天」を舞い、宮司の開扉・祝詞奏上のあと、願主の姓名を書いた紙片と神礼・御供を神前に供え、「ごしんたく」が舞われる。これが終わると神礼と御供を扇に受け、「弓関」の詞章のなかの「ゆらゆらと神舞ひ上る松の葉の二葉の松の雪にそふまで」の和歌が唱えられてのち願主に授けられる。この「ごしんたく」の舞に用いられた御幣は、願主が神棚に供えておき、子どもの夏病みや、魚の骨がのどに刺さったときなど、これを少しちぎっていただくと、おかげがあると言い伝えられている。
 神楽の詞章は「しょうぎょう」と称せられている。なお、楽器には、大太鼓一が用いられている。
 大見の神楽は、大見八幡神社と姫坂神社とで、一年交替で交互に行われる。旧正月一一日の地祝いの翌日一二日が常例である。一〇年に一度の大神楽と毎年の小神楽とが行われる。
 行事の運営は、氏子を五つの頭屋組に分け、毎年輪番で行われる。神楽の稽古は、旧正月二日に当屋で舞太夫全員が集まって役取りをし、翌晩から稽古が始まる。
 大見部落は江戸末期まで、札親と札子からなる地組制度が行われており、一〇年ごとに地割が行われて耕地が札組内で組み替えられ、そのほか毎年、土地に小さな異動があった。これらの時に用いられた丈量の縄納めのとき、地割成就の感謝と村の平和への祈りをこめて奉納されたのが、一〇年ごとの大神楽と、毎年の小神楽だったのである。
 境内に三間四方の方形の神殿を設け、注連縄を張りめぐらし、榊の枝を垂らした間に、種々の図形を切り抜いた紙(「おみどり」と称する)をつけ、四方の柱に四方がため(御幣に餅を付けたもの)を結びつけるなどの飾りつけをなし、そのなかに役々と参列者が着座(「神殿入り」と称する)し、その外に一般参拝者が立つのが通例であるが、拝殿で舞われることもある。この「神殿入り」から神楽(同時に祭儀)が始まるわけである。
 曲目は次の通りであるが、小神楽では全曲は舞われない。
①露払の舞 ②注連口の舞 ③神迎えの舞 ④幣舞 ⑤二天の舞 ⑥太刀関の舞 ⑦岩戸の舞 ⑧四天の舞 ⑨弓関の舞 ⑩胡子舞 ⑪長刀舞 ⑫八重垣舞

 ④の「幣舞」までが降神と拝礼の祭儀、⑤の「二天の舞」以下が神を慰める舞とされる。
 楽器には、笛・大太鼓・小太鼓、及び「手拍子」と称するすり鉦を用いる。
 文献の類としては、「執行表」と称する次第書(詞章を含む)写本四冊が大見八幡神社に蔵されている。

 上林の里神楽

 温泉郡重信町上林に、城山天満宮の夏祭り行事として七月一一日に行われる神楽は、「伊予神楽」・「十二天の神楽」または単に「お神楽」とも称される。同地区の有志による保存会が伝えているが、会にはとくに規約はない。
 曲目及び次第は次の通りである。

①舞之口 ②稚神楽 ③手草 ④神迎え ⑤四天 ⑥大魔 ⑦山の翁 ⑧盆の舞 ⑨弓の舞 ⑩天の岩戸

 舞人は一人で、白足袋・烏帽子の装束で笹束・棒・扇子・御幣などを採物とする。参観者の関心を集めるのは「大魔」の舞で、問答を伴い、激しい動作を見せる。最後に笹束を採物にし、終わるとこれをさばいて参観者に与え、参観者は争い取って家の出入口に差して悪魔除けの呪物とする。楽器は大太鼓と小太鼓を用いる。
 同系の神楽は松山市や温泉郡、伊予郡地域にもあったが、おおむね廃絶している。松山市には神職によって組織される神楽組(惟神会)がある。神楽本には嘉永七年(一八五四)のもの、安政七年(一八六〇)のものなどが伝っている。

 長田神楽

 喜多郡内子町大字五百木字長田に伝わる神楽は、定期のものは二月一八日の同地和田の宇都宮神社での舞始めと一二月一八日の舞納めに、不定期のものは厄除けや祝い事のときなどに随時舞われる。
江戸末期から行われていると伝えられているが、とくに保存会はない。
 曲目は次の通りである。

①玉作の舞 ②挾物の舞 ③大王の舞 ④大力雄の舞 ⑤盆の舞 ⑥鏡作の舞 ⑦恵比須大黒の舞 ⑧山王の舞 ⑨鈴の舞 ⑩大蛇の舞 ⑪細女の舞 ⑫四天王の舞 ⑬王子の舞 ⑭弓の舞 ⑮鎮火の舞 ⑯矛の舞

 舞人は七名で、面・冠など曲によって装束が異なる。楽器には笛・締太鼓・小太鼓・大太鼓・銅拍子を用いる。
 神歌集と、最近整理された由来記録とが保存されている。

 立川神楽

 内子町大字立山に伝わる神楽は、定期には三月一五日の春神楽が喜多郡一宮三島神社(同町川中)で、その後不定期に諸方で行われる。明治初期まで神職を中心に舞われたが、明治中期から神職取締支所で神楽部員として認証された者が行うこととなった。現在、神楽部員が伝習し奉仕している。
 曲目・楽器など、長田神楽と同じである。神歌集が伝わっている。

 藤縄神楽

 大洲市柳沢の藤縄神楽は、神事舞大夫からなる保存会によって伝承され、大洲市・喜多郡・伊予郡内の神社四〇社で、旧正月から五月までの間に行われる。弘化二年(一八四五)以来のものと伝えられているが、文書には同保存会の入船多田作成の神楽本があるのみである。
 曲目および次第は次の通りである。

①御祓 ②勧請 ③舞のロ ④手草 ⑤神迎 ⑥一番 ⑦幣四天 ⑧悪魔払・鬼四天 ⑨妙剣 ⑩鈴神楽⑪神体 ⑫古欣・戸引出 ⑬御前 ⑭山王 ⑮月日の舞 ⑯恵美須の舞 ⑰王子の舞 ⑱鎮火 ⑲弓の舞⑳薙刀の舞

 ③以下が舞で、舞は計一八座ある。楽器は笛・締太鼓・大太鼓・銅拍子各一を用いる。装束・採物など曲により変化がある。

 鎮縄神楽

 喜多郡河辺村山鳥坂および肱川町山鳥坂の鎮縄神楽は、毎年旧一〇月亥の日、松島神社の乙亥祭(通称「松島えびす祭」)などに行われ、鎮縄神楽部(現在八名)によって伝承されている。室町時代に九州高千穂から導入され享保(一七一六~一七三五)前に大改革があったと伝えられている。同地春日神社に神楽本があり、愛媛県史『資料編 学問・宗教』に収められている。
 曲目および次第は次の通りである。

①修祓 ②手草・清祓 ③神請じ ④二天 ⑤四天・大番 ⑥修羅 ⑦恵美須大黒舞 ⑧白かい ⑨御鏡の舞 ⑩弓・薙刀舞 ⑪鎮火 ⑫鯛釣り・献供・岩戸開 ⑬大蛇退治 ⑭明四季神楽 ⑮手水解済

 舞人五名、囃子方二名、歌一名で奏される。面・装束・採物は曲により異なる。楽器には笛・締太鼓・大太鼓・すり鉦各一が用いられる。

 宇和神楽

 東宇和郡宇和町明間に伝わる宇和神楽は、明間神社(三柱神社)の春秋の祭り(四月三日、一一月三日)に、拝殿、お旅所、民家の庭先などで舞われる。大晦日にも拝殿で行われる。明治年間に明間の薬師寺清常が近郷から習得して大成したと伝え、神楽組が昭和二五年頃まで存在し、その後中絶していたが昭和三八年に青壮年からなる宇和神楽愛好会が結成されて再興した。
 もと一七曲あったが現在は鈴舞・四人刀舞・弓の舞・丸盆の舞・二刀の舞・火の舞・鬼の舞などが舞われるのみである。
 舞人八名、囃子方四名で行われ、楽器には笛・締太鼓・大太鼓・銅拍子・鈴を用いる。

 西の里神楽

 東宇和郡野村町西の神楽は「伊予の里神楽」と通称され、保存会によって町内各神社で不定期に行われる。
 曲目は次の通りである。

①勧請阿知女の舞 ②手草採物の舞 ③四殿四柱の舞並びに鬼神の舞 ④白蓋春日の舞 ⑤二天香取・鹿島の舞 ⑥山王幽冥の舞 ⑦恵比須・猿田彦の舞 ⑧鏡作り並びに曲の舞 ⑨長刀三人の舞 ⑩弓将軍の舞 ⑪八岐大蛇退治の舞 ⑫岩戸開きの舞

 楽器は締太鼓・大太鼓各一を用い、舞人若干名で舞われる。神楽本一冊が存する。

 川名津神楽

 八幡浜市川上町川名津の神楽は、四月一八日に同地天満神社の祭りに行われるほか、近隣町村の祭りに年間一〇日程度、招待出演している。同神社神職宅保存の文書に嘉永七年(一八五四)に神楽を奉納した記録があり、それ以前に吉田から伝承されたのではないかとも言われる。現在、男子による終身制の川名津神楽部によって伝承されている。
 次第・曲目は第一式から第三〇式まである。名目は次の通りである。

(1)事始 (2)神酒舞 (3)千草舞 (4)神請 (5)巴那 (6)魔払 (7)路治 (8)神祇 (9)山之内 (10)将軍 (11)鎮火 (12)長刀 (13)磐戸開 (14)古今舞 (15)飛出舞 (16)神体舞 (17)幣舞 (18)鎮神楽
(19)大魔 (20)二人鈴の舞 (21)羅刹 (22)八雲の舞 (23)古老の舞 (24)四天の舞 (25)大蛇退治  (26)大母天の舞 (27)東方青龍王第一 (28)中央黄龍王第二 (29)姫龍王第三 (30)御柱松登りの行事

 天満神社の神楽は夜の七時から一二時まで行われ、この第三〇式がいわゆる「柱松行事」のクライマックスにあたる。この行事は、当日早朝、二〇mの松の木一本を背後の山から伐り出し、海水で浄め、ワラで化粧して夕方に境内に立て、神楽の末尾に大魔の役が赤鬼の面・装束で、火のついた松明を背にして松に登り、松明を投げ落としてのち、四方張りにした綱をつたって降りるものである。近年、男の四二歳厄年の厄はらいの行事とされ、その年齢の男子によって運営される。
 神楽は境内の仮設舞台で、舞人一〇名、囃子方四名などにより行われ、楽器には笛・締太鼓・大太鼓・銅拍子を用いる。なお神楽本の写本一冊が伝えられている。

 揚神楽

 西宇和郡三瓶町朝立の揚神楽は、二及、皆江、長早、揚の四月の春祭りと揚の一〇月一六日の秋季大祭に、神社の仮設舞台や町の広場で行われる。大正一一年に神山村から五反田神楽を招いて氏神の秋祭りに奉納したのが始まりと伝え、朝立神楽と称されたが、昭和二五年に中断し、昭和五一年以来保存会が「揚神楽」として再興した。
 曲目は次の通りである。

①神酒の舞 ②神請 ③手草の舞 ④四天の舞 ⑤神祇 ⑥鈴の舞 ⑦蛇の舞 ⑧鬼鹿島神 ⑨弓の舞 ⑩大工舞 ⑪山の内 ⑫丸盆舞 ⑬祖父母の舞 ⑭大神 ⑮岩戸開 ⑯長刀舞 ⑰蛇退治 ⑱姫盆舞 ⑲羅刹 ⑳火の舞
 
 舞人は一〇名で、楽器には締太鼓・大太鼓・銅拍子各一を用いる。
 神歌などの文書類(宇都宮二朗保管)が存する。

 垣生神楽

 西宇和郡三瓶町垣生の神楽(八幡神楽と称する)は、一〇月一六日、蔵貫、垣生、下泊各地区の祭りに客神社で奉納される。大正中期に若者の不良化防止のため、八幡浜市の神楽を伝承し、以来青年達が三代伝えているという。現在、垣生神楽保存会(八名)で運営されている。
 曲目は次の通りで、前記「揚神楽」とほぼ同じである。元来同一の神楽を導入したことによる。

(1)神酒の舞 (2)神請 (3)手草舞 (4)魔払 (5)神祇 (6)鈴の舞 (7)巴那の舞 (8)鬼鹿島の神 (9)大工舞 (10)山の内 (11)呂路 (12)弓矢将軍 (13)古神の舞 (14)神体 (15)長刀舞 (16)羅刹 (17)祖父母舞 (18)寿大舞 (19)手刀姫の舞 (20)岩戸開 (21)大蛇退治 (22)火の舞 (23)大神

 舞人四名、囃子方三名、歌一名で奏される。楽器には笛・小太鼓・大太鼓・銅拍子各一を用いる。笛を用いる点、「揚神楽」と異なる。

 八幡野神楽

 南宇和郡御荘町平城の八幡野神楽は、同地八幡神社の元日の初詣でと、一一月三日の祭とに行われる。氏子総代を中心に八幡野お神楽保存会で運営される。
 曲目は次の通りである。

①祝詞 ②剣の舞 ③柴の舞 ④盆の舞 ⑤酒こしと国生みの舞 ⑥鬼神の舞

 元日には古いお札などを焼く「おたき上げ」(「さぎちょう」ともいう)ののちに神楽が奏され、そののち「おはらい」がある。秋の祭りには、役の者が八幡神社に集合し、神楽と「おはらい」ののち、練りの順序を抽選で決めて街路を練り、お旅所で「舞い込み」があり、練りが終わって「舞い込み」と玉串返納で終わる。
 舞人、囃子各六名、楽器は笛一・小太鼓二・大太鼓一を用いる。
 その他、西宇和郡瀬戸町神崎に「神崎神楽」、東宇和郡城川町嘉喜尾に「岩戸神楽」が、それぞれ保存会によって伝承されているが、詳細な内容はなお明らかでない。

 詞章の異同

 これらの神楽の詞章は、まだ、そのすべてが翻刻・紹介されているわけではないが、翻刻されたものだけについて言っても、大わくは互いにあい似ていて、ほぼ同類のものと認められるものの、細部については相当の差違が見られる。たとえば「手草」のみについて見ても、事態は次のようである。
 越智郡大三島町明日のものは、次の和歌を詞章中に含む。

おん前を清める物わ神のきね、ま山の榊ばも二浦のしお
祓立る爰も高天原なれば祓捨るも荒いそのなみ
手草葉のにしきのひもおとく時わときにわ切しどむすびめもなし
手草葉おなぜになおすぞ此宮に荒ふる神おしないかためん
重てもとゝのへふけよあやめ草さみだれしげくわはざま合せん
あわの国なるとのわかめしおひかば都へなびけ御ゼもなびかん
東雲ナ舞遊びなびかばなびけ四季の草しどろもどろの風わふけども
さつと入る浜のまさごのかずよりも浅クなみセそふかく守らん

 ところが喜多郡河辺村の「鎮縄神楽」のものは、右の歌をすべて含まず、次の歌からなる。

手草葉ヤ取リ舞ソテノ折風ニナヒカヌ神ハアラシトソ思フ
橘ノヲドノ身曽岐ヲ始ニテ今ソキョムル我身ナリケリ
榊葉二布綿垂ツケテ立舞シイザ□宜称力天ノ羽衣
草木マテ埴山姫ノソダテ置クメグミ□受テ住ル我国
皆人ノ祈ル心モコトワリニソムカヌミチヲ神ヤマモラン
アマ雲ノヨソニハ人モ思ウナヨ此カシハデニナル神ノ音
片ソギノ千木ハ内外ニカワルトモ誓ハ同シ伊勢ノ神垣
我問ハ、神代ノ事モコタエナン、ムカシヲ知レル住吉ノマッ
チマキナル天ノサカ矛伝エキテ今手草葉トカナテ遊ハン

 そして宇和島市八幡神社の「伊予神楽神祇歌」のものは、以上の歌をまったく含まず、次の歌を含む。

手草木を錦の組をときあ□て、むしゆのたからもゆたか成けり
手草木渡す村人よ、うけとりたまへ宮仕たち

 これらに、大洲市柳沢の「藤縄神楽」のものを並べて見ると、「藤縄神楽」の詞章がどれに似ているか、一見して明らかである。

手草葉ヤトクモオウソデノオクカゼニ ナビカン神ハアラジトドムル
草木マデ埴山姫ノソダテオク 恵ヲ受ケテ住メル我国
宮柱下ツ岩根ニシキタテテ 露モ曇ラヌ日ノミカゲカナ
タチバナノ程〈小門〉ノミソギヲハジメニテ 今ゾ清ムル我身ナリケリ

 「藤縄神楽」と「鎮縄神楽」とが、近い関係にあるらしいという推測が、ここから当然生じ得よう。
 これらの神楽の系統や起源、また伝播の経路は、里神楽全体の詳細な調査とならんで、今後の課題とすべきものであるが、そのさいの手がかりの一つが詞章にあることは言うまでもない。

 鬼の問題

 神楽を通観して、今後の研究課題の一つに数えてよいものは、鬼(「大魔」とも呼ばれる)の性格である。里神楽に登場する鬼は、一方で祓いのけられ退散ないし服従する性格を持つと同時に、一方で福をもたらす人気者という性格をも合わせ持っている。「藤縄神楽」で鬼が見物の子どもにたわむれたり、餅まきをしたりする例、「川名津神楽」で柱松に登り降りする演技が神楽の、同時に祭事の圧巻になっている例など、鬼の性格が単純なものでないことを示している。
 こういう二面を合わせ持った鬼というものが、いつどのような経路で形成されたか、また神楽にはいりこんだかは、里神楽全体の史的変遷を掘り起こすという困難な仕事にかかわっていて、たやすくは実証できない問題ではあろうが、似た現象はのちに述べる諸芸能のなかにも見られるのであって、民俗芸能全体の底流を明らかにする上で、見のがすことのできない問題の一つなのである。
 一つの推測を書いてみるならば、これらの鬼は、あるいは非常に古い時期に祭られていた土地の神が、のちに新来の強力な神によってその座を奪われてのち、憤怒もしくは誹くの表情を示しつつ、なおも古い古い昔からの尊崇と敬愛の情を土地ごとの民の心にかきたてつづけている姿ではないか、とも考えられるが、むろん、ことはなお今後の研究課題に属する。

 (3) 獅子神楽

 「シシまい」と呼ばれるものは神楽芸にも風流芸にもあり、神楽芸に属するものは獅子神楽とも呼ばれる。ここに「獅子舞」というのは、主としてこの神楽芸に属するものである。
 獅子舞の類は沖縄から北海道にかけて分布し、民俗芸能のなかで約七〇%を占めていちばん例の多いもので、被る頭には獅子だけでなく龍・鹿・猪・虎などあるが、これに大きく分けて、太鼓を身につけて一人で一頭を舞うものと、ユタンに入って二人(あるいは二人以上)で一頭を舞うものとがある。一人立ちのほうは風流系のものとされ、東北・関東に分布し、北陸にも例があり、奈良県に一件あるとされるが、愛媛県南部にはこの種のものが多数あることは周知のことである。このうち鹿に扮するものが岩手・宮城両県に分布し、愛媛県のものはこの系統とされる。この鹿踊りについては風流芸の項で述べる。
 二人立ちのほうは、外来系または伎楽系のものと言われ、推古天皇二〇年(六一二)に呉(中国揚子江口地方。六朝の都の地を含む)から百済の人味摩之が伝えた伎楽の曲のなかの獅子(獅子子が伴う)の系統とされ、中世から近世にかけて伊勢や熱田の御師が全国に舞わして歩いたものが各地の獅子舞を生んだと考えられる。愛媛県の獅子舞も、この太神楽系のものである。県内全域に分布し、松山市には虎に扮する例(古三津の虎舞)もある。
 七世紀の伎楽の獅子がどのような舞いぶりのものであったかは詳細にはわからないが、伝存する伎楽面のなかに獅子と獅子子のものがあって、獅子と少年とが出るものであったことは知られるし、『信西古楽図』にも一人の男が獅子一頭を綱で引き、少年二人が伴っている図が見える。また嘉保二年(一〇九五)の『懐中譜』や永仁二年(一二九四)の妓楽曲の「獅子」の譜には、躍動的な旋律のなかに、やや静かな楽句がはさまっていて、獅子が眠ったり覚めたりするような型があったのかもしれないと思われる。神楽芸の獅子が、多くは獅子以外の何かの役を伴うこと、動と静との二場面を持つことなどは、経路の詳細は不明ながら、古くからの型が、断続しながらであっても受け継がれてきたものと見ることができよう。
 県内に行われる獅子舞は、確認されたものだけで一四五件あり、そのすべてを細叙できる段階にはまだ達していないが、その形態には地域によって差違があり、およそ六つの相異なる類型が認められることが、本編上巻の総論に指摘されている。その六つというのは、今治市とその周辺の「継獅子」、周桑郡小松町・丹原町・東予市の「ムカデ獅子」、川之江市・西条市の讃岐系とされるもの、越智郡大三島町の一群、松山市とその周辺の「乱獅子」、宇和海沿岸と大洲市の「唐獅子」である。以下に、全体のあらましを述べる。

 継獅子

 獅子頭をつけた人が人の肩に乗って採物を振る舞は太神楽にあるが、これはそれが土着化して発展したものと考えられる。今治市野間・矢田・神宮・延喜・波止浜、越智郡朝倉村北、波方町小部・波方、大西町別府・脇・星浦・宮脇・九王、大三島町宮浦などに行われ、宮浦は旧八月、他は五月の祭に舞われる。
 大小の太鼓(波方町小部のものは笛が加わる)の囃子に乗ってまず二頭(四頭の例もある)の獅子が舞う。この舞には旋回の型はない。ついで囃子の手がかわり、少年を肩に乗せた青年が、腰を前後から支えられた青年の肩に乗り、下段から順に立ちあがる。二段継ぎから三段継ぎ、四段継ぎの例があり、五段継ぎの例が波方町波方にある。最上段で少年が三番叟烏帽子を被ったり、獅子頭を被ってユタンを綱のように縒って下げた姿で、鈴・扇子などの採物を振ったり、拍手して両腕を左右に伸ばしたり、種々の型を見せる。この部分には組みあがったままぐるりと回る型がある。上段から次第に体を低めてくずし、囃子の手が直って再びもとの獅子の舞を一段舞って終わる。以上が通例である。
 陸上でも舞われるが、大西町九王には海上で行う例があり、船二艘を横に並べてつないだ上に渡した舞台の上で舞われる。

 ムカデ獅子

 周桑郡小松町妙口原、丹原町田野上方・志川・長野・石経、東予市(旧周桑郡) 庄内・新市などに六人立ち二頭の獅子(通称「ムカデ獅子」)がある。ユタンに頭の役とも六人が入って舞うものであって、起源は定かでないが、これは「継獅子の継がない形態」ではないかと考えられる。東予市新市のものは三段継ぎをも行う。

 牝獅子・乱獅子

 川之江市・西条市・東予市に同系統と見られる獅子舞があって、川之江市川之江町長須、東予市周布本郷のものなどに、明治期に讃岐から伝わったという伝承が伴っている。この地域の獅子は六人立ちのものも含めて、「なぶり子」という少年の役を伴い、楽器に大小の太鼓のほか、笛・すり鉦または銅拍子を加える例が見られる。
 越智郡大三島町には、明日・肥海などに「牝獅子」と呼ばれる動きの少ない静かな舞いぶりのものがあり、野々江には松山から伝えたという歌を伴う「乱獅子」があり、楽器には笛・鉦を加える例があるなど、形態には一様でない点がある。
 ただし、獅子に伴う役の編成や呼称を見ると、川之江市や東予市にはなぶり子、今治市にはひょっとこ・おかめ・天狗、越智郡波方町・大西町にはダイバ・狐・おやすなどの名が見え、岩城村や大三島町には猿の加わる例があり、総じて伴衆がにぎやかな感がある。なお岩城村海原のは、北条市・松山市に目立つ狩人の役が加わっている。

 松山地方の獅子舞

 東予地方の獅子は二頭の例が多いが、松山市とその周辺の地域のものはほとんど一頭の舞で、伴衆のなかに狩人の役のあるのが目立つ。他には狐・猿・おたふくなどの例が多いが、北条市や上浮穴郡には三番叟の加わる例があり、上浮穴郡の面河村・美川村など、また温泉郡中島町などに、オヤジ・オジイサン・オバアサンなどと呼ばれる役の加わる例がある。面河村のものには明治期に温泉郡から伝えたという伝承を持つものがある。

 南予地方の獅子舞

 狩人(または猟師)を含む伴衆を持つ獅子(多くは一頭)が伊予市・伊予郡松前町・砥部町から大洲市・喜多郡五十崎町・肱川町辺まで分布していて、松山周辺部と同じ特徴を見せている。伊予郡広田村のものは猟師のみを伴う。
 八幡浜市・宇和島市および西・北・東・南宇和四郡の地には、「唐獅子」(宇和島市・南宇和郡内海町などには「荒獅子」と呼ぶ例もある)と呼ばれるものが分布している。この呼び方はこの地域に行われる鹿の踊を「ししまい」というところから、それと区別するためのものと考えられる。獅子一頭が少年の打つ大小の太鼓に合わせて勇壮に舞うのがほとんどの例であるが、西宇和郡三瓶町朝立のものは猿の役をも伴って多少形態を異にし、そのほか楽器に笛や銅拍子などを伴う例が宇和島市・南宇和郡御荘町・城辺町などに見られる。内海町柏・御荘町平城・城辺町城辺・蓮乗寺などのものは、天狗の面をかけた「法印」の役が次の口上を述べるもので、互いに近い関係を持つことを示している。

そもそもこの唐獅子と申するものは、地神五代の天照大神宮、天竺より渡されたもう。さるによって、大神宮大寵愛、エッヘン、遊ばされ、日の本の悪魔はらえと、清めたまえて、侍講中〈他の例「氏子中」〉、五穀成就、富貴繁昌、たまい候うらい。(御荘町平城の例による)

 今後の課題

 それぞれの土地の、主として秋の祭りに、神社の境内やお旅所、民家の庭先などで、主として青年によって舞われるこれらの獅子舞は、例があまりに多く、かつ現在のもののその土地への伝来が、不明かもしくは明治以後と新しい場合が多いこともあって、いちいち細部まで総合的に調査し研究するという段階には、まだ到達していない。伝存状況の大体は県教育委員会の『愛媛県の民俗芸能』によって知られるようになったので、今後はこれを踏まえながら、より細部に入ることが、調査課題として残されている。
 また、獅子は霊獣であり、その威力によってわざわいを除くという意味づけもある一方に、これを退治するさまを演じることが厄除けの効能を持つという意味づげもあったらしく、狩人が登場したり、獅子が虎に変形して、退治されるところを演じるという「虎舞」(松山市古三津に例があり、九州などの他県にも例がある)ができたりしたのが、その一証である。こういう、祓うものである一方に祓われるものであるという二面性を持つ点で、獅子はさきに述べた鬼とあい通じるものを持つようである。この二面性がいつどのようにして付与されたかという点が、獅子の舞というものの始源とあわせて、今後考究すべき課題の一つと考えられる。

 2 田  楽  芸

 田植の神事や、それから発展した歌舞だとされるいわゆる田楽や、稲の豊作を祈願し予祝する田遊びなどを総称して、田楽芸という。
 愛媛県でこれに属するものとしては、現在、次の二例の現存が確認されている。いずれも田遊びの要素を含む田植神事である。

 大山祗神社の御田植祭

 越智郡大三島町宮浦の大山祗神社で旧暦五月五日に行われるもので、神輿が二の鳥居内の斎田に渡御し、「一人相撲神事」と「御田植神事」を含む式が進行する。「御田植神事」は柄振男・田男・早少女が斎田内で行う田植で、「一人相撲神事」はまわし姿の力士一人が斎田わきの土俵で正装の行司の軍配のもとに田の精霊と押し・突き・足取りなどのわざを見せつつ取り組み、二勝一敗で精霊が勝つさまを演じて豊作の予祝とするものである。

 城川町土居の御田植神事

 東宇和郡城川町土居の三島神社の斎田で七月に行われるもので、「御田祭」、「どろんこ祭」とも称される。行事の次第に「代かき」「手踊り」「田植式」などが含まれ、大小の太鼓・すり鉦・ささらで囃し、代かき歌を伴う田遊びが行われる。明治一四年ごろ、北宇和郡兼近村(現三間町)から来た高月兵太郎が、当時兼近村で行われていた田植行事を伝えたものといわれる。