データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)
二 若 者 仲 間
本県の年齢階梯制の習俗は「記録作成等の措置を講すべき無形の民俗文化財」として昭和四一年に国の指定を受けているが、その中心となるのが若者仲間である。多くは明治以降、青年団・青年会の名称に統一されていったが、ムラの中心における本質的な機能は近年までさほどの変容をみせなかった。以下「若者仲間」についてまとめておくことにする。
呼 称
若者仲間の呼称としては若衆組・若衆、若者組・若者衆、若連中、若連、若中などがある。傾向としては若衆組と若連中とが最も多い。面白い地域的特性は、若連中組もしくは若連、若中の呼称を持っているところはまず宇和海側に皆無であるということである。ほとんどが瀬戸内海側にあることが注目される。
若連中と呼ぶのは越智郡大三島町肥海、伯方町伊方・木ノ浦、吉海町椋名、松山市、温泉郡重信町・川内町、西宇和郡瀬戸町、八幡浜市中津川などや、内陸がかったところで温泉郡重信町山之内、伊予郡中山町湊、喜多郡内子町立川・立山、大洲市恋ノ木、東宇和郡宇和町郷内、野村町植木などで、東宇和郡が一応の南限となっている。しかし、稠密な分布は松山平野およびその周辺地域で、どの村にも若連中の奉納した幟石や手洗鉢などの石造物が必ずといってよいほどに残っている。若連は宇摩郡別子山村、松山市米野々と内陸がかったところに西宇和郡三崎町正野があげられる。若中はいまのところ越智郡魚島村だけのようだ。氏神の亀居八幡神社の石灯籠にも「文化十二申歳 西若中」とか「奉寄進東若中 嘉永二酉八月吉日」などの銘文がある。若衆組になると地域的特性が窺えにくいが、このうち瀬戸内海側を内陸部も含めて取り上げると伊予三島市中ノ川、越智郡吉海町仁江、同大三島町宗方、北条市難波、温泉郡中島町二神、松山市石手、伊予郡中山町などである。また宇和海側を内陸部も含めて取り上げると、三瓶町和泉、吉田町法華津、宇和島市九島、野村町小滝、城川町遊子谷、津島町大道、城辺町内尾串、一本松町正木などがある。若衆は若衆組と同じ表現だろうが、分けて取り上げてみると、瀬戸内海側は内陸部も含めて新居浜市大島、丹原町明河、北条市小川谷、小田町野村、久万町畑野川・直瀬、双海町岡、長浜町青島など、宇和海側は内海村と宇和島市日振島である。若者組は宇和海側は皆無で瀬戸内海側は伊予三島市寒川、宮窪町浜、大西町九王、広田村高市、城川町下相、若者衆は西海町内泊などである。
加入年齢
最も若いのは中山町湊、内子町立山で、コドモあがりから、或は学校を抜けると加入するというが、一二歳くらいであろう。
これをはっきり一二歳としているのは、八幡浜市中津川、西宇和郡瀬戸町大久であり、伊予郡、喜多郡、西宇和郡と広まっている。飛び離れているのは越智郡吉海町椋名であるが、これも一二歳の加入である。ついでは一三歳の加入。伊予三島市寒川は一三、四歳の加入。城川町窪野は長男だけは一三歳の加入。一四歳は新居浜市大島、宇和島市九島の二ヵ所。一五歳の加入になるとぐんとふえる。伊予三島市中ノ川、伯方町伊方・木ノ浦、大三島町宗方・肥海、宮窪町浜・余所国、大西町九王、中島町二神、双海町岡、野村町小滝、三瓶町和泉、久万町畑野川・直瀬、中山町、大洲市恋ノ木、城川町遊子谷、吉田町法華津などと多い。最高年齢は一七歳でこれも高い。別子山村、丹原町明河、北条市小川谷、松山市久米・石手、長浜町青島、広田村高市、宇和町下松葉などとなっている。
組入りの作法
北宇和郡吉田町法華津の組入り歌に「なりこまいはみいさいな」というのがある。一月四日に氏神様で、組入りをする際に歌うものだとされており、古謡の面影がある。正月一六日に村の若い衆が神社に集まり、お籠りをする。一五歳になった青年は、酒一升をもって、この日仲間入りする。一同の前でこの歌を歌い、三度まわって踊ったのである。
さて、この歌の意味はよくわからないが、室町時代の狂言集の中に「大黒舞いを見まいま」といった、よく似た表現に行きあたる。「見まいま」というのは中世語で「見ようではないか」の意だが、いまも香川県の方言としては生きているという。すなわち「なりこまいはみいさいな」という言い方が古い表現であること、組入りには大黒舞いを舞ったであろうことが推察される。しかし、大黒舞いを舞うこともなくなって、コトバの意味がわからないまま受けつがれてしまったわけだし、表現も南予風に「みいさいな」と変化してはいても、元の形を推察するに充分な形で残っていたことは、誠に貴重だといえよう。
若者仲間への加入にさいしては、酒一升を振舞うという形がもっとも一般的であったようだ。東宇和郡野村町小滝では正月二日にウタイゾメをして加入したのであった。南宇和郡城辺町でも酒を飲ませて先輩に挨拶する習わしであった。
宇和島市九島では、盆の前に若者組から一七歳になった適齢者の家へ連絡に来た。新加入者は盆の一四日または一五日に住吉様に一人で何も持参せずに行く。若者の前で頭が新加入者に口頭で規約をいい渡して加入式は終わる。温泉郡中島町二神では、一五歳になると、三月の節供の日に、近所の目上の人に連れられて、酒一升をもって泊り宿に挨拶に行った。御荘町平城では一一月三日の秋祭りの前日、すなわち二日に酒一升持って若い衆宿へ行って加入した。
城川町遊子谷では、正月二日が「歌いぞめ」で、この日若衆組に加入する。一五歳になった青年の家へ、若い衆頭が頼みに行く。「こちらのむすこさんも入れてもらえませんか」と言うと、親は「どうぞごひいきに」と挨拶をする。若い衆頭は偉い人だし、大きな役をいいつけられたように思って、一五歳になった青年はからだがびりびり震えるほどだったという。歌いぞめには一五歳になった男女をよせる。男は酒五合、女は豆腐一丁を出すのがきまりである。そこで若い衆としての「きまり」を言ってまかせるのである。同町窪野では、一三歳(長男)と一五歳で加入するが、五人揃うと、赤飯か紅白のモチを皆で食べて祝い、ふれまいをする。
越智郡伯方町伊方では正月四日ごろ初寄り合いを開くが、そのとき一五歳の若者は酒一升と煮〆を重箱にいっぱい持って行って入れてもらった。同郡吉海町椋名では、祭り前に一八歳になった者の親が「あんたがたの若い衆にしてください」と宿親へ頼みに行くと祭りの終わった翌日、新しく加入した者は「お願いします」と酒をさげて行く。これをサンヨウザケという。祭りの費用は戸別割りだが、それを全部計算して割りつける。それに二日かかる。すむと娘を呼んできて、スシをつけてもらったり、酒のカンをしてもらった。ご馳走は足りないから、親にも出してもらった。ジャコ網でサカナを曳きに行って、費用を作ったりもした。競争で、ご馳走を作り、あすこは、どんなご馳走をしていたなどといって、祭りよりにぎやかであった。若者たちは、とくにおもしろかったという。
同宮窪町浜では、加入のときは酒二升と豆腐二、三〆を持って近所の先輩が連れて行った。その日は全員が集まって歓迎会を開いた。同大三島町宗方では、一五歳になると、節季の神明ばやし(トンド)の前の日に、若い衆宿へ豆腐一箱、酒一升を持って頼みに行く。
温泉郡重信町志津川では一〇月の秋祭りにそなえて毎年九月に獅子舞いの稽古を始めるが、その日に若い衆組に正式に加入した。南宇和郡一本松町内尾串では、組に入る日は旧暦二月一日に決まっていた。一五歳になると、この日、若い衆組のおこもりに出て盛大な酒盛りの中で、正式に組入りを認められた。入るものは、挨拶に酒一升を持ってゆく。
脱 退
結婚するか二五歳になれば退く(脱退する)ところが多い。儀式もなく自然脱退が一般的である。松山市石手白石では、もとは結婚して三年目に退いていたが、人数が減るので三〇歳までぬけることができなくなった。秋祭りの翌日にカンジョウイワイがあって、その年に若い衆組をぬけてトシヨリ(年寄り)になる者たちを祝った。神輿と獅子舞いの祝儀の総額と、その半分に当たる全額を若い衆が、食費として負担し、できるだけのご馳走をして祝ったのである。重信町志津川でも、神輿渡御の翌日(小祭りの翌日)、二五歳になった者を慰労する共同飽食を行い、祭礼諸費の総決算をする。これをカンジョウイワイとかサンニョウイワイという。
広田村高市では、二五歳までであるが、結婚した者は二四歳で退いた。毎年八月二一日に氏神の境内に土俵を築いて相撲があるが、このときに入退の両方が行われた。
城川町遊子谷では、組を出るときは酒一升を持って区長のところへあいさつに行き、「これから出しますからよろしく」と言う。退いた人はオヤジといって隠居する。同町窪野では、五人退く者ができると赤飯か紅白のモチを皆でたべて祝いふれまいをするが、酒を用いることもあった。のいた者をホンニンと呼ぶ。表張りができるようになった者の意である。一本松町内尾串では二〇歳までに結婚すると、チュウロウ(中老)となり、自主的に組からのく。二五歳を過ぎてのくと、トシヨリグミ(年寄り組)となる。
寝宿と娘宿
(1)常宿 若者仲間の活動にとって、宿の役割りは重要なものがあった。それは社会教育の場であったり、婚姻の秩序を得る場であったりする。県下の寝宿を、ここで体系的に取り上げることは、やや困難である。というのはすでに構成要素の幾つかが欠落していて全容をうかがうことのできないものが多いからである。ここでは羅列的にひとまず概観してみることにする。
温泉郡中島町二神では、寝宿のことをトマリヤといった。若い衆に好意を持つ普通の家の母家の座敷である。毎夜集まり、勉強をし、枕を並べて寝る。酒の好きな者が集まって飲むこともあった。メヨイザケという。回数と量を記帳しておいて盆・節季に親が支払いをしたのである。ヤイト日の行事は、婚姻との関係を知るうえで重要な行事である。若い衆が娘にヤイトをすえてもらうのである。これによって男女の接近がはがられた。
喜多郡長浜町青島では、男子は一七歳になると、若い衆宿に寝泊りする。金は自己負担である。上と下に二軒の若い衆宿がある。夕方になると青年は思い思い自分の宿に集まるが、全員揃うまでは所定の座につき一言も発せず、つくぼみ、かしこまって揃うのを待つ。全員揃うと、青年頭の合図で初めて膝をくずして一日の反省があり、訓辞があり、雑談の時間となる。一しきり話の終わったところで、九時半まで自由時間、それぞれ遊びに出て行き門限がくれば全員床を並べて寝る。朝は自分の仕事の関係で適当な時に家に帰り、食事をして就労する。また、宿における制裁はきびしく、青年頭から若い衆に至るまで席次があって座の場所は一定している。下の者は上の者の言に絶対服従であり、もし不都合なことがあれば、なぐるけるのしつけを受ける。それは使い走りのすべてと青年全員の床敷きをやらされるのである。きびしい社会教育の場であったわけである。
八幡浜市中津川では、トマリヤに泊ってムシロ編み、俵編み、ナワないをした。ここにはヨナベ宿の性格がみられる。西宇和郡三瓶町和泉では、若い衆宿に集まって話し合いをした。同郡三崎町正野では、宿主が若者を統制し、夜学(読み・書き・ソロバン)を教えたり、夜業をさせたりした。夜遊びを厳禁し、カケゴトなど一切させなかった。ヨナベ宿と社会教育の機能とがみられる。女子の宿もあり、別嬪宿と呼んでいた。
宇和島市日振島の若い衆宿は、網元の家であり、四~五坪の広さがあった。南宇和郡西海町内泊では、気安く適当な広さを持つ家を頼んで、若い衆宿とした。イワシ網出漁が毎朝一番ドリのころなどで、若い者は出漁準備の関係で同一場所に集合しているのが最も良いというわけで、三統の網があるところから三か所の集合場所ができ、これが若い衆宿になったのだという。同郡城辺町では仲間入りのとき、必ずゴザを持参してトマリヤの寝具とした。網元が出漁のとき人集めをやさしくするため網子を一ヵ所に集めたのが始まりで、大きな民家を貸した。労働力確保のための宿の性格がみられる。同御荘町平城では、夕食がすむとわらを二束持って若い衆宿へ行く。ゾーリ、タワラ、コモ、ホゴなどを作った。ヨナベ宿である。
同一本松町の内尾串には、今も青年館が残っているが、それは昭和元年に建てられて若い衆宿として使用していた。終戦ころまでは二〇人くらいが寝泊りしていた。夏は金を出し合ってカヤを買い、冬はフトンを持ち込んで寝た。イロリを囲み、世間話などに興じた。仕事がひけてから来たが、一番ドリがなくときには家に帰って行った。
越智郡の島の場合をみよう。伯方町伊方では宿は大きい家で、若衆組の大将の家の近くで頼む。伊方には三~四軒あった。宿にはお礼をして正月にはウドン、盆にはソーメンなどを持って行った。吉海町椋名には部落毎に一軒あった。年寄りの気安いところを借り、集まって話し合ったり、遊んだりした。また男女ともに寝泊りした。ここで好きな同士の約束ができることが多かった。女子は夜なべに機織りなどを一二時ころまでしていた。宿に泊ることは明治二〇年ころまでで止まった。ここにはヨナベ宿と婚姻の秩序の宿との性格がみられ、きわめて注目される。同町仁江には、物持ちで徳米を百俵も出すような本家筋を宿にした。別に娘宿も物持ちの本家筋でやり、二年交替であった。
宮窪町浜の若い衆宿は、祭りの稽古や入会式のときだけ集まるところであった。世話好きで広い家が引きうけた。若い衆が悪いことをした場合は、宿主が謝罪に行った。女衆宿もあり、ヨナベギリといって、夜なべ仕事をしたり、遊んだりした。宿は順番にしていた。そこへは若い衆がよく遊びにきた。ここにも婚姻との関係がうかがわれる。
上浦町の若い衆宿は、瀬戸、盛いずれも婚姻との関係がよくわかる点で注目される。瀬戸ではトマリヤドといい、男が一〇戸、女が五戸あり、若者を男女ともトマリコといった。娘宿で夜なべに機織りしているところへ若い衆が遊びに来て交際が始まり、やがて結婚へと進むこともあった。盛でもここで恋愛をし、結婚へと進むことがあったが、交際、恋愛については婚姻のところで詳しく触れることにする。大三島町宗方にも旭や組、菅社川組、小田川組の三つの娘宿があり、そこで宿泊りしていた。
城川町上影地区では男女別の宿があった。しかしきまった宿はなく巡回りになっていた。津島町大道では若い衆宿は男女一緒の宿であった。内海村柏崎でも若い衆宿はきまったところはなく、若い衆のいる家でしていた。娘宿だけは「中尾」の家にきまっていた。
瀬戸町大久では若連中を、宿の名をつけて、○○宿の若連中といった。東、脇、西と地域が分かれていたが、東には橋本、中田、木野本、三好と四軒の宿があり、脇には脇坂、脇市の二軒があり、西には川本が二軒あって、合計八軒の宿があった。同町三机で若連中が集まるところは「大仲」という。宿元であり、その下に小宿がある。大仲は東と西とがあり、東大仲(星加道雄)の小宿は、市川宿(市川助太郎)、市宿(田中市平)、菊宿(清水行夫)、文宿(河野文雄)、川中宿(木村林三)。西大仲(和田清美)の小宿は、亀宿(伊野松三郎)、村宿(松本イヨ子)、網宿(岡田剛)、鶴宿(金谷政一)、重宿(井上重雄)となっていた。同町大久に女宿があったが、きまった宿はなかった。また塩成の女宿は、清水重平、大久保初太郎、宝栄浅市、清水重松の家にあった。
若連中の宿では、きまりをよく守り、お互いに節操を固くし、団結していた。取り締りは宿親がやっていたので、宿親は押しのきく人、子供に意見のできる人、家も大きく広い家であることが必要であった。もちろん夜は宿に泊ったが、雨降りの日などは家からワラを持ってきて、ワラ仕事をしていた。ゾーリなどを作ったが山ゾーリと言っていた。
若衆宿が男子のみに限られている地域と、娘宿を併有する地域、さらには男女同じ宿とそれぞれの性格がみられるが、それぞれの地域の実情を反映していると思われるので、即断はできないにしても、そこには若者として当然結婚への関心の大きさがみられる。
(2)臨時の宿 主として年中行事あるいは民俗芸能に関与する場合、臨時の宿を設け、そこで練習をしたり準備をしたり飲食をする。久万町下直瀬では、ツキアイハジメ(正月一四日)に若い衆宿で一晩中飲んだ。その酒は前年結婚した家ヘマスイレを持って行って、もらった酒一升(同時にモチももらう)四、五軒分である。薬師堂を利用することもあったが、遠慮のいらない家を借りることもあった。
上浦町盛の弓祈祷(初祈祷)は次の時代の若者の練成に神事、射技を柱として、古式の儀礼を身につけさせ、座もちのできる一人前の戸主を育てることが目的である。したがって弓祈祷をつとめるオイテシュウはナライコであり、それは若い衆である。祈祷の前五日間は、上・岡二軒ずつの宿元(交替でつとめる)に集まって準備と学習と鍛錬に入る。教えるのは、オイテシュウの経験のある四〇歳以上の中老である。宿元の家はシメナワを張り清める。その家の女子は他に宿を借りその間、出て行く。女子を忌むので男火である。
担当機能
伊予三島市中ノ川では、祭礼の下働き一切をやった。氏子総代の下に「敬神団」が作られているが、これが若い衆組であり、神事に関する一切の雑用をするのであった。したがって神社の清掃・修理・集金・神党の招へいなどの仕事である。祭りがすむとトウヤブリと称して一同、頭屋に呼ばれて、盛大な酒宴を開き、もてなしを受けた。
同市寒川地区江ノ元では、一〇月一三日から三日間、石戸八幡神社の秋祭りに、船神輿「八幡丸」をかく。オモテ回りを平の若い衆がかき、トモ回りを幹部がかくことになっている、すなわち入って一年、二年がオモテのカキボウの先の方をかく。三年は網を持つ。四年からトモを持つが、それから夜這いを受けつけてもらえる資格ができた。一三、四歳をコテツクリといい使い走りや掃除、顧問の案内役をつとめる。二年目の者は太鼓をたたく役目も務めることができる。デキワカイシュが次の年齢でチョウチンをつり下げる役目。神社のお供えもののお使いにも行く。次の年齢がデキシロワカイシュ。「デキシロ遊ばする」という言葉があって若い衆でも一人前ではなかった。一六、七歳になると、一五日若い衆と呼ばれ、一五夜の夜しか夜歩きをしなかった。「それほど暗い夜はこわかったのだ」と言っている。月のあるときは古い人について行って、娘のくどきかたを覚えたという。船神輿には船頭が一人乗る。それに古参の人二人が付く。船頭は権力を持っており、船を進める頭であるから、人格者で信望のある人が選ばれた。太鼓をたたき音頭をとって指揮をとるので、声のいい人、歌もよく歌える人であることも資格の要件となっている。
越智郡大西町九王龍神ヶ鼻に鎮座する龍神社の大祭り(五月一九日)には、奴、櫓、お箱が獅子とともに神輿の渡御に供奉した。九王の若連中の位置は、亥の子組をぬけると若連中になる。亥の子組は一三歳が金集め、一四歳カジトリ、一五歳亥の子大将。亥の子大将がすむと若連中に入る。若連中のうち一五、六歳で奴連中をする。奴は八人である。二年やると獅子連に引き上げる。櫓の世話人は四人、若い衆のうち、獅子に向かない人が選ばれる。ほかにお箱が二人。二五歳になるか、結婚すると若連中を引退する。引退した人たちが、主に神輿をかく。
獅子連の「役者とり」を、昔は旧七月二八日の晩にした。お地蔵さんの盆踊りの最終の日のあとで決める習わしであった。獅子船は漁船二隻をもやって四周に竹を立て、シメナワを張る。船ばりの丸太を三本入れて上に八分板を並べ、莚を敷くと一四畳くらいの広さになる。これを座といった。
祭りに奉仕する若者たちは海岸で早朝に潮垢離をとり、帰りに海藻を拾って腰にまとう。海藻は祭りがすむと海に流すのである。宮出しは龍神社から与市ヶ浦で海上渡御となり、獅子船では継ぎ獅子をする。松原に上陸して地蔵堂の御旅所に至り、祝詞をあげて獅子の場づかいがある。次に富山八幡社神へ上り、社号石のところでも場づかいをなし、さらに旧道の御施所から上の小部の方を向いて獅子を遣うと最後は大庄屋の屋敷前で場づかいをやってサカムカエとなる。獅子と神幸の行列はここで終わりとなる。
御旅所の場づかいは二つ継ぎ、三つ継ぎ、さらに四つ継ぎもするが、たいへんむつかしいので場づかいで一度しかやれないという。この場づかいにおける獅子連の主役はマエギを舞う若者である。ふつう二三、四歳の古参の者が担当し、大庄屋の前では最古参が行う慣例となっている。マエギは御幣や脇差しを振ったり獅子がくわえて舞う獅子舞の曲目の一つで、これを演じることは若者として大いに晴れがましいことであったのである。こうして場づかいでマエギを担当すれば獅子連を引退して神輿守りの頭取りになる。すなわち若者仲間からの脱退儀礼の一つでもあったわけである。
さて、西宇和郡瀬戸町三机の八幡神社の祭礼でも五つ鹿、牛鬼、四ツ太鼓は若連中の担当である。五つ鹿の先頭を子供が「八幡神社 明治二十五年八月十五日 イヨ三机村 東区三田区若連中」と染め抜いた幟をかついで歩くことになっている。このように地域社会における若者仲間の担当機能の中心は、一つはこの祭礼執行にあったわけであり、県下でも普遍的な機能となっていた。また、病人輸送や労働力の無償提供、盆踊りの世話や四国遍路の接待なども県下各地で聞かれる若者組担当機能の一つである。
鼠鳴の若い衆組
次にむらにおける若者仲間の具体的事例として北宇和郡津島町鼠鳴を中心に、一部横浦の事例を合わせて示してみよう。
加入 ワカイシの期間は一五歳から三〇歳までであったが、「鼠鳴青年会規約」では一五歳から二五歳までとしている。現在の青年会もこれと同様である。横浦では加入すると、能力の如何にかかわらずシロワケは一人前が与えられた。また同部落では次男以下の加入年齢は長男より一年遅れた。
加入の日は、横浦では正月一四日のワカイシのハツヨリに加入する者が酒一升を持っていく。鼠鳴では幹事が加入予定者の家に加入の旨を伝えに行く。家では布団の都合(ワカイシに入ると宿に寝泊りすることになるが、そのための個人用の布団をすぐ持たせてやれるかどうか)を考えて、正式に加入する時期を幹事に伝える。加入は部落の上手にある庵で行われる。一月一四日のハツヨリ、一月一六日と九月一六日の皇子神社のオコモリ、三月四日の由良神社の彼岸ゴモリの年四回あるワカイシの会合のいずれかに行われる。その時に酒一升を持参するのが正式に加入する際の儀礼となる。布団の都合で正月の初寄りの際に正式に加入せぬ者は酒を持参しないが、幹事と一緒に初寄りの席には出る。このワカイシの集まる庵と寝泊りする宿とは別のものである(現在では庵はなく、青年が建てた家が青年の集会所となっている)。この庵でのワカイシの座順は、年齢により定められていた。頭は新加入者を並べて「これからはワカイシに入ったのだから悪いことはできないぞ、悪いことをしたらワカイシをおろすぞ」といってきかせる。頭のいう悪いこととは博突・賭け事・それに娘が他所の部落の男となじみになること(この正月の初寄りの席には嫁も一五歳になると出席したという。しかし、これは昭和年代になって青年会と処女会が合併した時の話なのか、青年団や処女会の成立以前からのことなのか明確ではない。ただ娘は加入する際に布団の有無は問題にされなかったらしい。)などである。
階層 一五歳から二〇歳位までがコワカイシュ。小若衆の世話役が二名。正月の初寄りの時に頭の指名により決められる。以前の名称は記憶されていない。幹事という。この上に副会長二名。カシラ(現在は会長)一名がいる。幹事、副会長、会長の任期は二年というが、実際は再選されることがあるから、不定というのが実状である。会長と副会長は能力・人望によるが、幹事は誰でもなれた。ここでの階層についての伝承は、以上のように青年会のそれと混同され、青年会以前のそれについては不明である。参考のために青年会の役員についての規則を示しておこう。まず、大正一五年一月二日の「青年会規約」第三条に「本会ニ左ノ役員ヲ置ク、会長一名、副会長兼理事一名、下灘村評議員一名、幹事二名」とあり、昭和四年七月一三日の「青年会処女連合会々則」の第四条には、「本会ニ左ノ役員ヲ置ク」とある。第五条は「前条ニ依り本会役員ハ男女合併ノ事其任期各々一ヶ年卜定ム、但シ再選ヲ妨ゲズ」とし、その任務は第一〇条に「本会長ハ公務ヲ総括シ、副会長ハ之ヲ補佐シ会長事故有ル時ハ事務ヲ代理ス、理事ハ会長ノ命ヲ受ケ会計ニ従事ス、幹事ハ会長ノ命ニ遵ヒ会ノ制務ニ努ムル事、評議員ハ会ヲ代表シテ村役員会ニ出席スルモノトス」と定めている。
仕事 ワカイシの任務としては①医者迎…陸路ではなく船で呼びに行った、②海難の救助、③火災や災害に際しての救援活動、④皇子神社の祭礼には幹事が小若衆を指揮して幟を立てたり、その他の準備をした。⑤ワカイシの費用は青年会になってからは会費をとったが、以前は仲間の費用をつくるために網を曳いた。しかしワカイシの組織が網主に雇われて働くようなことはなく、網主や網組との関係は個人的なものであった。これらの仕事について大正一五年の「青年会規約」は、第二条に「本会ハ当浦ニ於ケル不時ノ変災或ハ病家ノ医師ヲ迎フル等ノ事アル時ハ全力ヲ振ッテ之ニ尽シ」とし、昭和四年の「鼠鳴青年処女連合会施行細則」では第四条に「―勅語(教育勅語及び戌申詔書)ヲ奉載シ国体ヲ重シ以テ忠君愛国ノ精神ヲ養フ事、當村ニ在ッテ不時ノ変災或ヒハ病家ノ医師ヲ迎ヘル等、事有ル時ハ挙ッテ之ニ全カヲ振ヒ最善ヲ尽ス事」また第五条に「本会則ノ主旨ヲ普及徹底セシムル為左ノ事業ヲナス。①本会ニ修養会ヲ設置シ毎月之ヲ実行ス、②毎月一日一五日氏神ニ団体参拝並ニ境内ノ掃除ヲナス事、③祝事ニハ国旗ヲ掲ゲテ祝意ヲ表シ若シ学校ニ於ケル拝賀式ニハ必ズ参列ヲナス事、④勅語奉読及国歌合唱ノ場合ハ姿勢ヲ正シ深厚ナル敬意ヲ表スル事、⑤悪風改善ノ意味ニ基キ言語ヲ丁寧ニシ事(ママ)ニ智識階級者ニ対シテハ常ニ敬語ヲ用フル事、⑥未成年ノ禁煙ハ必ズ励行スベキ事又会員ハ如何ナル場合ニモ常ニ大酒ヲ戒ムベキ事、⑦隙見立聞ヲ決シテナサヌ事、⑧汽車汽船ニ乗ル時ハ先客ニ礼意ヲ表スルハ勿論乗合中宜シク礼儀ヲ守ル事、⑨老幼婦女並ニ不具者ハ出来ル丈親切ニイタハル事、⑩決議上中合セ等ヲ良ク守ルハ勇気ト心得之ニ違ハヌ様ニ注意スル事、⑪身分相応ヲ忘レズ質素ヲ旨トスル事、⑫男女間ノ風儀ヲ乱サヌ様注意スル事、⑬時間励行ヲ守ル事」としている。後者は教育勅語云々などとあり、国家統制下の青年会の性格を示してくるが、それでもここには旧来からのワカイシの慣行の一端をうかがうことはさして困難ではない。
宿 宿は初寄りなどで使用する建物とは別に、部落の個人の家をヤド(宿)に頼んだ。鼠鳴ではT・M・Nの三戸が以前からの宿であった。家格その他で決まるのではなく、建物が広いということから自然に決まっていたという。兄弟が同じ宿に泊ることもあった。大体一つの宿に八~九人というのが例であった。庄屋の赤松家の家屋は大きかったが、赤松家が宿をしたということは聞いたことがないという。また赤松家がワカイシと何らかの関係をもったということもなく、宿と網組も直接の関係はない。ワカイシは夜になると初寄りに使用した庵に集まり、寝る時には宿に帰った。ただ小若衆以上になると宿に泊ることよりも娘のところに行くことが多かったという。宿への礼は年の暮にその宿に泊っている連中が宿の主人(宿親)を呼んで馳走し、その際に歳暮を贈った。この宴会をトシワスレと呼んでいる。このほか、宿で人手が足りぬときには、農作業などを無報酬で手伝ってやったが、これには労働訓練といった色彩は認められぬ。また宿親が婚姻の際に活躍するようなことは無かった。
制裁その他 制裁は全員が臨時に集まって判定を下す。問題となるのは酒を飲んで乱暴を働くこと、盗み・賭博など、女子の場合には特に他所の部落のものと仲良くなることが問題とされ、ほされる(除名)のが常であったという。男女いずれにせよ除名の対象となった行為をなした本人のみでなく兄弟・姉妹ともにはずされる。はずされると嫁入りの際の荷物かきに誰も行かぬ。こうした場合には親類を頼んでワカイシに詫びを入れてもらう。その時酒四~五升を出す。これをロウソクを出すといっている。女子の場合、はずされる原因となった他所の部落の男が詫びの費用を負担した。これら制裁の具体的なことは聞きえないが、大正一五年の「青年規約」では第五条「本会ノ会員中不行跡ノ事ヲナシ本会ノ体面ヲ汚シタル事ヲ本会ニ訴出ラレシ時ハ評議ノ上其ノ罪ノ軽重ニ依リ相当ノ日当ヲ出サシメ且ツ場合ニ拠リテハ一週間以上ノ断交ヲ申付ク可シ」とか、第六条「本会会開(ママ)ノ節ハ一回ノ通知ヲ受ケタル時ハ直チニ参集ス可キハ勿論万一自己ノ自由ニヨリテ無断ニテ参集セザル時ハ罰法ヲ行フ者トス」第七条「本会ノ評議ニヨリテ規定シ或ハ相談セシ事ハ他所ニ於テ之ヲ吹聴セザル事、万一之ニ違フ者ハ罰法ヲ行フ事」第八条「本会々員ノ中右ノ罰法ヲ申シ渡サレタル者ハ其ノ当日ヨリ五日以内に物品ヲ本会ニ差出ス事、若シ之(レ)ニ違フ者ハ其ノ罰ヲ倍増スル事」、第一一条「本会々員中ニ於テ不品行ナル事ヲ致シタル者ハ其ノツミヲ紙ニ書キ記シ置ク事、但シ他所ニ於テモ不品行ノ者見届タル者ハ本人ト同当ノ罰ナリ」とある。昭和四年の「青年処女連合会々則」では第一四条「本会員ニ於テ不正行為ヲ致シ会ノ体面ヲ汚ス等ノ事アル時ハ臨時集会ヲ開キ行為ノ情状ニ依リ除名スル事」第一五条「以上ノ情状ニ依リ除名シタルモ不正者ニシテ誠意的改心ノ意志ヲ表明シ且又理由ニ依リテハ評議ノ上解除ス」と、それぞれ制裁についての規定を示しているのである。
忽那諸島の若連中
謡いぞめ(加入式)「若連中」とか「若い者組」といい、これに対して「娘宿」があった。若連中は一五歳で加入し、二五、六歳で脱退するのが普通であるが、妻帯すれば年令に関係なくいつでも脱退できた。中島本島の長師や宮野では、男女とも一三、四歳になると酒一升をもって宿親に頼んで加入した。若い者組に入ると、以後は自家に寝ないでトマリヤ(泊り屋)に寝起きする風習であった。
たいてい旧正月二日が加入式で、その日をウタイゾメ(謡い初め)とかトマリゾメ(泊り初め)といった。野忽那では一七歳で加入し、二八歳で退いたが、加入するときは旧一〇月の祭礼前に提灯一張をこしらえて加入する定めであった。睦月では一四歳で加入していたそうでトマリゾメといい、この日は娘を呼んでみんなで会食する風であった。宇和間でも二日をウタイゾメといい、行事の相談をなし、引き続き新年宴会を開いた。新入りはその時父兄に伴われて酒一升を持参したうえ、一同に挨拶して加入した。二神では一五歳で加入したが、三月節供に近所の先輩に連れられて酒一升を持参した。入りたてをコワカイシュ(小若衆)といって以後二五歳まで付き合った。
怒和には上怒和と元怒和にそれぞれ若連中があり、一四、五歳で加入した。加入しない者はハセノケにされた。在村の青年は必ず加入することになっていたが、二、三男で職人になって島外に山ている者だもの「職人若連中」も組織されていた。大工、木挽職、左官、畳屋などの職人になる者が多かったが、こういう若連中が別にあったことは興味深い。この職人若連中のできた理由は、若連中の任務が秋祭り、村芝居、盆踊り、その他の公共事業を行うことであったから、職人組のようにたまたま盆、正月の二回だけ帰村してくるような者の参加は望めなかったことなどによるものであろう。
組織 若連中には若衆頭がいて統率した。若衆頭は年長者がなるところ、家持ちがなるところなどがあるが、若衆頭はなかなかはばをきかした、二神では村の古老が決めていた。野忽那では頭領といい、島に二組(南北)あったので二人いた。五〇歳位の村の有力者がなって、若い者の指揮監督に当たっていた。元怒和ではそれを「元締」といった。若連中はこの頭領を中心に階梯的組織を有し、その席次は厳格であった。宇和間では必ずしも年令順によらず、「樽が古い」といって組入りの順序で決まった。また寄留者は末席に座するのを常とした。若連中は社会生活に必要なマナーを修得する場であったから、年長に対しては礼儀を重んじた。たとえば、若連中加入の際に新入りを父兄が伴って一同に挨拶に来た場合、父兄のために若い者は上席を譲り、父兄が退席しない限り、決して歌をうたったりすることはなかった。
泊り屋 加入すれば泊り屋に寝泊りするのを原則としたが、怒和では「若い者宿」と称して、頭の家か村内の適当な家にたむろする程度で泊り込むことはなく、むらごとの相違もあったようである。神浦にはこの泊り屋が七組あった。娘の泊り屋もあって娘たちは機織りを終えると泊り屋に出かけた。なお泊り屋は宿親の姓をもって名称とした。宇和間には四か所、元怒和には北小路、中小路、岩木小路の三か所にあった。
機能 若連中には、さまざまな行事や事業があって村落社会の運営に大切な機能を果たしたが、忽那諸島でも祭礼や盆踊りの世話が主である。年中行事としては、歌いぞめ(正月二日)、帳祝い(正月一一日)、磯あそび(三月三日)、麦うらしの芝居小屋作り、泥落し(五月)、秋入れ(九月)、おいれ(一二月の餅つき)などがあった。二神では宇佐八幡神社の秋祭りの神輿渡御には絶対の権限があって、もし神輿を二階から見降すようなことがあれば、その家を焼いても構わぬほどの権限が認められていたという。最近は離村者が多いので三体の神輿渡御は困難になってきたが、これをかくことは若者の名誉とされ、若者外の者には関与させなかったのである。神輿も年令によってかく神輿が決っている。その他、盆踊り、麦うらしの村芝居、亥の子などがあった。怒和には在島者で組織する若連中と、職人若連中があるが、祭礼奉仕、神社参道の修理、盆踊り、村芝居の主催は在島者でした。職人若連中は、旧七月二一日の大師相撲の世話、盆の一七日の職人踊り、大師道(島内四八ヵ所)の修理などである。また、夜学をしたり、宇和間のように「若い者講」を組織して法話を聴講したりした土地もある。毎月一回若い者の家を順次会場にし、住職を招いて読経ならびに仏教講話を聴講したのである。この風は当地方が真宗地帯であるのにもよる。
また若連中には「若者条目」があって、これを実践した。遵守しない者はハセノキの制裁を受けた。しかし、制裁を受けることは滅多になかったという。若者条目を今日伝承している土地はもうないが、上怒和の青年団規約はその遺存として注目される。以下その全文を掲げてみよう。
神和村青年団上怒和支部細則―盆及び祭事業実施に関する細則―
第一条 本規約は盆及祭の事業に関する事項を定める。
第二条 本細則は郷土伝の行事を円満盛大に行い、且又発展的に之を継承する目的を以って定める。
第三条 盆踊事業実施に当り前条の目的を達する為、男子(五名)、女子(五名)の委員を設ける。
第四条 委員の任務は委員相互協同一致し盆事業の円満遂行を図るものとして次の事項を行う。
(一)盆踊場の設置整理、盆踊の促進
(ニ)盆事業に関する会計
(三)盆事業に関する庶務並に諸物品の収出
第五条 盆踊の踊場所設置の際は全団員出席するものとする。但し特別な理由に限り支部長の認めたる場合はこの限りでない。
第六条 盆踊には理由なくして踊場所を離れてはならない。理由ある者は関係役員に通知するものとする。
第七条 祭道作には男子在島者団員全員出席するものとす。但し特別な理由に依り出席出来ない時は支部長並に其の旨通知するものとす。
第八条 祭余興練習間は男子在島団員は全員宮に集合するものとす。但し特別な理由に依り出席できない時は届出するものとす。退団妻帯者はこの限りではない。
第九条 祭余興役人の神輿守人員の配置は左の如く定める。
獅子舞頭 神輿一の体 脇持 右仝 後 右仝 前棒先
右仝舞上り 右仝 脇持 お爺 右仝 脇持
太鼓打 神輿二の体 脇持 歌歌い 右仝 後棒先
関取 右一の体 前棒根
以上の役人に依る以外の場所は年長者より之の配置を脇持、棒先、棒根の順序を以て規定人員を定める。
第十条 祭余興練習間は数の参分の弐以上出席しなければ神輿守人員より除外す。但し団員の認めたる場合は此の限りでない。
第十一条 若宮八幡神社の神輿守人員は左の通りに定む。
(一)小神輿守は数年十八才の中より (二)大神輿守は数年二十才の中より
但し特別な事項ある時は総会にて之を別に定む。
第十二条 本規約の改廃は総会に於て行うものとし、出席団員の弐分の壱以上賛意を得なければ改正することは出来ない。
第十三条 本規則は昭和弐拾五年八月一日より之を実施する。
右のとおり細則を規定し団員之に賛意す。
昭和弐拾五年四月一日
神和村青年団上怒和支部長 矢野 勝蔵 (印)
若連中から青年団へ
若連中は村々の若衆らによって自然発生的に組織されてきたのであったが、明治中期以降から次第に規津なども乱れて来て問題点を露出するようになり、結果、上からの指導で部落別の「青年会」に改称されて統制を受けるようになると、やがて自然消滅した。明治三七年のことである。
しかし、従来の若連中がすぐに解体したのではない。その習俗や慣習は一方に残り、これまでの性格をも温存しつつ近年に及んでいる。しかし、それはそれとして、表面的には明治三七年をもって若連中は解消し、明治四一年には村単位の青年会に発展して各部落毎に支部が置かれ、大正一一年にはそれぞれ「青年団」と改称されるに至ったのである。