データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

2 むらの意嚮  ―南宇和郡旧内海村の場合―

 むらの呼び名

 耕して天に至る段畑と榕樹の茂る旧内海村は、篠山山脈の一角観音岳(七八二m)を望みながら、一方に由良半島と、もう一方に西海町と境界をなす磯崎との間に開けたむらであった。網代・魚神山・油袋・家串・平碆・須之川・柏崎・柏・平山・深泥・防城成川・赤水・高畑・中浦・猿鳴のむらむらがあった。集落発生の歴史的な事情も生業の形態も異なっていたので、むらの運営はそれぞれのむらにあったやりかたがとられ、地先に開けた宇和海の豊かな自然を連帯して守りつづけていたのである。かつてそこは魚の宝庫であった。この宇和海という恵まれた自然環境をなかだちにして連合したむらむらにも、かつてのいろいろな歴史の影を負っていたのである。
 明治一二年九月内海浦九部落総代は連署して内海浦内小浦の名称存続の嘆願書を地方官に提出している。ここでの主張は、自分達のむらの呼び名をそのまま呼ばせて欲しいと訴えている。県はこの訴えを聞き入れている。

 事例28 分烈浦の儀に付願
   網代浦 魚神山浦 家串浦 平碆浦 柏崎浦
   平山浦 深泥浦  赤水浦 中 浦

右浦の儀は従來内海浦の部落に御座候へ共實は一浦獨立の形体を爲し且交際等も一浦一浦の区域判然致し今以て旧慣を相守候條夫々實際に就き御改正の趣に付各浦の名稱に相成候はゞ人民一統便宜に御座候間分烈様被成下度此段連置を以て奉願候也
  十二年九月十八日
 愛媛県令岩村高俊殿

事例29 内海村区制設置規程
各部落総代連署
一、制第六十四條に依り本村に區を設置し毎区に長及代理者一名を置く但区画及名稱を附すること左の通り
 第一区  網代部落  第二区 魚神山部落
 第三区  家串部落  第四区 平碆部落
 第五区  須の川部落 第六区 柏崎部落
 第七区  柏部落   第八区 平山部落
 第九区  深泥、防城成川部落
 第十区  赤水、高畑部落
 第十一区 中浦、猿鳴部落

 旧内海村では昭和三年大字名廃止を申請、六月許可同年七月一日より実施している。これは明治二三年町村制実施により、旧内海浦を大字内海とし、旧柏村を大字柏としたため、各部落の呼び名が使えず不便であったので大字名を廃止し、部落名を使えるような配慮が加えられることによって、戸籍事務の利便もさることながら、なによりもむらの人々に喜ばれたと伝えている。またこの年の三月には先の明治三一年内海村区制設置規程を改正し、従来区名を番号で呼称していたのを部落名を冠することにしている。あわせてこの改正のなかで赤水・高畑各々一区を成し計一二区の設立となったのである。
 自分のむらの名を呼ばせて欲しいという訴えは、それが単に呼称の問題に終始するばかりでなく、そのむらの存在にかかわる事柄であった。ことにこの地域の人口動態の一般的傾向として、江戸後期から昭和二〇年代までの間、ずっと人口増加の傾向を示していたので、従来「浦」「区」「部落」と呼ばれたむら社会もそれに合わせて変化していたのである。

 事例30 油袋部落の独立

      申請書
 油袋は部落区制実施以来、家串(部落)の一部として今日に至ったのでありますが、地理的不便はもとより戸数人口等 の増加に伴ひ、経済的条件及び凡る條件に於ても一個の独立せる区域(部落)としての形態を完備せるものと確信を得ま したので今回家串と話合ひの結果円満なる同意を得、こゝに永年の願望たる分離濁立をなすことになりました。関係當局に於かれましては右の趣旨を諒解せられ、油袋区域の独立を認められんことを代表者連署を以て申請致します。
   昭和二十五年三月三十日
油袋代表者 織田平太郎
        那須 文平
        前田仲太郎
        山下 佐七
        黒田松太郎
 内海村長 廣瀬友一殿

 愛媛県悪弊事項

 旧内海村の人々にみられるむら社会への強い帰属意識は役所の対応が思うにまかせなければ、長い時間をかけむらの主張を訴えつづけていることがわかる。しかしここにみられる例は、むらの主張が通った数少ない例であったのかもしれない。明治四四年に編纂された『内海村郷土史』のなかに、むら社会特有の習俗を報告しているのであるが、これと同じ頃出された「愛媛県悪弊事項」をくらべてみると二つの立場は全く異なっていた。明治の世相史を知るに興味深い資料である。

事例31 内海村郷土史(明治四十四年編)
(1)民俗総説 各部落至る処共同扶助の美風ありて又共同制裁の威権も強く従って犯罪者少く村の名譽を毀損する様の行動を見る事稀なり、蓋し此の風俗は地勢上より來りし此の村特有の俗習ならん(中略)村内の各部落は汀に並列したる竈の如く各部落民は各竃の如き一小谷に密集団欒して住居し只左右両方に不便なる山坂を以て劃別せられたる隣部落に通ずるより外は交通至難なる山海を隔てたる避取の小谷なるを以て谷間の民は遠く交通を求むる能はず只其の小谷民と日夕相面悟し恰も一部落民は一家屋に住する老若男女の如き感情を生し人毎に世界中に只此の一小谷民を除きては變災厄難の際互に扶助し呉るゝ者なき観念を生じ自然に共同扶助、共同制裁の民俗の発達したるものならんと推察す。
(2)習慣 各部落に若者組なるものありて男女一定の家屋に集合宿泊して共同制裁を行う風習古へより行はれしが、近時青年教育普及し古への若者宿は青年の倶樂部と代り大に風習を改めたり、流行病、旱天、不漁等災異の際には各部落民は神社、寺庵に酒肴を携へて集合し平穏利運等の祈祷(御籠)をなすを例とす。
事例32 愛媛県悪弊事項(明治四十四年頃)
一、祭典に於て神輿若くは太鼓台等を以て玩具物祝し渡御の節平素吝しょくなる富祐家又は怨恨ある者の家屋其の他の建物を破壊し又は暴行をなすこと。(松山市、温泉、越智、伊予、喜多、東宇和郡の一部)
二、農村に於ては部落民集会し衆を恃んで或る者に對し絶交を宣告し若しくは飲食せる費用を支彿はしむること。(温泉、越智、周桑、上浮穴、喜多、東、西、北宇和郡の一部)
三、患者重態となりたるときは願をなすと稱し、又は其の全癒したるときは願解と稱し患家の依願の有無に関らず部落民神社又は佛堂に集合し其の際に隨意に飲食し其の費用を患家より支彿はしむること。(一般)四、迷信の結果新に石碑を建設するときは石碑の角を欠ぎ取り勝負事は必勝するとして之を携帯すること。(一般)
五、友人の婚姻挙式に際し落着石と唱へて多数の青年集会して大石を其の家に搬入し以て饗應を受け若し接待に不満ありたるときは其の家の周圍に悪戯を加へ且公然罵言すること。(一般)
六、自村の婦女は自村の男子の占有すべきものなりとの弊風よりして他村の男子と情を通ずる女子あるときは青年男子多数にて該女子に暴行を加へ若しくは他の一般婦女をして絶交せしめ其の解除を乞はんとせば青年に酒食の饗應をなさざるべからざること。(温泉、越智、宇摩、新居、上浮穴、喜多、南、北宇和郡の一部)
七、他町村より入寄留者あるときは保證金を提出せしめ又は保證人を立てしめ若しくは酒食の饗應をなさしむること。 (一般)
八、公徳心欠乏の結果木綿又は絹の賃織を業とするもの其の材料の絹を窃取して憚らざること。(中、東、北豫)
九、部落内に軽微なる犯罪ありたる場合に部落民集合して嫌疑者を物色し之を叱嘖する風ある処に於ては其の罪科として其の際飲食したる費用を支弁せしむること。(一般)
十、神社、佛堂に参詣してわいせつの落書をなし又は濕紙を形像物に投付すること。(一般)
十一、神佛祭事に際し青年の男子は猿面を冠り且つ赤色なる女服を纒い妙齢の婦女に行遇ひだる時は直に抱き付わいせつなる行為あること。(東、北、中及南予の一部)
十二、織屋廻りと稱し多数の青年連行して工場に入り工女に対しわいせつの行為あること。(東、北、中及南予の一部)
十三、男女共十四才に至る中泊屋なるものありて同所に同衾し父兄は之を放任してあやしまざること。(一般)
十四、神事に際し賑をなし牛鬼と稱するものを若しくは太鼓谷を出し暴行を逞うすること。(東宇和郡の一部)
十五、兒童の悪習として毎年十月亥の日に各戸の門前に石を搗き金銭又は物品の恵與なきときは悪口雑言を吐き且つ路面を毀損して交通の障碍をなすこと。
十六、神佛の祭典又は縁日等に青年男女は通夜と稱して一堂に集り何等信仰心なくして徒らにワイセツがましき行為を逞うすること。(東宇和の一部)
十七、村落に於ては地狂言と稱し青年輩壮士演劇の稽古をなし正業を怠りひいて家庭に風波を生じ労働時間と失費を顧みざること。(東宇和の一部)
十八、施餓鬼念佛と稱し毎年七月中に於て佛閣に集合し楽器を鳴らして異様の扮装をなし狂気に類する行為あること。(右同)
十九、徴兵除けの祈祷と稱し壮丁者の家族は勿論親族、故旧の者等集合して社寺に詣で其の不合格ならんことを祈り、若し抽籤にもれたる場合の如きは神佛の加護なりとて又元の如く飲食すること。(一般)
二十、婦女の憤怒を止むる祈願なりとて陰茎の模型を作り神佛の堂宇に納むること。
二十一、盆踊りと稱して、七、八月頃月夜青年男女異様の扮装をなし終夜ワイセツの行為をなし此の機會に於て青年男女の野合をなすこと。(上浮穴郡内)
二十二、毎年九月十五日夜畦畔又は田に植付ある大豆を小量づゝ各所にて窃取し又は柿、梨、蜜柑等の果實を採食すること。(温泉、喜多)
二十三、迷信の結果路傍へ濫りに小祠を設くること。(松山市)

 むらの政治風土

 それではこの地域の人々は、むらと役所との関係をどうとらえていたのであろうか。昭和二七年三月魚神山、家串、柏の三地区で開催された公聴会の抄録をみると、各むらむらの利害の調整に苦慮する役所側の答弁がめだっている。

事例33 昭和二七年公聴会抄
質問 村議会においてとりあげている事項は、村民のためという大きな観点からなしているや否や。例えばAモデル地区につき第二、第三のそれがおきるかもしれない。部落こんじょうにより左右されることはないか。ある議員よりB小学校舎は腐朽甚だしきため相当修繕をくうから新築してはとも聞いたが、堅固なA校に塗料をかけるのはエイヨウブシンになりはしないか。
村長 農地保全モデル地区は、一集団地三十町歩以上を要するとのことである。Aがどうして候補地になったかは評知しない。段畑は全村的な問題なるを以て土木、農林水産委員会と共に研究し、価値の高きものより順次とりあげたいと思う。特に保全とは別に索道等のものを全村的にとりあげたい。部落議員はないと思う。自分としても公正にとり行う所存である。

 戦後の混乱期を過ぎて南予の小さなむらでくり広げられた公聴会のありさまは、その後のむらの政治風土の原型をかたちづくっていった。先の事例からそのしくみを読みとるとしたら、それは「部落根性」といわれているもののなかみであり、おもてむきは「部落議員はない」とはいうものの彼らの言動は一時期むら社会のなかに政治の季節をもたらしたのである。このころからむらのなかで地域行政の末端に位置づけられ肥大化した「部落行政」ということばが機能しはじめたのである。そうして従来の自治共同体としてのむらの独自性に影響をあたえるようになり始めるのである。
 しかし昭和二〇年代のむら社会にはまだまだ活力があった。内海村史では「誕生以来、行政措置は村又は村長の名に於て行われているが、その実態は部落によって行われている」といい、「行政全般にわたり部落の意嚮を定めずして事新しく行われることはない」と述べている。村制の主導権は部落つまりいくつかのむらむらが寄り合ってとっていたというのである。自治といいつつも支配原理の傾向が随所にみられる「部落行政」と、それぞれのむらをまとめる「部落の意嚮」とが複合してむら社会の秩序を維持していたということができるであろう。