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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

1 むらづくり

 ウチとソト

 むらで生きることと、むらをでて生きることと二つの生き様をめぐって愛媛の世相史を語ることができるかもしれない。むらは、さまざまな人間関係の輪によってひとつにむすびつき、その地域社会に固有な価値評価で区分されたそれぞれの役柄を演じさせ、あたかも強固な運命共同体として存在しているかに見えたのである。だからかつてのむら社会での制裁は、この関係の輪を強制的にたち切ってゆくことによって示されていた。むらではつきあいのないことほど淋しいことはなかったのである。人々はことあるごとに寄り集い、顔を合わせていた。人を知るということは顔見知りの間柄にある者同士が、相手の気心や性根を確かめあうということに他ならなかった。人は小さなむらのなかで、いろいろなおもいを抱いて生きてきた。だからときには意見があわないこともあるし、好き嫌いがあっても不思議でない。いく重にもからまる心理のあやをひとつひとつときほぐし、つきあいを重ね、任意の条件下で人がどう対応するのか、おおよそひとりひとりのふるまいを予想することができていたのである。
 人が生きるということは、煩わしいことをいろいろとしてゆかなければならなかった。むらを出てゆくことによってこの煩わしさから逃れ、さまざまな擬制から解放されたいと思い始めたのはいつごろのことであったのだろうか。むらに住む父親や母親がわが子の居所を紙に記しはじめたころから地域社会は大きく変化し始めていったのである。もともとむらで名を名乗ったり、尋ねたりすることはほとんどなかった。むらうちで名を尋ねるということは相手に対して失礼なこととされていた。「長いつきあいの二人の間で、まだあなたは私に名を名乗れというのか。馬鹿にしないでくれ」といったウチウチの心情があったのである。社会の急激な変化のなかで、このような微妙な心のひだにふれるようなやりとりは少なくなり、ウチとソト(ヨソ)とのちがいがなくなっていった。それは顔や気心や性根のコミュニケーショソから所や名や電話番号によるものへの変化となって表れたのである。名刺交換の儀礼が頻繁に行われるようになったのもこのころからである。

 情報環境

 確かにここ数年の変化は今までに経験したことのない大きな変化であった。人々は「戦争」と「近代化」という二つの歴史がむらの生活史を大きく変えてしまったことを感じとっている。そうして何よりも経済性を優先させた近代化のあらしは、人々の生活のしかたを根こそぎ変えるものであった。むらの土地利用と人口構造のありかたが変わり、気がついてみれば、意味に満ちた伝承的景観が音をたてて崩れ去っていた。人々の生活の基盤であったから社会が解体していったのである。社会変動をみても今に根づよく都市化傾向を示しており、いわゆる第一次産業に従事する人々はますます少なくなっている。このような傾向が進めば進むほど、人々は「むらの生きざまを棄て去ることが幸せにつながる道だ」といった夢の描きかたは、どこか間違っていたのではなかろうかと気づき始めているのである。
 今日では従来質的に異なるとされてきた、むらとまちとの生活環境の違いは相対化している。どんな人里離れたむらで生活していても、近代文明の恩恵を全くうけないで暮らしてゆくなどということはほとんど考えられない。ただ気をつけなければならないことは、物質、エネルギー環境の相対化に比べて情報環境の相対化の進展についての論議が比較的少なかったという点である。まだまだお年寄の知恵に学びながら、人々は今なお地域に固有なむら社会の秩序のなかで生きているのである。
 ここ数年、地域政策における生活環境の整備と保全に関する施策の重要性が指摘され、地域の風土や伝統に根ざした地域づくりのありかたが模索されようとしている。国際化時代にふさわしい地域社会創りの条件は、むら社会の秩序を新しいまちづくり、むらづくりの現場に生かせるか否かにかかっている。

 成るか成らぬか

 従来の地域計画は、むらの外で組まれることが多く、調査、計画、実践、評価の各段階をひとつひとつ手堅くつめてゆく方法をむらに持ち込んでいた。しかし現実には計画を実行しようとしても、地域の実情にあわなかったり、事態が別の方向へ進んでいたりして、せっかく作りあげた計画案が全く使いものにならないことがあった。
 地域社会の未来を展望し、むらの進むべき道を模索しようとすれば、そのむらに本来備った方法を読みとることが重要である。むらでの未来の描き方の特徴は、まずそれが成就するものか否かを感じとるというところにあったようである。ちょうど、正月に成り木責めといって柿の木などに傷をつけ「成るか成らぬか」と言葉をかけ、植物の生育を思いやり豊饒を予祝したように、これから先のいろいろな事柄が、成るものか成らぬものかを案じ、予知しようとしていたのである。もともと、むらでは成らぬことはロにしなかった。この世の常としてうまくゆく事柄は少なく、成らぬことの方が多いものである。ましてむらの生き方を変えるとなるとなまやさしいことでできるはずがない。「理屈へ理屈どこへでもひっつく」とか「風呂屋の釜は相手にできん(言・湯ばっかり)」といい、むら社会では言葉先行型の人の評価はあまり高くなかった。それに対して「言いはじめが事のはじめで、ええようになった」といわれれば、むら社会での一応の評価を得ることになる。つまり、人々はいろいろに思い描く未来の事柄が成るか成らぬか、まず吟味してからロにしていたのである。ひとつ判断がまちがえばむらの運命を左右するような事態になりかねない。この分別ができるかどうかがむら社会でのオトナ(オセ)の条件になっていた。「こうして欲しいという声があがっている」とか「あれはどうしても作って欲しいという声が出ている」などと人々の話題にのぼりはじめた頃には、もうすでにむらの状況は新たな事態にむけて動き始めていたのである。
 成るか成らぬかということは人々の言動やむらの変化を読みとることによってある程度予測することが可能であった。なによりも重要な判断の基準は、それがむらをまとめることになるのか、わることになるのかということにあった。むらをわることだけは避けていたのである。例えそれが成る話であっても実行しなかった。こういった場合、越智郡では「話しをタヤス」といった。計画中止ということであるが、タヤスというのは、家をタヤスとか田畑の作物をタヤスというときにも使い、ちょうどナル(成る)の反意語になっている。あるいはまた、それが成らぬ話であってもむらをまとめることにつながることであれば無理を承知で努力した。南予の宇和町や吉田町あたりでは、こんなとき「いかんいうてもいけるかや」とやむにやまれぬ気持ちを述べた。「あなたはだめだといわれるが、それはどうにも一方的な言い方で、あなたの意見は承諾しかねます。私の方にはまた別のやり方があるかもしれませんので、その方向でやらせてもらいます」といった意を含んでいる。稲を育てることに費やす数々の労働を指して「田を作る」と言ってきたように、成ることを祈りながらむらをまとめてきた人々の営みを「むらづくり」と呼んできた。いずれも辛抱して働き、少し我慢して人とつきあい、世渡りすることが、むらで生きる人々の一生であった。

 県民意識

 NHKが昭和五三年に行った全国県民意識調査によれば、愛媛県では、一、伝統的なものへの愛着が強く保守的であること。二、人間関係の面では、「みんなの意見に合わせたい」という協調性と「はじめての人に会うのは気が重い」という人見知り的な性向とがみられること。三、社会に対する無力感があること。以上三つの特徴があげられている。なかでも「地元の行事や祭には積極的に参加したい」という人が六四・九%と全国一多く、それとともに「国や役所のやることには従っておいたほうがよい」と考える人が五八・六%とこれまた全国一に位置付けされている。ことに愛媛県はこの調査を通して多数意見がいっそう多数になる答え方をしており、いわゆる答え方に強い特徴のある県のひとつにあげられ、「人間らしさや古さというような、良い意味でも悪い意味でも伝統的日本の典型」であると指摘されている。