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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

二 漁 具・漁 法①

 四季の推移、盈ち虧けのうつろい、潮汐の流れ、風の動き、陽の輝き、雲の流れ。岬のさえぎり、崎や江の凹凸、岩礁の大小、砂浜の広狭、湾入の曲直。時のめぐりと自然のたたずまいに応じてさまざまな魚群が訪れてくる。海面を飛び、海面に近く、あるいは浅く深く魚群は回游して来る。岩間や藻の中に静かに潜んでいる魚もいる。陸地で野獣を追うようには魚群を海で捕えることはできぬ。むしろ、魚群の回游の道筋に待っていて、捕獲するに最善の場所、あるいは可能な場所でこれを収獲するのが適当である。この場所が漁場であり、網代といわれる。機械の力によるのではなく、人間の力のみによらなければならなかったここ百年まえまで、人間はどんな道具を考案し、どんな方法で魚群、もしくは魚を獲っていたのであったか。

 網 漁

 およそ水産動植物を捕採する道具は多種多様であるが、それらのいずれもが魚の習性と自然条件のなかで人間の試行錯誤を重ねての経験との集約であり、かつまた改善の途次にあったものであるといえる。なかでも水を通し、魚を留める網の案出は魚類を大量に収獲する最も効果的な発見であった。網は漁場・魚群によって網形の大小、網目の広狭、嚢網の有無、浮子沈子の形質などを異にしているが、これを機能的にみれば全体的構造・装置および使用法の基本は共通的である。海面から掩蔽して捕えるもの、海中より抄い揚げるもの、網で曳き寄せるもの、網目にからませるもの、回游路に定設するものなどの各種があるが、次のごとく分類してみることができる。

 1曳網…網の中央に嚢を設け左右に翼網を出し、箕の形につくる。網の両端につけた綱により曳き寄せる。
 2繰網…曳網と原型は同じであるが網全体を海底に沈めて引曳し底魚を獲る。翼網短く曳綱が長い。
 3旋網…網を拡張して魚群を囲み、網の下端につけた足網を操作締括して浮游魚類を捕獲する。
 4敷網…魚の游行海層下に張り敷き、又は上縁のみを浮べ下縁は垂下させて回游魚を誘い曳き揚げる。
 5刺網…幔幕状の片網で、陸上でのカスミ網と同原理。魚介その他を網目にからませて捕採する。
 6建網…一定の場所に定設し、垣網によって回游魚を誘導、身網の中に陥れて捕獲する。
 7掩網…水面上より投下して魚類を掩蔽被包して捕獲する。
 8抄網…魚類が浮游し、または群集しているものを、その下から抄い揚げて捕獲する。

 網地の原料は麻糸・苧糸・綿糸・藁・葛糸・蚕糸などが用いられた。網目の編き方(結節)には本目と蛙股がある。本目は曳網などにおいて横面に張る網に、蛙股は刺網のように網目の糸の方向に反して拡張する網に用いる。操業する網構造の基本は、魚群を捕獲する主体となる網地、これを引曳する綱、網地を海中に立体化するため、網の上部にとりつけて浮力となる浮子、下部にとりつけ沈下力となる沈子の四要素である。
 綱は網を引曳するのみならず、網の骨格を形づくる。網の縁辺・その他の部分に用いられる。細いのを繩、太いのを綱という。網地の上辺に付けるのを肩綱(繩)といいアバ綱(繩)と称する。下辺に付けるのが足綱(繩)あるいはイワ綱(繩)である。
 浮子は桐を用い、長立形・楕円形に形づくる。網地の中央部、とくに嚢の上部にはエビスアバを付ける。あるいは見当樽といって浮樽をつける。
 沈子は網足を水底に接着させて魚の脱逃を防ぎ、あるいは網を海中に壁立させて魚道を遮断する。その原料は鉛・鉄・石・陶であるが、急速に沈降することが要求される網には鉛が用いられることは勿論であるが、小型の刺網には自家製の陶を用いたものが多く、海底状態によって異なるが大網には石沈子を用いた。沈子は固縛しているが、打瀬網のような曳網では海底土質、風力の差異に応じて加減されるものもあった。
 網の原料は天然繊維であったので腐敗を防ぐため〝染め〟を行った。渋液を大釜に入れて網地とともに煮立て浜で乾した。元来、漁村の地名のうち浦と名づけるのは漁民の居り浦であり、浜は網干浜(もしくは網代としての浜)であったのではないかと思われる。浜は〝潰す間敷〟場所として重視されていたようである。渋液は、檞・楢・栗・椎・櫟の樹皮煮出汁、柿渋のほか樺・撫・楊梅の皮であった。

 鯛曳網

 鯛は釣漁によるのが普通であるが曳網漁によることもある。曳網には地曳網と葛網との別がある。地曳網は鰮地曳網とおおむね同様であり、葛網は桂網ともあるいは葛寄せ網ともいい、振縄で魚を追い込んで捕採する。「鯛ヲ猟スルノ法数種アリ、此鯛大網ハ五人乗り舟式艘ヲ使用ス、其法先弐艘ノ舟二網ヲ分チ積入網代ニ至リ潮時ヲ考、魚ノ寄ル寄ラサルヲ伺ヒ、必ス寄居ルト見認ムル時ハ即チ貳艘ノ舟トモ海岸ヨリ貳百五六拾間沖ノ方ヱ漕出シ手強櫓ヲ押シ舟ヲ早メテ左右ニ別レ海中ニ網ヲ下シナカラ双方ノ舟岸ニ着クヤ否ヤ其網ニ着寄手繩ヲ手操寄、而シテ始メ双方ノ人手繩ヲ操居タル時ハ六七拾間モ開キタリシカ、網岸ニ近クニ随ヒ開キ居ル間モ亦随ヒ狭ム、其時魚網二充分乗居レハ急キ引寄セ、四五人海中ニ腰先迄這入、網袋ニ手ヲ掛曳上ル 此時壱大舟ヲ回シ来、獲ル所ノ魚ヲ手網ニテ救ヒ舟ニ入ル」とあるのは鯛地曳網である。
 鯛葛網についてに『漁業旧慣調』に「鯛大網略解・絵図三葉添 自一号至三号」がある。略解にいう…鯛大網ハ春分ヨリ六十五日目二始メ夫ヨリ四五十日間ヲ好季節トス、網使ハ中見当船一艘八石積乗組三人ハ(ガ<ママ>ヅラ)ニ付クル見当樽ヲ保持シ、後チ第三号図ノ如ク(カヅラ)ヲ操揚ケ而シテ網ノ前ニ致り木槌ヲ以テ板ヲ叩キ此響ヲシテ魚ヲ脅カシ網中ニ入ラシム、中船二艘一艘八石積乗組三人ツツハ(カヅラ)ノ両端ニ付タル見当樽ヲ持チ居り漸々(カヅラ)ヲ操揚ゲ終テ網船ノ碇ヲ取扱フ、(カヅラ)船二艘一艘八石積乗組四人ツツハ沖合人―トハ補魚一切ノ事スルモノヲ云フノ指図二従ヒ(カツラ)ヲ配り而シテ後第三号図ノ如ク網船双方ヨリ特ニ遭遇セントスル際、網ノ前ヘナル(カヅラ)ヲ操揚クルヲ司ル、見当船壱艘八石積乗組五人ハ所ヲ定メ投錨シテ諸船ノ目標トナリ且ツ沖合人壱名在リ標章木ノ枝或ハ白布ヲ用ユヲ網ノ配リ方及ヒ潮ノ遅速等ヲ考量(ママ)シ総テノ指揮ヲナス、網船貳艘内一艘ハ乗組十人十一石積、壱艘ヲ真網船、壱艘ヲ逆網船ト称へ、沖合人ノ指揮二従ヒ(カヅラ)ノ周囲ヲ曳廻シ而シテ漸々引揚ルモノナリ、小取船二艘十石積乗組四人ツゝハ(カツ<ママ>)船ヲ補佐シ而シテ槌ヲ以テ板ヲ叩キ魚ノ逃出セントスルヲ脅駆シ又捕獲シタル処ノ魚ヲ他へ販売スル等ノ事ヲ為ス、此ノ四人ノ内ニ壱人魚医ト称シ魚ニ(フキ)卜云フテ腹部ヲ膨張シ転展俯伏シテ游泳スルモノヲ針木ヲ以テ製スニテ彼ノ(フキ)ヲ突敗(ママ)リ、治療スルコトアリ、網長三百尋、海尺六十九尋ノモノヲ用ユ……。

 鰯曳網

 鰯曳網には地曳網と沖曳網とがある。網の構造の大小によって大・中・小地曳といい、あるいは大網・小網という。その仕立てはほぼ同様であるが、沖曳網は地曳網よりも縦幅がやや広く、かつ曳網は短い。また嚢の末端にさらに二つの小嚢をつけているものもある。
 鰯地曳網……網船一艘の乗組は二〇人、手船二艘。手船は漁船でもありかつ網船の副船でもある。網船が出るときは必ず手船が添って出る。手船乗組三人のうち二人は櫓を操り一人は船首に位置して魚群の動きを監視する。これを村君という。村君は網漁の指揮者であって手に菜を持つ。その指示によって網漁全体が縦横進退その手足のごとく動く。沖合に鰯魚群が見えたときは呼声をかけ竹貝を吹きならして漁師を召集する。畑で耕す者は鍬をおき、山で伐る者は鎌を収めて走り帰り、それぞれ木を曲げて柄とした叉手を持って船に乗り込む。網船が出ると、手船が斥候して魚群を見る。網船は網代に到着して魚群の回游を待つ。魚群が網代に入ると村君の菜の合図によって網を入れる。真網、逆網の二艘の網船は左右に開いて魚群を網で囲み海岸に漕ぎ付け、綱をかける。岸を距たること、二三十間にして網を曳く。魚群が手前にくると刈込棒を海にたたき込んで網の中に追う。手前は綱のみで網がないからである。この刈込棒をテン棒という。手元が小さく先の太い棒に綱をつけて空に放り投げて海中に投ずる。網を曳く者の掛声は始めは「ヒョイ ヒョイ」という。網が近くなると「ホウヘイ ホウハリャ エイエイオウ ホウハン エイヘヤ ホウヨヤ ネイヘヤ ホウヤラ ヘイエヤ ホウ」とくり返し、浮樽が残り二つになると「ハリヨ ヤッサ ヤッサ ヤッサ ヤリャ ヤリャ」と急調子になり網を引き上げる。嚢が来ると大きなタマ網で魚をすくいあげて船に揚げる。百桶を超す大漁のときは網船は櫓声をあげて漕ぎ帰る。「ホンリョエ ホンリョエ オウエイヤ オウエイヤ オウエイヤ ホンリョエホンリョエ エイヤ エイヤ エイヤ」と声を合わせる。網声ともいう。網乗組漁師のほかに臨時加勢し網曳きに参加する者を魚貰いという。その状況は「鰯網置時は魚貰船須叟にして雲の如く集まり、其網曳を助け而後魚を貰帰、これ又風習なりて魚貰の助勢肝要なる処あり、鰯地方へ寄事多ければ網置事梢繁、網使屡なれば網曳する者大に疲労して曳に勝へず、此時右の魚貰多き時は助多きゆゑ、網を曳揚る事最速かにして収獲多し、これ其力なり」と記されている。沖曳網は網を底にするが、地曳網は嚢だけで他は左右に引き別けて作る。二〇通りの網一五丈を折返して嚢を作り六枚で衽とする。これに二〇節二五反横五尋・一八節三〇反横五尋・一四節二五反横五尋・八節八反横五尋・八節一八反横五尋・七節一五反横五尋・七節一六反横五尋をつなぎ、これより十反五十尋その下は二尺目の大引を引く。長手を過ぎてさらに五尺目の大引二四〇尋をつけ、それに繩二〇〇尋を継ぐ。浮樽三四、沈子一四〇をつける。

 地漕網

 池漕網ハ立春ヨリ六十五目二始メ、夫ヨリ百五十日間ヲ好季節トス 網使ヒハ手船一艘ニ網主并ニ汐造一人ツツ乗込ミ、汐時ヲ見計ヒ汐造―トハ捕魚ノ節一切ヲ指揮スルモノヲ云フ―ノ指揮ニヨリ、カヅラ船弐艘・網船二艘トモ沖へ漕出ス 然スルトキ手船海岸ヨリ凡ソ十町許リノ処へ乗出シ汐造白旗ヲ船頭ニ立(テ)円形ニ振レバカツラヲ配リ廻シ海岸ニ漕キ帰ル、此時網船二艘ハ網ノ両端ヲ綴合セカヅラノ周囲ニ立廻シ海岸へ漕付ケ錨ヲ投シ捕魚スルナリ、小取船ハ獲タル魚ヲ生簀或ハ生船ニ積移スナリ、但シ潮ノ干詰及満潮或ハ合満ノ時ヲ以テ漁スルニ良トナス

仝製法ノ解 仝使用船并ニ役々配置法ノ解
(図表 「仝製法ノ解」、「仝使用船并ニ役々配置法ノ解」参照) 

 鯔曳網

 南宇和郡西海町福浦の湾内に鯔が回游して来ると遠見の見張人が菜(ザイ)を上下に振って合図をした。一振りは千尾であって、三千尾の場合は三度振って和田内沖の中網代で、それ以上の場合はザイを高く四、五回振り、海底の深い麦ヶ浦の高網代で捕採した。魚群が大きな場合は海底の浅い中網代を通過しないからである。この場合はいつも敷いている中網代の網を高網代に敷き替ねばならぬので修羅場のような忙しさとなる。網は四ツ網式であり、網代権は古百姓三六人の所有であった。大網は網を積む船である。大船・隅船・口船で魚群を締め込むと網を持ち上げて鯔の跳躍逃出を防いだ。陸の立石を網を敷くときの目じるしとしその沖合に基準船を配置したので立石船といった。魚群がさらに大きくなると笠ハズシの鼻を廻った武者泊の「ニョーロ」口の越網代に網を敷き替えた。見張所は福浦柿崎から大成川・名切の間に五人を立てた。大正時代になるとカマス・ハツ(魚へんに發)・鰯漁に従事することができない古百姓ができてきたのでその株の売買が行われ、鯔網操業に支障を来し、大敷網様式の鯔網となり昭和二八年漁業権が漁協に移管されるまで続いた。古百姓三六人は福浦のうち六網代の権利を持ち、六人一組となって二人ずつが魚見を担当し、三日ごとに網代を交替した。見張りはトオミ(遠見)、あるいはトリオカと呼ばれ、そのうちの一人を先人といった。番小屋は網小屋を兼ねていた。網はヒケヒケ網と呼ばれた地曳網であった。
 この鰯網はすべて一四節の網地で仕立てた。船に三筋の繩を取った方を乗口という。ここから魚群が入る。乗口の上の桁に横六反・堅一〇尋をおき、下に堅一八反を継ぎ、更に同様に継ぐ。四桁、あるいは五桁にして一布を減らし、つぎに二布を減らす。乗口の下方にコヲソという最も細い苧糸で一四節の網地を四桁まで二反どおり入れて縁とする。この網操業には漁船一二艘、漁師三〇余人が必要である。山にあがって魚見する者は鯔が回游してくると声を発して呼び、この声を聞いて漁師は船を出し回游する先に廻って好所に網を敷き、船中に伏せて待っている。鯔は、はじめは岸に沿って回游する習性があるので、魚見は魚群が網を敷いているところに来た好機に菜を振る。船中に伏せて待機していた漁師は急に立ち上がって網を揚げる。鯔網にはこの沖曳網のほかに片曳網がある。

   「鯔ヲ猟スルニハ八人乗ノ舟壱艘ニテ網ヲ使用ス 其ノ法先夜中ヲ好ミ昼間二猟スルコト稀ナリ 就中風雨等劇暗黒ノ夜、壱艘ノ舟ニ前記ノ人員乗組、網ヲ積入レ網代ニ至リ声ヲ発シテ櫓ヲ押シ舟ヲ進ムレハ魚恐愕シテヤ逃去セントスルニ海底ニ光ヲ顕ス其光ヲ顕スハ暗夜ニ魚群ヲ成スニ海岸近キ時ハ必ズシキト言フ虫群ル 魚ニ多ク附 蛍ノ如キ光ヲ顕ス也 之即チ魚ノ数多集リ居ル印シナレハ急キ舟ヲ早メ潮ノ上手二曲リテ網ヲ海ニ下シ四人ヲ陸ニ上ゲ、其網ニ着所ノ手網ヲ張リ、残ル四人ノ内三人ハ櫓ヲ押シテ舟ヲ沖ノ方ヱ漕出シ今一人ハ網ヲ投ス 而シテ思フカ侭二魚ヲ配り回シ舟ヲ岸二着ケ壱方ノ手繩ヲ張リ合ス 此時先ノ一方ヱ声ヲ掛ケテ合図トナシ双方壱時二手繩ヲ張リ、追々網岸ニ近寄二随ヒ、始メ百間余り開キ居ナリシモ亦随(ママ)ヲ近寄左右ノ人々共混交スルニ至ル 而シテ網ノ三方ヲ張り合シ壱方ハ舟ヲ回シ来リテ張時ニ獲タル所ノ魚ヲ手綱ニテ舟ニ投入シ且ツ網ヲ張回シ網岸ニ近附ク時迄ニ操寄ルニ至り魚網ヲ逃去ラントスルアリ 故ニ立網ヲ投入又ハ網中ノ魚ヲ鉄突ニテ突取り舟ニ入ルコトモアリ」と記録されている。

 この網は西宇和郡皆田産の網地六七七〇反を、長さ一三〇尋、幅五尋余と一九尋余に仕立てた。上浮子と下おも浮子をつける。おも浮子と上浮子との間は網を浮かせた形となり、おも浮子より下は網が水底に入る。この網代には三人の村君が山にあって魚見をし、網手は小屋で待機しその合図をまつ。鯔は山縁を伝う魚である。まず先山の村君が魚群回游来るを発見したときは「いくぞ!」と大声で叫ぶ。このとき菜で魚群の動きを示す。菜振り一度を上げるを魚百尾とする。この約束を定めておき魚群の大小を伝える。先山の合図をうけてつぎの中山の村君は魚の来るのを知り、かつその増減を菜で伝え「いくぞ!」と叫ぶ。中山村君の菜によって網手は乗船し網をおく準備をする。中山村君をうけた取山村君は無声で菜を振り網船の進退を指揮する。頭上で左右に振れば停止、胸前で左右に振れば前進、横振急なときは迅速な行動を意味した。引子の動作は静粛が要求された。網入れに際しては、網に短縮があるので地の浮手取りはこれを補正し、沖の浮子取りは直ちに沖の浮樽位置に至って待機する。他の浮子取りは地方にひき返し網入れに協力する。魚群が網に入ると網船は網を置き廻して直ちに上陸し人員を分けて網を曳き揚げる。網積船は普通の大型漁船一艘で櫓押四人、網入三人であって、仕入れは網主負担である。浮子取船は伝馬造りで一艘、地の浮子を取る。別の一艘の浮子取船が沖の浮子を取る。乗組は各一人で、これは網子の仕入れである。収獲魚の分配は網主と引子とで折半する。引子分のうち、取山見は二人分、先山見・中山見は一人半宛である。取山見二人分は引子分より一人半、網主より半人分を負担、他の山見一人半分は引子分より一人、網主より半人分支出する。浮子取船は引子分、網主より各一人分、計二人分である。網遣いの時期は立春にはじまり清明のころ終わる。晴雨にかかわらず操業するが少しく風立つ日をよしとする。網の耐久度は中央角の内(立目)は一年に二度取り替え、その他の網部分の半分ぐらいは年々取替え、のこりの三分の一ぐらいは次年緊要でない部位に充当して使用した。網は一日に両三度あて使用したが、最初一番遣いは一日干し、その後は漁の都合によって五~一〇日に一度干した。しかし一〇日以上手入せずには遣うことができなかった。損耗度が大きいからである。網染めは椎皮を槌で打割って細片とし、これを釜に入れ一斤(一六目)につき水三石二斗を加入して焚いた。薪は松の大束を用いた。六時間に三度沸騰させ桶にくみ出した。同様に二番汁をつくり、この両汁を纒めて放冷し、晴天の日に網を染汁に投入し、漬濡した網を染船の上に渡した横木に掛けわたして水分を滴下し、網干場で曝乾した。干物は日光適射の地へ小石を散布するか、あるいは天然の小石海浜を選んだ。椎皮は網百反につき六七斤七合五勺を必要とした。染汁は一〇日間ぐらい使用することができたがそれ以上にわたる使用は効果がなかった。鯔の仕成は生の侭売却した。

 ハマチ曳網

 猟船二艘一六人乗りで網を置き廻す。一艘四人乗手船三艘を必要とする。八節目網地で長さ一五〇尋の前張りを使用する。手船一般は定置にあってこれを持し、他の一艘はその先を狩って魚群の逃失を防ぐ。村君は山にいてザイ(菜)で方向を合図する。網を引き揚げるときには袋を解放し魚を中に生かし、手船二艘が袋を吊ったまま漕いで活簀船に至りそのまま活かしておく。ハマチ網は十月より翌年四月までを好季節とする。南宇和郡内海村家串では毎年正月の寄り合いで東組・西組の人割りが定められ、板に墨書して掲示された。ハマチ網人割表には各組とも右網・左網が上下段に書かれていた。真網船と逆網船の乗組人割りである。各組・各網の人割りの役目として友・セガイ・大脇・コヒジ・内口・中ロ・アバ・アバホ・岩・浮人がある。友は艫で艫櫓押しである。以下中口までは櫓押し、浮子・沈子置きがある。アバホは浮子補(助員)であろうか。浮人は上述の船役以外の補助役に任ずるかと思われる。
 南宇和郡内海村家串はハマチと鯔が回遊して来る。漁業権は油袋と家串の人たちが株を持つ共栄組合の所有である。油袋はもと家串の小字であったが分離した集落であるという。昭和一九年、農協が発足したとき、ここの網代権は家串の財産権となった。百姓株の網代権が農協に移り、操業については共栄組合が担当するといったところであろうか。網は昭和三五年まで中組もあったが若い者が都会に出て行ったので消滅した。人割りは正月二日に部落総会で家串四人、油袋二人の責任者が選出される。ヤマアガリで任期一年である。この総会で区長・副区長・総代・老農も選出される。区長・副区長はハマチ網の代表者を兼ねる。ヤマアガリは一月一八日の須ノ川の観音様のお祭りまでに諸条件を勘案し、老農と相談して人割りを決定する。掲示場所は家串農協前・油袋消防ポンプ小屋前・網船のヨコガミである。人割りによる配役によって魚獲分配の分代に多少の差があったことはいうまでもない。鯔船の人割りはハマチ網とはいくらか異なっている。不漁のときは潮直しをするが、このときには責任者の妻が観音様に参籠し、逆立ちやつべくり踊りをしたという。

 大敷網

 大敷網の製は、其形状物をさびる箕の如し、魚を取る処を陥しと云 陥しの方杉丸太を二つ並べ、其二貫を通じ尺竹を三本くくり、三把をくくり付し物を台 と号したり これ第一のあばなり このあばに碇を入る事十四、繩は七筋なり 網の長さ百尋 このあばを以て基とすこれに付く処のあみ、両端をくびにて、四寸目五つ起り、五尺間に三目を増す 長さ十尋三十目にて止 其次は織子にて又をくびなり 一尺五寸に起り三尺五寸に止 長さ十尋 其次、幅三 尺五寸長さ一尋 中央陥しの上幅三尺五寸に  長七尺なり 陥の下幅三尺五寸に長さ五反なるもの一枚あり 先これを以て第一段とす これに次第二段は四寸目にて五尺間に三つの目をまし三十八にて止 三十三起なり 長さ十尋なるものを十枚綴合す 第三段は六寸目一尋間三つの目を増 二十五起りにて二十七に止 長さ五尋なり 第四段は八寸目にて二十二起り二十五に止 長さ十尋なり これより上三段は大引の網にて、第一の段のみ椶櫚索の網なり 以下二段は大目繩を以て製すること図の如し 這網を布(し)には三方碇を以て止め、一方を開き魚の来る口とす ロの中央三の大碇あり左右の角を見付のあばと呼 ここに猟船二艘づゝを置 舟に四人の人あり 舟一艘に網口の央より綱二筋づゝを取、これを取綱と云 又台より第四のあばの辺りに魚見舟あり 其舟には柱を立、上にわくを組、人これに上りて魚の来るを見るなり 又陸の山にも魚を見ものあり 共に魚を見れば見付の番船に知らしむ 番船急に取綱を手繰りて中央へ到り網を引上 其より締、漸次に陥の方へ追詰め、魚陥しへ入れば小魚は玉を以てすくい、大魚は打鈎にて取 魚又来れば亦始の如し

 南宇和郡内海村魚神山には鯛網代・横引・家の前・西泊・引出・イサの浦・荒樫・長末の八網代があった。荒樫は旧役人の定置網網代、家の前は庄屋の網代であった。魚は左回りで入ってくる。夏は宇和海を北上し、秋になると南下してくる。由良半島の北側を左山、南側を右山といった。漁期は旧三月一五日から九月いっぱいであった。大敷網は二月ごとに三回敷きかえた。操業に必要な船二艘は網子衆が出した。大敷網の算用は地曳網と通算して行われた。七月一三日が本算用であったが大敷網があがると旧の一〇月に算用があった。一二月二〇日が大算用であった。網は陸地から四尺目の垣網が一五~二〇尋で道網という。海岸線に沿って身網が延びる。片側の長さ六五~七〇尋、全体で一三〇~一五〇尋である。その先に建切りが沖に出ている。目の大きい垣網である。網の先端は魚取といって台袋になっていた。くもらないようにごついもので作った。椋欄繩を機で織った親指もとおらないくらいの網目であったが、それでも六貫目もある鮪が首を突込んでいた。この台袋にいちどに五、六千貫は入る。竹浮子は長さ三間ほどの貫は入る。竹浮子は長さ三間ほどの竹を縛って一抱えくらいになるようにした。竹浮子二本に一個の碇を付けた。繩袋に石を入れた。一碇は二百貫ぐらいであった。道網と建切りのそれぞれが身網と結合したところには特に大きな碇を付けた。二五人役ほどかかった。道網・建切り・身網はすべて藁繩で、カンゴク繩と呼ばれるものを使った。

 桝立網

 桝立網ハ四月ヨリ六月マテヲ好季トス 其間一昼夜ニ大概三度ツゝ漁ス 網使ヒハ網船壱艘、乗組弐人ニテ第二図ノ如ク、岬ノ小湾ニ潮ノ過廻スル所ヲ網代トシ、地方(ぢかた)ヨリ網ヲ曳連ネ、網代ノ四方へ碇ヲ卸(おろ)シ網ヲ配リ置キ、潮ノ激ナルトキハ(イ印)ノ浮標ヲ取除ケ、跡へ石ヲ括付ケ、別ニ浮綱ヲ付ケ網ヲシテ沈没ス 又汐ノ緩ナルトキハ浮標ト網トヲ替へ故(もと)ノ如クス 然ルトキハ魚(口印)ノ網ヲ伝ヒ(ハ印)ノロヨリ游入シ出ロヲ恐レ狼狽スルヲタマ網ニテ掬ヒ取ルナリ

 鰆流瀬網

 鰆流瀬網は初夏より五〇日間を以て漁業する。網遣い船一艘八石積三人乗にて最初見当標を下ろし、潮流が東西に流れるときは南北に、南北に流れるときは東西に、一直線に網を下ろす。潮流の速いときはおよそ一里半余り、また緩やかなときは八、九町ないし一七、八町ばかり流転する。およそ三、四時で引き揚げる。夜漁が最善である。網の長さ三二〇尋、海尺九尋のものを使用する。

 底曳網

 底曳網は立春より六五日目に始め、一二〇日間を好気節とする。網遣いは、手船にて漁場に錨を卸し、汐造の指揮に従い海岸よりおよそ三丁ばかりの処へ網船を漕出し、網を真一文字に投じ、なお、左右の中へ向け巻網を投じて海岸に漕ぎ巌につないで(ロクロ)を以て巻網を取り入れる。網が近寄るに従い捕魚する。但し、潮が充満のとき、および干づめの時をもって操業する。(図表 網仕立て 参照)

 手操雑魚小網

 二人乗りの船一艘に網を積入れて網代に至り、昼夜の別なく図の如く船を操り、海中に網を下ろし、潮に従って風を帆に受ける。一の手繩を船の艫に取り、一の手繩を舳に取り東より西に至るあり西より東に至るあり。その運行海路二里~三里に及び、始めて帆をおろし双方の手繩を操り上げ船に入れる。鰈・(魚へんに豕)・鮧・鰣・鰻など数種の魚を網の袋より手網または籠ですくいあげる。

 立 網

 二人乗り船一般に網を積み入れ網代に至り、潮の干退を待ちて藻際磯端等に配り立て置く。然るときイサハ・鰈・メバル・タナゴ・オマセの類は潮の満ちるに従いて磯端藻際に寄る。その往返するに自ら網に縺る。船は網を配り立て置き家に帰る。翌日未明のうちより又船を押し出し、その配り立て置きたる網処に至りその網を操り揚げ船に入れ、縫れ居る魚を外して捕る。

 珊瑚捕網

 高知県の沖ノ高・姫島・水島・鵜来島・枇櫚島等の海底に生ず。冬春の天気は多く風吹き波起りて採取難し。四月始め九月末頃までの間風波の穏やかなる時季に専ら採取する。潮の往来を考え図の場所で採る。この場所は南宇和郡の漁夫が常々営業する場所である。珊瑚網の製法は、麻苧目方おおよそ一五〇目を長さ七〇尋につむぎ、これを四寸~五寸までの目板をもって横二一目に掛け、竪七目にすき下ろし、海尺三尺七、八寸で長さ六尺五寸に仕立て、網波という周り七寸ばかりの青竹を長さ六尺五寸に切り四つ割りにし、其の一つは網目に通し、一つは貫かずして竹の両端と中の二か所を結び、その両端へは目方一二〇目くらいの小石を括り付ける。手繩という網苧二つ繰に綯い、長さ八尋とし、是を二つに折って四筋とし、それを網波竹の四か所に括り付け、一丈上に一と束ねに結び、これに曳繩を付ける。また網の下へは岩石という目方七、八〇目くらいの小石を網の目一つ逃しに括びつける。珊瑚網船は一艘三人乗り。内二人は網方、一人は櫓方である。
 「明治三一年ごろやったかな、楠の弥次郎船が、姫島の岡ノ瀬やったと思うが、一貫六〇〇匁の新本を取ってな、桃色やったが、何と三五○円したいうて大評判やった。その祝いやいうて部落中に酒を飲ませたがな。その頃の深浦には珊瑚網船が五、六〇軒あっつろうか」と南宇和郡城辺町深浦の古老はいう。その時の被傭船の高給取りが七か月で一九~二一円であったという。大正になってから、同じ深浦の加藤熊蔵が鵜来島の心配瀬で三貫目もある珊瑚を採った。時価千円であったという。明治三二年、東外海村漁業者総代大東虎蔵は「高知県との漁業紛争に係る漁業告発事件について本県漁民の入会漁業の事歴を証明する報告書」を高知県中村区裁判所に提出した。その中に「珊瑚探採場ハ別紙図面ニ○符号ヲ付シタル箇所ニシテ、本村漁民珊瑚探採業ノ創始ハ明治八年ニシテ、ソノ始メハ八幡ノ瀬、股ノ浅瀬等ニテ探採シ、明治九年鵜来島瀬ノ上ニテ盛ンニ採取セリ。爾来漸次各所へ新瀬ヲ探検シ採取ニ従事シ、進ンデ陸地ヲ距ル十里以上ノ海洋高島ノ瀬ニ出漁探採スルニ至レリ。」と述べる。また、「宇和郡外海浦ノ内深浦 山下儀太郎 右之者珊瑚探採業ヲ始メシハ明治八年九月ニシテ、同年中ニ起業セシモノ拾余艘アリ。而テソノ探採ノ場所ハ専ラ幡多郡沖合八幡ノ瀬、中瀬、股ノ浅瀬ナリシ。同年霜月十五日、右浅瀬ニ於テ量目弐貫八百目ノ桃色大珊瑚ヲ採取シ、明年一月之ヲ携へ上阪シ代価四百弐拾円ニテ販売セリ。ソノ際画師ヲシテ之ガ写生ヲ為サシメ、軸物トシテ該家ニ保存シアルモノ則チ別紙之通リナリ」の記述があるという。明治一〇年、内国勧業博覧会に赤珊瑚を出品し、内務卿大久保利通より表彰状を受けたのは深浦の小幡素である。

 吉田磯の鯛飼付漁

 越智郡魚島村江ノ島の吉田磯は満潮時一七〇尺、干潮時三二尋の水深があって鯛の棲息に好適の漁場である。この適所を利用して餌料を投じて鯛を誘致し、その集まる機をとらえて縛網を投じて魚獲する。この縛網では威繩を使用しない。寛政(一七八九~一七九九)のころ阿波の千石積の運搬船吉田丸が玄米を満載して航行中、航路を誤ってこの磯に擱座し沈没、玄米はすべて海底にあって腐敗し鯛の餌料となり翌春の漁期に鯛の集合殊に夥しく、以後吉田丸にちなみ吉田磯と名付けたという。古来、鯛船曳の付属網代であったものを明治四年ごろ初代米原紋三郎が繰縛網をもって大漁をし、明治九年有永次郎の主唱により人為的に鯛を餌付けしようとして米糠を煎って粘土と混ぜ俵に入れ投下し繰網を入れたところ好成績であった。その後進んで餌料の改善を加えた。一俵の餌料中に煎り米糠一斗五升に粘土三倍をよく攬絆して俵につめ、漁期の一〇日前に第一回の投餌百俵を磯の周囲に撒沈し、爾後二週間内外に五、六〇俵を、その後は一〇日を経て三、四〇俵を投じて絶えず補充して、一漁期に投下する俵数は年々三五〇俵にも達した。明治一八年、餌料にシャク虫を一回に約一石宛を漁期中に二、三度投下するとともに煎り糠量を増やして効果を挙げた。明治二四年、落札者清水石松・大林音吉はさらに餌料を改善し以来鯛餌付漁場としての免許をうけた。餌付漁場では五人乗りの警戒船二~三艘を出して五〇余日間、昼夜の別なく漁場の取締まりに任じ侵漁者を警戒した。鯛網は潮流の干満を計り、潮流が磯に向かって流れる時に投網し、海潮の逆流してくる時に網を引き揚げる。操業のさまは、『されは熟練なる老漁師は一小艇に乗し磯の中心に錨を投し潮流の干満方向を凝視し、其の間絶えず信号の小旗を手にして投網の指揮をなす、而して磯の沖合五百余間の位置には五十余人の漁夫二隻の漁船を泛へ以て信号を待てり、やかて機熟し信号一振するや、是等の漁夫は急速舫綱を解き、漕手は数挺の櫓に身を寄せ網手は投網に着手し且つ漕き且つ投して直に磯を囲繞す。囲繞の将に了らんとする頃には、予め配置せる小艇十隻中の漁夫六十余人秒時を違へず一斉に鉄槌を以て板片を打撃すること十余分、其音憂々として海底に徹し威嚇せられたる魚族は潮流に従ひ遁逸を企て次第に網底に流れ来る、魚群の遁来を待てる漁夫は機を見て網を磯より曳き離し、直ちに之を締め繰り上に著手す、此離磯と締網とは操業最も巧妙を極め其間髪を容れすといふ」と記されている。
 鯛縛網は網船(イチバンロ(一番櫓)、ソトロ(外櫓)、ドロウ(胴櫓)、ワキロ(脇櫓)、セガイ、アバロ(浮子櫓)、トモロ(艫櫓)の七挺櫓で、網を積み込む)である真網・逆網の二艘、かづら船二艘、錨船二艘、手船一艘、小取船一艘で構成され、オヤカタ(親方=網元)、オキアイ(沖合=漁撈長)、センドウ(船頭)、トモオシ(艫押し)、アミコ(網子)の役付けによる六〇人余の漁夫によって操業された。網船を沖に漕ぎ出し漁場に到着するや真網船と逆網船は左右に別れながら網を下ろしつつ円状に進み終に交差する。錨船、かづら船は網船を引き付け錨を打って固定する。網船では浮子曳き、網曳き、わく曳きが定位置にあって網を曳いた。
 吉田磯は魚島東方一里の江ノ島南端の暗礁である。その形状はお竈さんに似ている。虫を食いに入っている鯛を追い出し網の方に向かわせる。小石を投げ込んだり板を叩いたりして追い落とした。吉田磯で操業することを〝吉田をおとす〟といった。小潮のトロミ(潮流停止時)に網を入れた。魚網を下ろす祝儀をオキダテといった。真・逆網船がもやい船をして二度回って網代を押出す。このとき真網の船頭が酒を注ぎ〝十万はとりたいや、酒つげや、この家の網にがうおしいだし〟と唱えた。

 白魚漁

(1) 四ツ手網 淡水、もしくは淡鹹水の交わる河川口で細魚を漁する小漁具であり、一、二人で操業することができ僅少の資材で製作できるので地形・捕獲魚種に適すればきわめて経済的といえる。宇和島市来村川と神田川とが合流する付近で使用する四ツ手網は敷網であって主としてシラウオを捕獲するに用いるが、また蝦や雑魚を漁するにも用いる。シラウオの漁期は大寒後から彼岸の間で、産卵のため河水に入るのを漁するので専ら潮入りの辺りで操業する。網の仕立ては綟子織一尺二寸巾のものを長さ六尺余に切り、五枚を並べて継ぎ合わせ、上下両辺に白木綿五寸巾のもの左右両端辺には同二寸巾のものを継ぎ、凡そ七尺四方とする。白木綿を付けるのは魚の出入りを見易くするためである。四周には麻繩四分まわりのものを渋染した縁網を附け、四隅にはチ(乳)を設け、乳には円周二寸ほどで長さ六尺の竹を張り、これを別に二本の竹を繩で巻き十文字に交叉したものに刺し結び、さらにその十文字交叉点に柄を結びつける。その柄も竹で、円周四寸五分、長さ三尋ばかりのものである。張出竹という。四手網は船上で使用するのと陸上より差出すのと二様あるが、シラウオは船上で操作する。船を棒で静止せしめ張出竹を船梁に固定し、網を艫より張り出して水底に沈め、魚が網中に入れば急に張出竹の中央を肩で担ぎ上げる。張竹は屈撓して網の中央部は凹窪し自然に袋状になる。長さ二尋ほどの柄に径一尺ぐらいの竹じょうけを固定した取りじょうけで網底を叩き、魚を躍り上げて掬い取る。
 (2) 地曳網 北宇和郡津島町岩松川での白魚漁は地曳網である。昭和五八年現在、採捕許可証を受けているのは同町高田丙五二三 松浦寅松と同町岩松九八〇の一 松本巌の両名のみである。松本氏が父からこの網を継承した大正後半には一〇名であった。岩松川の改修がすすめられるに従い魚獲が減って一日一升程度になり二人遣いの地曳網操業では日役にならなくなった。川が狭い頃は両岸から網を曳いたが広くなってからは街並がわの川岸に曳きあげるようになった。魚獲場所は宇和島自動車岩松営業所の前あたりである。船は使わないで胴長をはいて徒歩で操作するので川岸から二〇尋ぐらいまでのところが漁場となる。このあたりは干汐になると東がわの川幅の三分の一は干揚って河原になってしまう。松浦氏の場合は小舟に網を積み込んで竿で操舟して網をおく。網入れは魚群を視認して行う場合と潮流を勘案して行う場合があるが、ほとんど後者による。魚群は満潮のアビキにのって澪筋を遡る。岸に沿って遡上することも多い。遡りはじめると下ることはない。漁期中、風の日以外は漁が出来る。大潮のときは朝・夕の二回、小潮のときは満潮時に網を入れる。一潮三時間ぐらいの間に一〇回ほど網を遣う。潮の上げ終り頃に岸からゆるく鈎形に網を張り魚の入るのを待つ。流れに乗って遡上してきた魚群は網囲いの中に入り上流に向って右折し(岸沿遡上魚群は左折)網に沿って回游する。この時をのがさず沖側の網を岸に廻し寄せて退路を断ち、左右の袖網を等分に岸に曳いて漁獲する。地曳網は綟網を用い、中央部に袋をつけた五尺一尋での二三尋、幅は四反で約二メートルである。浮子・沈子を適宜付けるが、沈子は小さいものを数多くつけて川底の石磔の隙間から魚群が逸逃しないよう配慮する。綟網地の目合は昔から一八〇~二〇〇である。水の抵抗を排するため操作の楽な一六〇目合を使用したところ白魚が目に刺さり徹夜で仕立てなおしたという。目合二〇〇は二・五耗角見当の網目である。網を曳くときは岸に対して浮子網・沈子網が上流側・下流側のいずれにも傾がず拠物線状になるように曳き、とくに沈子を川底から離さぬよう留意しなければならない。白魚は目方売りでなく容量で販売される。昭和五八年の春、漁・不漁にかかわらず一合八百円で主として料亭用に酸素注入ポリ袋に入れて買われて踊りぐいとして食卓に出され珍重される。なお、南予でとれるシラウオはシラウオ科のシラウオではなくハゼ科のシロウオである。
 大三島町台本川では河口から三〇〇メートル上流で川幅五メートル、水深一五センチのところに七本の鉄パイプを立て干潮時に流れをせき止めるように網を張り、湖上した白魚が網に入ったところを魚獲する。

 アビ漁

(1) 抄網 抄網は木・竹・金属をもって網の周囲を支持し、底は袋状をなして水中の魚を抄い揚げる漁具で、網漁具のうち最も簡単な構造である。二神島のイカナゴ掬いは明治三五年から始められたという。由利島西端の豊後崎沖合がその漁場である。アビの渡来群遊海面とこの漁法は昭和六年に天然記念物に指定された。アビは夏季樺太・千島で繁殖し、冬季南方海上に渡る。瀬戸内海へは二月初句より五月中旬に群をなして渡来する。アビは瀬鳥・真鳥・平家鳥といわれる。渡来の時期はイカナゴの漁期であり、かつ鯛の産卵前期と重なる。アビは海中のイカナゴを捕食する。数十羽が群れをなしてイカナゴの魚群を追いつめると魚群は塊状をなして集結する。漁師が掬い網(丸叉手)でこれを掬い採る。漁師はイカナゴを追いつめたアビに擬するに竹竿の先に白黒の布をつけて振り、あたかもアビが飛び回っているかのように魚群を威す。イカナゴはアビに追いつめられ海中に沈もうとすると鯛が捕食しようとするので浮びあかってくる。アビ鳥付きイカナゴ漁は二神島・津和地島・怒和島でも明治中期以降盛んであったが、いまは由利島でも姿を消そうとしている。
 『日本水産捕採誌』には以下のごとくある。

(2) モガリ釣 怒り網代は豊田郡齋島の北久比島の南東にありて齋島の地先に属す。大崎下島より西南に四海里、西は伊予国安居島を遥かに望み、北は屋久比島、豊島及び蒲刈島の東南面と相対す。潮流数条に分かれ各島の間を急駛し、終に齋島近傍に至り相衝突して海水盤渦するもの方数町、即ち是れ怒り網代なり。毎歳春分の頃より玉筋魚の此に聚るもの多く海面処々に群団をなす。時恰も鯛は産卵期に近づき外洋より内海に入るもの亦此に来り海底の磊イ(石へんに鬼)たる岩礁の間に群りその玉筋魚を哺食す。この時に方り又一種の水禽あり。土人呼んで平家鳥といひ又瀬鳥或は怒り鳥・埋め鳥ともいふ。幾百千群り来りて亦玉筋魚を啄む。この鳥と玉筋魚及び鯛の来るや恰も時機を約せるものの如く怒り網代にては春分より八十八夜に至り近傍二窓浦の沖合にては彼岸凡一五日前より八十八夜凡十日間とす。該鳥は性甚だ饕餮終日間断なく魚を駆逐して厭ふことなし。玉筋魚之を畏れて海底に沈めば、海底には最も玉筋魚を嗜む鯛ありて之を食ふ。故に玉筋魚は之を避け彼を逃れんと欲して海水中を一上一下して終日止む時なく他に逃れ去るを得ず。故に鳥と鯛とは相侯ちて玉筋魚を浮沈せしめ以て各其食に飽くことを得るのみならず鳥の在りて時に玉筋魚を海底に逐い食を与ふるに由り鯛其処を去ること少く、随って漁人は漁獲の利を得るなり。其故に此の網代の釣業は該鳥の来るを以て開き、去るに及んで閉ず。漁人はその漁季中該鳥の事に触れて飛散せんことを恐れ動止意を用ひ、鳥も亦自然に狎れて敢て人に驚怖することなし。漁具は緡糸は麻糸製三〇尋に生糸製二七尋を継ぎ其七尋間に鉛製ブシマ四〇個を装す。其の距離初めは遠く末に至り漸く近くし終りは一尺間に止む。其の末に天蚕糸一五尋を継ぎ又是に天蚕糸の枝糸一〇本を附く。枝糸の長さは各一尋とし毎枝一鉤を結び、幹糸の末端には鉛製重量七〇匁の沈子一個を附く。餌は擬餌にして生物を用ひず。その製カワハギ若くは鯛或は鱸の皮を以て玉筋魚の形に擬造せしものにして、之を鉤の軸に結束し鉤の尖頭をその中心に貫くなり。之をモガリ鉤といふ。漁法は小漁船一艘に漁夫二人乗組み晨朝より漁場に至り一船一具を使用す。その法先づ沈子を投じ鉤を下して静に動かし魚の挙動を窺ひ、魚の罹りたるを知れば直ちに緡糸を引揚げ魚を収め而して復た鉤を下すこと前の如くす。斯の如くすること終日数十回にして一人獲る所の魚多きは十七・八貫に上ることあり。凡そ諸種の釣漁中奇利を獲ること此の具の右に出るものなし。
 この釣漁の起源は遠く寛永年間(一六二四~一六四三)にありといふ。然れども其釣具も尋常のものにして餌は活きる玉筋魚を用ひしなり 然るに偶ま水禽の釣餌を啄み鉤に罹りて苦悶乱翔するものあり。群鳥驚怖飛散して数日の後にあらざれば復だ来らず。為めに漁者は其間手を空しくするに至る。斯の如きこと屡々之ありしを以て種々鉤具に工夫を凝らせしも久しく得る所ながりしが竟に明治一六年に至り蒲刈島の漁者今のモガリ鉤を発明し爾後其憂ひを絶ちたりといふ。

 鰹 釣

  鰹ヲ釣ル季節ハ四月ヨリ十月マテナリ 盛ンニ釣ルゝハ六月ヨリ九月マテノ四ヶ月トス 四月上旬ヨリ苗配リト唱へ小鰹ヲ釣り始`五月中頃ニ至レハ東風吹キ海面穏ナル時ハ釣り得ルモノ多シ 六月ニ至リテハ沖合尤(ママ)モ穏ニシテ海岸ノミ激波起ル 之ヲ碆東風ト唱フ 其節ハ魚磯辺ニ寄セ、海岸ヲ離ルゝ事大凡十丁以内ニテ釣ルナリ 七月頃ハ入レ吹ト唱へ、東風吹キテ雨ナク日和続ク節ハ鰹魚東游西泳シテ舟(ママ) 舷ニ近寄ラサル故其躍ルカヲ目指シ舟ヲ 嚮(ママ)テ釣ル 之ヲ押釣ト云フ 八九月ノ頃ハ小西気卜唱へ西風吹ク釣ノ為ニハ此風ヲ忌ムナリ其節ハ多分ニ沖合ノ暗礁或ハ島・(與へんに鳥)ノ碆側二寄ルナリ 魚ハ大ナルモノ多シ 釣餌ヲ捕ルハ鷄鳴ノ頃ヨリ沖合ノ暗礁ノ側ニテ網ヲ曳キ 其餌魚ハはも(魚へんに長)ヲ最上トシ次ハトロメン・ホホタレナリ 釣餌ヲ捕レハ直ニ沖合へ舟ヲ出シ生餌ヲ海面へ振リ播キ之ヲ餌付卜唱へ釣ヲ垂ルゝナリ 又時トシテハ飢床卜唱へ数万ノ鰹集聚シ鰯或ハはもナドヲ逐ヒ集ル事アリ 恰モ網ヲ以テ曳纒メタルモノゝ如シ 之ヲ張玉卜唱へ板網ノ如キモノニテ是ヲ掬ヒ取リテ餌トナシ釣ヲ垂ルレバ揚ルニ閑ナキ程釣ルゝナリ 鰹ヲ釣ルハ天気ノ模様、潮ノ往来ハ勿論ナレドモ其ノ尤(ママ)モ宜シトスルハ雨天ニアラズ晴天ニアラズ、曇天ニシテ風少ク波穏ナル時ナリ 又晴天ヨリ雨天ヲヨシトス 釣ヲ垂ルハ太陽ノ昇ル時分ヲ最上トシ、夕景之二亜グ 日中ハ大底亜シ 又夜中ハ釣セズ 潮ハ昇リ潮卜唱へ、西ヨリ東へ行ク時大ニヨシ 併(ママ)場所ニモ寄(ママ)ルナリ 沖合ヨリ地方へ向キタル潮ヲ入潮ト唱へ是モ又ヨシ 地方ヨリ沖合へ向キタル潮ハ悪シ 満潮ノ時七八合ヲヨシト云フ 満潮ニハ魚ノ餌ニ付クモノナレバナリ 又苦潮ト唱へ海面泥ノ如ク濁ルコトアリ 此時釣ヲ垂ルゝモ一喉ダモ得ルコトナシ…
 と『漁業旧慣調』は記述する。

 鰹釣りの第一は餌料としての生鰯を捕ることである。生鰯を捕獲するためにはこれを誘致するための蒔餌を必要とする。糠蝦がそれである。平日、少しく暇あればまず糠蝦網をもってこれを捕る。餌取網は中央五桁は細目を用い、左右の裙は一四節の大目網地を、中央のミソコには六〇節網地を、外には一尺間一四節網地を使用する。
 鰹を釣るとき、オモテはトリカジ側へ並んで腰かける。足下には踏まえ木がある。オモテの一人は正面に向き船首にまたがる。艫の一人は後面して梶の上に、これに次ぐものは艫の上に立つ。其の外の者は皆腰をかける。この時、釣手は右手に釣竿を持ち左手に海箆を執る。生餌に潮をふりかけ魚が水中で沸く様子を現ずる。鰹が鉤にかかると海箆を右手にうつして竿とともに握り、鉤を脱すときは鰹を左の腋に挟む。餌を剌して直ちに海中に投ずる。船中では活桶の潮をかえるもの、餌を投ずるものがあり、疲れると代り又代って瞬時の休む暇もない。鰹釣り中は罵言雑言を連ねるが、この雑語はすべて祝言として許される。鰹が二貫目以上のときは舷まで引き寄せ鈎にかけて取り入れることもある。鰹釣船は潮の流れに乗って操業する。漁撈時間は二時間ばかりで海上約一里ばかりを流す。
 鰹釣竿は餌釣用と擬餌鉤釣用とがある。鰯を餌鉤につけるには腮より脊にむけて刺すのが通常であるが、ときにロより尾にむけて、背鰭の前より尾にむけて骨に触れぬよう斜に、頭を横に、尾の際に、あるいは多漁のときは目を横に貫き刺すことがある。いずれも餌魚が死なないで海中を游泳するように著意する。擬餌鉤を角という。牛・水牛の角を二寸三分ぐらいに作りその一端に真鋪製でキ(金へんに幾)のない鉤をはめこみ、乾した河豚の腹皮を烏賊の脚状に数枚つける。河豚皮は鳥の羽骨にかえることもある。他の一端に小孔を穿って釣糸に結ぶ。牛角は薄茶褐色が善いとされる。角理が海中で金色に光るものを金目といい、竹葉色に光るものを笹目といって鰹がよくかかる角という。鰹船は活餌を用いるので必ず船底に一区を劃してギョ(竹かんむりに禦)を設けている。底に六ヶ所ばかりの小孔を穿ち絶えず潮水を疏通せしめて鰯を生存せしめる。これをカメといい、竹簀もしくは莚で覆い波除けとする。
 乗組漁夫は一四・五人以上で船頭・舳乗・艫押(棹張ともいう)各一人。舳乗は船頭もし事故あるときは代って指揮を執る。船には餌釣竿一五・六本、角竿八・九本、餌鉢・海箆・とう(てへんに黨)網を携え餌鰯を準備して漁場に向い、鰹群を発見するや活鰯を放散し飼付をする。餌投げにはトウヨトウヨと呼ぶ。飼付の中に餌釣竿を入れる。艫押を含む老練者五人は必ず艫に位置する。舳乗りを含む六人は船のオモテに位置する。餌投げと、餌を分配する少年たちは船の中央にいる。釣手は皆左舷に偏して釣るので船は左舷に傾く。鰹を釣り揚げやすくなる。漁夫は鰹が釣糸を引く瞬間に引揚げ腋下に抱き直ちに船板上に落す。このとき鰹が餌を食うて頭を海中に向け游泳する猶予を与えたなればたちまち海中に潜入し大力の漁夫でも引揚げることができぬ。他の漁夫が助けようとしても竿が折れ釣糸が切れてしまう。魚群が姿を消し去る原因ともなる。鰹の餌を食うことが益々劇しくなると熟練漁夫は擬餌鉤を使って角釣りに移る。竿頭を五・六寸ばかり海中に入れ左右に動かし擬飢鉤が生餌にあるかのごとく操作すると鰹は躍りあがって擬餌鉤にかかる。鰹を釣り上げ誤って舷側に触れしめると鉤を放れた鰹は海中に落ち魚群は忽ち驚散する原因ともなる。鰹が争って餌に付くことを魚がイサム(勇む)という。魚群が一体となって回游するものをナラム、沈下していた魚群が浮上したのをデキイヲ、一所に游止するのをトロミ、鰯を追って群集するをエトコ、鯨などに追われて群り来るをクジラッコという。トロミ・デキイヲが最良の釣り魚群である。
 南宇和郡の鰹釣船は「大成郡録」に、外海浦(一一艘)・鵜来島(一般)・沖之島(三艘)・深泥浦(七艘)と記録されている。城辺町西外海では藩政の終わりのころ八人の古百姓組によって一般操業されていたと伝えられている。深浦の山下儀太郎は安政五年(一八五八)土佐大津の山下安蔵を鰹釣漁夫として雇い入れている。外海浦から島内・柏島・前沖あたりまで乗り出していたことは文政一二年(一八二九)の…近年東外海浦沖合鰹其他共不漁ニ付土州柏島沖合へ漁事ニ罷越候処彼方ニテ鰹当浜残トシテ一艘ニ付八銭一厘三毛並鰹百喉二付五喉相掛り其上地役ニモ少々ヅツ遣ヒ物入用モ相掛…と奉願上御事とした文書によっても知られる。明治一五年県漁業規則によって深浦の山下千代吉、久良の本田弁蔵は鰹釣漁の営業許可願を提出している。明治三六年には深浦に九艘、久良に四艘の鰹船があった。押し船のころ鰹釣船は七丁櫓、二丁擢でハイノ瀬・当木の瀬、前沖方面まで一〇時間も漕ぎ出した。ようやく飼い上げての帰途がまた苦労であった。適当なアラセも吹かず、上り潮でも早いとなると遠く足摺のお鼻のむこうまで流される。このあたりの逆潮を利用してようやくお鼻にたどり着き、それより臼碆の難所を押しきり、叶崎・おしめ鼻を経てやっと深浦に帰り着くのが翌日の昼過ぎであった。釣りあげた鰹は腐りかけてくるので土佐清水や大浜などで生魚で売ったり、節製造を依託した。従って土佐との関係はまことに親密で、生付鰯の融通は常に行われ漁況の連絡通報もしばしば行われた。鰹釣船の動力化は明治三八年ごろ静岡県より電気チャッカーが導入されたことにはじまり、木炭使用吸入ガス機関、大正初期の無点火機関、つづいて有水焼玉機関、昭和に入って無水機関となり、さらに散水器導入で旧来の鰹釣りは一大転機を迎えた。昭和二五年は大豊漁の年であった。五月麦藁ハツ(魚へんに發)、六月下旬コウライ沖の大型〝木付き〟鰹群は三日間にわたって豊漁をもたらし東に去ったが、ついで第二、第三の〝木ツキ〟〝竹ツキ〟、はては飛行機の車輪付きも押し寄せ、しかもこれらは上げ潮の停滞によって姫島・沖の島の沖に滞留した。鰹群は海上漂流物に寄り付く習性があるからであった。鰹漁場は、西は島野浦・深島沖からコウライ・姫島・沖の島の沖を経て、森・御石・太田・タカトリ・白草・六の瀬などの前沖より足摺に至る海面である。なお、七月以降は普通〝瀬付き〟となって鰹群の一部が残留する。その主たる瀬は東からむろ(魚へんに室)碆・双並べ・室碆(櫛が鼻)から左の瀬・水島・瀬の上(鵜来島)、沖の瀬・鮪子の瀬などである。

 配 繩

 延繩、長繩、這繩ともいう。古くは拷繩とも称した。〝千尋繩打延て尾翼鱸を釣らしめ給ふ〟と記紀にみえる千尋繩は長繩と同義で〝延〟はハエると訓んでいる。海上衝突予防規則には延繩としている。延繩は一条の幹繩に多数の枝繩を附ける。幹繩を棟繩・道繩・本繩・元繩とも称し、枝繩は緡糸・枝糸・ヤマ・ヤメ・ヨマ・ヒヨ・チムイトともいう。幹繩は良好な麻を右撚りとし、枝糸は最も精品たる麻を用いて左撚りとする。撚りが強いと海中に濡れて堅硬となり使用に不便となる。ただし泥の深い海底では撚目に泥が浸入するので撚りの強いのを用いることもある。繩は柿渋で染める。幹・枝繩は繩器に収める。一鉢・一甑・一側・一寵という。大魚・歯の鋭い魚には噛み切られるのを防ぐため枝糸を麻糸か銅線で巻くこともある。幹繩は海中で横架し、これに枝糸を下垂させる。海中の上層に浮かすか、中層に延べわたすか、海底に接着さすかは主として獲る魚の種類による。上層に浮べるもののなかには特定の場所に定着することなく潮に従って流すものがある。これは流し繩という。中層以下に延えるとき、幹繩の一端に別に一条の繩を附けることもある。立繩・脊繩という。この繩の下端に錘りをつけ上端に浮標を付ける。幹繩・枝繩の局部に沈子をつけて繩が浮き上らぬようにする。上・中層配繩には浮標を附けて浮泛力を加えるとともに沈子を適宜用いて浮沈の横衝を得る。しかしこれは一定ではなく全く沈子を使用しないものもある。配繩は錨・石で鎮定される場合もあり、浮標も樽・木材・小旗が使用されたりしてさまざまである。配繩は延べ下してから引き揚げるまで一二~二四時間も放置する。従ってその間には鉤を脱する魚がある。故に鉤は竿・糸釣に用いるものと違って先尖を内方に向けるか、ヒネリと称して尖頭を一方に傾けることが多い。配繩は海中に在る時間に比例して魚獲があるものではない。延べ下すとき、引き揚げるとき、繩が動揺するときに魚がかかる。潮の干満のときを最良とする。魚の習性に応じ薄暮・暁天に引き揚げることが多い。配繩は必ずしも一直線に延べるものとは限らない。魚の栖止・海底の状況などにより屈曲したり盤旋したりする。直線に延べるときは潮流と直角に延べる。並行させると枝糸が幹繩に纒絡する恐れがある。配繩一鉢分の麻苧は一五〇目でこれを三〇〇尋に製し幹縄とする。鉢は底の浅い木箱が使われたが、いまは桧の曲物が用いられる。枝糸は麻苧三〇目を五尋にしてこれを三〇に切り、一〇尋間隔に幹繩に縛着する。沈子は百目ほどの丸石を百尋ごとに一箇。鉤は三番線針金を長さ一寸五分にして内がわへの傾きを強くする。餌は鰯・蝦蛅などである。一艘の船に繩一二鉢ほどを用意する。海底蛅の瀬の際に延えるを最善とする。地方から二里ばかりの海中に配置するが、幹繩が切れて繩を失うことがある。このときは叉手を流し曳いで幹繩を掛けて探す。配繩の季節は冬一二月から春正・二月の三か月である。餌鰯は活鰯、ユウ(虫名)を準備する。
 (1) 鯛配繩 幹繩は長さ二千尋、枝糸は六~一二尋である。この仕立ては陸地より一~三里ばかりの沖合で、夜分その片端に浮標を付け、鉤一寸二分に鰕藻ノエビト称スの一寸三分ほどのものを活かしながら刺し、繩を海底に配り置き掛った頃を見計って操りあげる。その時候は立秋より大雪までを最良とする。
 (2) 鱧配繩 仕立ては鯛配繩と同様であるが餌は活きている鱠か鯵を用いる。懸け繩は鱧の習性に応じた配繩で、鉤の形状を異にし通常のものよりすこぶる尖鋭である。餌は鮹の足を長さ三~四寸ぐらいの短冊状に切って鉤に刺し海底に沈めて置く。鱧は餌についたとき尾をもって餌を弾く。このとき鉤が鱧の尾に触れて懸る。鱧配繩は芒種より立秋までを好季とする。
 (3) イサハ配繩 幹繩千尋。よく撚った苧繩を木皮をもって充分に染めて使用する。枝繩は五〇本、幹繩二〇尋ごとに長さ二尋の枝縄を縛着する。鉤は二寸四分。手石は八~九〇匁ほどの石を幹繩三~四〇尋間隔で一個ずつ付ける。二人乗りの船一艘に繩を積込み網代に至り、甲の人は櫓を押し、乙の人は指図して船を自由に操る。繩の配え口に重石とウケとを附け、潮の都合を見合して延える。碇を下してややしばらく待ち、時を量って、配口に浮べているウケ印の方に船を漕ぎ回し来てこれより操り上げる。魚が懸っているときは幹繩三〇~四〇尋手前から手元に感ずるものである。イサハのような大魚が懸ったときは加減して船を漕ぎ寄り、手網をもって海中よりすくい取る。
 (4) 鰤配繩 幹繩は千尋で、太く合わした苧を木皮でよく染める。細く苧を撚り合わせた一尋半の枝繩を幹繩二尋の間に付ける。五百本。鉤は一寸二分でカスミなし。六〇匁ほどの石を手石とし幹繩二〇尋ほどごとに一個ずつ付ける。日歿・夜明けの薄暗い時刻に延え、延え終ると直ちにもとの配え口にもどり繩を操り上げる。懸った魚は船に入れて鉤を外す。魚が鉤をのみ込んでいるときは枝繩を切り取って魚を獲る。

 焚寄釣 

 明治一〇年一二月二〇日、甲第一五四号『漁場及営業取締収税假規則』第六条で「従来釣業ノミノ漁場於テハ網営業ハ相成ラサルモノトス 尤其他一般ノ漁場於テ網業ノ障害ニナラサル様釣并配繩ノ業ヲ営ム事妨ケナシ」と県は漁場取締の方針を示した。釣漁専用漁場での網漁を禁止し、網漁場での釣漁は条件付ではあるがこれを認めている。釣漁はどの網代でも操業してもよい、という旧慣に従ったものといえよう。釣は緡糸の先に鉤をつけて魚を釣る漁法である。鉤には餌をつける。あるいは擬餌をつけた鉤を用いる。
 釣漁には竿釣・配繩釣・手釣りの三法がある。配繩については前述した。竿釣は主として陸地部より沖合に向っての釣漁であるがここでは省略し、主として手釣についての若干の事例を紹介する。
 焚寄釣は一夜に肥松十四、五貫目を焚き魚を寄せる。上品肥松をコロ、中品をシ、下品をドベという。コロを焚くときは貫目少くてすみ、ドベを焚くときは貫目多くを必要とする。釣魚は鯖、・(魚へんに青)、太刀魚、イサキ、グチである。釣糸は四五尋、小ヲソ三つぐりを用いた。ビシは天秤であって鉛は四〇~八〇目。ビシが重いと糸は調う。テグスはビシ下一尋ばかり、鉤は大五番針金。タチウヲ・カマスは長さ二寸、その他は一寸ばかり。一人で三通りばかり用意し、一艘に四~五人、或は七~八人乗って行く。釣を垂れるときは五人までは船の片側で釣をし篝(火)二挺を用い、六人以上のときは篝り三挺で船の両側に位置して釣る。餌は鰯の切餌、鰯がないときは何魚でもよい。ビシは深く入れないで七尋ばかり、時に斟酌する。船には活し籠を吊っておき釣魚を生かすか、船の活間に入れる。活し籠は廻り五尺ばかり長さ二尺余。鯖は五月、カマスは八十八夜から始め、十月で終る。釣りを垂れるには船碇を入れないで始終櫨を操ることがある。これを櫨練りという。風に向い、潮に向って、進まず退かず船を定位置に保つ。
 
 はつ釣

 夏秋のころ、暗礁に添って游行するはつ(魚へんに發)を、潮に向って櫓を操って船を登せ、あるいは櫓を停止し、または櫓を緩めて下り、同一の場所を上下しながら釣る。近くに多数のハツ釣船が集るので各船からの鰯切身の蒔餌に次第にハツが集ってくる。
 「漁具構造は釣の付きたる五尋の絲に二十五尋の苧繩を結び付け、其絲の繋目一方は輪に通し其輪なき方を折返し結びて、端を尚折返し小絲にて結び留め置きたるものを、又二筋継ぎ合せ、船中に設けたる留木に掛け、左右何れへも延へ易き為、双方の絲を縺れざる順に手操り、而して双方の釣を海中に垂る事凡二十四五尋の処にて絲を留か。数艘の船暗礁の傍を上り下りせば、蒔餌に付はつ魚来り、釣を喰ひ服して去らんとす、然るに船端に該絲を藁の粗繩にて結び付けあるを以て、引・<糸へんに勿>(ママ)り行を見て喰服せしを知り、直ちに一方繩を急ぎ手操りて、はつを自在に行かしむ、其引く事凡七八十尋にして行く事を止め、左右前後と行戻り逃れんとす、其内に勢力を失ひ労(ママ)れ次第に浮む、其浮むに従ひ絲を引き詰め海面に顕る、之を見れば直に打鍵を双方より頭に打込み引寄せ、又取 鍵(ママ)を打掛け、而して槌にて頭を擲き粗死するを見て船に入る。釣元五尋、繩は製法最上の麻苧を撰み、三口にして太さ瑟の絲の少し大なる位にして、其上を極細き合苧にて巻く、なるべく小さきを好(ママ)とす、瑟の絲を巻きたれば最上と云ひ、右繩の次に結ぶものは、極上の苧二百目を次で三口に立て、長さ廿五尋になる程製出す、その次に結ぶものは、通常の椶櫚皮二百枚を以て三口に立て長さ廿尋になる程製出す、餌は鰮を最上とす、鰮なき時は小鯖の類にても宜し、但し烏賊なれば最も宜しとす。桿絲製法は、其桿絲器を内より前に運転せば次第に維・<竹かんむりに字>(ママ)より絲解け本と絲に纒まり、棹絲となる、其棹絲は苧の極上なるものを用ひ来りしが、近来は二十手の唐絲を二筋に合せて用ゆるもあり、又心絲は小なる苧絲五六筋を三口操りとし、之を水延し、則ち両方へ引き延し中に重き壓石を掛け曝乾したるものを用ゆるなり」と記録されている。

 鯖 釣

 旧八、九月の二か月間だけを漁期とする。一艘に四、五人乗りで出る。鯖釣りは土佐の柏島より四、五里沖へ乗り出し、〝流し〟か〝ともねり”で釣をする。天気をよく見て粮米や日用品を用意して船を出すが、天候がくずれると柏島に碇を入れ好天を待つ。十日も悪天候のときは手を空しくして帰ることもある。旬日にしてわずかに一夜だけの操業で引き返すこともあった。日振島(宇和島市)の鯖釣は三〇艘も出た時期もあったが、次第に鯖釣をやめていった。釣糸は麻苧二〇目を三つぐり一二、三尋に製する。浮鯖は釣竿で釣る。長さ五尺で、鉤の曲りは少くして船に取り入れると自然に外れるようにする。篝りを焚いて鯖を寄せた。鯖は柏島で売り捌いた。

 メジカ・スマ・ヨコワ釣

 釣竿は四寸の竹を用い長さは三尋。鉤はメジカ・スマは三番の針金一寸、横輪は大三番一寸二分。スマの釣苧は三尺でテグスを付ける。横輪はテグスなし。餌にはキビナゴ・イワシを用いる。キビナゴは餌取網で捕採できるが鰯は大網を置かぬと取れぬので出漁後は入手できない。船は碇を入れて位置を定める。艫に三人位置し、それに次いで左右へ立ち並ぶ。胴の間に活し桶を置いて餌魚が死なぬよう常に潮をくみ替える。玉網の小さいので抄い出して蒔餌をする。季節は七月より十月迄。一艘に七人以上が乗りくむ。

 鯛 釣

 釣ニテ鯛ヲ猟スルノ法ハ先弐人乗ノ舟壱艘ニテ左ニ掲ゲル処ノ器具ヲ積入レ網代ニ至リ、季節ニ依リテ時々餌ノ適応ニ変換アリト雖モ大概鰕ヲ以最モ第一トナシ、一人ハ櫓ヲ押シ舟ヲ自由ニシ潮ニ随ヒ舟ヲ流ス、壱人ハ即チ壱筋ノ釣糸ヲ海ニ垂レ操り上テハ又伸シ幾度トモナク如斯ナス、而シテ適々魚餌ヲ喰ユ(ママ)テ引行カントスルヲ此方ニテ合セ引ク 程ヨク釣針ニ掛リタル時ハ糸ヲ伸べ且縮メ等様々ニ術ヲ尽シテ終ニ船近ク魚ヲ操寄セ手網ニテ救(ママ)ヒ舟ニ入レ釣針ヲ外シテ之ヲ捕ル
     器具
釣糸 三拾尋余 目方弐匁内外ノ絹糸を二総合シ渋ニテ能ク染メ用、但シテグス弐尋余リ之ヲ本ニ嗣グ
玉 壱個 目方五匁内外ノ鉛ヲ以テ之ヲ拵ヱ仕立テ使用ス  小ビシ 数捨箇 目方五六分ノモノヲ鉛ニテ拵ヱ糸一尋程ヅツノ間ニ附ル  (『漁業図説並解説』)

 雑魚釣

 釣ヲ以テ雑魚ヲ猟スルノ法種々アリ、先ズ鰈等ヲ釣ルハ鯛釣ト其仕様異ナラズ、都(すべ)テ左ニ掲ゲタル処ノ器具ヲ用ユ、小鯛・ギザミ等ヲ釣ルハ壱艘ノ舟ニ壱人又ハ弐人乗組ム、網代ニ至り碇ヲ下シ釣針ニ鰕ヲ刺シ糸ヲ海ニ垂ル、魚之ヲ喰フ時ハ手早ク操上ゲ舟ニ入ル、又ホゴ・メバルノ類ヲ釣ルモ亦仝ジ、網代ニ至り碇ヲ下シ竹竿ニ糸ヲ垂レ釣針ニ鰕ヲ刺シテ釣ル、魚之ヲ喰フ時ハ刎上ゲ舟ニ入ル、又烏賊ヲ釣ニハ如図形ニテ短竿ノ先ニ糸ヲ伸シ潮ニ従ヒ櫓ヲ押シテ舟ヲ漕クニ烏賊形ニ附タル時ハ甚ダ重ク急ギ操上ゲ舟ニ入ル
小鯛釣 多ク鯛釣ノ古キ器具ヲ用ヰ目方拾五匁内外ナル鉛玉ヲ其本ニ附ケ釣針ハ一寸内外枝附ケトテ二本アリ
刎 釣 壱間半位ナル竹竿ノ真直ナルモノヲ撰ミ、苧ノ合シタルニテグスヲ嗣ギ竿ヨリ一二尺長ク拵ヱ、釣糸ハ必ズ壱本ナリ
鰕 形 桐ノ木ニテ如図拵ヱ、八九尋苧ノ合シタル糸ノ先ニ二尋バカリテグスヲ嗣ギ短竿ノ先ニ之ヲ縊リ舟ニ漕テ引ク(『漁業図説並解説』)

 鮹魚釣

 鮹魚ヲ釣ルノ法ハ二人乗ノ舟壱艘ニテ左二掲ゲタル処ノ器具ヲ積ミ入レ網代ニ至リ、甲ノ入櫓ヲ押シテ舟ヲ自由ニシ、乙ノ人鮹魚ノ足鮫ノ子等ノ餌ヲ如図釣針ニ附ケ壱人シテ糸三筋四筋程ヅツヲ海中ニ垂レ、右ノ手ニテ糸ヲ伸べ且ツ縮メ術ヲ尽シ居ル内、釣ニ鮹魚ノ附タル時ハ其糸甚ダ重クナリテ手元ニ能ク知レル也、故ニ他ノ糸ヲ皆放チ置其糸ノミ手早ク操上ゲ舟ニ入レテ捕ル  器具 釣糸五十尋余 苧ノ太ク合シタルモノニテ能ク渋ニヲ染メ用ユ 玉 一箇目方三十匁内外ノモノヲ鉛又ハ鉄ニテ拵エ用ユ 釣針如図竹ニテ拵ヱ用ユ (『漁業図説並解説』)
 蛸は蛸壷・突具・鈎具で捕採するのが通常であるが、海底岩礁の場所では釣具を用いて釣る。漁具は、松材で長さ一尺・幅一寸五分・厚さ六分の板の端に二寸鉤を二本並べて打ちつげる。板の背面には重さ二五〇匁ほどの楕円形で扁平な石を括着して錘りとする。これを餌板という。餌板には太さ三分ばかりの麻繩八〇尋をつける。餌板に雑魚を括りつけ、五~二〇尋ほどの海底岩礁上で海中に投ずる。蛸が餌板を攫めば徐々に引きあげる。水際まで誘いあげ、蛸が驚いて身を翻すその機に合わせて餌板を強く引き鉤に引っかけて捕獲する。

 烏賊釣

 南宇和郡においてイカ釣というのはケソサキイカ・マツイカ・ササイカを釣るのをいう。ケンサキイ力漁はほとんど年間を通じて操業されるが季節によってイカに大小がある。四月頃より入梅前のものを春イカといいまだ小さい。夏イカは入梅以後夏土用過ぎまでのイカをいい体発達し肉は頗る厚い。秋イカは肉が薄く、冬イカの寒中のものは小さい。漁場は南宇和郡及び高知県幡多郡の外海であって、陸を隔たること一里以内で四〇~四五尋の場所であった。イカ釣は専ら夜釣であるが晴雨にかかわらず篝火をたかずに釣った。月夜が最良であった。漁具の緡糸は麻製長さ一五尋、これに天蚕糸一~三尋を繋ぎ、末に全体鉛製の魚形をつくり、その尾端に真鍮の鉤八本を集めて括り付け菊花状にする。鉛製魚体の脇には鳥の羽で鰭の形を作って付け、假漆をもて全身を塗って繋ぐ。また、鉛製の三寸ばかりの魚体を作り一端をやや細くし、これに真鍮鉤一〇本を集めて括着したものをも用いた。鉛の重量は期節によって差があった。春イカには二五匁ものを白金巾で包み、夏・秋イカは三二匁ものを紫黒その他の色絹で包み、冬イカは鉛一〇匁を方柱形とし鯣の切片で覆い細糸で巻いて擬餌鉤とした。鯣を巻くのは春夏イカの場合も時として用いた。魚船一艘に二~三人が乗組み薄暮より出漁し、初めは海底二~三尋まで緡糸を下し次第に短縮して海面下七~八尋で釣り、暁方には再び緡糸を伸ばす。緡糸は適度に下してこれを指頭に懸けて上下させる。イカが鉤を攫むと緡糸が重くなる。素早く強く引いて鉤にひっかけ引揚げて捕る。

 鰻穴釣り

 鰻は梁・筌・竿釣・柴漬けなどさまざまな方法で捕獲するが、石垣の隙間などに生棲する鰻を漁する方法に穴釣りがある。二尺五寸~三尺ぐらいの藤竹の竿の頭を矢筈に切り、絹あるいは麻糸の三~四尺緡糸の端に鉤を結び、鉤にはミミズを剌して竿頭に懸けたまま魚窟に挿し入れ、餌を食する感を得て竿を抜き去り徐に緡糸を引き出し鉤にかかった鰻を捕り収める。

 扠鈎具漁

 突具・鈎具・挾捩具・爬具などは磯漁においては重要な漁具である。原始的な漁具といえようが、基本型に種々の工夫がなされて捕採対象である魚介藻類の習慣形態に適応する漁具として注目される。
 (1) 海亀突き 「南宇和郡外海村字久良浦の漁民は善く此の漁を為す。其期節は夏月を専らとし、漁場は播磨・備前・長門等の海上を主とし其他四国の沿海、時には肥前長崎近傍にも出漁することあり。冬に至れば土佐沖に出づ」と『日本水産捕採誌』に記されている。『宇和島藩吉田藩漁村経済史料』はその漁具・漁法についてつぎの解説を掲げている。

 凡亀を捕るの具はぐゆみの木を長さ四寸に切、もりを付る処を割、もりの長さ四寸二分なるを二寸木の内へ入、絲を以て繁く巻留、其木の中程へ苧索にて緒を付け、又其に長さ百尋許の綱を付、此綱麻苧二百五十目をみつぐりに製す、このもりに長さ七尋の柄を付、柄はもり亀に立ば脱る様切込を浅く匕しものなり、柄は樫木にて重さもり共五貫目あり、七尋一本、四尋一本、二尋半三本を用ゆ、もりに付る縄もり共四箇を用意す、舟一艘五人乗なり。漁場は四国残らず、中国長州より上へ泉州迄至る、用法はもりを持者船首にあり、押舟にて亀に近付ば亀水底に沈むを見て第一のもりを打、亀愕然として水中に逃る、暫時にして水の上に浮で息するを追付きて、又第二のもりを打、爾後捕獲す、其長短の柄を用ゆ浮で息するを追付きて、又第二のもりを打、爾後捕獲す、其長短の柄を用ゆ浮で息するを追付きて、又第二のもりを打、爾後捕獲す、其長短の柄を用ゆ浮で息するを追付きて、又第二のもりを打、爾後捕獲す、其長短の柄を用ゆるものは固り、水の浅深によるなり、亀は皆生捕にて死亀は用をなさず、亀は甲を取り肉及腹腸は煮て食ふなり、又脂をも取るものなり、明治五年の比又脂をも取るものなり、明治五年の比には一艘百疋許りも獲たり、大いなるもの長さ三尺許りにて代価二円……

 (2) 蛸・蠑螺・ナマコ突……蛸・鰈・鮑・ナマコを漁するには舟一艘に一人で乗り磯端に至って左の器具を用いて捕る。晴天無風を選んで際口に舟を棹し燈油を海中に少しく注ぐ。海面はよく澄んで海底の状況が瞭然となる。鰈・ナマコ・鮑の類はカナツキを、蠑螺は蝶螺鋏を、蛸はヒッカケを用いて捕る。蛸は潜伏する巣を拵えて住む。これをクウと言う。この内に居る蛸はセセリ竹で巣を突きまわすと必ず蛸は出てくるので、すかさずヒッカケで捕って舟の中に入れて捕る。
   器具
鉄突 真直ナル細長キ竹ヲ撰ビ長サ三間余ノ柄ノ本ニ鉄ヲ以テ図ノ如ク仕掛ケ之ヲ使用ス 引掛シノベ竹長サ二間半位ノ柄ノ本ニ如図鉄ヲ仕掛ケ之ヲ使用ス。蝶螺鋏 是モ亦細長キ竹ニテ長三間余ノ真直ナルモノヲ撰ビ其ノ本ヲ割リ如図拵エ使用ス

 (3) カブトヤス・ウナギカキ 北宇和郡吉田町本町一丁目の八十島伊勢太郎が現在使用中の鰻捕具である。カブトヤスは三本ヤスで外側の二本は弾力があって左右に開く。中央の一本は針状で鋭く固く、かつ両側の二本より短い。両側の二本の外側に開いた爪で鰻を挾みこむように突き押えて中央の鋭利な爪で鰻を剌す。鰻はヤスにからまる状態になる。鰻を剌すには腔門部より下方を剌して捕り生かしておく。ウナギカキは刀身を細工して使用する。泥中に潜む鰻を捕る。夏は泥中へ六~七寸、冬は一尺ほど入れて柄を引き鈎の先を前方の泥中におよそ三尺ほど走らせる。水が濁ったとき、夜分は鰻は游泳するからこの用具は用いない。また鰻は潜伏するときも常に日光の射すに従って方向を変更するので光線の方位を勘案し側面より刈るように留意しなければならない。カブトヤス・ウナギカキには二尋ほどの竹の柄をつけて使用する。漁場は立間川の川口より横堀桜橋を経て黒門橋までと、北小路御殿前水門までであるが、時に鶴間・浅川の海岸沿いに出ることもある。近時、河川護岸がコンクリートで覆われ石垣がなくなったので、鰻は水底の泥の中に潜んでいるものが多く、木の葉などをかぶり巧妙に生棲するという。

図2-11 本目編き・蛙股編き(日本水産捕採誌)

図2-11 本目編き・蛙股編き(日本水産捕採誌)


図2-12 エビスアバ

図2-12 エビスアバ


図2-13 鯛大網漁具略解

図2-13 鯛大網漁具略解


図2-14 鰯地曳網(上)と鰯沖曳網(下)

図2-14 鰯地曳網(上)と鰯沖曳網(下)


「仝製法ノ解」

「仝製法ノ解」


「仝使用船幷ニ役々配置法ノ解」

「仝使用船幷ニ役々配置法ノ解」


図2-16 鯔沖曳網

図2-16 鯔沖曳網


図2-17 魬曳網仕立図

図2-17 魬曳網仕立図


図2-18 魚神山の大敷網略図

図2-18 魚神山の大敷網略図