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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

一  網       代

 米湊網代騒動

 文禄四年(一五九五)、伊予国松前城に入国した加藤嘉明は慶長八年(一六〇三)松山に移り、寛永四年(一六二七)幕命により会津に転封となった。その跡を受けて出羽国上の山城主蒲生氏郷の孫にあたる蒲生忠知が家臣を率いて松山に入ったが、嗣子なくして寛永一一年(一六三四)没したので蒲生家は断絶した。幕府は松山領地を没収し、上使・松平出雲守勝隆、目付・川勝丹波守広綱 跡部民部少輔良保 曽根源左衛門吉次、城在番・加藤出羽守泰興 山崎甲斐守家治 稲葉淡路守紀通を発令して事後の処理を講じた。寛永一二年(一六三五)七月二八日、伊勢国桑名城主松平隠岐守定行が一五万石をもって松山に封ぜられ、九月六日に入国して一七日に領地の授受をおえた。大洲藩主加藤泰興の松山城在番は一一か月であったが、泰興はこの間に幕府に領地の交換を願って許された。松山領内に飛地として存在していた風早・桑村郡のうちおよそ五七か村を松山領とし、伊予・浮穴郡のうち三七か村を大洲領とした。松山領であった米湊は伊予郡のうち他の一六か村とともに大洲領となった。この領分の変更は、松平定行が入国する直前である寛永一二年の夏までに完了した。
 幕府の上使松平勝隆・目付曽根吉次から、領分替えとなった両藩の村々に対して「山川諸事先規の通り」という申し渡しがなされていたが、その先規確約も土地に居付く領民にとっては生活慣行の改変という新たな事態に直面することとなる。年を経るにつれて先規確約が忘却されたり誤解されたりする。藩境・藩領意識が強くなるに伴ってさまざまな確執が生じ紛争が惹起される。入会山紛争や網代騒動はその著しいものであった。
 『松山叢談』第二下、「真常院殿定行公」の項に次の記事がある。

  ○公松山拝領以前加藤出羽守様大洲侯蒲生の闕国御預りの内風早郡に大洲の領地ありしが夫と小湊を引換給ひて後松山へ公御入部有ける故是は被成方もなし然る処松前の漁師は以前の小湊の澳へ魚猟に出候所領分違に相成候ては向後漁は差留なりと大洲より厳敷制止あれ共漁師共は渡世に尽果候てはと密々再び入込しに浜村の庄屋を大洲へ急に呼給ひて其段急度被仰渡たりしを公御聴に達し以の外御憤りにて土地を替たる事は入部以前の事なれば致方もなし我領分の漁師共を此方へ断なくして防ぎ候儀奇怪なり然らば出羽守参観の節当領の海上へは人数を差向る事差留申べしと事六ヶ敷成ければ彼方様にも殊の外御迷惑の趣にて松平土佐守様段々御扱と成りて万治年中双方御後証として御取換せ等有之松前の漁師ども小湊はさて置尾崎本郡森四ヶ村の澳迄自由自在に魚猟する事なりとぞ(埀憲録)

    口碑云此あじろ争ひの初め大洲領漁師共多人数小舟にて乗出し相こばみ候に付松前浜漁師四郎兵衛と申者頭取にて村民をかたらひ乗出し海上にて擲き合其節四郎兵衛櫂を以てなぎ立衆に勝れて働きければ全く士分にも可有之と大洲領より組子の者共被差出候よし四郎兵衛此事を聞て申遺しけるは我等職業を失ふ故無據村方の者共申合出し事にて役人方しらるゝ事ならず然に大洲よりは御家来も多人数御差出しと相見へ百姓共大名と軍を致し負るとも耻しからず快く一戦ひ致と申遺ければ是に耻てや先方勢を引て雙方打合は止しとぞ

  ○御領内松前浜松前は字村名浜村の儀は干方多く泥海なれば公御入国の後思召を以御試みに桑名の白魚子を持頃を御考被成素干にして御取寄此浦へまかせられしが夫より此処に白魚生し年々増加し今松前の白魚とて一廉の国産となり此郷是より成立しと云へり口碑

    録者云松前より大洲領小湊迄其間一里の間松原にて牛飼原と云中間に領境の建石あり人遠き所にて折々賊など出でわざする事あれば夜分は往来の人も稀なりしとぞ然るに文政の頃より漁人此処ヘ一軒二軒と来住して今百数十軒の一郷をなし浜村の枝村たり自ら夜る女さへゆきこふ街となり追はぎ咄しも昔語りとなりぬ是全く松前浦の漁猟の繁昌によれりと云其淵源を尋れば公の厚き思召にて漁猟の境を手広く開きおかれかつは白魚等の美産をまき置れし其厚沢によれるぞかし
    伊予古蹟志云浜村字松前卜唱以白魚顕矣是順和名所謂しらうお(魚へんに白)也潔白形最小雖漸大者多不盈寸或云是即麪條魚又云麪條即今伊加奈古其状如麪條比之於白魚則漸大至干寸餘而風味亦為劣矣芸摂之間呼しらうお(魚へんに白)為知利女雑魚邑人結布網捕之人挙無不嗜者
    録者云此里は男子漁をなし婦人是を市に持行て商ふならひなり是を運ぶに御寮櫃とて嫁の櫃を云ふ方言平たき桶に魚をいれ頂にのせて数里を行につかるゝ事なし男子の擔つぎ売にもまさるものもありある時御城の普請あり御国恩を報ぜんと石運びを願ひ数百人出て小石をひろひ右櫃にて運びしに二十貫余も戴くものも数人ありしとぞ

 ここにとりあげた二つの項目は旧松山藩の立場からの記録である。
 まず松山藩御領内の〝松前浜〟は字村名を〝浜村〟と呼ばれたことを叢談の編者は註記している。ことに松山藩初代藩主松平定行の〝厚き思召にて漁猟の境を手広く開きおかれた〟ことと〝白魚等の美産をまき置れし〟格別の配慮があったことを記し、浜村の発展は漁業の繁昌によったものであることを記している。しかしながら浜村は定行松山入封以前すでに主要な港でありかつは漁村であったようである。漁撈・廻船・製塩に従事する者たちが定着して次第に村落としての形態をととのえていた浜方漁村であった。『石清水文書』に見える「石清水八幡宮御領伊予国玉生荘所務職事」に「右当荘者、竹院主御領也、然而先上分所拾五貫文定預申也、八月放生会以前拾貫文、十一月中伍貫文、毎年無未進懈怠、可致其沙汰、在国時者、自国可運送、若不法無沙汰仕候者、公方様有御訴訟、可有社家直御知行候、其時更不可及子細候、又御領興行仕候者、可加増上分申、仍為後日請文如件、永享拾弐年庚申九月三日 口入人 松前 森山」とある。末尾の松前は浜村の松前某である。永享一二年(一四四〇)当時、松前浦が交通・商業機能をもった港であったことを示唆する。松平隠岐守定行の松山入封の寛永一二年に先立つこと八年前、寛永四年(一六二七)、幕府隠密報告書『讃岐伊予土佐阿波探索書』には「松前家数 二百軒許」、三津は「百軒許 乗舟一般モ無御座候」とある。
 それから四〇年後の寛文七年(一六六七)の『西海巡見誌』には次の数字を示す。
 松前(浜村) 家数  二五四軒 舟数  六〇艘(漁舟五二)加子  八二人
 伊予郡小川町 家数  三一軒  舟数  六艘       加子  九人(現在伊予市湊町)
 伊予郡灘町  家数  五三軒  舟数  六艘       加子  一〇人
 寛文十一年(一六七一)、筒井・浜・寺町・古泉に分郷し、元禄元年(一六八八)『伊予郡廿四ケ村手鑑』には、
   浜村 高二三二石四斗四升、家数一九二軒、人高一、二三〇人、漁船八二艘、十六端帆一艘
 天保九年(一八三八)『御領内伊予郡分有増帳面差出帳』には、
   浜村 高二三二石四斗四升、家数五〇七軒、人高二、〇四二人、舟数一三九艘(漁船一〇二艘、二枚帆一三艘)定水主三二人、仮水主四三人」
 とある。

 松前浜村は藩政時代の前期、すでに伊予郡においては米湊をしのぐ浜方漁村を形成しており、その後も「松山叢談」にあるように枝村牛飼原の新立地区漁家が著しく増加した。この要因のひとつは漁業の発展であった。浜村は加藤嘉明が松前在城のとき鯛その他上魚の用達を命ぜられ菜網の役に任じた。御菜浦と呼ばれた由縁である。松平歴代藩主も御膳魚の上納を下命し、宝暦四年(一七五四)甲戌・同一二年(一七六二)壬午・文政三年(一八二〇)庚辰の網遣い上覧の節は御用網をつとめさせた。さらに松前浜村漁民の水主役が漁業操業権を強固なものにした。浦方漁民に課せられた夫役としての水主役は兵農分離以前の課役形態のひとつとして領主の軍事的必要に応じて徴発されたもので、加藤嘉明の慶長二年(一五九七)の朝鮮出兵には松前浜村の漁民が水主として軍船の操船に参加した。藩政時代、海難救助・参勤交代・蔵米輸送などは水主役の務めであった。松山藩においても水主役は領主の夫役として制度化されていた。天保頃(一八三〇~一八四三)の御用水主浦は岩城・清水・松前・堀江・波方・来嶋・壬生川・三嶋・苅屋・今出・和気・興居島・菊間・風早・桜井の一五の村浦であった。
 領内御定水主七〇八・御改水主九一七、計一、六二五のうち、松前浜村差出水主は(定)三二・(改)四三、計七五である。水主役の多寡は役夫を担当する漁家数によるものであって、漁村・漁業の発達の程度に相応ずる。松前浜村の水主数は寛文七年(一六六七)八二であり、天保頃は定水主三二・仮水主四三、計七五である。この水主役員担義務の代償として地先浦場での操業使用権の獲得・保持が権利として認められていたことは『松前浜村庄屋旧記』寛文六丙午年の記事によっても推察できる。記事は、稲川八右衛門・蜂須賀大之進名をもって、伊予郡浜村庄屋作左衛門 悴 覚右衛門 村方 漁師共に宛てられたもので、内容は「公儀 御金船並ニ長崎御上使船豊後路ヨリ御通船有之候節、其方共村方漁師共召連レ領分界ヨリ高浜白石迄度々漕付候段奇特二存入不過之、委細相達上聞二候処御満足為御称美ト苗字帯刀差免、尚其方村方漁師共領分中何レノ浦方へ参り候共、漁事可為勝手旨被御聞候」とある。公儀船通航の際、高浜白石鼻まで漕ぎつけたことにより領分内での漁業操業の権利が公認されていたのである。
 松前浜村漁民が、替地後大洲藩領となった米湊沖合の網代で、替地以前に操業していたことは『西海巡見誌』の示す舟数、松前六〇・米湊六の数字によっても推察できよう。この慣行は替地以後も当然の権利として、松前浜村漁民は米湊沖に出漁した。しかしながら、大洲領となった米湊・尾崎・本郡・森の各村の替地側は網代は領分違いになったと主張し、替地側網代への松前浜村の出漁操網を阻止しようとして紛争を生じた。「当村猟師共御替地に相成り候ても旧例の通り入込み猟仕り候所、御替地御代官より御番所をもって松前浦の猟師共へ仰せ聞かされ候、大洲領分へ入込み今までの通り猟致し候儀きつとまかりならずと、猟師共網挽場へ御使にて御座候に付、此方猟師共旧例入込み猟仕り来り候段御返答仕り候、その後御替地御代官下代萱与左衛門大将にて大勢引き連れ参り、網挽場にて喧嘩毎度の事なり」という事態を惹起することになり、さらに「後々は此方猟師共用意として手石又は棒など船へ入れ猟に参り候所、この沙汰を何と御心得候や、御替地御代官森太兵衛殿大洲へ松山より船軍にて押しかけ候趣御注進これあり、大洲より侍衆武具馬具にて御出で、替地御番所前に御控えありて、此方猟師共へ御使、領分違い押入り猟致し候儀まかり成らずときつとしたる御使、此方猟師共御返答は、旧例猟仕り来り候、ただし御相手に成られ候わば相成り申すべき旨御答仕り候、御侍の猟師御相手にも成されがたきや、または船軍の体にもこれなきにつき、その後何たる儀も仰せ聞かされず大洲へ御引き退き、これによって御代官様注進御不念の由、切腹仰せつけられ候」と騒動になった(以上『松前浜村庄屋旧記)。』
 こうした紛争騒動を替地側大洲藩では次のように記録している。「万治元年戊戌松平隠岐守定行領分予州松前浜ノ者ト、泰興領内小湊村ノ者、網代ノ出入リアリテ騒動ニ及ブ、ソノ故ハ大洲領ノ漁師松山領松前浜へ行キ漁猟ヲシケルヲ、松前浜ノ漁師コレヲ見テ、他領ニテ断リナシニ漁猟スルコト不届ナリトテロ論ニ及ビ、大洲領ノ者ヲ一人打殺シケル、泰興コノ由ヲ聴キ、モチロン当領ノ者他領へ行キ漁猟スルハ誤ナリ、サレドモ此方へ断リナク打殺ス事理不尽ノ至リ、シカノミナラズ松山領ノ致シ方常々我儘ノ振舞奇怪ナリト大イユ怒リ、松平隠岐へ使者ヲ遣シ、或ハ領分堺ニオイテ大筒ヲ打タセ、或ハ小湊へ人数ヲ遣シテ既二確執二及バントス」(『北藤録』一〇)。網代争いが直接の原因となって松山・大洲両藩の騒動となった。武力戦にもなりかねない状況であったことを大洲藩側での『温故録』は「御替地網代の事松山と争論のこと募り、松山より打返しに来るべきよし沙汰ありける、その時替地代官は森脇次郎兵衛にて有りける、早速注進す、円明公(泰興)聞こし召され、急ぎ侍共初め人数遣すべしとて、八月十五日御神(八幡宮)事の日仰せつけらる、公の命にて犬寄峠を松明にて夜越ゆべしと仰せ付けられしかば、その通り通行せしかば火の光天を焼きおびただしき人数に見えける。松山より終に打返しにも来らず恐れしとなり」と記している。
 述上のことを要約してみる。替地前の漁場慣行として替地後も松前浜村の漁民は大洲領となった米湊沖網代で操業した。替地側の米湊外三村は浜先網代も大洲領分として松前浜村漁民の操業を阻止しようとした。替地後約三〇年ほどは漁民間紛争であったが、万治元年双方の大乱闘を惹起するに及び替地側代官は松山方が船軍をしかけて来たと判断し大洲に急報した。大洲藩主加藤泰興は軍兵の出動を命じ緊迫した事態となったが、相手が漁民であることが判明したので軍兵を撤退させ、松前浜村庄屋作左衛門を大洲に召致して家老大橋作右衛門重恆より領分立入禁止を申し渡した。この措置は松山藩主松平定行をいたく憤激させた。そしてその後、大洲藩は幕府に裁断を訴えた。幕府は直接裁断することをさけて土佐藩主松平(山内)忠義に命じて調停に当らせた。忠義は家臣山内下総・片岡武右衛門を大洲藩家老大橋作右衛門へ遣わして調停案を作成せしめ、松山藩とはその家臣遠山三郎左衛門・久松清左衛門との折衝を持続させた。その結果、大洲藩からは米湊・尾崎・本郡・森の各村網代を、松山藩からは大洲領から重信川に至る松山領の使用権を、ともに忠義が預かることにし、①大洲領米湊・尾崎・本郡・森村の各漁場と松山領松前浜の漁場とはともに入会とし両藩領漁民は自由に操業する。②大洲藩主父子は重信川境まで鷹狩をしてもよい。③大洲藩領民は重信川を材木流しに利用してもよい。…という具体案を両藩に示し合意を得て騒動の結着をみた。忠義は松山・大洲両藩主の了解のもと、山内・片岡に命じて両藩の村方庄屋に次の命令書を交付させた。

○松前村庄屋宛…態一筆申入候、今度其方村中と大洲御領米湊村中と網代之出入有之ニ付、土左守罷出隠州様と羽州様との御挨拶申上、則小湊網代ハ不及申尾崎本郡森村迄之網代、出羽守様より土佐守被申請、自今以後其方村中え遺シ被申候間、無疑右尾崎本郡森村ニ而茂心安く網引上可被申候、尤右村中之者共其方網代え罷越網引候共、入相之上ハ異儀有間敷候、将又小湊浜之出羽守御茶屋有之、折々御鷹狩杯ニ御越之由候間、彼地御逗留中ハ大洲領へ押入猟仕事用捨尤に候、土左守より以直札可申入候得共、相替事も無之、右挨拶之使ニ我等共双方へ罷越、御両様之御意之趣承候間、我等共より右之旨可申可申遺由被申付候間如斯御座候(『松前浜村庄屋旧記』)
○米湊村尾崎村本郡村森村庄屋宛…態一筆申人候、今度米湊村と松山御領松前村と網代之出入有之ニ付、土左守罷出、羽州様と隠州様との御挨拶申上、則小湊網代は不及申尾崎本郡森迄網代、出羽守様より土左守被請候、依其右之村々網代、松前之者ニ猟漁仕候様ニと此方より被中付候間、自今以後此村中にて松前之者共網引上候とも異議在之間敷候、尤松前浜にても右之村之者共猟漁仕候儀も入相之上者、松前之者異儀有筈無之候間、其心得可有之候、土左守以直札可申入儀候得共、右双方へ我等共使参、御両様之御意承候付而、我等共方より可申遣之旨被申付候間如此候(『北藤録』一四)

 網代は漁撈の場であり、その操業権は長年にわたる歴史的な経験の積み上げのうえで確保しつづけられてきたものである。漁民にとっては網代権の確保・維持は死活の問題であって、その慣行を守るためには生命をも賭さねばならぬものである。単なる行政区画上の変更や行政権力の交替で取得消滅する性質のものでないことを米湊網代騒動は物語っている。松前浜村漁民は替地後も替地前の網代を確保したのであった。

 享保網代紛争

 松平土佐守忠義の調停による松前浜村・米湊村・尾崎村・本宮村・森村の網代入会の漁業慣行をゆるがしたのはそれから六七年後、享保九年(一七二四)の松前浜村への他所網の入漁問題であった。播磨国高砂浦の漁師久太夫は、松前浦が拾歩一運上であることに着目し二、三月中の漁撈を願い出た。久太夫の願い出は松前浜村庄屋覚右衛門によって郡奉行に願い出された。このことを察知した湊町年寄見山勘兵衛は他所網入漁が替地漁師の操業に支障をきたすことを顧慮してその差留めを申し入れた。さらに吾川村庄屋佐伯忠衛も松山藩の大庄屋栗田八郎右衛門に同様の申し入れをした。松山藩郡奉行が認可を躊躇している間に漁期が過ぎるので覚右衛門は郡奉行の了解を得て大庄屋栗田八郎衛門と改庄屋渡辺太左衛門を同伴して替地側に赴き灘屋清兵衛宅で替地四か村の庄屋と対談交渉したが替地側の強い反対があって旅網入漁は拒否された。このとき他所網入漁禁止は勿論のこと万治以来の入会先格を確認して証文を取り交わした。「大洲御領替地網代取替せ証文」(松前浜村庄屋旧記)には「 覚 一、網代入相之儀者、松前 小湊 尾崎 本郡 森 右五ヶ村先格御極御座候事 一、他所網之儀者、向後何網ニ不寄差置候儀者不及申、寄合網又は借用網にても於五ケ浦猟為致間敷候事、一、松前小湊 尾崎 本郡 森 右五ケ村之儀者、何網に不寄入相於網代ニ猟仕候儀者、勝手次第之事、但不里漕網之儀は大勢猟師共之障に相成候ニ付用捨仕候事、右之通申合候、網代之儀者先格御極御座候、猶又自今以後、出入無御座候様に出合仕、証文取替せ仕候上者他所浦之網差置中間敷候、為後日証文仍而如件」とある。幾重にも先格慣行を確認し、これを遵守すべきことを約定し、さらに裏書には松山藩郡奉行近藤弥一右衛門・奥平弥兵衛・萩原文右衛門の確認保証を求めている。
 明治三六年六月二九日、松前村大字浜漁業組合は鯛・鰆刺・鰕漕・コチ・手繰の網漁業免許を受けるための「慣行ニ因ル専用漁業免許願書」を理事今井清太郎・橋本藤四郎・丹羽寅松・河本治平・中矢次郎・高須賀長太郎・藤野源之平・宮内半七の連名をもって農商務大臣平田東助宛に提出した。附属書類は、一、漁業図正副壱通 一、慣行事実陳述書壱通 一、慣行証據証第一号~第四号四通 一、慣行証據証乙第一号~乙第四号四通 一、営業権利ニ係ル参考書一通 一、組合ノ漁業権取得方法及地方長官ノ認可証弐通の計一四通が添付された。その慣行証拠証各漁場共通のものとして、以下のとおりの「慣行事実陳述書」がある。

  抑モ当愛媛県伊予郡松前村大字浜ハ往古松前浦卜称へ天正十三年加藤左馬之輔嘉明殿松前御城主トナラセラレ文録四年御改築ノ御本城ヨリ約拾町隔テ西南海面ニ瀕セル茅間ノ一小部落ニシテ部落民挙テ漁業者若クハ漁夫タラサル者ナク随テ部落ノ経営及個人ノ生計悉ク漁業ヨリ生スル利益ヲ以テ之レニ充テ居リシ次第ニシテ純然タル漁部落ニ有之候而シテ漁業ノ慣行亦実ニ茲ニ起因シ以テ現今ニ至ルマデ中断ナク営業仕来候ニ就テハ左ニ慣行開陳仕候
  一、慣行ノ起原及其沿革 加藤左馬輔嘉明殿松前御城主城下浦方エ(現今松前村大字浜)命スルニ朝夕御副食ノ用ニ供スル御肴ノ用達方ヲ以テシ浦方ニ於テハ各戸順番ニ御肴ヲ取差上来リシニ由来シ(其網ヲ御菜網卜称セリ)浦方猟師ハ領分内浦々島ニ於テ勝手次第ニ網遣可致御意被仰聞候依テ御領内ニ於テハ独得ノ権利ヲ有シ営業致居候処慶長二年嘉明公征韓ノ軍功ニヨリ采邑拾壱石ヲ加俸セラレ又秀吉ノ没後徳川家康ニ属シ関ケ原ノ戦功ニ依り慶長庚子ノ秋十一月封邑ヲ倍シ弐拾万石ヲ下賜セラレ御領地御拡張其都度都度松前浦住民共ノ漁業ノ場所モ従テ旧来ノ慣行御意ニ依リ拡張致シ営業罷在候処慶長七年勝山へ(松山)築城御移転被遊寛永四年会津へ御移封蒲生中務大夫忠知松山城主トナラセラレ寛永十年城主病死仝十年十二月松平定行公更ニ越智桑村風早伊予浮穴野間和気温泉久米各郡都合拾五万石ヲ領シテ松山城主トナラセラレ御維新マデ世襲セラレ候得共其間漁業ノ慣行営業ノ場所ハ毫モ旧来ノ慣行ニ異変ナク営業仕来候所明治御維新ト相成癈藩置県ニ依り旧藩ノ制度変更セラレ政府ニ於テ明治八年第廿三号漁業制度ノ布告ヲ始トシ布告官達及地方庁ノ布達告示取締規則等屡々制度ノ変更有之且ツ世ノ文明ニ1(ママ)普及スルニ従ヒ漁具漁法ノ改良発達ヲ来シ人ロノ増加卜共ニ漁業モ亦其数ヲ増加スト雖独リ漁場ニ就テハ数百年来慣例ノケ処ヲ便宜変更及拡張スルハ成規ニ依リ詮ナキノ故ヲ以テ天正年間以来明治聖代ノ今日ニ至ルマデ営業ノ場所ハ旧来慣行ノ公認セラレタル処ニ於テ平隠無事ニ営業仕居候
二、住民ノ権利義務 加藤公松前御城主ノ御時代ハ朝夕御料理ノ御肴差上且ツ又公儀御上使船及天下御金船等ノ御用達船ヲ漕送スルハ他ニ浦々多々アリト雖モ松前浦受持ノ古格ニシテ御用ノ都度浦方住民共出夫御漕送仕居候処寛文六年及寛保弐年公儀御金船及長崎御上使船豊後地ヨリ御通船ノ節大風御困難ノ際大洲領分境ヨリ引受高浜白石マデ無事漕付奉送ノ任ヲ全セシ処奇持ノ至リトノ御沙汰頂戴仕候而巳ナラズ其功ニヨリ予州一円ハ勿論九洲長洲防洲芸洲淡洲讃洲等国島々浦々及沖合ニ於テ漁事勝手タル可キ公儀御免ノ御沙汰申間候尚旧藩知事公ニ対シテハ毎年春秋ノ両度ニ於テ公ノ御都合日ヲ伺ヒ網曳方御上覧ニ供シ其際獲魚全部ヲ献上仕ル慣例ニシテ御上覧網遣ノ義ハ古来ヨリ松前浜ニ限リ居候且又知事公参勤交退(ママ)ノ節ハ旧例古格ニヨリ浜村漁民水夫加子トナリ毎年奉迎送候殊ニ嘉永三年江戸御本丸御普請ノ際仝年五月三日ヨリ仝十一日迄村中総出ニテ御普請用材木漕出ノ為メ大洲へ出夫御漕送仕候等総テ水面上ノ公役ニ一トシテ与ヲサル事ナク寧ロ使役セラルヘキ慣例ニ有之候之ヲ要スルニ浜村住民ノ島々浦々及沖合ニ於テ漁事可為勝手特別恩典ニ対スル事実上ノ義務ニ有之候然り而シテ漁民ノ部落ニ対スル義務ニ至リテハ庄屋ニ於テ毎年漁事ノ多寡及貧富ヲ酌量シテ水師銀若干銭水師米若干石ヲ取立部落費フ支辨シ且ツ其年水夫トシテ出夫セシモノ等へ賃銭ヲ頒与シ居候元来我松前村大字浜ハ往古(文禄年間頃)松前浦ト称ヘシ時代僅ニ数十舎ノ人ロニ過キサリシモ年ヲ経ルニ従ヒ子孫繁殖人口増加シ現今ニ於テハ人口殆ド四千余ノ大部落ト相成居候得共漁業ノ慣行部落ニ存スルガ故ニ明治八年ノ制度調明治十一年ノ出願調査費及明治卅五年漁業慣行調査等ノ費用ハ部落之レヲ負担支辨シ又漁業権ヨリ生スル収益ハ明治廿二年十ニ月広島県加茂郡阿賀村畝通蔵外四拾九名卜入漁定約入漁料一ヶ年四拾円ヲ部落ニ於テ徴収シ其地各地漁業者ト入漁定約仕候モ(各地ノ入漁定約書ハ畝通蔵等卜定約セシモノト同様ニ付省略ス)該入漁料ハ悉ク部落ノ収入トナシ来リタル事実ニ有之候之レ畢竟漁業ノ慣行部落ニ存シ部落民ノ漁業ニ従事スルト否トハ其者ノ任意ニ属シ漁業ニ関スル権利義務ハ当部落民均一ニ負フ可キ旧来ノ慣例ニ基キシ事実ニ有之候
  三、営業ノ事実 松前浦漁民ハ地方最古ノ漁業者ニシテ実ニ斯界ノ先鞭示導(ママ)者ニ有之候然り而シテ其慣行ニ依ル営業ノ場所即チ伊予国陸地海岸及其沖合島々海岸及沖合並ニ近県海岸及沖合ニ於テ四百年以来引続キ営業罷在候処封建時代ニ於テハ出願制度ナク単ニ旧来ノ慣例ニ依リ営業仕居候次第ニシテ此事タル何レノ地方人ロノロ牌ニモ伝ハリ居候然り而シテ明治七年ノ布告ニヨリ漁業ハ出願ノ上御指令相受ケ営業可致御制度ト相成候以来屡々制度御改革相成候ニ付テハ慣行ノ漁業及漁場ヲ明記シ成(ママ)規ノ手続ヲ了へ慣行ノ場所ニ於テ今日迄中断ナク営業致居候ニ付テハ別紙証拠書ヲ以テ慣行ノ場所及漁業行使ノ事実立証仕度候

 網 代

 愛媛県は全国でも有数の海岸線を持つ。瀬戸内海と宇和海である。前者は燧灘・斎灘・伊予灘の海域にわかれる。それぞれの海域は主要な収獲魚類を異にするばかりではなく漁業制度慣行についても差異があった。伊予八藩に分かれていた藩政の時期、瀬戸内海側にあっては松山藩か、宇和海側にあっては宇和島藩がそれぞれ独自の制度を持ち他藩のそれはこの二藩に準ずるものであったといえよう。藩政の時代においてはそれぞれの藩が各自に制度を定めたのであって、伊予八藩か協議のうえで統一した規約を制度として発足維持させたものではなかった。そのなかで宇和島藩はつとに漁業制度を設け、その発展に伴う漁場・漁法・漁具・営業等の変遷に応ずる先例指導を行ってきた。支藩である吉田藩もこれにならったので宇和海における漁業制度はほぼ統一されたものとして伝承実施されてきた。しかし、松山藩にあっては一定の方針のもとに漁業指導取締りを積極的に実施したとはいえない。寛永一二年松平定行入封前の慣行を襲用し、以後の紛争対立には時の有司をして施政上最善の処置を採ってきたともいえる。今治・西条の二藩もほぼ松山藩に準じた。この相違は藩の産業に占める漁業の重要度に由来している。
 明治四年、廃藩置県後は従来の領主による封建的支配は廃除されたものの、漁場の使用は慣習慣行によって旧慣どおり継承された。諸魚歩一税の徴収・漁業取締りは区役所、或は船改所で取り扱った。当時の船改所は本港新居浜(支港、西条・黒島・川之江)、本港波止浜(支港、壬生川・今治)、本港三津浜(支港、郡中・北条・興居島)、本港長浜、本港八幡浜(支港、磯崎・三机)、本港宇和島(支港、内海・吉田・岩松)であったが、明治七年五月一五日より区戸長の専轄所管するところとなった。この年、沖島・鵜来島・姫島が高知県に編入されて漁業区域に変更が生じた。明治九年、讃岐が愛媛県に合併されたので漁業区域は拡大しその所轄は九州東部より摂津沿岸に達したので取締りは困難の度を加えた。伊予八藩領域の撤廃・予讃合併の変革があり、加えて漁民の旧慣無視による自由操業と旧慣による専用漁業区城主張とが対立した。明治一〇年県会仮規則による県会にも海面区画問題が提案されたことをみても当時解決を要する主要問題のひとつであったことが推察される。県は同年一二月漁場及営業取締収税仮規則を公布し、ついで一二年九月四日これを改正して漁業区域・操業方法・漁業税賦課の準則を定めて漁場借区及び捕魚営業願を所轄の郡役所に出願することを定め、予讃両国にわたる漁場を、第一~第一〇区讃岐国・第一一~第二三区伊予国とした。明治一九年、漁業規則を改正し水産取締規則と改称した。その第三条「捕魚採藻場等既定ノ境界アルモノ若クハ営業上ノ慣行ト雖モ自然不判然ナルヨリ障碍アルニ於テハ其利害ヲ調査シ更ニ之ヲ定ムルコトアルベシ」、第四条「慣行ナキ営業又ハ新ニ其場所ヲ発見スルカ或ハ新規ノ器械ヲ使用セムト欲スルモノハ其関係村浦ニ於テ支障ナキヲ保証スルニアラサレハ許可セサルヘシ、伹実地調査ノ上公益ト認ムル場合ニ於テハ保証ヲ要セス特許スルコトアルヘシ」は旧来慣行漁業権の見直しと保護の両面を規定したものといえる。沿岸の村浦及び島嶼を一五の水産区として各区に漁業組合を設立し規約を定めて認可を受けることとした。讃岐六区・伊予九区の水産区が設けられた。明治二三年伊予・讃岐分離分県により愛媛県は伊予一国を管轄することとなった。「本県水産区組合設置の漁場ニ於テ漁業ヲ営ムモノハ県内外人ヲ間ハス渾テ其地規則ニ遵フヘシ」と示達し一~四の漁業組合地区を設定した。
 明治一一年、漁場借区の制度を実施するに至るまでは新規漁業は濫りにこれを許さず旧慣を尊重踏襲し、必要に応じて取締りをしたのであった。借区を許した漁場、すなわち〝網代〟は一三五六箇所であった。これは明治新政府の微税目的の惜置であったことは否めない。明治三五年に実施された漁業法は漁業権の確保を目的としたものであったのでその申請件数は八千件を越えた。時の安藤知事は漁村経営・漁民保護の立場から漁業権は漁業組合に享有させ、特殊事情のある場合は同一関係者の共有に帰せしめ漁業権の移転設定を避け、各漁場の実地踏査、旧慣の実況を精査して免許に条件を付けた。この処置は九年間をかけて完了し、漁業権数四千四百余件となった。沿岸漁業は専用・定置・区画・特別漁業権の四漁業権と許可・自由漁業に位置づけられ、新漁業法制定に至るまで漁業の基礎をなしていた。昭和二四年、海水面を総合的に利用し漁業生産力を向上発展させるため、漁業権の協同組合所有・委員会による漁業調整の二方式を採用し民主的な漁場利用をめざして新漁業法が公布された。漁業権は定置・区画・共同の三種類とし回遊魚を漁業権からはずし許可漁業とした。大海区制が採用され瀬戸内・太平洋南区に分けられ、前者はこれを燧灘・伊予灘の二小海区とし、それぞれの漁業調整委員会にその運営が委任された。古い漁業権を消滅させ新漁業権に切換えた。旧権者に対しては国から補償金が支払われ昭和二五年三月一四日から施行され現在に至る。
 漁業権、とくに漁場(網代)権は旧慣を尊重しこれを維持することが方針であった。各村浦の地先はその属する村浦の専用、沖合は慣習を同じくする村浦の共同専用漁場として使用し、地村浦の漁民にして慣行あるものは特約して有償入漁を許し取締費を分担させて操業させた。明治二二年以後、県は水産区組合を設置させその組合の規約は内外を問わず遵守すべきことを命じたので取締りは各村浦で厳重に行われ侵漁者を排除することに成功した。
 このことは藩政時代の慣行の強固さを物語るものでもある。宇和島藩の宇和海では鰯大網の元網一六二帖の定めがあり、帖ごとに漁場数箇所を専用させていた。天保二年(一八三一)、漁場を引きあげ改めて大網一帖ごとに網代一箇所を配当して専用させ前網代(吉田藩では控網代)といった。その他の漁場は公儀網代(或は除ヶ網代)と称し領内の漁業者が時に臨み先ず其の場所を占得して随意に網を入れることができる押引網代とした。以後、新規の網営業者には網一帖につき漁場一箇所を与え、或は一村浦において輪番に網遣いをなさしめた。鰯大網網代のほか沖合漁場などは領内漁民に限って交互に入会操業をすることができるのが一般的であった。領外漁民の入漁は藩庁・村浦漁民の取締が厳しく入会権は毫を認められなかった。大洲・新谷の両藩は伊予灘における地先漁場をその村浦の専用漁場として多数持っていたが、そのうちの一部を他村浦漁民、もしくは個人に専用させていたことがあった。沖合漁場は領内漁民入会であったが領外漁民に期節を限り年限を定めて入漁を許諾したことがある。松山藩の場合、沖合漁場は領内漁業者に限って交互に入会操業することができたが、地先(根付)はその各村浦の専用であった。ただし、その沿海村浦で網を引き続ける漁民がない場合は浦役を負担する漁民が専用するかあるいは入会としていたのは久松定行入封以前からの慣行であったようである。領外からの入会者はその村浦の承諾をえたのち三津元締役より鑑札を受け運上を納付させた。専用漁場における漁具の種類に限りこれを株としたので、以後ひとつの財産として売買貸借が行われたことがある。今治藩村浦地先海面はその地の漁民の専用漁場であったが、なかには他の村浦が入会権を所有するものも、また共用に属したものもあった。沖合の燧灘漁場は藩内一般の漁場であったが領外漁業者は村浦漁民の承諸を得て入漁料を出し季節・年限を定めて特約し、又は主たる権利者に雇われる名義で操業するものもあった。西条藩にあっては漁民在住の村浦はその専用に任せたが在住者のない地先(根付)漁場は他村浦の操業に任せた。領外入漁者はその村浦の承諾を得た場合には料金を出して操業していた。
 なお、巻末に愛媛県下の網代一覧表を掲げておく。

 網代図面

 愛媛県は明治一〇年一二月二〇日・甲第五四号「漁場及営業取締収税仮規則」(以下、仮規則)を、のちこれを改正し明治一二年九月四日・甲第五八号「漁業規則」(以下、規則)を布達した。この両規則は「従来海面ヲ区画シ漁場ヲ設ケ営業シ来ル向ハ渾テ旧慣ニ據リ更ニ証券ヲ下付シ来明治十一年一月ヨリ向フ五ヶ年間可貸渡ニ付其証券ヲ請ヒ受ヘシ」(仮規則)・「海面ヲ区画シ漁場ヲ定メ営業仕来ルモノハ其旧慣ニ従ヒ証券ヲ下付シ明治十一年一月ヨリ同十五年十二月迄五ヶ年ヲ限り此規則ニ據テ貸与スルモノトス」(規則)と定め、その海面漁場之儀ニ付願(仮規則)海面湖川漁場借区ノ義ニ付願(規則)の願書には漁場図面を添付せしめた。図面製作には「右願書ニ附スル図面ハ美濃全紙ニシテ方位ヲ附シ四隣ノ境界ヲ明ラカニシ漁場ハ濃藍其他ノ海面ハ淡藍トナシ見通シハ朱線ヲ画シ海岸平地ハ薄墨山野及ヒ島嶼ハ萌黄色トシ人家ハ稠密散在トモ其大略ヲ記スヘシ尤場所曠濶ニシテ全紙ニ登記致シ難キモノハ継キ足スモ妨ケナシ」(仮規則)とその基準を示している。出願の村浦はそれぞれの漁場について願書に添付すべき図面を作製した。俵津浦(東宇和郡明浜町俵津)においても写真2―26のような網代の図面八枚を製作添付した。深浦との入会である子大崎網代については深浦が担当した。