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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

2 しろかきの流儀①

 北宇和郡津島町の代かき

 南予の御田植祭の特色は代かきにある。この代かきは、伊勢流・神田流・小笠原流の三流儀があると、津島町若松の入江栄蔵翁から聞いた。入江翁はこの代かきの方法を某古老から伝授されて、その型を筆写した「鍬本」を所持していた。次に、それを図示しておく。

 南宇和郡の代かき

 南宇和郡では代かきに二種あるといい、神社の御田植祭で行われるのは曲ガキ、これに対して一般の田に用いられるのをオリウマガキ(内海町柏・御荘町長洲・一本松町弓張)と呼んでいる。田にはオモテとウラがある。ミトから水が入る方がオモテで、その逆の方がウラである。代かきには二頭の馬を一組として少なくとも三組以上使うが、オモテ側の組をオモテウマ、ウラ側をウラウマ、その中側をナカウマという。オモテウマは常にウラウマより田のオモテに寄っていなければならないし、ウラウマはその反対、ナカウマは両者の中側に位置しなければならない(図2―3参照)。したがってウラウマは他の組よりもたくさん走ることとなる。御荘町峰地ではオモテが二足歩く間に、ウラは一〇足も歩かねばやっていけぬというが、だいたい二倍程度は歩くもののようである。それでウラは丈夫な馬を使う。この馬を使う人も同様で、岩乗な壮年・青年が当たる。これに対してオモテは力を要しないが、ナカ・ウラを誘導しながら馬を使うので代かきについて高度の技術を身につけていなければならない。つまり言い伝え・聞き伝え・見伝えで、代かきの万般を知っている人ということになる。これを習得するには、まず一五~一六歳の頃から初めは畳の上で練習するもので、一〇年も経験しなければオモテは使えないといわれる(津島町高田)。
 ともかく代かきには面倒な順序と作法があるもので、これに馴れるまでには相当の年数を必要としたのである。しかもこれを神事のみならず、一般の田植の代かきにも実用していたのである。一本松町弓張ではオリウマガキにはオオマワリ・ムクチタオシ・アテクワ・ムカエクワ・ウラダシ・ササエマワリ・タテ(サバキ)・ナラシの八つの方法が伝承されていた(図2―5参照)。
 御荘町長洲では大廻り(弓張と同じ)・ムクチナリ(弓張のアテクワ)・キソクワ(同ムカエクワ)・ヨコクワ(同ムクチタオシ)・サバキ(同タテ)・ムクチナリ・ヨコクワの順序で、内海村柏でも大廻り・モクチナリ・タテクワ・キソクワ・タテクワ・ヨコクワの順序で二遍繰り返し合計一二クワの代かきをするのが例であった。弓張では神事の曲ガキにもヒダリオモテ・ミギオモテ・クモデ・ヤハズ・チドリなどが伝えられているが(図2―6・2―7参照)、すでに忘れられてしまったものが多い。

 東宇和郡の代かき

 東宇和郡城川町土居の御田植祭については既に触れたとおりであるが、当地方にも代かきの諸方法があった。幸いその「鍬本」があるので、ここに掲げることにした(図2―9)。この鍬本は表紙裏に「宝暦十年右の通ならい申候以上」(一七六〇)と記されており、筆跡・紙質などから判断して同時代のものと認められる。ちょっと珍らしいものではないかと思う。全部で八七方法がある。
 なお、当地の代かきについて、富永憲氏が書いた「代掻談議」なるものがある。それによると代かきは、たしかに水田耕作上の重要な一作業過程には違いないが、しかし単なる農作業ではなく一つの儀式としての性格をもっていることが知られるのである。以下それについて大要をまとめておく。
 代かきの三役 代かきには①表使い ②裏使い ③中使いの三役がある。表使いは四八手を心得た老練者が当たる。しかし裏使いはなおそれ以上の練達者がつく。中使いは若い連中の役である。牛については、表牛は百貫台で十分調教のできた牛がなる。裏牛も表牛に準ずる。中牛は普通の牛で、牡牛でもよい。
 代かきの原則 代かきは一人一反歩の代かき能力が一人前とされている。数頭の牛を入れての並べがきは、水田の地形(ダコという)、広さによって、頭数も方法も違ってくる。
 水田にはモトとウラの称がある。畦側をモト、山ぎし側かウラで、代かきはモトから作業を始め、ウラで終わる。表牛・中牛・裏牛の順序でモトを基準に、始点に集結する。ただし、始点の位置は、田の面積、牛の頭数によって表使いが決める。
 表使いの「ホイー」の号令で、図2―8のように廻る。これがアモトである。アモトは、水田(ダコ)を三回代かきする。前アモ・中アモ・後アモ(かきあげ)の三回が通則で、前アモで表使いはまわりながら耕土面の高低を見る。終点までくると「ヒョセニツケテ サアレモドレ」(左廻り)と号令し、まきあげながらウラまでかきあげる。
 ウラまで来たら「オートモドレ」(右廻り)で縦鍬に入る。この場合、中間では田の面積が広ければ何回も縦に通る。それから元にもどり、また始めと同要領でアモト、中アモトの行程に入る。
 中アモト この頃になるとだいぶん代ができ始めるので、その状態を表使いが検討する。中アモを廻り終わると前述の要領でウラヘ行く。ウラヘ行くと、中央を「オートモドレ」(右廻り)で一回だけ縦鍬を通し、元にもどってカキアゲの鍬に入る。
 後アモト カキアゲのことで最後のアモトをいう。この場合は歌で結ぶものと、号令によるものと二通りある。ただし、最後のアモトが終われば、馬鍬は水面から引き揚げて、地につけないようにして田から出ることが鉄則とされている。
 カキアゲセマチの代かき 大ダコの代かきのことをこういう。このときは三・五頭並べて代かきをする。アモトを廻る原則はかわらないが、前アモ・中アモ、そして最後の仕上げのアモトのときは、起点から歌が始まる。
しかし、歌は終点でアゼ方向に全牛の頭が揃って向いている時に歌い終わるのが原則である。
 歌は数番あるが、田形・広さにより、三つか五つか六つで結ぶ。三つのときは①②⑤番とし、五つの場合は⑤番まで全部、七つの場合は他に鶴亀などの縁起のよい歌を入れる。しかし、これは例外で滅多にない。すなわち、表使いは、始めは号令で指揮するが、代かきの最後は歌で指揮するのである。従って、作業は歌に合して速度を加減する必要があるのであるが、終点に来てもこの歌が終わらぬときは、全牛を止めて頭を揃え、歌が終わるのを待つのが礼であり、作法である。
 鞭渡しの儀 代かきが終わると、一回表使いにムチを渡す。雇主は丁寧に謝辞を述べて、これを受取り、畦に立てる。これがムチワタシである。この鞭の先にトンボが止まったり、ダイラグモが巣をつくったりすると豊作だといって喜ぶ。またよい嫁さん来るといって喜ぶ。
 また、畦にしめ繩を張り、栗・柿の新芽のついた枝を立て、主人が三くろの苗を植えて豊作を祈る。また残りの苗を家に持ち帰り、エビス様に供え、酒・餅・干柿・赤飯などを供えてオサンバイサマを祭り、作業の無事終了を感謝し、豊作を祈る。そして代かきや早乙女の労をねぎらう。
 なお、裏牛は表牛を使える人でなければやれないが、表牛には絶対服従する。中牛は表牛の指示、号令に従い、隊伍を崩さず、歩行速度にも注意する。ズウタラがきは厳禁で、表牛の指揮に従わねばならない。また表牛以外の者は、他人の牛に鞭を当ててはならない。

図2-3 代かきの諸式(津島町岩松)

図2-3 代かきの諸式(津島町岩松)


図2-4 代かきの配置(一本松町)

図2-4 代かきの配置(一本松町)


図2-5 代かきのオリウマガキ(一本松町)

図2-5 代かきのオリウマガキ(一本松町)


図2-6 神事の代かきー曲ガキ(A)ヒダリオモテ(一本松町弓張)

図2-6 神事の代かきー曲ガキ(A)ヒダリオモテ(一本松町弓張)


図2-7 神事の代かきー曲ガキ(B)

図2-7 神事の代かきー曲ガキ(B)


図2-8 シロカキの原則ーアモト

図2-8 シロカキの原則ーアモト


図2-9 城川町の代かきの方法①(宝暦10年=1760の鍬本)

図2-9 城川町の代かきの方法①(宝暦10年=1760の鍬本)


図2-9 城川町の代かきの方法②(宝暦10年=1760の鍬本)

図2-9 城川町の代かきの方法②(宝暦10年=1760の鍬本)


図2-9 城川町の代かきの方法③(宝暦10年=1760の鍬本)

図2-9 城川町の代かきの方法③(宝暦10年=1760の鍬本)


図2-9 城川町の代かきの方法④(宝暦10年=1760の鍬本)

図2-9 城川町の代かきの方法④(宝暦10年=1760の鍬本)