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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

1 神社の御田植祭

 大山祗神社御田植祭

 越智郡大三島町宮浦に鎮座する大山祇神社の御田植祭は旧五月五日の行事で、神輿渡御ならびに一人相撲があるので有名である。とくに一人相撲は全国的にも例がない神事芸能として注目されている。当御田植祭は、昔から旧五月五日に行われ、三体の神輿が斉田に渡御して祭事が執行されたのち一人相撲があり、ついで早乙女による田植があって、神輿が還御して終わるものである。
 当社御田植祭のことは、貞治三年(一三六四)の古文書「記禄(ママ)」に見えるのを初見とするので、南北朝時代より既に行われてきた神事であることが知られる。

  伊予国第一宮三嶋社大祝職并八節供祭礼等事
    (前文略)
  五月五日者中御橋桟敷殿神輿三体也、南座神官一・<月へんに日 匂>(﨟)御幸申令勤仕之、爰大祝奉替太明神答之・(日へんに之)、奉成御幸、大祝職者大神社之御浜床之上令着座、是以号半大明神、舞楽并桂馬流鏑馬以下色々御神事等在之、御供奉備二ヶ度也、七月七日風鎮祭御神事御供奉幣二ヶ度也
     (以下中略)
  右且所禄如件
       貞治三年十一月 日
 さらに近世に入った宝永四年(一七〇七)十二月の古文書には、
  □□□(虫喰不明)申上候三嶋宮年中行事古例御式惣社人職掌之事
     (前文略)
  五月五日中御橋御桟敷殿江神輿三体御幸成奉里御田植之式流鏑馬執行神供奉幣弐ヶ度其外種々之儀式数多有之候
  宝禄長久天下泰平 御邦若様御武運長久御領中安全五穀成就之旨御祈祷執行仕候

 また、当社六官宮本勘太夫(菅原長愛)の「旧翰秘覧記」(文政一三年)によれば、(図表「旧翰秘覧記」参照)
 前掲古文書で知られるように江戸時代までは流鏑馬が行われていたのであるが、明治維新以後中絶し、現在は次のような次第で神事を行っている。

   現行式次第(概略)
    修はらい(ネへんにハツ)
  神輿渡御(斉田前着御の後御田植神事を行う)
  早苗、斎田修はらい
  神饌ならびに早苗を奉る
  宮司御田植祭祝詞を奏す
  内子神楽を奏す
  相撲行事 先瀬戸の一人角力(次肥海の兄弟角力、盛、宗方角力)
  御田植行事
  宮司以下玉串を奉って拝礼
  神饌を撤す
  神輿本社還御

(一) 早 苗…神前に奉る早苗は三把とする。御台に二本奉書紙を敷き、立てて奉る。御田植神事開始に当り、これを禰宜より柄振男に下げ渡す。柄振男はこれを早乙女に渡し、早乙女によって斎田に植えるのである。
(二) 御田植行事…柄振男、田植男(タオトコ)、早乙女によって行う。柄振男は柄振をもって田の整地をなす所役で一名。肥海部落から出仕することになっており、信心篤き者の奉仕である。
 田植男はタオトコと言う。宮浦、井之口の二部落より各一名出仕。奉仕者は部落総代が選出する。田植男、柄振男は白地の襷(七尺のもの)をかける。田植男は田植の正条繩を張る役である。
(三) 早乙女…一〇才から一二~三才位までの少女がなる。白衣、赤手甲、赤脚絆、赤襷姿で草履をはく。頭髪にノシをつける。人数は一六人、宮浦二人、井之口二人、肥海二人、他部落から各一名で、島内一三部落から総勢一六人の早乙女が出るのが慣例。
(四) 相撲行事…相撲行事のことは貞治三年の古文書にも具体的には出てこないし、よく分からないのであるが、次のような伝承があってこれまで行われてきた。すなわち一人相撲は「瀬戸の一人相撲」と称されているごとく、文字通り一人相撲であって瀬戸の者が奉仕する慣例である。次に肥海の兄弟相撲があり、次に盛、宗方の相撲がある。しかし、瀬戸の一人相撲以外は早く中絶し、現在は行っていない。
 一人相撲は、実は相手は田の神の精霊だというのである。目に見えない精霊を相手に相撲を取り、二勝一敗で田の神が勝つのである。その演技について何か伝承があったものと考えられるが、現在は押したり、突いたり、足を取ったりの演技をしている。田の神に勝利を譲ることによって田の神を歓ばせ、豊作を約束してもらうのである。肥海の兄弟相撲は、部落から二名の力士を選出して行った。しかし血統上の兄弟ではない。二番取り組んで一対一で引分け相撲とした。つぎに宗方からも兄弟相撲を奉仕した。また盛部落からは親子相撲を奉仕したそうである。しかし明治年間に喧嘩ができて以来中止になったといわれる。
 とにかく、以上見てきたように多彩な相撲行事が行われたことは注目されることである。元来、相撲は農作の吉凶を占う年占の行事と民俗学的には解釈されているが、その古代信仰的な要素を当社の相撲行事は保有していて注目されるのである。兄弟相撲、親子相撲などすべて引分け相撲であって勝負を決しないのも神事相撲の性格を伝えていて興味深い。
(五) 供 物…神饌台数は現行一一台であるが、「花盛」「お福餅」「鏡餅」の特殊神饌が供えられる。花盛は九月九日の「抜穂祭」(刈上祭り)にも供するが、白米五合を炊き、これを丸めて奉書に包み、藁しべでもってくくる。三個つくることになっており、いわゆる熟饌である。鏡餅は二升餅で、二個にとりわけ、これを三重にして供える。盛り方に意味があると思われるが、別に伝承はないらしい。三島三神を現すとも解されるが、蛇休―蛇のとぐろを巻いた状態を示したものではないかと考えられる。お福餅は白米ともちごめを半々に混ぜてついた餅で、三個、小判型につくる。

 以上、見てきたように、当社御田植祭は史料的には鎌倉時代まで遡りうるのであるが、その内容については「半大明神神楽 桂馬流鏑馬以下色々神事等有之」とあるのみで、具体的内容は明らかでない。流鏑馬は宝永四年の文書にもあるごとく江戸時代にも行っていたのである。なおこのことは大祝家の日記にも散見する。
 なお当社御田植祭の特色は田植歌のないことである。一般に御田植祭には田植が行われ、田植歌が歌われるが、当社にはそれがないのが特色となっている。

 伊予豆比古命神社の御田植祭

 俗に椿神社で知られる松山市居相の伊予豆比古命神社の御田植祭は六月二四日である。神社付近の水田を斎田として、中学生の子供らが田植をする。それが終わるとタノモサンと呼ぶ藁人形を田中に立て、神職によって豊作祈願がなされるのである。御田植祭はもと旧五月四日に行っていた。
       伊予国久米郡居相村 伊予村大明神社記
           (前文略) 御祭礼 (中 略)
 一、五月四日  御田植  御田船山の北にあり
  此日神人奉幣祝詞の後、氏子と共に早苗を取て御田の中へ投入、是御田植の神式也。故に氏の村々には此日に当りて田を植る事なし。其神田に成熟する処の者を恒例の祭礼に供御に用るなり
           (中 略)
    元文二丁己五月十五日

 社記中「故に氏の村々には此日に当りて田を植る事なし」とあるごとく、この御田植祭がすまぬうちは地域の農家も田植をしないことになっていたのである。また「其神田に成熟する処の米を恒例の祭礼に供御に用るなり」とあるごとく、斎田の収穫米は神社に初穂として献上していたのである。現在斎田は個人所有になっているが、やはり収穫は神饌として献上されている。以前は稲束のままで供えていたそうである。

 国津彦命神社御田植祭

 北条市八反地に鎮座する国津彦命神社の御田植祭は、寛政二年(一七九〇)以来からであった。現在は中絶しているけれども、社伝によれば、寛政二年に大旱魃があり、松山藩か当社に雨乞祈願を命じたのが発端で、以後この日をもって御田植祭の日としたというのである。日時は七月八日である。
 木製の田植の小道具を神前にかざり、松葉を早苗に見立て、早乙女が田植の所作を演じるという風のものであったという。

 伊佐爾波神社早苗神事

 松山市道後の伊佐爾波神社には「早苗の神事」というのがあった。現在は五月一七日に形式的に行っているのみであるが、以前は旧四月一七日で藩命によって行っていたものである。予陽郡郷俚諺集によれば「(前文略)舒明天皇の御宇造立也。昔放生会あり、其外四季の祭り、就中、御田植の御神事有于今、鋤・鍬等宝蔵に納りぬ。近年再興して毎年四月一七日に古をしたひ早苗の神事と言へり」とあるのが、現在のところ最も古い記録である。
 明治以降、復活して神輿渡御(道後地区内を巡丁する)があったりしたが、諸経費の関係で維持経営が困難のため中止した。現在はミニ農具をまつり簡単な祭典を行っているにすぎない。

 和霊神社御田植祭

 宇和島市の和霊神社の御田植祭は六月二二日に行っていた。寛政二年(一七九〇)五月以来の神事と伝えられる。昭和二〇年以降は農地改革で神田を失って中絶した。
 当社の御田植祭は独自のおもしろさがあった。たいへん注目されるのであるが、その辺のことを知る人は現在はもうおらぬためどうしようもないが、幸い宮尾しげをが『民俗芸術』(四の五)に報告しているので、それによって簡単に記しておく。
 当社の御田植祭は田楽風の行事があるのが注目される。早乙女は氏子の家々から一〇人の少女が選ばれる。昔は五か所から二人宛出ることになっていた。一五歳までの少女ということであったが、柄が小さく、田に入ると水が膝まで来るので、女学校卒業程度の処女がすることになった。高島田の上に水色の布をかけ、その上に菅の一文字笠をかぶる。衣裳は、橋の模様のある浴衣地に、紫の帯を締め、もみ色の襟をかける。
 一の早乙女、二の早乙女とあって、一の早乙女は供物を載せた三宝を神前に運ぶ。二の早乙女は榊をのせた三宝を運ぶ。それを神職が受け取って神前に供えるのである。
 社殿の両側にバンバサマ(三番叟)が二人控えている。烏帽子には赤い丸と三日月の紋が画かれており、日月をあらわしている。
 神前への供物が始まると同時に、踊り子が輪になって囃し始める。踊り子は一三、四歳の男児ばかりで、太鼓を持ったのが四人、ササラ四人、小鼓二人、銅拍子四人で、太鼓を除く他の一〇人は、いずれも五色の幣のついた花笠をかぶっている。それが附き添い(大人)の唄い出す御田植の歌に合わせて囃しながら踊るものである。

  よいとこ すすみところ こなたのやしろは めでたいやしろ
  つるとかめとが まいあそぶ えいやとひけや えいそろそろ
  ひはなんとき 八つさがり わがゆくさきは はるばる
  はるばるよそで おやもたぬ ちりちりと はしれやおその
  いそぐはたびの ならいぞや よしのへこせば ひがくりよー
  せきやまこえて やどとろー やどとりて こうだならそーを
  やどなるむすめが そらくな えいそろそろ そらくどり
  さだまるつるが ないからよ たのみには 二しようやかんろ
  せんよかたえば いちやはおちよ おののこまちを みをやきけ
  ひくれには つぼねさむし つぼねには とのこそとぎよ
  せんしうらくには ばんざいらく まんざいらくには うたいおさめ

 ちょっと朗詠式な歌の調子に、踊り子は囃しながら(といっても、いとも静かに、のんびりと)位置は、二、三歩動くだけで殆ど変えずに、身体を屈したり延ばしたりする。太鼓を持つ子供は、歌の四調節目位毎に、左手で太鼓を背後に廻し、右手を肩のところへやったりしながら楽器を鳴らす。
 これが一五分位ですむと、一同揃って神社裏手の御田へ行くのである。田は三枚あり、周囲に注連が張ってある。伊予牛七頭が御田の代かきをする。その牛の田綱さばきがみものになっていた。
 御田の代かきが終わると、バンバオロシが始まる。三人の三番叟が田の中に入り、二枚目の田の畦に行く。三人のバンバは顔にあたる部分に白紙を垂らし、それに泣きと笑いと怒りの顔が描かれてある。泣きは太い青竹の上に笹のついたのを担ぎ、怒りが榊を持ち、笑いが手のついた酒樽に、実のなった(三つ)枝つきの枇杷と短い竹の棒と苗一杷とを担いでやってくるのである。それが田の中に入って並び、畦に、右へ青竹、左へ榊を打ち込み、田の中にぺちゃんと座りこんで祝詞をあげる真似をする。それから酒樽の酒を盃に酌んで飲む。終わると、笑いが枇杷を短い竹にさし込み、右手に持って田の中を踊り廻る。この時怒りは酒樽を大拍子に見立てて打ちながら囃す。笑いはわざと滑って転んで他の二人に泥をあびせる。ここで大変な道化振りを見せるのであるが、この道化振りを三人が替る替るやって、最後が泥合戦となり、三人ともへとへとになる。
 この三人が引き上げると、代わって早乙女が田の中に入る。続いてカイゾエと囃子の連中が入る。略図に示したように並んで、社前で歌ったのと同じ歌を歌うと、それに合わせて、カイゾエ人に引っぱられながら後へ後へと田植の真似をしながら退って行く。それを追うように囃子の連中が進む。
 こうして一枚の田を二度往復すると、次の田に移って同じ事を繰り返し、二枚目が終わると、〝中入り〟と称して青年団の余興がある。それが終わって三枚目の田を植え、それで式はすべて終わるのである。
 なお、代かきの際に「牛のはい追い」と称して、五色の紙を竹に挾んだボデンを持った幼児が父親に抱かれて出ることになっている。これをするとハシカ除けになるというのでする風であった。
 それからこれは初めに言うべきであったが、当御田植祭は寛政二年五月からで、浅野旧庵が願主となって始まったものである。以来毎年旧暦五月夏至の日にこの行事を行って来たのである。

 高田八幡神社の早苗祭り

 北宇和郡津島町高田の八幡神社は当地方第一の古社である。当社の早苗祭りは現在中絶しているが、始まったのは安政六年(一八五九)からと伝えられる。
 旧神主家武内正直氏所蔵の旧記によれば「安政六年末五月二十日願済御田植早苗祭執行。抑此発端者当村船戸船田忠治ナル者依志願功ナルモノナリ」と記されているのである。
 早苗祭りは氏子内の田植が終わった頃を見計って実施したものであるが、特定の神田があったわけでもなかったので、個人の所有田を借用して実施した。一枚の田を三区分し、一の田、二の田、三の田と称し、一の田は神の田として神聖視し、代かきをするときも帽子を被ったり、鉢巻姿でしてはならないと言っていた。
 行事は、牛二〇頭、牛使い一八人、早乙女九人、踊り子一九人の計四六人である。牛は各部落からよい牛を選んで出し、それで代かきをした。代かき役は六人以上偶数人数を必要とした。
 オドリコ(踊り子)の一九人は、一〇歳位の男児で、各部落から出る。浴衣に襷がけ、黄色の鉢巻をしめ、花笠を被り、手拍子(銅拍子)、つづみ、太鼓を持つ。また三番叟が出る。三番叟はもと早苗祭は東西二組に分かれて輪番で世話していたので、当番組から出ていた。ウタウタイは代かき歌をうたった。
 代かきが終わると、田の中央に三番叟が出て、鈴をもって三番叟を踏むのである。このとき拍子木でもって陰打ちを入れる。この三番叟を中心にして、踊り子連中が円陣をつくり、舞いを舞う。円陣の列の先頭にヘイフリ(幣振り)が立つ。幣振りは当番組から出ることになっており、幼児の役であるため、親が抱いて参加する。三番叟踏みが終わると、いよいよ早乙女による田植になるが、田植は形式的である。

 三島神社の御田植祭

 北宇和郡三間町宮野下の三島神社にも御田植祭があった。三間村郷土誌によると、「やり方は宇和島和霊宮の御田植と違わない。農繁の時期にもかかわらず見物人が多く集まり、牛の品評、牛使いの巧拙、早乙女の衣裳比べ批評をした。この行事中最も滑稽なのは三杯卸しである。もと宮野下組の行事であったが町に移し、後町から補助を出して村に移した。しかし明治四〇年より廃止した。」と記している。

 御田祭り

 東宇和郡城川町土居の三島神社の御田植祭はオンダマツリと呼んでおり、南予地方における唯一の御田植祭である。地域の田植が終了した七月第一日曜日を当てて実施している。
 御田植祭りは、伝承によると、北宇和郡三間町宮野下の三島神社のそれを伝承したものという。三間町出身の高月兵太郎が、明治一三年当地に養子に来、当地の小田原徳次郎らと図って始めたのが最初で、明治一四、五年頃からとされている。一時中絶したこともあったが、昭和四一年より地元青年団が主催して六年振りに復活することになり、以来現在に至っている。
 まず、神社神前にて御田植祭の神事を執行し、終わって斎田にて御田植行事をする。すなわちシロカキをする。八アールの斎田に牛七~八頭を入れて代かきをするが、荒かきについでかきあげをする。右端の牛をオモテ牛といい、これが軸になるので最も熟練者が使う。それを「表使い」という。左端はウラ牛といい、「裏使い」が使う。裏使いは表使い以上に老練者が当たる。この中間の牛はナカと言うのである。若い連中が当たる。代かきはオモテ牛がリーダーとなる。荒かきをしてカキアゲを行うときに、牛の背に赤幟と御幣が立つ。カキアゲの歌がある。
先頭牛をつかう人の音頭で、一同が唱和するのである。

   今年もご苦労 エイヘイヤー エイヘイヤー
   頭を揃えて エイヘイヤー エイヘイヤー
   これにて千秋楽ぞや エイヘイヤー エイヘイヤー

 代かきが終わると、「畦豆植え」がある。大籠(養蚕の桑籠)を持った青年、杵持ち、わらすぼ持ち(二人)の四人の青年が、泥田の中で暴れまわるのである。一種の道化役で、泥まみれの熱演をして見物人を楽しませるのである。泥打ちをしたり、畦豆植えの所作をしたりする。
 また一方では「三番おろし」をする。斎田正面に桟敷を構え、青年四人がコミックな神楽を演じるのである。三番叟三人に大番(ダイバン)一人が、神饌を供え、祝詞を奏してから神楽をする。ひょうげた神楽をする。まず三番叟が出て三番叟を踏む。

  白さぎが羽音をたてて飛ぶ時は 峰の小松を下へそよそよ
  秋の田の刈り穂の稲も盗まれぬ かかや子供に何を食わそか

つぎに大番が神楽を舞う。

  芋つくれ 芋つくれ 芋ほど得なものはない 食うにゃ食いよし ひるにゃひりよし

 ときどき三番叟と大番が桟敷から泥田に落とし合いをしたり、格闘を演じたりして泥んこになる。終わっていよいよ早乙女による田植である。男児が太鼓とササラでもって囃すうちに、早乙女が田植の所作だけするのである。次のような田植歌が悠揚とうたわれる。

  ヤァーレヤァーレ こなたのやしろ めでたいやしろ
  ヤァーレヤァーレ ひはなんどきぞ やつのさがり
  ヤァーレヤァーレ かいたるしろを のこすなよ
  ヤァーレヤァーレ せきやまこえて やどろか
  ヤァーレヤァーレ せんしゅうらくに たびをなせよ
  ヤァーレヤァーレ まんざいらくに

 近年は城川音頭の手踊りを余興に入れたりしている。ともかくこの御田植祭はここ百年程の歴史しか持っておらぬが、南予における唯一の御田植祭であり、かつ南予風な御田植祭の一タイプを伝えているものとして注目されるのである。

 イリコ田の御田植祭

 東宇和郡野村町の伊予之地にイリコ田と称する神供田がある。昔、氏神の神輿を作った所ということでミコシ田と言ったり、またオハケ田とも呼んでいる。もともと氏神と特殊関係をもつ中島家の耕作田であって、神聖視されてきた田である。
 従って代かきにも一定の作法があった。田の中央部の畦に笹竹を立ててしめ繩を張り、ここにサンバイサンを迎え、本膳を供えて祭るのである。代かきは牛頭がこのサンバイサンの所に三回行くようにかくのが作法である。中島家の当主は羽織、袴に威儀を正し、この田植が終わるまで待つことになっていたという。
 オハケ田の米は氏神の祭礼の宵祭りにオケンマイ(御献米)として献上した。なお、イリコ田の田植には必ず雨が降るとのことである。
 以上が県下に行われていた神社の御田植祭である。現在では大山祇神社と城川町の三島神社のそれが盛大に行っているだけであるが、同じ御田植祭といっても南予地方の御田植祭の特色は和霊神社のそれが代表するごとく、牛による代かきとばんばおろしであろう。ばんばおろしは三番おろしといっている所もあるが、三番叟による滑稽劇である。村落共同体の慰安と豊作祈願がこめられているところに特色がある。特に泥打ちは南予特有の民俗となっており興味深いのである。
 これに対し、大山祇神社の御田植祭は予祝的、年占的性格が強いのが特色といえるであろう。泥打ちは高知県地方にも行われている民俗であるが、「清良記」にも出ており、本県では中世以来の民俗であることが知られる。ともかく南予の御田植祭はその神事性よりも代かきの技術披露であったり、早乙女の品定めであったり、三番叟の泥打ちなど地域の人びとの田植後の田休みの娯楽、慰安という性格の濃いのがその特色といえるのである。

図表「旧翰秘覧記」

図表「旧翰秘覧記」


図2-1 和霊神社御田植祭の御田の略図(民俗芸術4-5)

図2-1 和霊神社御田植祭の御田の略図(民俗芸術4-5)


図2-2 同、踊り子の位置(民俗芸術4-5)

図2-2 同、踊り子の位置(民俗芸術4-5)