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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

一 明治期の芸娼妓

 道後温泉本館の後方、坂道を登っていけばかつて松ケ枝町遊郭のあった場所である。恨みながらも脱け出せず働き続けねばならなかった女たちのいた場所である。道後温泉の湯治客や石手寺への巡礼者を相手にする遊女や湯女があらわれたのはかなり古くからだろうと考えられるが、松山藩は天保一一年(一八四〇)ごろ道後温泉場に「十軒茶屋」と呼ばれる飲食業者の株仲間を認めた。一軒に五、六人の売春婦がおり、湯治客の相手をしていたようである。嘉永六年(一八五三)になって、松山藩は「風儀を乱す営業」として十軒茶屋の売春営業を禁止した。しかし、業者たちの売春営業公認の陳情が実り、安政三年(一八五六)松山藩は十軒茶屋の売春営業を公認し、線香一本について六分の賦金を上納するよう命じた。ここに松山藩の公娼制がはじまったのである。そのほか、三津浜、北条、中島、今治、伊予郡米湊、長浜、川之江等の港にはそれぞれ売春宿があり藩庁に上納して営業をしていた。廃藩置県後、道後温泉場や三津の十軒茶屋の株仲間制度は廃止されたが、茶屋営業(売春営業)は継続していた。神山、石鉄両県ともに公認し賦金を徴収したのであるから、私娼が増えるのは当然であった。
 ところが公娼制廃止は意外な形で発令されることになる。明治五年六月、ペルー国船マリア・ルーズ号が二〇〇名をこえる中国人苦力を買い込んで帰国途中、暴風にあい横浜に避難した折、逃げ出した苦力が救いを求めてきた。わが国ではじめての国際裁判が行われ、神奈川県権令大江卓は「奴隷売買は国際法違反である」と判決を下した。ペルー側は、「苦力を奴隷として解放を認めるのならば、日本には人身売買によって自由を奪われている公娼がいるではないか」と反論してきた。それに対して大江卓は「公娼制は明治以前の悪習で、政府は公娼解放を準備中である」と公言した。そこで、明治五年一〇月二日の太政官布告と九日の司法省令によって人身売買禁止、芸娼妓解放宣言がなされた。
 しかしながら、愛媛県では、明治六年八月、芸娼妓営業仮規則を布達し売春制度を公認している。同時に営業場所としては道後、三津、今治の三か所に限るとの制限が加えられた。なぜ、公娼制廃止から一年もたたないのに復活したのか。生活の手段として身を売っていた者が生活の保障もなく放り出されても、他の職にも容易につけず、元の職につくしかなかった。芸娼妓仮規則によって、芸娼妓は独立自由営業者、楼主は貸し席業者であるという解釈のもとに旧の遊郭は貸し座敷業で復活した。新たに赴任した権令岩村高俊は、公娼制度の改革をはじめた。関係法を改正し、遊郭を道後湯月町、三津、今治の三か所に限ること、性病予防のため検梅制度を実施することなど打ち出した。明治九年には梅毒専門病院として道後祝谷に駆梅院を設立し、芸娼妓が梅毒にかかったときは休業させるかわりに賦金を免除するとした。しかし営業しなければ生活できない娼妓たちは病気を隠して客をとらざるをえなかった。
 明治九年六月一〇日、道後に湯月女紅場が設立され、その後三津女紅場も設立された。女紅場とは女子に必要な技芸、知識を授ける場であるが、一般女子対象の技芸・授産目的・勧業のための授産場と、芸娼妓対象の技芸教授場とがある。芸娼妓対象の女紅場は道後、三津とも民家を借用して開場した。受講科目は読本・習字・算術・裁縫などで試験も行われて成績は県へ報告された。女紅場の運営費は娼妓たちの負担であったので、湯月女紅場ではメリヤス機械やミシンを置き、足袋や靴下を製作した。正業につかせる準備教育といえば結構な話のようであるが、学習のほうはともかく、技術習得が容易でなく出来上がった製品は粗悪品で値よく買ってもらえず収益は上がらなかった。売春を強要されている娼妓に生産労働まで強いるのは過酷であった。結局設立後約五年で実質的に消滅したのである。
 制度はどう変わろうと多額の借金をかかえて、抜け出せないのが娼妓である。しかし、明治三〇年代ごろから、直接行動で自由な身になろうと自由廃業の届を警察に出して逃亡する娼妓が出るようになった。日露戦争は松ケ枝町遊郭をにぎわせた。戦後の好景気と捕虜となったロシア将兵たちで一気に活気づいた。