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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

二 大正期の芸娼妓

 大正時代は不景気風とともにはじまった。不景気がまっ先にこたえるのが花柳界である。道後の置屋も色々協議の末、検番制により営業実績を上げようとした。花代の値上げにふみ切った。娼妓の自由廃業も次々と出るので、かかえ主たちは自衛手段として、芸娼妓を強制的に養女にする例が多くなった。第一次世界大戦中の好景気がはじまり、遊郭もにぎわうが、繊維工業の好況から女工の募集が多く、年ごろの女子は工場労働者に吸収されてしまい、娼妓のなり手が激減してしまった。いっぽうでは年若い女性の体を食いあらす公娼制度に対する反対運動も色々な立場から進められるようになった。地方議会に公娼反対の議案が出されることはあったが、廃止実現にはいたっていない。公娼廃止運動を明治時代より推進してきた団体が大日本婦人矯風会である。その松山支部が大正七年六月一一日、榎町教会宣教師のパミリー女史の家で発会した。中央から設立者矢島揖子、守屋東子を迎えて講演会を開き、彼女たちはなぜ廃娼が必要なのかを説いた。会員や参会者たちは松山市の廃娼運動に力を入れることを確認したのであった。