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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

二 大正期の婦人団体

愛国婦人会愛媛支部の発展

大正六年二月の事務引継書によると次のような活動状況が記されている。会員総数は二万二、四七二名に増加しており、事業面では明治時代から引継いでいるものがほとんどで、定期救護の対象となる家庭三七一戸に三円から一六円の援助をしている。大正四年より授産場を設置し、遺家族廃兵等で生計の苦しい者を対象に状袋、紙函等をつくる作業を行った。さらに新事業として大正一一年一月より婦人職業紹介所を開設した。これは一般婦人を対象としたものであり、大正一〇年に出された「妊婦産婦褥婦保護規定」と共に、婦人保護という面が活動に加わってきた。職業紹介所で扱う職種は工業(製糸・紡績染色機織・食料品など)、商業(店員、商店雑役、行商ほか)、農業、通信運搬、戸内使用人(女中・乳母・児守・給仕・番人・小使ほか)などであった。

 地域婦人団体

 明治中期以降に結成され始めた地域婦人団体は、大正時代に入って急速に数を増やしていった。伊予郡の砥部では、大正五年に千歳婦人会・砥部町婦女会、大正一〇年には原町村の麻生と連合区に主婦会が発会している。東予では菊間町の婦人会は大正八年ごろ結成され、以来尚歯会を昭和五〇年に至るまで続けた実績を有している。これら地域婦人団体は婦人会、主婦会、婦女会(未婚女性と合同の場合が多い)の名称がみられるが、南伊予村主婦会の活動をみると、育児・教育・家政・衛生・慈善・習慣の改善・消費節約・講習・講話など日常生活の向上と結びつけようとするものであった。この時期に多くの婦人団体が結成されたのは、第一次世界大戦後の不況によって農村が窮乏し、国民生活が不安定になったのに伴い、内務省がこの苦境克服のため、家庭婦人の奮起を促すため、生活改善・社会奉仕に取り組むよう婦人会の設立を促進したか
らであった。
 いっぽう、村落単位で活動している婦人団体の組織化も行われようとしている。大正九年一月、当時勝山婦人会を主宰していた船田操は婦人団体に呼びかけて、愛媛県連合婦人大会を松山市で開催した(愛媛新報大正九・一・一二付)・この大会はその後も続けられた。

 処女会

 処女会は義務教育を終えた未婚の女子によって組織され、「健全な国民、善良なる婦女として必要な修養をつむ」目的で結成された団体である。本県では、『余土村誌』に明治四二年(一九〇九)に処女会が設立し、自治的に活動しているという記録がみられ、同四五年には郡中村処女会が設立されたとあるが、これらは同三九年に文部・内務両省が青年団の育成指導に着手したことによる反応の表れではないだろうか。しかし、男子の青年会に比べて処女会の設立、活動ともに立ち遅れ、大正期に入ってようやく各地に設立されていった。活動も初期においては講話を聞いたり、料理講習会を開く程度のものが多く、会長は小学校長、指導は女子教員があたる例が多かった。大正一一年には県内二九〇市町村のうち、二四九市町村に二六六の処女会が結成され、次第に郡市単位の連合処女会の設立をみるようになった。同一〇年には温泉郡連合処女会、周桑郡連合処女会が結成された。市部は結成が遅れていたが、同一三年の皇太子殿下御成婚を機に督励され、松山市の場合は同年一月、各尋常小学校下に区分して七か所の処女会を設立するにいたった。さらに、松山市連合処女会の設立を計画し、六月一日に松山第一尋常小学校(番町小学校の前身)において盛大に発会式を行った。市内処女会活動について、松山第七処女会の規則を例示すると「一、教育ニ関スル勅語ノ御趣旨ヲ奉載シ、其貫徹ヲ図り徳性ノ涵養ヲ期スルコト 二、会員ハ生活上必須ナル知識ヲ修得スルコト、並ニ本会員ノ増加奨励ニ努ムルコト 三、体力ノ増進ヲ図ルコト 四、育児、衛生、作法、看護、色染、洗濯、裁縫、割烹其他実業ニ関スル講習講話会ニ出席ヲ奨励シ又ハ開催シ、其他善行者ノ表彰手芸品ノ展覧会ヲ開催スルコト 五、修養上必要ナル実地見学ヲ行フコト 六、公共事業ニ対シ女子二適当ナル援助ヲナスコト」といった内容であった。
 処女会活動のねらいを次第に良妻賢母となる修養と考えるようになった。同一〇年五月、温泉郡処女会の発会式が県公会堂で行われ、一、六〇〇名の処女が集い意識を高めた(愛媛新報大正一〇・五・二付)。この会は順調に成長し、同一二年五月六日には第三回総会が松山高等女学校講堂で開かれ、会員が「私どもの前進」「処女会の使命」、「結婚に対する希望」など堂々の意見発表をするまでになった(愛媛新報大正一〇・五・付)。また、周桑郡処女会は同一一年二月一二日に丹原小学校で修養会を開き、県嘱託の高左クリが講話を行った。その中で、会員たるものは、「忠孝の大義を知らざるべからず」「長上老幼を敬愛すべし」「礼儀を知り公徳を重んずべし」「貞淑にして従順なるべし」「質素にして勤勉なるべし」「時間を守ると同時に時を惜しむべし」とまず心得を説き、さらに、「一、女は修養が第一である。女の仕事は子供の教育であるので良妻賢母となるには時世を知り心の修養を怠るな。一、女はどこまでも愛らしく。一、着物の数を誇りにするな。生活改善とは何か。余分なものを買わず貯金せよ。」といった実践目標をあげた(「周桑郡吉井村役場社会ニ関スル雑書綴)。
 温泉郡処女会は第三回処女講習会を大正一二年八月八日から一二日にかけて道後小学校で開催した。この講習会を修了した者が各会のリーダーとなるので、重要視される会である。修養科目-女子と宗教・婦人の修養・人生幸福の源泉・経営に関する科目、実科-手芸・割烹・音楽など。四〇名余りの乙女の集団訓練は意気も相当なものであった。
 民間では青年団、処女会に期待するところ多く、大正一二年三月一八日付の「愛媛新報」は論説「処女青年会の指導方針」を掲載し、「講演会、茶話会もよいけれど、処女青年会を生命あるものにし、文化の中堅として健全な発達をはかるには、新しい知識、道徳、衛生などに関する涵養機関を設けることがのぞましい」と説いている。こうした要望を受けて曽我鍛らは愛媛青年処女協会を設け、機関誌「青年と処女」を昭和四年(一九二九)まで刊行した。大正一四年には本県の処女会々員数も約三万一、〇〇〇人になった。
 全国的にも処女会の急速な普及がみられ、政府は女子青年団体を男子と区別して育成指導する方針を出し、大正一五年一一月一一日文部省・内務省より訓令「女子青年団体ノ指導誘掖ニ関スル件」が出され、さらに通牒「女子青年団体施設要項」が出された。これを受けて、県では一一月二六日知事名で各市町村に「宜シク局ニ当ル者ハ内務文部両大臣訓令ノ趣旨ヲ体シテ鋭意団体ノ刷新振興ヲ企画シ、以テ女子青年団体ノ目的達成ニ努力セラルヘシ」と訓令し、名称を処女会から女子青年団に統一することを指示した。

表1-1 愛国婦人会愛媛支部婦人職業紹介所成績

表1-1 愛国婦人会愛媛支部婦人職業紹介所成績


表1-2 「松山市の処女会」 (昭和一三年)

表1-2 「松山市の処女会」 (昭和一三年)