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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

一 明治期の婦人団体

 婦人団体の創設

 明治時代の婦人が団体として活動をするのはいつごろからか。欧化政策の中で婦人が社会の表面に出て活動する場が与えられるようになったのではないかと考えられる。
 本県では、キリスト教会の中に育った婦人会が最初の婦人団体であった。明治一三年(一八八〇)、今治教会の信者により「今治キリスト教婦人会」が結成されたのが最初の婦人団体となり、明治二〇年、発展して今治婦人会が設立された。今治教会から独立した松山教会においても同年松山婦人会が設立されている。これらは明治二六年創設された日本基督教婦人矯風会の系統につながる団体である。キリスト教主義の婦人団体のほかに、仏教系の「松山婦人慈善会」も組織され、社会事業の援助をしていた。しかし、全体にこれらの団体は親睦、新知識の吸収などを目的として新しい婦人を目ざす上層の婦人活動であった。
 そうしたなかで、婦人団体の活動に大きな転期を与えたのが日清・日露戦争であった。明治二七年に発行された「女学雑誌」は「婦人会の活動」という一文を掲載し、婦人会に対して戦争協力の活動をよびかけた。日清戦争の開戦直後のことであり、婦人会活動の目的の一つに戦争協力が示されたのである。のちの愛国婦人会の芽がすでに育とうとしていた。
 さて、本県の地域婦人会としては明治二七年に内子婦人会、明冶三二年に旧明治村婦人会などが発足している。明治村婦人会では指導者は村長、校長などがあたり、翌年には小学校で講演会を開催したりしている。また、砥部小学校の沿革誌には、「明治三三年(一九〇〇)八月一七日、伊予教育部倶楽部役員三名が砥部へ出張につき、婦人を集め一席の談話を請い、婦人会を組織することにつき協議す。来会者四〇名なり。」とある。こうした指導により婦人への啓蒙がなされたようである。
 日清戦争を体験した我が国は、戦争を後方から支援するための婦人会が結成された。明治三四年二月、東京九段の偕行社で奥村五百子は日清戦争の傷病兵や遺家族の慰問救済などを目的とした「愛国婦人会」の結成を呼びかけ、三月に愛国婦人会を創設した。

 愛国婦人会愛媛支部

 愛国婦人会は国の支援と奥村会長の熱意によって全国へ波及していった。本県では明治三四年一二月に支部が結成され、菅井ヨウ子(県知事夫人)が支部長となった。以来、歴代知事夫人が支部長をつとめた。翌年は砥部町・長浜町で、同三六年には伊予郡中山町、東予の大井村・小西村など県内各地に支部が誕生している。長浜町を例にとると、明治三五年の入会者二名、同三七年には四四名入会し、三二名退会、同四二年には六九名入会し、四八名退会している。このように退会者が多いのは愛国婦人会が有志の婦人会であり、寄付的性格の強い高額の会費を徴収したために、一般家庭の主婦では払いきれない者が多かったためと考えられる。のちに愛国婦人会の会員数が伸び悩む一つの間題点であった。
 しかし、奥村会長が明治三六年一二月に来県し、松山をはじめ県下各地で演説するにおよんで、支部結成に拍車がかかった。明治三八年一〇月に愛国婦人会愛媛支部の発会式を道後公園のグランドで行った。この年には県内の会員数約一万三、〇〇〇人になっている。日露戦争が勃発すると各地の愛国婦人会支部は出征兵士を励ますために慰問袋をつくり軍人家庭を慰問した。伊予郡の松前・岡田・北伊予の各支部会員も慰問袋送付に協力した。これらの支部では明治四三年に松前村七八名、北伊予村一四五名、岡田村一一七名の会員数となっている。以後の愛国婦人会の活動は明治・大正を通じて軍人遺家族、傷病者への救援活動を中心になされた。