データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)
二 消防の近代化
消防制度の改革と消防団の発足
太平洋戦争の終結とともに、連合国軍総司令部の指令に基づき、政府において日本民主化のため新憲法制定の作業が進められ、これと併行して地方制度及び警察制度の改革が重要な項目として取り上げられた。消防制度の改革は、地方制度及び警察制度の改革と関連して検討され、政府は都市警察及び地方警察改革に関するバレンタイン及びオランダー報告を契機として、昭和二一年一〇月に警察制度審議会を設置し、警察制度の改革に関し諮問した。答申では、基本的な考え方として、消防は警察と分離し市町村に担当させるが、現在の官設消防は都道府県または大都市に委譲することであり、消防をすべて市町村の責任に委ねるところまでには至らなかった。
戦時下で防空・水火消防その他の警防活動に当たってきた警防団は、昭和二一年二月、その重要な任務であった「防空」が削除(勅令第六二号)され、戦時色を除去して新しい時代の消防活動に入った。昭和二一年の警察制度審議会答申に基づき、翌二二年四月、「消防団令」(勅令第一八五号)が公布、五月一日から施行されたことによって、従来の警防団は解消され、新たに全国の市町村に自主的、民主的な消防団が組織されることとなった。しかし、その任務については、警察の補助機関の性格を依然として有し、指揮監督についても警察のもとにあるとされていた。
自治体消防制度の創設
昭和二二年九月一六日、マッカーサー元帥から内閣総理大臣あての書簡で、警察制度改革に関する最高方針が示され、これに基づき「警察立法に関する件」の覚書が政府に通知された。消防制度改革案については、一〇月二一日、連合国軍総司令部民間情報局公安課の消防行政官エンジェルが内務省に対し「消防法に関する件」の覚書案を示し、さらに一一月一四日「消防立法に関する件」の正式覚書を通知してきた。これに基づき、内務省では「消防組織法」を立案し、公安課の了解を得て国会に提出した。
消防組織法は、昭和二二年一二月二三日公布され、「消防組織法の施行に関する政令」(政令第五二号)により、翌二三年三月七日から施行された。これにより、消防は警察から分離し、地方分権主義の原則に立って、消防の責任はすべて市町村とするという新しい自治体消防制度が発足したのである。
一方、消防法案については、議員立法の形で消防組織法案とともに国会に上程されたが、参議院で審議未了にたり、更に再検討されて、翌二三年再上程された。同年七月二四日法律第一八六号で公布、八月一日から施行された。これにより、火災予防、原因調査等の権限が消防に与えられ、従来単なる事実行為として行われていたにすぎなかった行為に法的裏付けがなされるとともに、火災予防に関する制度は、初めて体系的なものとして確立されたといえる。
消防組織法が成立したことに伴い、同法の趣旨を徹底させるため、新たに昭和二三年三月、「消防団令」(政令第五九号)が公布され、勅令消防団令は廃止され、従来義務設置であった消防団は、任意設置制に改められた。
自治体消防の発足
内務省解体により、内事局が発足し、消防課はその第一局に属したが、昭和二三年三月七日国家消防庁が発足し、国家地方警察本部とともに内閣総理大臣の所轄下にある国家公安委員会の下に置かれた。市町村消防は、警察の配下にあった従来の官治消防から自治消防へと生まれかわり、官設消防署は、当該市町村の新しい消防本部、署として発足し、その他の市町村はその設置していた常備消防部を切り替え、新しく消防本部、署を発足させた。しかし、市町村では従来消防の主導権がなかった関係もあり、設置には積極的でなかった。
国家消防庁では、昭和二四年四月、「常設消防力の設置基準」を勧告し、市町村消防にその整備目標を与えた。二六年三月、消防組織法が改正され、従来任意設置であった消防機関の設置を義務制とし、市町村は消防機関の全部または一部を設置しなければならないものとされた。同時に、消防団員が公務により災害を受けた場合、市町村はその損害を補償しなければならないものとされた。
その後、国の行政機構の改編に伴って消防組織法も数次の改正が行われた。昭和二七年八月、国家消防庁は国家消防本部に改称、消防に関する都道府県所掌事務についての規定が創設された。ついで、昭和三五年七月、それまでの自治庁と国家消防本部が統合されて自治省が発足、国家消防本部は消防庁と改め、自治省の外局となった。
愛媛県では、消防事務については従来県警察部で取り扱ってきたが、消防組織法の施行により市町村の自治消防に改められたため、昭和二三年三月から県地方課へ事務移管された。つづいて、同四三年四月、県は交通、火災その他の災害事故の激増と消防事務の増加に伴い、新たに「消防防災課」を設置した。同課はその後、同四七年四月から「交通消防課」と改称した。
県内の自治体消防の整備
消防組織法の施行により、消防は市町村の責任となり、消防機関(消防本部・消防署・消防団)の設置義務が課せられた。県内では、昭和二三年一〇月の松山市消防本部の設置をはじめとして、翌二四年に新居浜市・今治市・宇和島市がそれぞれ消防本部と消防署を設置し、その後、四三年四月に北条市での設置をもって、県下全市に常備消防が設備された。国では、消防力を強化し常備体制を確立するため、昭和三九年に消防本部及び消防署を設置すべき市町村を政令で指定する制度を実施し、消防に関する一部事務組合、事務の委託等の共同処理方式の活用による広域的な常備体制の整備促進とあいまって、消防の常備化は急速に進展することとなった。県内では、昭和六〇年三月現在、消防本部設置の市は松山・新居浜・西条・北条の四市、消防一部事務組合は、設置順にみると、周桑事務組合、伊予消防等事務組合、今治地区事務組合、宇摩地区広域市町村圏組合、大洲地区広域消防事務組合、南宇和消防事務組合、越智郡島部消防事務組合、東温消防等事務組合、上浮穴郡生活環境事務組合、東宇和消防事務組合、宇和島地区施設事務組合、八幡浜地区施設事務組合の一二組合があり、未設置はわずか中島町一町のみとなっている。
消防団は、その設置・名称及び区域・定員について市町村の条例で、組織については規則でそれぞれ定めることとされている。各団は、消防本部の長(消防長)または消防署長の所轄の下で行動すると定められている。県下の消防力の推移をみると、表3-1のようである。
組織面からみると、各市町村における消防機関の常備化が進み、吏員数は昭和三二年に二〇〇人台、四五年に五〇〇人台、五三年以降から一、〇〇〇人台と漸増し、これに対して消防団員数は二八年の三万八、七〇七人から三六年には三万人台を割り込み、四七年には二万四、七六八人と二万五、〇〇〇人台を割り込むなど相対的に減少している。一方、装備面では、消防機械・器具の近代化が著しく進展し、従来の腕用ポンプ・手引動力ポンプが激減消去され、小型動力ポンプ積載車、普通消防自動車の配備が進行し、機動力・消火力の強化が進んでいる。さらに都市化による建物の高層化や石油等の危険物の増大に伴う特殊火災に対する対応に迫られていることがわかる。
県内での「はしご付き消防自動車」の最初は、昭和三五年松山市に備えられた「白龍号」で、新居浜市は三八年に「スノーケル車」を四国で初めて導入している。「化学消防車」については、昭和四二年当時、丸善石油製油所に三台のほか、帝人松山工場、松山空港、住友各社など一〇台が県内にあったが、公設の消防本部では、同年三月の松山市に装備されたのが最初であった。
こうした消防機関の強化には、各市町村の熱意もさることながら、「消防施設強化促進法」の制定をみのがせない。この法は、昭和二八年七月、市町村の消防力を強化し、社会公共の福祉に寄与するため制定されたもので、消防界多年の念願であった消防施設に対する国の補助制度が確立したものである。同法とともに町村合併促進法、新市町村建設促進法に助けられ、自治体消防は大きく成長していくのである。なお、消防職員及び消防団員の教育訓練機関については、昭和二八年一〇月に愛媛県消防学校が開設された(県規則第五六号)。ここでは、火災予防をはじめ火災時の救出救護、火災防御技術等についての必要な教育訓練を行い、関係職員や団員の資質向上に大きく寄与しているのである。
自治体消防と救急業務
消防機関による救急業務のはじめは、昭和八年の横浜市だといわれる。以後大都市を中心として業務が開始されてきたが、戦後の社会経済の急速な発展に伴い、交通事故をはじめとする各種の災害増加に対応して、救急業務が全国各地で実施されるようになった。しかし、明確な法的根拠がないところから、地域による不均衡と格差が生じるなど種々の問題が生じた。このため、昭和三八年消防法一部改正により、救急業務が市町村の消防機関の所掌事務として法制化され、翌三九年四月から施行された。当初、消防本部及び消防署を置かねばならない市町村のうち、政令で定める基準に該当する市町村(人口一○万以上で人口集中地区人口五万以上の市)についてのみ実施義務が課せられた。以後順次拡大され、昭和五〇年一月以後は消防本部及び消防署設置義務の指定を受けた市町村は、同時に救急業務を実施するものとされている。
県内では、松山市が法制化に先がけて救急業務を市民サービスとして実施することとなり、昭和三七年一二月から救急車一台で業務を開始した。その後、県内各市で体制が整備され、昭和四六年一月の伊豫市の実施で県下全市において業務が行われるようになった。当時、医師の協力不足や救急指定病院が極めて少数のため、患者の搬送にしばしば問題を生じた。特に、昭和四七年一月には、宇和島市と大洲市において発生した救急事故により医療対応体制の欠陥が報道され、医師会及び自治体間において早急整備に関する対策が講じられ、順次整備されることとなった。昭和五九年四月現在の状況では、単独実施が四市、組合実施が一二組合六五市町村で、救急自動車保有台数は県下で六九台(一五台予備車)、隊員数が六〇五人、救急告示医療機関四三となっている。五八年中の活動状況をみると、件数が二万八、七四三件で前年比五・八%の増加、内訳では急病四二・六%、交通事故二五・八%、一般負傷一三・四%などとなっており、搬送人員は二万八、四八一人となっている。その推移をみると、件数・搬送人員ともに毎年増加の道をたどっており、緊急性・必要性はますます高まっているといえる。