データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

四 結核撲滅策と結核療養所の設置

 結核予防運動と結核予防会愛媛支部の結成

 愛媛県の結核による死亡者は、昭和七年二、〇六〇人、同八年二、一六九人、同九年二、三六七人、同一〇年二、四〇一人、同一一年二、五二八人と漸次増加の傾向をたどり、それも同一〇年を例にとれば二〇~三四歳の壮丁層の死亡者が一、一一二人で、全体の五割近くを占める実情は国策である兵力増強の面から見れば戦慄すべき状態にあった。とりわけ、愛媛県は四国四県で第一位、全国でも平均を大きく上回って全国中一四、五位のところにある有数の結核県であってみれば、県会で医師出身議員を中心に結核予防が叫ばれ、県当局もこれに意を注ぐ方針を示した。
 県は、四月二七日の予防デーを中心に結核予防思想の啓蒙普及を図っていたが、昭和一四年度は五月二日から結核撲滅を旗印とする健康週間を実行することにした。その実施要項には、寝具その他の清潔、日光消毒を奨励すること、唾痰は必ず痰壺に行いまたは紙などで取るように習慣づけること、適当な戸外運動・郊外散歩を奨励すること、自宅療養患者の闘病精神の確立伝播防止等に関し適切な指導をすること、町村隔離病舎の空床利用を促すこと、などをあげている。また北宇和郡三島村外二か村を無結核地区に指定して、五〇戸を一区にして町村を数区に分割、各区に一人の学識経験者を結核予防指導員に嘱託し、健康相談所・消毒所を一か所ずつ設け、社会看護婦を二、三名ずつ置いて各戸を訪問調査させるなどを計画した。
 昭和一四年四月、皇后は令旨とともに結核の予防と治療に関する施設費として五〇万円を下賜された。皇后の令旨を奉載して、結核予防の新国民運動が一一月一四日から全国一斉に展開された。愛媛県では同日午前九時から県庁屋上で令旨奉載式を挙行したのを最初に県下の各学校や職場で同様奉載式を行い、結核予防・健康愛媛建設の県民運動を盛り上げていった。今回の運動は、従来の週間運動的行事を染め替えて、一四日は都市デー、一五日は農村デー、一六日は工場デー、一七日は学校デー、一八日は家庭デーとして五日間のプログラムを作り、「時局と結核国難」「療養読本」などのパンフレット・リーフレットを全県民に配り、健康報国の意義を県民に認識させようと努力した。
 この年五月には、皇后の令旨を奉載して厚生大臣を長とする大日本結核予防会が設立された。愛媛結核予防協会は直ちに組織を変更して結核予防会愛媛支部に改め、六月四日午後二時から支部発会式を催した。支部長は県知事持永義夫、副支部長に警察部長豊島章太郎・県医師会々長安井雅一を選び、東洋絹織愛媛工場・明治製菓三津工場・倉敷紡績北条工場・明正レーヨン壬生川工場などを特別会員として工場での結核追放を要請した後、病毒伝播のおそれある結核患者の隔離、開放性結核患者の健康診断、帰郷者の検診、集団健康診断の実施、児童に対する発病防止施設の設置、虚弱児童の養護施設、療養の指導、消毒設備の普及、住宅改善施設・栄養改善施設・結核予防特別地区の設定、一般予防知識の普及と予防生活の実践、結核多発部落に対する調査などといった支部事業内容を決めた。
 結核予防会愛媛支部は昭和一五年二月六日主務大臣の認可を受けて本部統率の下に活動を開始した。同一五年九月、住宅改善重点地区として越智郡下朝倉村・周桑郡周布村・上浮穴郡柳谷村・伊予郡砥部町の四か町村を選定、県から八、三六四円の住宅改善費を得て通風採光が悪く湿度の高い患者居宅に一戸あたり一五円から三〇円の助成金を分配して簡易改善を指示した。同じ九月には、県下市町村の方面委員二七〇名を結核予防委員に委嘱して、都市・工場からの帰郷者の通報、住宅の改善と環境衛生の指導、結核予防思想の普及、集団検診の斡旋、結核予防に関する意見の上申などに従事してもらうことにした。昭和一七年四月には市町村や結核予防委員との連絡を密にするため県下各警察署に地方部会を置き、消毒所を設け市町村の要求に応じて家屋物件を消毒する態勢を整えた。
 結核予防会は六大都市における小児結核予防事業を手始めに、同一七年一一月模範的な予防事業を行う目的で全国に一〇か所の結核予防模範地区指導所を設立した。その中の一か所が北宇和郡近永町・松丸町・吉野生村・泉村・三島村を一区域とする「結核予防会北宇和模範地区指導所」として誕生した。模範地区指導所ははじめ泉村出目の水野酒造所乾繭倉庫二階を事務所にして発足したが、後に国鉄出目駅裏の丘陵の桜ケ丘に事務所を新築し、集団検診による患者の早期発見とペット三〇床を有する治療施設によって早期治療に努めた。この治療施設は、戦後、国立愛媛療養所の分院を経て国立出目療養所となり、現在は国立療養所南愛媛病院と称して南予地域医療の中枢機関の一つとして活動している。

 傷痍軍人愛媛療養所と県立療養所翠松園の設立

 時局下、軍隊で集団生活を続ける将兵間に結核が蔓延することは懸念すべき問題であった。昭和一三年五月、厚生省外局の傷兵保護院は全国に一八か所の傷痍軍人療養所を設立する方針を決定した。同年一二月の傷痍軍人千葉療養所の開所に続いて、昭和一四年四月温泉郡北吉井村の通称見奈良原に傷痍軍人愛媛療養所(初代所長河端明)が開設した。
 昭和一七年四月には、傷痍軍人愛媛療養所に隣接して県立療養所翠松園(初代院長中谷信之)が設立された。県立結核療養所は、昭和一二年四月五日に改正された「結核予防法」により設置が義務づけられた。そのために県当局は一五万円の建築費を計上し、県会は満場一致でこれを承認した。しかしその位置選定にあたり、県の予定した越智郡桜井町と温泉郡生石村吉田浜とは地元民や軍の反対にあって昭和一三年度中には建築の運びにいたらなかった。同年の通常県会で山田庄太郎医師はこの結核療養所遅延問題をとりあげ、療養所が宙に迷っていることは結核の撲滅に対する県当局の熱意の足りなさを象徴するものであると指摘した。昭和一四年四月一六日には厚生大臣名で結核療養所は一五年三月三一日までに設置せよと厳達されたので、県当局もこれには慌てて急拠温泉郡南吉井村見奈良の傷痍軍人療養所に隣接した地を充てることにしたが、いざ着工となると今度は土地買収費や資材騰貴で既定予算では足りなくなり、臨時県会を開いて補正予算などを上程するなどで時間を費やした。一九万四、〇〇〇円の事業費で一五〇人収容の療養所建設に着工したのは昭和一五年一〇月中旬であり、翌一六年一一月ようやく落成した。
 一二月二三日「愛媛県立翠松園規程」が定められ、「翠松園ハ結核患者ニシテ環境上病毒伝播ノ虞アル者ヲ収容セシムル所トス」と明記、同日「本県住民ニシテ結核性疾患ニ罹リ予防上入園ヲ必要卜認ムル者」「私費ヲ以テ入園ヲ希望スル者」を入園させるとして、その手続を示した「入園規定」も定められた(資社会経済下七九〇~七九二)。翠松園は昭和一八年四月に日本医療団に編入され、戦後日本医療団の解散に伴い昭和二二年四月国立に移管されて国立療養所翠松園となったが、同二六年四月国立愛媛療養所に収容合併された。

 教員結核保養所の設置

 昭和一〇年代県内教職員で結核にかかっている者は約四〇〇名といわれた。このため昭和一二年から年二回以上教職員の健康診断が実施されて結核性疾患の早期発見が図られたが、さらに患者が重症に陥る前に手当を施す教員保養所の建設が望まれるようになった。
 政府は昭和一四年一二月一四日に「教員保養所令」を定めてその創設費・経常費に対し三分の一の国庫補助を支給することにした。愛媛県と教員互助会は厚生省に陳情を重ねて設置を認められ、国庫と県及び互助会がニ万五、〇〇〇円ずつ支出して総工費七万五、〇〇〇円をもって松山市堀江の地に建設することにした。教員保養所は昭和一六年に起工し、同一七年度中に完成の予定で三月三一日には「愛媛県立教員保養所規程」を発布して入所手続方法などを定めた(資社会経済下七九三~七九四)が、時局柄資材や労務需給などに手間取り、いちおう完工して患者を収容できるようになったのは昭和一八年七月であった。しかし保養所が設置されても相当に病状の進んだ患者しか収容できず、初期症状の教員は生活の必要から児童に教授し、検診もいろいろな方便で一時逃れをする傾向があった。

 愛媛県結核予防撲滅五か年計画とBCG接種の実施

 昭和一七年四月「愛媛県結核予防撲滅五か年計画実施要綱」が作成された。この要綱によると、県庁衛生課に実施本部を県内各警察署に地方実施部を置き、その下部は市町村実施部・学校工場官公庁実施部・民間集団実施部などで構成されていた。結核予防撲滅の方策は、濃厚感染防止と健康診断(ツ反応検査)、BCG接種の徹底に置かれた。このため、各実施部は健康生活指導と予防療養指導を励行し、警察署は戸口調査を行って隠蔽患者の発見に努めることになった。健康生活指導は具体的には講演映画による指導、健康生活七則「日に当れ清い空気をいつも吸へ、なんでも食べよ良くかんで、早寝早起きよく眠れ、ほどよく休んで力を養へ、手を洗へからだはどこも清潔に、肌衣きれいに厚着すな、正しく自然の姿勢をたもて」遵守の督励、集団検診の奨励、BCG接種の徹底などからなっており、予防療養指導は罹患者療養指導と家族の結核予防指導を励行することであった。県当局は、とりあえず昭和一七年五月五日~六月一五日を結核予防撲滅運動強化月間としてこの実施要綱を実践することにし、各方面の協力を得て、期間中五〇万人の県民を対象にツ反検査を行い、陰性者にはBCG接種を実施した。
 BCGについては昭和一三年以来日本学術振興会小委員会においてその予防効果を研究されてきた。昭和一七年になると、栄養物資の不足と激務とによって軍需工場に働く青少年の間に結核症の蔓延する傾向が認められたので、重点接種の方向が打ち出された。昭和一六年一〇月に結成されていた県医師会結核撲滅会は、この線に従ってBCGの接種に全面的に協力することを決め、会員に次の依頼状を送った。

 本県ニテハ曩ニ賜ハリタル皇后陛下ノ御令旨ヲ奉載シ結核ノ予防撲滅ヲ期スル為メ国民学校児童(四年以上)、青年学校生徒、中等学校生徒、工場労務者ニ対シBCGヲ接種セシムルコトト相成り県医師会モ結核撲滅会ノ事業トシテ此ノ計画ニ対シ積極的ニ協カスルコトト致度、別紙BCG接種ニ関スル文書御送付申上候間御精読ノ上御協力被下度願上候、

 こうした結核予防強化策により未感染者に対する免疫性の付与はツ反応検査とBCG接種で成果をおさめはじめた。しかし濃厚感染の防止に必要な感染源の隔離と早期治療は、県財政の不足などで療養費の増設と医療公費負担の処置が取れないので十分な効果をあげられなかった。その上、食糧事情の窮迫が患者の死亡を増加させ、勤労動員の強化が罹病率を高くしていった。戦局の悪化で、治療も施されず栄養食も与えられないままに厄介者視され空しく病床に横たわる結核患者に、結核予防会愛媛県支部内の療道報国会(昭和二〇年一月結成)は、昭和二〇年四月二四日付檄文で次のように訴えた。

 戦はんかな秋致り今や国土は戦場と化した。千載一遇の絶好期に際会して、生を皇国に受けた感激に浸りつつ、病弱何の報ひるところもなかったことを詫び、真実に魂の御楯にならうではないか。硝煙空を蔽ひ決戦場、我等病弱同志の屍を踏み越へて無病無痍の同胞精兵が涙の裡に突撃する時、神州の歴史厳として徴動だにある筈はない。だが、それまでは、いよいよの際に全幅の働きをするがためには、憤重な態度で療養専一、国家に全身全霊を捧げつくす逞ましい精神力を培って病弱撃滅のため努力精進していただきたい。