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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

三 医師開業免許制度の成立と医療関係者の規制

 医師免許制度と医師開業試験

 明治七年の医制では、医学校卒業を開業免許の原則としながらも、従来の開業医師は学術の試業を要せず、ただその履歴と治績とを較量してこれを二等に分けて仮免許を授け、医制発布後およそ一〇年間に開業を請う者には、解剖学・生理学・病理学・薬剤学・内外科大意・病状処方並びに手術の試験に合格した者に開業免許を与えるといった臨時措置を設けた。
 明治八年六月二八日、愛媛県は「医務開業ノ者出願ノ件」を布達、試験は文部省で定めた医師の条件であって三府はすでに施行せられているので数年を出ずして全国一般施行されるだろうという見通しの上に、医術開業志願者は師家から医術試験済の証書を受け履歴書を添えて出願するか、第六大区松山収養館、第一六大区八幡浜病院、一三大区宇和島病院で試験を受ける証書を提出させ、試験課目は「医制」によるという骨子を示した(資近代1 三六八~三六九)。この試験制度は、「遐陬辺避ハ未夕賢明ノ医ヲ得ルアタハス、蓋シ十中ノ九八皆庸劣浅術ノ徒、多クハ学術大意ヲ弁セス」の状態で「師家ノ試験ヲ受クヘシ云々、恐ラクハ一ノ弊害アラン」と批判の声があがり、また明治九年一月、三府以外の府県にも内務省達によって開業試験が課せられることになったので、実施に至らなかった。同九年六月六日付で県は「医師開業ノ者ハ試験ヲ受ヘキノ件」を布達、今般内務省乙第五号で医師開業試験法が達せられたので、今より開業の者は第六区温泉郡小唐人町病院収養館で試験を受けること、従来開業している医師であっても志願の者は試験を受けることと指示、試験科目は物理学化学・解剖学・生理学・病理学・薬剤学・内科学の大意で、産科眼科口中科など専ら一科を修める者は各々の局部の解剖生理大意及び手術を検査するとあり、試験は「一日ニ一科ノ問題ヲ与ヘテ答書ヲ作ラシメ更ニ答書ヲ諸問ス」といった形式で実施された(資近代1 三七〇)。松山病院収養館での開業試験はほぼ一か月一回の割合で行われ、受験者は多い時は七、八名、少ない時は一名の場合もあったという。明治一一年の「愛媛県統計書」には本免許状所持者二二名とあるからこの制度による医師開業者が順次生まれてきたようである。小松の永野良準は、松山病院附属医学所卒業後明治一二年三月の試験に合格、医術開業免状を得ている。
 こうして医師開業試験は府県に委任されることになったが、県ごとに難易度の異なる試験が施行されたため全国的に均衡を失したので、試験規則の統一を要望する気運が強まった。明治一二年二月内務省衛生局が問題を選定してこれを全国共通の試験問題とすることが定められた。これにより試験は二月、五月、八月、一一月の四回となり、さらに一四年
以後三月、一〇月の二回、愛媛県庁と高松病院の二か所で実施された。「帝国統計年鑑」によると、愛媛県の試験合格者は明治一四年五一名、同一五年六〇名、同一六年八三名、同一七年一一二名と増加しており、開業試験制度が軌道に乗ったことがうかがえる。
 医師開業免許試験の開始前に開業していた医師については、愛媛県は明治八年八月の布達で、今般内務省より御達しの趣もあるので、現在開業している者のみ一一月三〇日までに届け出れば開業許可の鑑札が下付されるとした。さらに同一〇年三月の「医事会議決議ノ条件施行ノ件」で開業許可制の一部修正がなされ、従来開業医は漢・洋・折衷三様ともに諮問を要せず、仮免状を授与されることになった。従来開業医の谷村元珉は明治一四年四月に医術開業免許鑑札を受け、同一七年に内務省から正式に免状を授与されている。(写真2―43 44)同一〇年九月には医術でもって諸官庁・地方公立病院に奉職した者試験を経ず免状を交付するの布達によっていわゆる奉職履歴が開業条件に加わり、ついで同一二年に日本及び欧米の医科大学卒業生は無試験で開業が許可されることとなり、さらに同一五年の「医学校通則」で一定の条件を備えた甲種医学校卒業生も大学卒業と同じ扱いとなった。明治七~二一年の免許別医師数を表示すると表2―18のようである。

 医師開業規定

 開業医師の規則は明治一〇年前後に整備されはじめた。明治八年六月の「医術開業ノ者出願ノ件」で、施治の患者について各種病名及び全治不治死亡などを記載して二月八月収養館に報告することなどを義務づけた。翌九年六月、医務取締―医務調査係・医員連合が設置されて医師の統制組織が整うと、七月「医業心得書ノ件」を発布して、「一、凡ソ病客ヲ待ツ虚心平気ニシテ痛ク貪利ノ意念ヲ絶チ、其病症ノ篤キヲ見テハ博ク衆医ニ協議シ、其疑問アル者ハ医務取締ニ開申シテ区内洽ネク議スルヲ要ス」「一、洋法ヲ旨トシ洋薬ヲ用ユルニ習熟セサル者ハ其分量ヲ誤ル憂ナキヲ免レス、故ニ戒メテ是ヲ用ヒサルヲ要ス、」「一、貧民疾病ノ事アラハ施薬ノ事ヲ組合医員ト協議スヘシ、」「一、貧民ノ嬰児ニ種痘施術ヲ施スヘシ、」「一、診断録ハ雛形ノ如ク認メ置ヘシ、時々取締二於テ検査スル事アルヘシ」といった医者の倫理にも及ぶ指示をしている。
 明治一四年一〇月には「医業心得」を布達、県内で新たに開業する医師は開業年月日を郡役所に届け出ること、また転居寄留の場合、公立学校に勤務しまたは退職して自宅開業する場合もすべて郡役所に届け出ることと規定してその手続きを示した。これを基礎として県は明治二〇年一月二四日「医師取締規則」を制定、医業心得の規定内容のほかに免状を亡失または毀損した時の手続き、患者に薬剤を与える時の容器または包紙についての注意、診察をしない患者に処方箋を与え検察をせずに死体検案書を書くことを禁止するなどの条項を加えた。
 県は明治一七年三月四日「開業医師組合規則」を定めて、医風改良、医術研究、地方病探究、伝染病予防、公衆衛生保護などに努めることを目的に組合を結成して開業医の入会を義務づけ、一年に二回以上集会し目的達成のため研鑽することを指示した。この規則は同二〇年六月二八日に廃止されたが、明治二一年一二月には松山医会が生まれ、同二五年三月愛媛連合医会、同三〇年四月愛媛医会が結成された。

 開業医の変貌

 明治二二年以降の免許別医師数を表示すると表2―19のようである。
 開業医の数は明治二二年の六八五、同四五年の六八一と二十数年の間ほぼ横ばいの状態にある。免許制の医師数を見ると、開業試験を免除された学校卒業の医師は明治二二年時三五名全医師数の五%から、同三一年の六〇名、医師法公布の同三九年は一二六名、同四五年には二一五名全医師数の三一・五%に増加した。試験及第医も明治二二年一〇八名(全医師数の一五・七%)、同三九・二%となる。明治末年で医学校出身者と試験及第者の医師数は全医師の六八%弱を占め、愛媛の医師が質的に高まったことを示している。これら近代的医術を修得した新しい医師は松山・宇和島など都市部に集中した。明治四二年の一平方里当たりの医師数は松山市二三・一人に対し宇摩郡〇・八人、上浮穴郡〇・四人、南宇和郡一・一人であり、従来開業医の高齢化漸減により郡部では医師不足が深刻化する。
 明治四二年の松山市の医師数五八名は学校卒業二六名、試験免許二六名・従来開業六名の内訳であり、学校出身の医師がほぼ半数に達した。学校出身の開業医の増加とともに専門医院の看板も目立ち始めた。「海南新聞」は、明治四四年六月二〇日から同年九月一四日にわたって、「医者と病院」(六四回)と題する記事を掲げ、松山とその近郊の病院・開業医・衛生官吏・薬剤師などの訪問記を特集している。この中に含まれている松山市の開業医は三二名で、本科内科に対し産科四・耳鼻咽喉科三・眼科二・皮膚梅毒科二・外科三・小児科一の一三名を専門的医院と明記している。
 明治四四年八月三日の訪問記で松山市唐人町の磯崎是知医師は、開業当時(明治二二年)は今日の様に細かく専門が分かれては居なかったので、わずかに内外科と産科位で、其内にも内外科は一人の医者が兼務して居るものが多かった、自分でも内科は勿論外科でも産科でも来る患者の種類によって何でも治療をして居った、医者の方から専門の名称を附せなかったが、世間の方から何某先生はあれは肺によいとか、又婦人科に適当だとか、又は外科に適するであろうと言う風に患者の方で勝手に専門の分科を授けてしまうことがあった、と語っている。
 医院が専門に分かれてくるのは学校出身医が多くなる明治三〇年代後半であり、同時に病室を伴った医院も登場するようになる。しかし病室といっても民家を改造したものが多く、「医者と病院」には「今回向側の家屋をアチラコチラと小修繕を加へ」て病室にしているといった記事が散見しており、病室を含めた医院建物として建築されたものは三例しか紹介されていない。このうち前松山病院長津下寿医師の医院(三番町)は特別立派であるとして、「松山市内にある各私立病院中建築の壮麗にして完全せるは此病院が第一等であらふ、(中略)本館の階上が四室に分れて院長書斎、応接室、特別病室が二つとなって居る、又階下が患者待合室、薬局、診療所、繃帯交換所に分れて居る、病室は日本建の平家にて二十四室あって一等より四等までの四階級に区別され、四等室のみは一室二人、他は一室に一人宛の割合になって居る」と報道している。また「医者と病院」の中で「始めて松山市に産科婦人科医院の看板を掲げ」、「医学士(東京大学医学部卒業生)の肩書を以て此地に開業したのは君を以て嚆矢とする」といわれた山内正雄医師は明治三七年の開業で、それまでの松山での医学士は松山病院院長・副院長のみであったという。なお、訪問記「医者と病院」には、ここで紹介した津下寿・山内正雄・磯崎是知の三医師のほか、添田芳三郎・高橋恒麿・山崎集・新野良隆・大内通・杉山晋・岩崎歓二・菅井昇平・吉野一知・伊奈信弌・永井政忠・藤井與三・清川政則・久保彦次・安井雅一・山本信弘など、当時の松山及びその近傍の医界を代表する医師たちの履歴や医術・衛生に関する所見が掲載されている。

 医師法の制定と郡市医師会の設立

 明治三九年五月二日「医師法」が制定され、医師となるには一定の資格を有し内務大臣の免許を受けなければならないとされた。その資格は、帝国大学医科大学医学科の卒業者または官立公立もしくは文部大臣の指定した私立の医学専門学校の卒業者、医師試験に合格した者、外国医学校を卒業しまたは外国で医師免許を得て一定の要件を備えた者の三種類が規定されている。また医師会について「医師ハ医師会ヲ設立スルコトヲ得」という任意設立の立場をとりながら「医師会ニ関スル規定ハ内務大臣が定メル」として医師会の権能については規制するとした。
 内務省はこの条項に基づいて同三九年一一月一七日「医師会規則」を定め、医師会を郡市医師会と道府県医師会に分けて、その設立の条件が示され、医師会が設立されると開業医はすべてその所在地の医師会に加入を強制された。愛媛県では、明治四〇年四月二五日に「医師会規則施行細則」を定め、医師会設立の認可申請書の会則の内容、医師会総会開催の届け出、議決事項や会務状況の報告などを規定した(資社会経済下七九九)。
 内務省令による医師会の設立が促進されたので、愛媛県でも明治三九年一二月に松山市医師会が結成されたのを最初に同四〇年から四一年にかけて続々と郡市医師会が組織された。すなわち、同四〇年には北宇和郡・周桑郡・西宇和郡・東宇和郡・伊予郡・喜多郡・新居郡・越智郡・温泉郡・南宇和郡等の各医師会が結成されて、県内の郡市医師会はほぼ出揃った。残る宇摩郡医師会は同四一年二月に設置され、上浮穴郡医師会は少し遅れて同四二年一一月に創設された。以上の郡医医師会の設立認可と告示年月日及び県達告示番号を表示すると表2―20のようになる。
 郡市医師会の先鞭をつけた松山の開業医は明治三九年一二月に総会を開き、会長に添田芳三郎・副会長に伊奈信弌を選び、会則案を可決して県庁に認可申請をした。一二月二六日に知事の認可を得た「松山医師会規則」は三七か条からなり、会名を松山市医師会と称し、松山市に開業する自己または他人の診察所・治療所で医業を営む者を会員として組織し、会員は医風の振興・医権の伸暢に努めるとともに、互いに切磋して学術の進歩と衛生の普及を図ることを明らかにし、役員とその職掌、会員の義務と入会手続、会議の種類と審議内容・会費、違反処分について詳細に規定していた。

 歯科医師法の制定と県歯科医師会の設立

 明治一六年の医術開業試験規則に規定する医師には歯科医術開業試験合格者も含まれていた。これに伴い従来医術開業試験の対象から外れていた歯科医師以外の入歯・歯抜・口中療治の業務を行っている者を取り締まる必要が生じ、明治一八年「入歯歯抜口中療治接骨営業者取締方」を定め、従来の営業者に対しては各地方庁で鑑札を付与し、取り締まりを講ずべきこととした。
 すでに愛媛県では、明治一一年四月一〇日に歯抜き営業の者はこれまで無免許で営業して来たが、歯抜きは医治の一小部分であって衛生上取り締まり向きもあるので、本年四月二〇日から無免許で営業してはならない、今より以後営業志願の者は該区医務取締の試験を受け保証書を添えて願い出ることと布達して無免許営業を禁じていた(資近代1 八〇六)。同二〇年一月二四日に「入歯歯抜口中療治接骨営業取締規則」を定め、入歯、歯抜、口中療治、接骨の営業は免許鑑札を所持する者に限るとして、免許鑑札を受け門標に掲げることを義務づけた。なお、明治一六年県内歯抜営業免許取得者は四三名(うち伊予国二六名)であった。
 明治三九年五月二日「医師法」と同時に制定された「歯科医師法」で従来医科の一部として取り扱われてきた歯科が完全に独立、歯科医師の資格を歯科医学校卒業者と歯科医師試験に合格した者とした。ここに完全に歯科医師と従前の歯抜営業者が区別され、県内の歯科医師一二名は全国に先がけて明治四〇年六月一二日に愛媛県歯科医師会を結成、会長に西田福十郎を選んだ。明治四三年以降医師から独立して掲載されるようになった衛生統計上の歯科医師数は、明治四三、四四年ともに一七名であった。

看護婦養成

 医療面で重要な役割を担う看護婦は、近代的医療機関の発達とともに生まれてきた職業で、江戸時代には存在しなかった。明治八年三月の県立松山病院「入院患者規則」に看病はすべて看護人の引き請けであることとあり、同一六年の「愛媛県統計概表」には公私立病院一六院の看護人計二四名と表示されている。その内訳は男子一〇名・女子一四名であった。
 明治二〇年一二月制定の「県立病院治療規則」には入院患者の看護は、病院看護婦をして負担させるとあり、同二七年発行の『愛媛県松山病院報告』に収録されている「看病人服務規則」には、看病婦の服務が詳しく規定された。服務規則は二九条からなり、看病婦長及び看病婦は患者の看病及び病室需要物品の取り締まり並びに病室の掃除などの事をすること、看病婦は医員の命に従い受持担任の病室を定め、受持内の患者はことさらに注意
して看病することなど看病人の職責を示し、看病婦はすべて院内に宿泊すること、服務中は制服を着用すること、患者及び付添人から金銭物品を受けてはならない、患者は貴賤男女の区別なく等しく懇切に看病し、言動はつとめて丁寧にせよ、病室内で唱歌談話疾走など他の安静を妨げる者ある時は言語和らかに諭すこと、病室内は毎日一回以上掃除し湿濡物悪臭品などを置かないよう注意し窓を開いて新鮮の大気を流通させること、患者の容体には常に注意して異変あるときは直ちに医員に申し出ることのほか、患者の起臥運動や用便入浴などに至るまで細かく指示、また看病婦長は院内一般の患者に注意しかつ各看病婦を監督するとした(資社会経済下七七七~七七九)。これが本県における看護婦服務の最初の規則であるが、ただこの時代の看病婦は豊富な看護知識を身につけた後の看護婦とは異なり単なる介抱人に近い存在であった。
 本県で看護婦養成を開始したのは明治二七年一月で、日本赤十字社愛媛支部が「支部看護婦養成所」を県立松山病院内に開設した。明治二三年一月に設立した日本赤十字社愛媛支部は、看護婦の養成事業を起こす準備のため、試験及第した俊野イワ(松山市出身)を一〇月に上京させ日赤本社で修学させた。俊野は二五年一〇月に東京の日赤本社で教科課程を卒業して帰郷、松山病院で看護事務に従事した。愛媛県で養成した最初の看護婦であった。翌二六年四月日赤支部は藤野ツルヨを採用し東京の日赤病院に修学させた。
 日赤支部では、明治二七年一月の看護婦養成所設立に先だち同二六年一二月に県立松山病院長の谷口長雄を養成所長、講師に同副院長の添田芳三郎をはじめ院医の赤松佐治真・塩崎市次郎・岡村文策らを委嘱、生徒取締兼講師助手に支部看護婦の俊野イワを任命した。この当時日赤地方支部で独自の養成所を開いていたのは広島県のみで、愛媛県は大阪府・京都府とともにその次に位置していた。一月三〇日入学試験を実施し及第した七名(うち二名は篤志看護婦)を入所させることになった。二月一日開業式を挙行、支部幹事であった藤野政高が支部長小牧昌業に代わって祝詞を述べ、生徒総代の金子ヤソが答詞を朗読、所長の谷口長雄が開所の訓示をした。ここに日赤支部経営の看護婦養成所が誕生したのであった。
 開所当時の修業年限は六か月で、卒業後の義務年限は一〇年であった。看護婦生徒第一期生は課程を修了して明治二七年八月一四日に卒業式が挙行され、松山婦人会慈善会員から看護服を贈与された。第二回看護婦生徒は九月八日に入学試験を行い、受験者のうち六名(うち二名篤志)が採用された。翌二八年三月に第二回の看護婦生徒九名が卒業し、四月に第三回看護婦生徒志願者三二名の入学試験を行い及第者一七名が採用された。その内訳は篤志生一〇名・給費生七名で、五月一日に入学した。
 日赤本社では、各支部で個別に育成した看護婦の教養程度が異なっているため、運営上いろいろ不都合が生じたので、教育方針や教科課程の統一を図った。明治二九年五月に制定せられた「地方部看護婦養成規則」によると、看護婦は卒業後満一五年間に戦時または天災に際し本社または所管の地方部の召集に応じて救護事業に従事する義務があり、看護婦養成年限は二か年で、前一か年は専ら学業に就き、後一か年は実務に服する、各期の授業科目とその程度は本社の決定した看護学教授によるとした。これによって愛媛支部でも養成所規則を制定した。明治三二年四月から修業年限は二か年に延長、このごろ、生徒の寄宿舎を鮒屋町に設置して全員を収容して養成所に通学させた。同三九年に第九回看護婦生徒の募集があり、八月に一〇名が入学した。八月二日付の「海南新聞」は、「赤十字愛媛支部楼上にて挙行したるが、安藤支部長及支部職員列席、吉川常務幹事は入学式執行の旨を告げ、十名の生徒支部長の前に進み整列、支部長採用の辞令を交付し、次に支部長の告辞・養成主幹の入学中の心得説示、幹事生徒心得を朗読し、式の終りを告げ、生徒一同退場」と入学式の模様を報じている。この期から修業年限は三か年に延長され、教科課程の充実と資質の向上が図られた。
 患者を収容して治療する医院が増え、医師の診察治療方法が複雑になってくると、看護婦の必要性が痛感されその養成が期待された。日赤愛媛支部の看護婦養成所は生徒数が僅少であるうえ長期の特殊な奉職義務年限があって医家が自由に雇用できなかった。
 明治三四年三月、松山の医師安井正信・白井満・石川襄・内田友政・安井雅一らは私費を投じて私立松山産婆看護婦養成所を湊町の円光寺内に開設した。その後、養成所は湊町横のアイイアニス教会に移り、九年間に卒業生二五〇余名(うち看護婦一五〇余名・産婆一〇〇余名)を出した。生徒の修業年限は一か年で、毎日午後三時間、毎週合計一八時間授業であった。入学資格は尋常小学校卒業程度であったが、次第に高等小学校卒業の者や実科女学校卒業生が応募するようになった。明治四三年三月安井医師らは、今後における養成所の充実と将来の発展を図るために松山市医師会の経営に移すことにして養成所の設備などを無償で譲渡、その名称を松山市医師会附属産婆看護婦養成所と改めた。北宇和郡・東宇和郡・西宇和郡の各郡医師会でも産婆看護婦養成所を設置、明治四二年とその後の「愛媛県統計書」には表2―21のような養成所別看護婦数が表示され、次第に看護婦数が増加していることがうかがえる。
 当時、看護婦に対する規制法規はなくその取り締まりは府県に委ねられていた。東京府は明治三三年、大阪府は同三五年に「看護婦規則」を制定したが、愛媛県でもこれらに習い明治四一年七月一七日「看護婦取締規則」を定めた。同規則は、第一条で「看護婦卜称スルハ他人ノ雇聘ニ応シ病者ノ看護ヲ業トスルモノヲ云フ」と定義づけ、看護婦は県庁の看護婦免状を受けなければ就業できないこと、免状を受けるための看護婦試験は毎年五月に解剖生理及び衛生の大要・看護法・救急処置・消毒法・繃帯学・実地について施行、試験資格は義務教育の課程を修了した一六歳以上の者で、戸籍騰本・履歴書を添えた願書を市町村長を経て県に提出することにした。同年九月二日「看護婦試験規程」で試験委員の組織や採点基準なども定められた。日赤愛媛県支部の看護婦養成所卒業生は体格検査のみで免状が下付されたが、市郡各医師会附属産婆看護婦養成所の修業生は検定試験に合格しなければ免状が得られなかった。

産婆規制と試験

 分娩介助は、産婆という名称で江戸時代に既に一つの職業として一般化していた。明治七年の医制で産婆は四〇歳以上で婦人小児の解剖生理及び病理の大意に通じ、産科医の眼前において出産の実際の取り扱いをなして得た実験証書を所持する者を検して免状を与えることを建前とすること、従来から営業していた産婆については仮免状を授けることなどを規制した。この医制規定に準じ、愛媛県は明治九年九月一九日「産婆心得書」を布達した。心得書では、今より産婆営業を欲する者は区内最寄りの医務調査係の試験を受けその保証書をもって医務取締に鑑札を願い出ること、難産は医治を仰ぎ必ず自己一身で取り扱ってはならない、胎児三月以上で流産する者があれば記録し半年単位で取りまとめて医務取締に届け出ること、堕胎は厳禁であるので直ちに医務取締へ届け出ること、などを一つ書にしていた(資近代1 六〇六)。ついで同一四年八月一六日「産婆営業取締規則」を定め、産婆営業を望む者は郡医か公立病院の試問を受け、その保証書を添え町村衛生委員を経て郡役所に願い出免許鑑札を請うこと、鑑札を得たものはその門戸に招牌を掲示すること、疾病または難産に罹る者があれば医治を仰ぐべきは勿論取り扱い上疑義のあるときは医師の指示を受けること、堕胎の形跡あるときは速やかに警察署に届け出ることなどと指令した(資近代2 二三三~二三四)。
 明治一六年の「愛媛県統計概表」によると、県内の産婆免許所持者は一、四三三名(うち伊予国七二七名)であった。県は明治一七年一一月一三日付で産婆修業の者は師家の授業証を添え松山医学校に申し出、骨盤部並生殖器解剖・生理・妊婦養生論、嬰児摂生論、順産並異常分娩論の大要の試験を受け、その成績書及び履歴書を添えて願い出たときは内務省の免状を請うことができるとした。検定試験は毎年二月、五月、八月、一一月に施行するとしていた。
 産婆試験は明治二八年三月二三日の新しい「産婆試験規則」で一層明確になった。試験規則は、産婆を開業しようとする者は本則により試験を受けることを命じ、試験は毎年三月と一〇月に挙行、受験者は満二〇歳以上の婦女子で一年以上修業した者とした。試験は内務省免許取得のための普通試験と本県免許を得る簡易試験があり、試験の科目は骨盤及生殖器の解剖及生理・妊娠の生理及病理・分娩の生理及病理・産褥及生児の処置で、普通試験はこれを筆記し簡易試験は大意を口述、問題は一科二題とした(資社会経済下六七二~六七三)。
 産婆試験規則と同じ日、新しい「産婆取締規則」も定められ、産婆は内務省または本県の免状を所持する者でなければ開業を許さないと規制、産婆は正当の事故なくして助産を拒否すること、妊婦産婦生児に薬剤を与えその処方を指示すること、医師の指揮を受けずにみだりに手術を施すこと、産婦及び死胎を検査せずして死産書を与えることの禁止事項などを明記した(資社会経済下三七三)。明治三二年七月一九日政府は「産婆規則」を公布、産婆試験に合格した年齢満二〇歳以上の婦女子で、地方長官の管理する産婆名簿に登録を受けた者でなければ営業することができないなど統一的な規制を行った。同年九月六日には「産婆試験規則」で試験の実施細目が示された。これらの全国法規で、愛媛県の「産婆取締規則」「産婆試験規則」は消滅した。明治時代後期の産婆数は表2―22のようであり、資格検定が厳しくなるに従って減少している。

 按摩術・針灸術の取締り

 按摩術・針灸術がわが国に取り入れられたのは平安時代以前であり、柔道整復術も接骨術として江戸時代中期より独立して施術されていた。これらは明治時代に入っても民間医療として国民に広く親しまれた。これらの施術に対する取り締まりは明治七年の医制で「鍼治灸治ヲ業トスル者ハ内外科医ノ差図ヲ受ルニ非サレハ施術スヘカラス」と規定されたことに始まるが、按摩術についての規制はない。
 愛媛県は、明治一一年二月二三日に「針治揉治心得書」を布達、針治揉治とも人の請求に応ずるものであって勧誘強要して施術してはならない、薬剤を与え売薬するなど薬法を指示してはならない、などと七か条の心得を示し鑑札を受けることを命じた(資近代1 八〇四~八〇五)。ついで、明治一四年八月一二日に「灸治営業取締規則」、同月一六日に「針治揉治営業取締規則」を定め、灸治を含めて一層の規制を行った。灸治・針治・揉治業共に営業を欲する者は郡医か公立病院の試験を受け試験官の保証書を添えて免許鑑札を申し受けること、鑑札を受ければ門戸に招牌を掲げること、自己より人を勧誘して強いてその術を施してはならない、売薬その他の薬方を指示して服用させてはならない、灸治に関しては「押へ灸」または「神仏ノ夢想」などと唱える無稽の妄説をも
って灸治を施すを許さずとした(資近代2 二三二~二三三)。明治一六年「愛媛県統計概表」には、灸治五八名・針治一三五名・揉治三九六名(伊予国のみ)の免許状所持者が挙げられている。
 明治一八年三月政府は「鍼術灸術営業差許方」で鍼術灸術開業者は修業履歴を検し相当と認められるときは許可し、その取り締まり方は便宜設けるようにと府県に指示した。これを受けて愛媛県は「針灸術営業取締規則」を布達、針治と灸治の営業は免許鑑札を所持する者に限るから、履歴書及び師家の証書を添えて願い出免許鑑札を受けることとした(資社会経済下六七〇~六七一)。針術・灸術に対して按摩術の取り締まりは中央・地方ともになかったが、明治四四年八月一四日に「鍼術灸術営業取締規則」と同時に「按摩術営業取締規則」が制定され、ここに初めて按摩・針・灸の施術に関する全国的統一的な法制が成立した。両規則の要旨は、これらの営業をなすには地方長官の行う試験に合格するか、または地方長官の指定する学校か講習所を卒業した後、地方長官の免許鑑札を受けるべきこととした。なお、按摩術営業取締規則では盲人だけが受験できる乙種試験を設けて受験資格及び試験内容を簡易なものにして盲人優遇措置を講じた。

 薬剤師と薬舗取締り

 明治七年の「医制」は、「調薬ハ薬舗主薬舗手代及薬舗見習ニ非サレハ之ヲ許サス」と規定するとともに薬舗主になるには二年以上薬舗手代を勤め、所定の試験を経て薬舗開業の免許を受けなければならないとした。愛媛県はこの医制に準じて、明治八年六月二八日に「医術並薬舗開業ノ者出願ノ件」を出し、当分の内、薬舗開業志願の者はかねて達しているように収養館に入学し、薬物学製薬学の大意を研究し、又は近傍開業医に付いて薬物の効能及び用法など一通り学び、師家の証書をもって出願せよと布告、但し師家が薬物取り扱いに弁知しないままに証書を与えることも予想されるので、その場合は「相当ノ処分アルヘシ」と威嚇、また従前薬物学製薬学等を研究しておりながら、適当な師家がないため証書を得られない者は、松山収養館・八幡浜病院・宇和島病院で試験を受けるよう指示した(資近代1 三六八~三六九)。さらに翌九年七月七日には「薬舗心得書」を布達、「凡薬種ヲ以テ渡世トスル者ハ常ニ医門ニ出入スルヲ以テ動モスレハ医業ト混同スルノ患」があるので、「心得書ノ通リ一層界隈ヲ立テ決テ医業ニ紛ラシキ所業」のないよう注意し、また今般薬舗営業鑑札下げ渡すので医務取締奥印をもって願い出るよう命じ、九月一日から鑑札のない者の営業を禁じた。薬舗心得書は、西洋の製薬は丁重に取り扱い家業の暇を見付けては病院・西洋医師について薬学を研究すること、医師の法案書がなければ調薬できない、毒薬一切及び麻酔薬は販売を禁ずるなどの内容であった(資近代1 三七三)。
 その後、明治一四年一〇月二九日に至り、県は薬舗試験に代わって「薬舗試験及営業取締規則」を出した。同規則は、薬舗を開業しようとする者は試験を受けること、試験科目は算術・理学大意・化学大意・薬物学大意・処方学大意で、問題は衛生課で選定し郡役所で試験を実施する、答案は衛生課で採点し合格者には本県仮免状を付与する、松山高松両病院で薬舗学を卒業した者は試験成績書を添えて内務省免状を乞うこと、薬舗営業の免状を得た者は門戸に所定の招牌を掲げること、薬舗営業者は医者の処方書がなければ薬剤の調合を許さないこと、家族雇人などをして薬品を取り扱わさせるにはすべて薬品量目などを熟知するものに限ることなどを規定した(資近代2 二三七~二三八)。これは明治一〇年一月の太政官布「売薬規則」に基づくもので、ここに免許状による薬舗営業制度が確立した。
 明治二二年三月一五日政府は「薬品営業並薬品取扱規則」を定めた。これは薬事制度に関する総合的法律で、薬剤師・薬種商・製薬者・薬品取扱・罰則の章立てであり、一般に薬律と称された。これによると、薬剤師とは「薬局ヲ開設シ医師ノ処方箋ニ據リ薬剤ヲ調合スル者ヲ云フ」と定義し、地方庁に届け出ることにより薬局が開設でき、薬品の製造及び販売をしてもよいとした。薬剤師となるには年齢二〇歳以上で内務大臣の行う学術試験に合格して免状を得なければならず、試験によらないで免状を受けることができるのは医科大学薬学科の卒業生とした。また医薬品の販売をなす者を薬種商、単に薬品を製造し自製の薬品を販売する者を製薬者とし、薬種商・製薬者は地方庁の免許鑑札を受けるべきものとした。新規の薬品は衛生試験所の検査を経、日本薬局方に記載されなければ販売・授与できなかった。愛媛県は、明治二三年二月二六日に「薬種商営業取締細則」「製薬営業取締細則」を定めて、薬種商・製薬者になろうとする者は願書に履歴書を添へ、市役所・町村役場を経て鑑札下付を願い出ること、薬種商は看板を店頭に掲げること、製薬には容器に一定の封縅をすること、製薬者は毎年末その年間製造した各薬品の名称及び量数を届け出ることなどを指示した(資社会経済下六六六~六八八)。
 薬剤師は明治二三年にぱじめて統計上に現れ、この年三四名と記録されている。以後、明治四四年までの薬剤師数を挙げると表2-23のようである。

表2-18 免許別医師数

表2-18 免許別医師数


表2-19 免許別医師数

表2-19 免許別医師数


表2-20 郡市医師会の設立年月日

表2-20 郡市医師会の設立年月日


表2-21 養成所別看護婦数

表2-21 養成所別看護婦数


表2-22 明治後期の産婆数(明治22~44年)

表2-22 明治後期の産婆数(明治22~44年)


表2-23 愛媛県内の薬剤師数(明治22~44年)

表2-23 愛媛県内の薬剤師数(明治22~44年)