データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)
二 公立病院の設立と県立松山病院
病院概況
表2―14に示すように、明治一〇年時の伊予国には公立松山病院収養館と私立宇和島病院日新館・八幡浜病院普済館・浩然病院以済館(南宇和郡平城村)の公私立合わせて四病院が存するのみであった。岩村県政下の県当局は、この年のコレラ流行に際しての防疫体験などにかんがみ、洋方病院を設立して衛生医療の発展を期することを計画、一二月の第二回愛媛県医事会議に「有志ヲ募り病院ヲ設立スル」計画を諮問、
各区医務取締からなる委員の賛成を得て県下一四大区に公立病院を誕生させることにした。この計画に基づき、明治一二年一月公立西条病院収成館、同一五年三月越智郡蔵敷村に公立天ゆう(片へんに庸)館、同年一一月宇摩郡川之江村に公立済寿館が順次創立された。他郡では、「公立病院ヲ設立セントスルノ議アリ、然レトモ有志者ノ醵金ノミニテハ良シヤ設立スルモ之ヲ永遠二維持スル能ハス」(明治一三年県政事務引継書資社会経済下)と躊躇し県当局は二、五〇〇円の補助金を与えて設立を促したが、設置を見るに至らなかった。
私立宇和島病院日新館
明治三年一〇月宇和島藩の医学修業道場日新館の附属病院として設立、宇和島県・神山県に引き継がれたが、同五年一〇月佐野徳治ほか六名の商会社の願いを容れて譲渡され、私立宇和島病院として経営されることになった。
私立宇和島病院は医師六名で、「寄宿生は看護人を連れ夜具などを持参すること、外来病人は八時から一二時まで、不時病人はこの限りでない、種痘定日は一か月四度、薬代は二季払いなどの病院規則を定めた。神山県は一一日「在々津々ニ至迄病者治療受クヘキ事」と布告して新しく出発した私立宇和島病院の利用を勧めた。
公立収成館病院
明治一〇年一二月の愛媛県医事会議の決定に従い、「地方村民ノ志願ヨリ成ルヲ以テ、之力維持モ亦西条町外十一村民ノ負担」とする公立病院収成館が新居郡西条東町に設立されたのは、明治一二年一月一四日であった。初代医長には松山病院収養館医員であった今井鑾が迎えられた。
医師数は院長を含めて七名、院長月俸七〇円・直医一名一五円・三名一二円・二名八円で、一年経費見積りは一、九三二円、入院、外来規則などは松山病院収養館に準拠した。薬価は水薬・丸薬・散薬各一日分五銭、点眼薬三銭、外敷薬二銭、膏薬二銭、頓服薬三銭であった。
収成館の院長はその後、明星延徳に代わり、患者数は明治一四年四、八九一人、同一五年四、一七五人、同一六年四、一一七人(うち入院患者二七人)、同一七年四、九五五人であった。同病院は明治二〇年代から経営難におちいり、郡役所はしばしば補正予算を組んだが償えず、明治二七年ごろ閉鎖された。
公立病院天ゆう(片へんに庸)館
明治一五年二月四日今治の蔵敷村に設立された天ゆう館病院は越智郡・野間郡内の町村協議費で維持運営された公立病院であった。明治一三年一月三一日越智郡各町村連合会を招集、各町村会の議員代表一一一名からなる同会に「公立病院設立並維持方法」の議問を示して審議答申を求めた。
郡長からの議問は、公立病院設立の必要性につき、越智郡は戸数二万余人口一〇万余の多数にのぼるがいまだ病院の設けなく、東西に松山・西条の両病院があるけれども、遠距離であるために間々難病に罹り、通院治療を望む者があっても旅行の労費をいとい、かつ近年悪烈急劇の病疫があり、たといその労費をいとわなくても通院の暇がない者もあり、そのためにいたずらに貴重な生命を失う者が少なくない、実に遺憾に耐えないところである。そこで今回本郡に公立病院を設立し技術熟達の良医を雇用してよく救済の道を開き衆庶をして遺憾のないようにしたいと説き、公立病院設立の可否を問うた。連合会は双手を挙げて公立病院を本年設立することを決議した。ついで第二条で維持費一、五六〇円の賦課方法の原案が示され、郡内の戸数に割り当てこの金額をもって市街と村落とを分離し、市街は適宜の方法でこれを課し、村落ではこれを地租金高に四分、戸数に六分を課するに決した。
連合会の決議で郡立病院の設立と経営費捻出の目途はついたものの一三年度設立は出来ず、県費補助と旧藩主久松氏の寄付金有志募金を建設費にしてようやく一五年に開設した。
医師数は設立の年に月俸一五〇円の院長斉藤道四郎のほか月俸三〇円の直医三名の合計四名であったが、翌一六年には六名となり、調薬師もはじめ二名で翌一六年には四名に増えている。往診料は院長が一里未満に付二五銭以上、二里以上一里を増すごとに五〇銭、直医はその半額と決められた。薬価は水薬一日五銭・丸散薬六銭・膏薬半見二銭・外敷薬二銭・点眼薬一銭で、手術料・診察料は要求しないとしている。この天ゆう館も明治二三年に閉鎖された。
公立病院済寿館
明治一五年一一月に宇摩郡川之江町に公立済寿館、同郡土居村に支院が設立された。初代院長には松山病院の医員であった船田昌量が迎えられた。院長の月俸は六〇円、直医三名の月俸は各三〇円、調薬師一名の月俸は一八円であった。入院料は上等一日三五銭・下等同二五銭・乳児同一五銭、往診料は一里三〇銭、一里以上は一里を増すごとに二五銭、手術料は一〇~三〇銭と決められ、薬価は水薬・煎薬・丸薬・散薬一日分六銭、点眼薬三銭、外敷薬二銭、種痘は身分相応と定めている。明治一八年の報告では、院長船田昌量の外、本院直医原田純一(月給一二円)、支院直医藤井・(冫に煕)(月給一二円)の各一名に減じており、同病院も明治二〇年代に姿を消した。
県立松山病院の新築と経営難
明治二〇年六月松山病院は新築落成式を挙行した。病院創立からすでに一〇余年を経過し、入院外来の患者も増加して病院業務に支障をきたしていたので、病室二棟を残して改築することになり、明治一八年九月起工、同一九年五月竣工した。建築の概略は、本館一棟(診察所・応接所・器機室)七一坪、医局一棟(院長室・医員室・顕微鏡室・試験室)三四坪、患者溜所一棟四五坪、薬局事務局小使詰所一棟八六坪、病室二棟(一七室)一五七坪、外来患者手術所一棟一三坪など、その建築は当時人の目をみはらしめたという。
明治二五年三月二一日、第一回愛媛連合医会に参集した医師たちは松山病院を見学したが、その参観記事が「第一回聯合医会報告」に以下のように掲載されている。一行は病院への坂道を登る。「松山市の東北隅城山の半腹に於て樹木鬱蒼の間に白壁皓々として宏壮なる厦屋あり、高く聳へて以て天に朝す、是れそ彼の柳水居士か、病院巍然白雲下、風光領得又天恵と口吟みし愛媛県松山病院と識られたり」「仰きて玄関を望めは片額を掲け収養館の三字を書す、書は故伊達公春山翁の揮ふ所にして、筆鋒活るか如く人をして憶わず賛詞を発するに至らしむ」、応接所で休憩した一行は、院員の案内で病院を巡視する。「診療所は外来患者を診察する所にして国より医局の管するところとす、此附属として外用場あり、是を主に切開、縫合、抜歯、点眼、洗浄、電気使用、吸入等専ら外来患者の治療主とする所なりとす、場内、昇汞、石炭酸、水揚酸硼酸の如き防腐の目的を以て製せし、ガーセの類を具え、ヨドール、沃度保兒等の防腐薬よりして、単純の外科器機、抜歯器、カテートル、視力表、視野計の類を備へ緩急の用に供す、診察所の傍らに器械室あり、室内、マレー氏脈波計、焼灼電気、バクレーン氏烙白金ペリメートル、尿石器等を始め数般の外科器機、解剖、産科、婦人科、眼科等に属する諸器機を各々其部門に割ちて布置客納して捜索に便ならしめ係り医員之れを管理す、且つ別に器機師なるものありて、装飾、研磨の如き手入れを成し、メソセル、鑷子及ひ電気鍍金其他単純の器械の類は自ら製造するの現場を目撃せり」「薬局は其中央に調剤台二個を設置し、尋常薬、天秤の類は概ね爰に並列し法に據りて毒劇薬は各々レッテルを区別して別に配置し、其毒薬を容れる筐の如きは黒塗にして毒薬の二字を朱書し側らにどくやくの四字を以て振り仮名を附し一見殊別なるを明瞭ならしめ、特に高きに置きて分雑の患を未然に防ぎ、且銖し毫毛を争ふ所なるか故に局中央線を通し四隅明なる構造に注意し物々整頓すと言って可なり」「手術室に入れは室は広さ凡そ十五坪、其東南西の三壁に各々いう(片へんに庸)窓を設け且開閉自在にして施術中大気の流否を適切にするの用に宛て、又天井を穿ち硝子を・(竹かんむりに柑)め以て明を取るの補ひを成さしむ、其四壁は皆な木板の辺縁を互ひに重畳し、塗るにペンキを以てし底面は膝喰を用ひ硬く地面を密封して彼の有毒黴菌の附着を防くの用意をなし、室の二隅に各一個の暖爐ありて室内の温度を調節するの虞をなし、其一隅に洗浄所を設け栓子を有する鉄管を用ひ開閉巧みに室外より水を引くの装置を成す、然り而して其中央に護謨布を以て装飾せる手術台を安置し、総て清潔を旨とせり、」「病室は総て五棟、うち一棟は楼を有し他は平家にして計二十五室、分って上中下の三等及ひ伝染室とし縦横布設、広容五十六人(下等二十八人中等二十人上等五人伝染病室三人の比例)、男女及び疾病に依て室を異にす、例えは肺結核、レプラの如き感染を恐るるものに在っては其系統を分ち食器唾壷の類に至るは別に是れを設け且応答の消毒を成すか如し、又室内に於て二ケ所の看病婦詰所及ひ耻室を設け仮りに婦人科診察所とす、概するに病室の構造は所謂H形にして中間に百種の奇草、樹木を栽培し四季花を見る」。以下、参観記は、「病室より望見すれは開闊千里」と四囲の景色をめで、「鬱を遺り精神自ら爽快、恍として身仙鏡に入る歟と疑ふに至る、嗚呼神身の保養を成す所にして此の風致を有す亦僥倖と謂うへきなり」と結んでいる。
建物の新築を機に松山病院は、明治二〇年一二月二七日「県立病院治療規則」、翌二一年二月三日「県立病院職制」を制定した。治療規則は、「県立病院ハ一般患者ノ請ニ応ジテ其疾病ヲ診察治療ス」(第一条)に始まり、患者の診察は午前八時から一二時まで、入院患者の看護は看病婦が当たる、病室は一室一人の甲乙と二人以上の丙種に分ける、外科手術は土曜日に行うなどとしていた。病院職制は、その第一条で「病院ハ衛生事務ノ機関トナリ豫テ人民ノ疾病ヲ診察治療スル所トス、又病院ハ地方開業医ノ標準トナリ医業ノ改良進歩ヲ図ルヲ以テ本旨トス」と、治療機関だけでなく本県衛生事務のセンターであり医学医術水準向上の指導機関としての役割を担うこうであり、年を経るに従って漸減傾向を示している。
経営不振の松山病院について、明治三一年の愛媛医会総会で県立松山病院を廃し、その動産不動産の貸与を受け、愛媛医会が私立病院を建設することを知事に建議する案が出されるなど話題になっていたが、県会でも明治三五年ころから取り上げられるようになった。八幡浜町の開業医でもある上甲廉は、明治三五年一二月の通常県会で、県立である以上は一〇〇万の県民にひとしく恩沢を被らすことと一般医師の模範となるべきものでなければならないのに、これを利用しているのは松山及びその近辺の者にすぎない、愛媛医会が松山で総会を開いても地方の開業医の参加が少ないのは知識を増すほどの価値ある内容の総会でないからであり、医会を指導する松山病院の怠慢に責任ありとして、「県民一般二恩沢ヲ被ラス、又開業医ノ模範タラス」それならば病院を如何にすべきか、一つはこれを全廃して他人に貸して私立病院とするか、二つは今少しく完全にして拡張するかであると経営の転換を求めた。明治四二年一二月の通常県会では田村春三県議が、愛媛県立松山病院は広く我が県医界の模範となり中心点となり、県下各地の開業医の模範となっているのであろうか、昔日の我が医界はすこぶる幼稚であったからこうした病院も価値があったが、星移り物変わり県下医界は着々と進歩し、今や学士の開業も多く、専門的医院の設置も見られるようになり、県立病院は以前のように医界の中心となる信用と勢力とを持たなくなったと述べ、松山病院は医療機関の中心としての実績を挙げていない、本年のごときも非常な赤字で四、五千円の損失が生ずる見込みである、病院医師の地方巡回などもほとんど形式的で格別意義のあるものではない、患者の取り扱いは役所風で不親切であり、入院患者が夜中診察を依頼しても時間外の診察には応じない、などの具体的な事例を挙げて、松山病院廃止の動機を提出、可決された。
県当局はこの決議をすぐには取り上げなかったが、やがて日本赤十字社に譲渡を交渉、大正元年一二月の県会で県知事伊澤多喜男が、「今ノ県立病院ヲ其儘ソックリ赤十字社ニ譲与」することを言明、移管の条件となっている病院位置は「松山中学ヲ他ニ移シ、其跡へ松山病院ヲ持テ行キタイ」とした。こうして県立松山病院は大正二年三月三一日をもって三七年の歴史を閉ずることになった。
公私立病院
表2―17は明治二〇~四四年の病院数の推移を示したものである。明治一〇年代に支院を含めて六院を数えた公立病院が減少している。明治二〇年時の公立四は、県立松山病院と西条収成館・今治天ゆう館・川之江済寿館であるが、今治天ゆう館は明治二二年に私立に転換しており、西条収成館・川之江済寿館は同二七、八年に閉院した。明治二七年以降の公立二は松山病院と同病院駆梅院で、同三八~四二年の公立二はこの年設立された町立宇和島病院を加えたものである。私立病院の数は、総合医療機関で単独開業医の数ではない。上下の推移はあるが、一五前後のほぼ横ばいである。
表2-14 病院数の推移(明治4~21年) |
表2-15 病院概況 1 |
表2-15 病院概況 2 |
図2-2 愛媛県松山病院の図 |
表2-16 松山病院入院・外来患者数の推移 |
県史__0200 表2-17 公私立病院 |