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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

一 社会事業推進機関と関係組織の誕生

 内務省社会局の設置

 明治前期における政治の重点は、富国強兵、殖産興業に指向され、賑恤救済など国民生活への配慮は、どちらかというと、政治の中心題目とはならなかった。個人の生活の保持はあくまで個人の責任であり、不幸にして困窮する者がでても、それは親戚隣保が相扶すべきもので、やむを得ない場合のみ行政の手が差し伸べられた。
 しかし、日清・日露の二つの戦争の前後には、資本主義が成長し経済の急激な発展を促した反面、景気変動の波に乗り切れなかった国民の中から多くの窮民を生じ、こうした社会問題を前にして政府もなんらかの施策を必要とするようになった。それは、いつか起こり得るであろう貧民の暴動を予防しておくための貧富の融和策であった。この考え方は、ある面では慈恵救済策の延長線上のものであったが、他面、社会の連帯意識を高めるものとも考えられる。
 明治期における我が国の賑恤救済行政は内務省地方局の所管ではあったが、賑恤救済を専門に所管する課は設けられず、明治三三年になって地方局府県課に救済事業の嘱託を置き、感化、救済の事務を取り扱ったにすぎなかった。
 大正六年八月二五日、内務省地方局に救護課が創設され、ここに初めて社会行政専門の課が誕生した。救護課設置の背景は、同年七月二〇日に公布された傷病兵の扶助を主旨とする「軍事救護法」の施行にあったが、この課は、(1)賑恤救済に関する事項、(2)軍事救護に関する事項、(3)道府県立以下の貧院、盲唖院、瘋瘻院、育児院及び感化院などの施設に関する事項を管掌した。更に大正七年六月二六日、勅令をもって救済事業調査会が設置された。調査会は内務大臣の監督に属し、その諮問に応じて救済事業に関する事項を調査審議し大臣に答申するものであった。委員の中には、小河滋次郎、留岡幸助、山室軍平らもいた(『内務省史』)。
 大正七年の米騒動や大正九年の戦後恐慌は大正期の社会情勢を急激に変化させる要因となった。しかし、社会情勢の激変は、これに対応する社会行政の充実を求める動きへとつながり、地方局救護課は大正八年一二月社会課と改称された。同九年八月二三日、地方局の下にあった社会課は独立し、社会行政を専管する内務省社会局が設置された。社会局は第一課、第二課に分かれ、第一課では、(1)罹災救助、窮民救助、その他賑恤救済に関する事項、(2)軍事救護に関する事項、(3)職業紹介、授産事業、その他失業の救済防止に関する事項、(4)その他他の局課に属さない社会事業に関する事項を所管し、第二課は、(1)感化教育、その他児童保護に関する事項、(2)共済組合及び小資融通施設に関する事項、(3)民力涵養に関する事項、(4)社会教化事業に関する事項を取り扱った(『内務省史』)。
 「社会」という用語は社会主義につながるため、この字を用いることに一種の憚りを感じた当時にあって、社会局の創設は社会行政上異例のことであったが、それは、同時に当時の国民が手厚い社会行政を必要とする状態にあったことをも意味している。なお、従来の「慈恵救済」・「窮民救恤」などの語に代わって、「社会事業」という用語が国の法令上に明記されたのも、社会局が設置されたのと同年の大正九年が最初であった(『日本の救貧制度』)。

 米騒動と民力涵養運動

 大正七年七月、富山県で発生した米騒動は翌八月には愛媛県にも広がり、伊予郡郡中町(現伊予市)・松山市・宇和島町(現宇和島市)では暴動が発生し、このほか県下一二町村でも、米価の急激な騰貴に窮迫した細民による騒動が起きている。明治三〇年代に鈴木重遠や仲田伝之しょうなど有識者が予期した「禍害」や「鬱憤ヲ洩ラシ不平ヲ唱ヘテ乱暴狼籍」が現実のものとなった。細民の生活苦をよそに米価をつり上げ、暴利をむさぼる一部の米穀商や投機的実業家に対する細民の不満と反感、また米価暴騰という事態に対して適切な施策を行わない為政者への不信が、自然発生的に騒動化したものであったが、これを機に労働運動、農民運動などの大衆運動に発展をみせた(「愛媛県史」近代下第三章第四節参照)。
 こうした社会の急変に対応して政府は様々な施策を講じたが、民力涵養運動もその一つであった。民力涵養運動は、国民に国体尊重の観念を喚起させて、敬神崇祖敬老思想、公共心公徳心、団体生活に必要な規律、日々の努力心、隣保相助け合う心、「資本主卜労働者、地主ト小作人、傭主卜被傭者トノ間二共済諧和」するという協調心を養成する国家運動であり、米騒動や戦後恐慌から生じた社会不安を除去し、民生の安定を図るものであった。
 大正八年三月一日、内務省は「民力涵養五大要綱」を各地方長官に訓令したが、本県では大正七年、内務部庶務課内に民力涵養係を置き(昭和二七年愛媛県民生部発行「民生事業概要」三ページ)、民力涵養運動の準備を進め、八年以降は県下全域でこの運動を展開した。「愛媛県戦後民力涵養五大要綱実行要目」(資社経下四六五)も策定され、同年六月二四日には松山市、二五日には八幡浜町(現八幡浜市)、二六日には今治市に各地の各界有力者を集めて運動方針の説明を行った。この会には内務省から派遣された三名の係官や知事又は内務部長も臨席し、運動が各市町村の末端まで深く浸透するよう協議が重ねられた。国府・加藤・福本ら三名の内務省派遣官を交えた民力涵養講演会は大正九年一二月末までに県下三六六か所で開催され、その聴講者数は七万二、〇九二名に及び、各市町村及び各町内会、各団体は実行要目にそって種々の活動を行った。
 活動状況は県へ報告され、これを「愛媛県民力涵養実行状況」(資社経下四六六~四七七)としてまとめているが、この運動は、賑恤救済として窮民に金銭を給付するのではなく、神社への参詣講、尚歯会(敬老会)、納税組合、共同貯蓄組合などの結成と活動の振興を通して、地域住民の共同体意識を養成し、更に勤倹力行を奨励して生活力を高め、民生の安定を進めるものであった。温泉郡川上村(現川内町)西組共済貯蓄組合は、明治三九年より毎年米麦収穫期に各自の耕作地一反につき米麦一升以上を貯蓄し、これを、凶荒予備、相互扶助あるいは組合員への低利融資、肥料などの共同購入の資としてきたが、民力涵養運動実施に際して貯蓄の増大を図り、大正八年末には大正元年の九倍の貯蓄高を有するようになった。なお、この組合に関係した小作人二三名のうち、一三名までが大正八年末までに田畑を購入して自作農化している。
 今日、コミュニティーづくりが県下にも展開されているが、大正期における民力涵養運動は日本的美風を作興する共同体づくりであるとともに、「国体ノ精華ヲ発揚シテ健全ナル国家観念ヲ養成スルコト」をも目標の一つに掲げて、「時代思潮善導」という教化運動としての特徴も有していた。なお、この運動を展開するに当たって、大正七年に県庁内に民力涵養係が設置されたことは社会行政の一元化という点で注目すべきことであった。

 米騒動時の細民救済

 大正七年八月、県下一五市町村で発生した米騒動のうち、暴動化したものは警察力によって鎮静化したが、その間、県は各市町村と協力して米の廉売や施米を行って米価騰貴に苦しんでいた細民を救済した。
 松山市では、同年八月一六日、海南新聞社、愛媛新報社、伊予日々新聞社の三社が共同して白米の廉売を実施するとともに、篤志家に救助金の義援を募った。また、伊予郡郡中町(現伊予市)、喜多郡大洲町(現大洲市)、同郡内子町、新居郡西条町、同郡氷見町(ともに現西条市)など多くの町村では、八月一八日までに、各町村有志の拠出米金をもって米の廉売を行って騒動の鎮静化や予防に努めた。
 皇室から下された恩賜金の本県配分金五万三、〇〇〇円と、全国有志の寄付による救済資金の本県配分金四万九、四八〇円が、同年八月一四日本県に渡された。県では、同月一七日にこれを各郡市に分配し、松山市では、御下賜金から極貧者七一名に一人五〇銭~一円ずつを付与し、残金を米の廉売費用に充てて同月二六日二七日の両日、約五、〇〇〇戸の細民世帯に廉米を売った(『愛媛県史概説』上巻)。
 西宇和郡町見村(現伊方町)では、同年八月、町見村細民救恤会を組織し、極貧者救恤委員四名をもって村民の生活状態を調査した。調査の結果、極貧者三八戸(一〇七人)、極貧ではないが廉米を必要とする者六八戸(二九八人)が救済の対象となり、極貧者には大人一人一日外米三合を三か月間支給し(実際は施米券を付与して指定米穀商より米を受け取る)、廉米を必要とする者には内地米一升三五銭、外米一升一七銭で、九月一日より一〇月一五日まで販売した。これらの財源は、御下賜金(一八六円)、救済資金配分金(一七四円)、旧宇和島藩主伊達家・実業家山下亀三郎・住友吉左衛門などからの寄付金配分金(合計一一〇円)などのほかに、村内篤志家から募った四六二円が充てられた(『町見村誌』)。
 東宇和郡明浜町には、俵津村(現明浜町)の大正七年時「御下賜金米穀収支計算簿」が保存されている。これによると、俵津村では、同年八月二六日より村内有志から廉売用の米麦や金銭が寄贈され、これに御下賜金や山下亀三郎、伊達家、住友家、日蓮宗宗務院などからの寄付金配分を受けて一、六九二円五五銭(米麦は時価で換算)を得、同年一二月までに五一〇円九〇銭を救済のために支出した。俵津村で米麦の寄贈が多かったことは、他地域とは様相を異にする。この地は石灰工場を有する高山村(現明浜町)に隣接し、当時、石灰輸送船が朝鮮から米を積んで帰り、それを従業員に与えていたといわれているから、この付近の村々では比較的容易にしかも適切な価格で米を入手できたものと思える。
 米騒動を契機として、生活困窮者に対する救済事業は質量ともに改善され、防貧的意味をもつ社会事業として推進されるようになった。
 大正八年一月、今治町では警察署長の勧奨で今治米穀同業者組合が結成され、米価暴騰を予防した。松山市では、同年二月、森恒太郎の主唱で県内務部長和田純、松山市長長井政光、田内栄三郎、岡田温ら二六名によって社会問題研究会を創立して、米価問題を取り上げ、六月には住宅問題も取り上げた。また六月二三日には、前年の米廉売の剰余金を基金として、松山市、松山商工会、海南新聞社、伊予日々新聞社、愛媛新報社の五団体が、米価暴騰などによる一時的な窮民を救済すべく松山臨時救済会を松山市役所内に設立させた。
 同年七月一日、愛媛県は「時局ノ影響」により事業不振、収入不足などのため「著シク生活困難ノ状況ニアルモノ」の調査結果を発表した。調査に対し松山市は該当者「ナシ」と回答しているが、松山市を除くと本県全体の生活困難世帯数は五、五〇六世帯、生活困難者は二万二、五九四名となっていた。こうした中で、松山市は同年一一月、湊町と古町に公設市場を開設して日常必需品を適価で販売し、細民の生活安定を図った。

 社会課の設置と社会事業費の推移

 民力涵養係が新設される以前、すなわち大正七年までの本県社会行政機構は貧弱なものであった。それは、国の場合と同様に、独立した専門の課・係はなく、わずかに内務部第一課で備荒儲蓄経済、賑恤救済に関する事項、監獄署庶務課で慈恵に関する事項を所管したにすぎなかった。大正二年の県庁職制及び事務分掌(表2-1)では、知事官房秘書係が遺族扶助料及び賜金などに関する事項、内務部庶務課が勤倹貯蓄、水難救済、賑恤救済、行路病人及び行旅死亡人などに関する事項を取り扱うようになっており、社会行政に関する職掌は各所に分散されていた。
 大正七年、民力涵養運動の準備とその推進のため、内務部庶務課に民力涵養係が設置され、更に米騒動より二年半後の大正一〇年四月には、本県の社会行政確立のために内務部に社会課が新設された。社会課設置の背景には、「欧州大戦以来、思想界ノ激変二伴ヒ、社会問題ハ全国的二頻々トシテ台頭シ底止スル所ヲ知ラサル」状態があり、従来の賑恤救済策を発展させたいわゆる社会事業と、民力涵養運動などにみられた社会教化運動及び社会教育などの総合的な行政機関を発足させたのであった。
 大正一〇年改正の「愛媛県処務細則」によると、当時の社会課の事務分掌は次のようになっていた。
   一 社会教育に関する事項            二 民力涵養に関する事項
   三 軍事救護に関する事項            四 部落改善に関する事項
   六 感化賑恤救済に関する事項          五 男女青年団体に関する事項
   八 住宅及び公設市場に関する事項        七 免囚保護に関する事項
   九 失業者保護並びに職業紹介に関する事項
  一〇 生活改善並びに思想善導に関する事項
  一一 幼児保育妊産婦保護並びに託児所に関する事項
  一二 行旅病人及び行旅死亡人に関する事項
  一三 恩賜財団済生会並びに施薬施療に関する事項
  一四 その他社会的施設に関する事項
 
 こうして明治末期から社会問題化してきた貧困者の問題も、失業救済、幼児保育、住宅及び公設市場の設置など従来にはみられなかった角度からも救済の施策が実践されるようになった。
 大正八年九月二六日付「愛媛新報」には、明治三四年以来、松山同情館を主宰してきた大本新次郎は「今の世は慈善事業であると言ふ看板を掛けて慈善事業をやる如うな時代は過ぎ去って居ると思ふ。世間の人も慈善事業や救済事業であるといふ事に気が付かぬ如うにし、又救済さるる者にも自分が働いて食って居るのであって、人様のお世話になって居るのではないといふ観念を徹底さす如うにせねばならぬ」と、松山同情館を大本機織所と改名した記事が掲載され、時の推移を感じさせている。
 大正期における社会事業費支出は表2-2に示している。これによると、県歳出総額中に占める社会事業費の割合は一%にも満たず、昭和五九年度の本県民生費の割合七・〇八%(民生費内訳は社会福祉費、児童福祉費、生活保護費、災害救助費となっている)に比較すると著しく低い数値であった。この傾向は他県でもほぼ同じである。しかし社会課の設置によって大正一〇年以降の社会事業費率は、それ以前の〇・一〇%~〇・二四%に比して〇・三五%~〇・七七%へと伸びている。
 昭和二〇年までの社会事業の有り様をその歳入歳出額から考察する場合、一般会計以外に特別会計にも注目しなければならない。表2-3に示した特別会計より支出の社会事業関係費中、大正一二年を例にとれば、罹災救助基金、慈恵救済基金、賑恤基金、軍人遺家族廃兵救護資金などからの支出は総額三七万円弱となり、この年の一般会計中の社会事業費支出額の約七倍となっている。このほか、皇室からの御下賜金が度々あったことも考慮する必要があろう。

 愛媛救済事業同盟会

 大正七年の米騒動を契機として、従来の慈善事業が社会事業へと急速に進展するのに伴い、県下各地の民間慈善事業団体は相互に連係するとともに、行政機関とも一体となって社会事業を進めるようになった。
 大正九年二月二〇日、松山同情館(大本機織所)の大本新次郎は愛媛慈恵会の本城徹心、松山夜学校の西村清雄、県立自彊学園の松井豊吉、愛媛盲唖学校の石丸芳太郎ら官民の各社会事業団体代表者と事業の進め方について協議した。この会は愛媛救済事業同盟会と呼ばれるものであるが、その設立年月日は不明である。同年四月一二日にも、大本、本城、松井らがこの会の組織について協議しているが、当時は大戦景気の反動から来る不況の中で、失業問題、細民問題などの改善を目的とする組織が県下にも数多く生まれつつあった。
 愛媛救済事業同盟会は当初、部落改善や民力涵養運動をも側面から援助し広範な社会改良運動を進める方針であったが、松山の伊予絣、今治の綿ネル、八幡浜の織物など県下の繊維業界の不振で大量の失業者が出ることを予想して、職業紹介所の設置を第一目標として県当局に働きかけた。大正九年にはまだ本県に社会課もまた公設職業紹介所も設置されておらず、また方面委員制度も生まれていなかったが、大本らの頭の中には「追々には愛媛救済協会と云ふ如うなものを設け、方面委員を設けて……大いに社会事業に努力したい」(「愛媛新報」大正九・六・二付)という考えがあった。こうした大本らの動きは、明治三〇年代の末に救貧行政に関係していた内務官僚・大学教授・民間人が中心となって慈善事業の全国的連絡機関の設置が叫ばれ、明治四一年渋沢栄一を会長として創設された中央慈善協会(大正一〇年より中央社会事業協会)の愛媛県組織を構想したものであったと思える。

 愛媛県社会事業協会の発足

 大正一一年三月九日、愛媛救済事業同盟会の事業を継承するという形で、愛媛県社会事業協会が会員組織をもって創立され、本県社会事業の発展を期し県内各社会事業団体の連絡機関が誕生した。これが現在の愛媛県社会福祉協議会の前身である。この日、愛媛県が主催した社会事業講習会が松山市の県公会堂で開かれ、県下各郡市の社会事業関係者一五〇余名が出席した。会議では愛媛県社会事業協会設立についてが議題とされ、私立松山夜学校西村清雄、愛媛慈恵会本城徹心、日本赤十字社愛媛支部渡部綱道、愛媛保護会加藤利正、県立自彊学園奥山春蔵、私立愛媛盲唖学校久保儀平、愛国婦人会愛媛支部三宅芳松、県社会課福田虎亀ら八名が発起人となり、協会設立を満場一致で決定した。
 「愛媛県社会事業協会設立趣旨」(資社経下五一七)によると、従来の慈善事業は「主として貧孤児の救護、老衰者の保護救療、其他窮民救助など所謂救貧事業に属し、慈善家の美はしい動機」によって行われ、専門的知識を要するほどのものではなかった。しかし、「欧州大戦以来世運の推移と経済状態の変遷に伴ひ、社会政策上攻究又は施設を要するもの」が増えてきた。「最近に於ては其事業は窮貧救済は勿論のこと医療的保護、生活改善、社会教化、児童保護、労働問題、農村問題等其範囲拡大し、漸く予防的且建設的に進み社会全員が責任を以て経営し、科学的知識の上に立脚する様な傾向」を示してきたと述べ、こうした時勢に順応して愛媛県社会事業協会を設立し、官民一致して、「世道人心を善導すること」、「社会の不祥事を未然に防遏すること」、「社会の疾病を救済すること」を期した。
 この協会設立趣旨書にみられる社会事業推進の理念は、愛媛救済事業同盟会の大本新次郎のものとは若干様相を異にし、社会教化事業の推進が協会設立の大きな柱となっていた。協会設立準備過程で、進歩的な大本と県関係者との対立が生じたのか、大本は設立発起人にも名を連ねなかったし、設立以後の協会役員中にも彼の名はない。
 「愛媛県社会事業協会規則」の草案は、県社会課で作成された。協会の総裁には愛媛県知事宮崎通之助を推戴し、会長には県内務部長、幹事長には県社会課長が当たるという原案を発会式で採択させた。このため大正一一年三月一二日付「愛媛新報」社説は、官民合同して社会事業を実施すべき当時の社会において、「本協会は発会に至るまでの道程が甚だしく官僚式であって天降的なのは、我等の不満を禁ずる能はざる所である」と評した。西村清雄、本城徹心ら設立発起人も彼らが抱いていた社会事業協会像と、県が計画した協会像との相違に不満であったためか、協会は創立したが内務部長の会長就任は保留となった。内務部長中野邦一の会長就任が決まったのは大正一二年一一月二四日の総会においてであった。
 大正一三年時の協会役員を列挙すると表2-4のようになっており、当時の県政界、実業界の主要者や社会事業家が名を連ねている。
 愛媛県社会事業協会は県庁社会課内にその事務所を置き、県下の社会事業の指導と助成、更には各団体の連絡調整の任に当たった。大正一二年度は医療・職業・就学などに関する人事相談、社会奉仕日の設定と実践活動の指導、印刷物配布による社会事業啓発活動などを行い、翌一三年度は松山市、今治市、宇和島市、八幡浜市、西条町で国民生活改善展覧会を主催し、幼児保育職員養成講習会の開催や会誌「愛媛社会事業」の発行などの諸活動を行った。また大正一三年一〇月一〇日西宇和郡神山町矢野町(現八幡浜市)に西宇和郡社会事業協会が設立され、同年一一月一八日には新居郡西条町明屋敷にも新居郡社会事業協会が創設された。これらは郡内の各町村が資金を出し合って設立させたもので、財団法人の認可を受けて郡内の社会事業団体や社会教化団体の活動を助成し奨励した。

 方面委員制度の発足

 今日の民生委員制度の起源は、一八五三年ドイツのエルバフェルド市(現ブッペルタール市)で始まった官民共同の貧窮民救助事業にあるといわれる。
 我が国では、大正六年五月、岡山県でエルバフェルド市の制度に似た済世顧問制度が開始され、県下各市町村の地主など有力者や篤志家を済世顧問に委嘱して、貧困者の調査・相談・就職斡旋などに当たっていた。また大阪府では、大正七年一〇月岡山県の済世顧問制度を参考にして、生活に困る人たちの相談相手として民間篤志家を委員に委嘱し、生活の向上を指導させる方面委員制度を開始した。
 これら二つの流れが、東京府、長崎市、横浜市、愛媛県などに方面委員制度を誕生させ、埼玉県では共済会福祉委員制度、京都府には公同委員制度も生まれ、昭和三年までには、こうした制度が全国化し、昭和一二年「方面委員令」が施行されて全国的な公の制度となった。この制度は、無報酬を原則とし、中産階級の篤志家を委員に委嘱し、学区を基準に設定した委員が担当区域(方面と呼ぶ)の社会調査に基づいて防貧活動を行うもので、委員の熱心な活動に支えられて大きな成果をあげた。
 愛媛県では、大正一二年一一月九日「愛媛県方面委員設置規程」(資社経下四一三)を定めて、委員設置を決めた。この規程によると、委員は、(1)県民生活の実情を調査し生活改善と生活安定の方法を講じること、(2)要救護者には調査の上、救済方法を講じること、(3)各種社会事業団体と連絡を保ち協力していくことなどをその任務とした。翌大正一三年三月一〇日、松山市(定員一六名)、今治市(同一〇名)、宇和島市(同一〇名)に当初は二九名の方面委員が委嘱された。この後、方面委員制度を発足させる町村が相次ぎ、昭和五年度には、宇摩郡川之江町、新居郡西条町、温泉郡道後湯之町、喜多郡大洲町、西宇和郡八幡浜町、同郡川之石町、東宇和郡宇和町、北宇和郡愛治村(現広見町)など三市一七町村に一五八名の方面委員が委嘱された。
 大正一三年三月一七日、委嘱されたばかりの県下三市の方面委員は松山市の県公会堂に集まり、第一回の方面委員会を開いた。会には三市の市長や警察署長も集合して、方面委員の執務要領について打ち合わせを行うとともに、官公署・各種公共団体との連絡の保持が要望された。その後、愛媛県社会課の社会事業主事や先進地大阪府より招いた方面委員が、県内の市町村を巡回して講習会を開き関係者の啓蒙に当たった。また、方面委員大会も県下主要各市町持ち回りで開催し、生活困窮者に対して単なる物質的救助に流れず、自活力を回復させるとともに自助独立心を涵養する方法、社会制度上の欠陥に起因する窮民発生と社会共同責任の問題など、当時としては進歩的な考えに基づく討議や研究が試みられた。しかし、方面委員活動の中には細民の思想善導、国体観念に基づく社会教化も重要視されており、大正期から昭和初期は防貧的社会事業と社会教化事業とが両輪のようにして活動が進められた。

表2-1 社会事業に関する愛媛県庁職制及び事務分掌

表2-1 社会事業に関する愛媛県庁職制及び事務分掌


表2-2 大正期における社会事業費(決算額)の推移

表2-2 大正期における社会事業費(決算額)の推移


表2-3 特別会計より支出の社会事業関係費(決算額)

表2-3 特別会計より支出の社会事業関係費(決算額)


表2-4 愛媛県社会事業協会役員一覧(大正13年時)

表2-4 愛媛県社会事業協会役員一覧(大正13年時)