データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

二 社会事業の展開

 授産事業

 授産事業とは、一般的に、身体上もしくは精神上の理由または家庭の事情などにより、就業能力の限られた人々に対して、就労の機会を提供して技能を習得させるとともにこうした人々の自立と生活の安定を図るものである。明治前期における授産事業は、士族授産のような特異な例もみられたが、日露戦争以降は戦傷病兵やその遺族、あるいは失業者など生活困窮者を対象とした経済保護事業として各地に授産場が設置されるようになった。
 本県では、明治一四年一〇月一五日、愛比売新報社が新聞紙上に「授産論」を発表して、各府県に有産者出資による授産場をつくり、「各地ノ貧民老若男女」を労働者として働かせ、「恒ノ産ナキ者ヲシテ各其所ヲ得セシム」ことを提唱した。明治期、授産場と銘打った施設は本県に設置されていないが、松山同情館、愛媛慈恵会などいわゆる慈善事業団体では収容した児童・婦人に対して職業指導を行った。
 大正四年四月一日、松山市二番町に本県最初の授産場である愛国婦人会愛媛支部付属援産場が設立された。これは、戦傷病兵やその遺族で生計の資を失った者に対する援護事業として開始されたもので、同年五月には、尋常小学校児童四名、高等小学校児童三名、女学校生徒一名を含む二五名が授産を受けていた。当初は状袋貼りのみの授産であったが後に裁縫も加えられ、児童生徒は毎日午後三時より六時まで、他は午前九時より午後六時まで作業に従事した。工賃は状袋貼りの場合、千枚につき八銭であったが、一日千枚の作業がこなせない人にも一定の金銭が補給された。大正六年には軍人遺族四〇人と就業者も増え、袋貼りのほか板紙箱作りなど作業種目も増え、見習者は一日一〇銭以上、熟練者には一日二〇~三〇銭の労賃が給されるようになった。
 しかし、大正一〇年代に入ると、加工品の需要が低減するとともに軍人遺家族からの就業者も減少したため、愛国婦人会愛媛支部は授産場に一般の生活困窮者をも受け入れることとし、授産以外にも家庭副業の斡旋や職業講習会をも行うようになった。愛国婦人会のこうした授産事業に対する考え方は、大正一一年一月四日、婦人職業紹介所(相談所)の開設につながり、一般婦人の就職や副業についての相談や紹介が行われるようになった。
 なお、大正一〇年代、部落改善事業の一方策としても授産場設置の動きが県内にもみられた。

 職業紹介事業

 職業紹介は、江戸時代以来、口入屋などと呼ばれた営利職業紹介として行われ、本県でも貧困家庭の子女が口入屋の甘言につられて酌婦に売られていくという弊害が生じていた。日露戦争後の貧民の増加、第一次世界大戦後の戦後恐慌の中で、失業者救済を主眼とする職業紹介事業が政府の手によって実施されるようになった。大正八年三月、救済事業調査会は内務大臣の諮問に対して「失業保護二関スル施設要綱」を答申した。政府はこの答申を基礎として同年四月、公設の職業紹介所設置を大都市に勧奨し、更に、同年、第一回国際労働会議において「公益紹介所施設新増設と営利紹介所の全廃」を内容とする失業に関する条約及び勧告が出されたので、大都市における公設職業紹介所の設置は促進された(『内務省史』)。
 本県では、大正七年一月、クリスチャンであった大本新次郎が経営する松山同情館に職業紹介所が設置されていた。これは女子のみを対象とする職業紹介所であり、現実には売春婦などの保護救済施設であった。同所には最初から職業を求めてやって来る婦人は少なく、口入屋にだまされ、家に帰るにも面目がなくまた金もない婦人が救いを求めて来る場合が多かった。大本はこうした女性を寄宿させ、同情館の絣工場で働かせて、ある程度の貯金ができたら、できるだけ親元へ帰すようにした。大正七年一〇月二五日付「愛媛新報」は、この職業紹介所の近況を伝えるとともに、「氏は更に戦後に起る男女の失業者救済の為めに今から心を砕ゐているが、此の問題は単り氏にのみ任せて置くべきことであろうか」と、国の救済事業調査会の答申に先駆けて、本県にも公設職業紹介所を設置すべきことを訴えている。こうした中で、愛媛県知事馬渡俊雄は松山商工会に対して失業者救済の件について諮問し、大正九年六月一五日、松山商工会の調査委員会は半官半民の組織で職業紹介所を設置する答申方針を採択した。
 大正九年六月、政府は財団法人協調会に中央職業紹介所を設置させ、既設の職業紹介所を統轄し事業の拡充を図った。このため、職業紹介事業の法的整備が必要となり、翌一〇年四月九日、「職業紹介法」が公布され一〇月より施行された。本県では、大正一一年四月八日「職業紹介法施行細則」(資社経下四〇八)が出され、県当局は県下の主要市町村に職業紹介所設置を勧めた。この年一月四日、愛国婦人会愛媛支部は松山市二番町に婦人職業紹介所(相談所)を開設していたが、三月には喜多郡大洲村(現大洲市)、五月には松山市、今治市、宇和島市、六月には八幡浜町、三津浜町に公設の職業紹介所が開設され、県はこれら公設の紹介所に毎年補助金を出して助成した。
 大正一一年五月二五日に開所した松山市設職業紹介所では、大正一三年、失業者増加を背景に、一、三八一名の求職者をみた。市当局は四月より紹介所事務職員を二名に増やして、事業主の戸別訪問を行い求人開拓を行ったが、求人数は八六二名しかなく実際に就職できたのは三〇四名にすぎなかった。当時は「未ダ一般雇傭者ノ職業紹介事業二覚醒セザル憾」があったと大正一三年「松山市事務報告書」(「松山市史料集」第一一巻所収)には記している。
 なお、松山市会に提案された「松山市設職業紹介所規定」案(大正一一・二・一八付「愛媛新報」所収)は次のようであった。
  第一条 本市は本規程に依り職業の紹介を為す。
  第二条 本所は松山市設職業紹介所と称し本市役所内に之を置く。
  第三条 本所の紹介する職業の職種は別に之を定む。
  第四条 本所の紹介は無料とする。
  第五条 求職者は書面又は口頭を以て左の事項を具し申込むべし。
      一、住所・氏名・年齢・過去の経歴
      一、希望職業の種別及賃銀
      一、其他希望の条件
  第六条 求人者は書面又は口頭を以て左の事項を具し申込むべし。
      一、住所・氏名・職業
      一、使用職業の種別・賃銀・員数及男女別
      一、希望の年齢及年期
      一、其他希望の条件
  (第七条~第一〇条 省略)
  第一一条 本所に左の職員を置く。  所 長   一名     事務員 若干名
  第一二条 所長及事務員は市長之を任免す。
  (第一三条~第一五条 省略)
 今治市役所構内に新築された今治市職業紹介所が実際の業務を開始したのは大正一一年九月一日からであった。同所は東予地域一市四郡の中で唯一の施設であり綿業地を背景にしていたため、求職者数は松山市より多く、昭和初期の不況期には一、九〇〇名を超え、昭和六年には三、五〇〇名を超えている(『今治市誌』)。
 大正一一年六月一一日、大阪地方職業紹介事務局より設置許可を得た八幡浜町営職業紹介所は、同年八月一日より本格的な事務を開始した。ここでは開業から昭和八年一二月までに一万四、〇七六人の求職者があり、この内九、八六八人に紹介状を交付、実際に就職した者は七、二五五名に上っている。これを職業別でみると、男性は商業関係が就職決定者中の七割を占め、工業及び鉱業関係がこれに続いた。女性の場合は就職決定者四、一六六名中、三、三一五名が戸内使用人となり、工業及び鉱業関係の従業員になった五一七名がこれに続いて多かった(『八幡浜市誌』)。

 関東大震災と救援活動

 大正一二年九月一日、関東全域・静岡・山梨にわたり大地震が発生した。この地震と地震直後に起こった火災のために東京府・神奈川県・千葉県南部では空前の被害を受け、全壊家屋一二万戸、家屋の全焼四五万戸、死者・行方不明は一四万名に及んだ。人心が動揺する中で、朝鮮人や社会主義者が騒擾を起こすとの流言が広がり、朝鮮人の虐殺事件が続発、四日には亀戸事件、一六日には甘粕事件など、憲兵や自警団員などによる社会主義者虐殺事件も発生した。
 九月二日、政府は戒厳令を施行するとともに臨時震災救護事務局を設置して、混乱の収拾と罹災者の救援に全力をあげた。九月三日には摂政宮から御沙汰書並びに救恤金一千万円が下賜され、翌四日には関東大震災の救援につき官民一致の努力を望む内閣告諭が発せられた。
 こうした状況のもとで、本県にも震災臨時救援部が設置され、義援金品の募集、救援物資輸送、震災地の愛媛県人の救護事業などを開始した。臨時救援部は県庁内に置かれ、部長には内務部長百済文輔、副部長には警察部長芝辻一郎が当たり、二〇名前後の職員が、庶務、救護、調達、衛生、出納、慰問袋、輸送の各係を分担した。
 義援金品の募集は、知事、県会議長、県内四新聞社、各郡市長を発起人として実施され、各郡市町村役場はいうまでもなく、学校、赤十字社、愛国婦人会、青年団、在郷軍人会、主婦会、処女会などが率先してこれに協力した。大正一二年一一月二五日までに県下全域から四六万一、九五三円余の義援金が集まったほか、精米・玄米・雑穀・漬物・堅パン・ビスケット・缶詰・味噌・干魚などの食糧品、鍋・釜・包丁・茶碗などの厨房食器、衣類・薬・日用品など一八万二五三円余に相当する種々の救援物資も寄贈された。
 震災地の傷病者救護のために、日本赤十字社愛媛支部が編成した医師六名・看護婦一八名・係員六名計三〇名からなる救護班は九月六日、松山を出発して東京・横浜に向かい、九月九日には、臨時救援部職員が救護物資の輸送・陸揚げに伴う段取りをつけるため、東京・横浜・静岡・千葉などへ派遣され、この日、食糧を中心とする救援物資を積み込んだ船も松山を出て東京へ向かった。このほか、救援物資を積んだ船は一〇日、一一日、一四日、一五日、二〇日にも相次いで本県を出航した。九月二〇日からは貨車による輸送も始まり、この間、大阪に関西府県連合救護事務所が設置され、関西の各府県による系統だった物資輸送及び救護が行われるようになったため、本県臨時救援部職員二名がここに常駐して連絡事務をとった。
 関東大震災は、小学児童の教科書や学用品をも灰燼に帰せしめた。このため、本県では教育協会が主唱して県下各市町村の学童より使い古した教科書や学用品の義援募集を進め、教科書一〇万七、三六三冊、学用品二万九六〇点を得た。県教育協会は、あらかじめこれを種類別に整理して一〇月二日横浜に直送して罹災児童に分与した。
 本県の震災臨時救援部は、東京と横浜に愛媛県救護事務所を設け一〇数名の係員を配して本県出身者の安否を調査した。更にこの地の愛媛県人会と連絡をとりあって救援の金品を寄贈する一方、就業の斡旋、資金融通、バラック建て住宅の建設などの諸事業を行った。また、危急を免れ飲まず食わずで本県に帰って来る人、あるいは本県の親戚知人を頼って来県する人々のために、三津浜、今治など県下の主な港や駅に救護事務所を設け、避難民の救護に努めた。なお、こうした避難民を保護扶養する人に対しては県から救助金が支給された。大正二一年一一月一五日、県当局は罹災して帰県した本県出身者の調査を実施したが、その結果、罹災者は一、七四四名、うち死亡又は行方不明四八名、負傷九五名、震災による失業者は三九〇名であった(「愛媛社会事業」大正一三年第一号)。

 養老事業

 明治・大正期を通して老人のみを保護救済の対象とする法制や公的施設は存在しなかった。明治以降、近代化が進展する社会にあっても、老人は同居する家族の世話を受けて生活するのが一般的であった。すなわち、伝統的な我が国の家族制度の中で老人は隠居生活を送り、また家督を継いだ者を中心に子供たちは、当然のように、年老いた両親の面倒をみてきた。だから、明治・大正期は老人の保護救済を社会政策として取り上げることはまれであった。
 扶養義務者のいない老人の場合、明治七年の「恤救規則」によって救済されたが、これは親戚隣保の相扶を基調としている上に、老人のみを救済対象としたものではなかったから実効性は乏しかった。ちなみに、明治一三年から同二二年までの愛媛県(明治九年から同二一年までは現香川県は愛媛県に併合されていた)の被恤救人数は年平均一九六名、大正一二年は一八八名に過ぎず、このうち老人の占める割合は不明である。
 明治四五年三月、立憲国民党の福本誠は帝国議会に「養老法案」を提出した。これは日露戦争後の近代産業進展に伴う貧富の拡大の中で、「貧民の親族は概ね貧民なり、何の余力ありてか族類窮老の扶持に及ばむや、……窮老者の餓死自殺日に相次ける」(『日本の救貧制度』所収「大日本帝国議会誌」第八巻)という問題に直面して提出されたものである。「養老法案」は、満七〇歳以上の無資産無収入かつ保護者のいない老人に一日一〇銭ずつの養老金を給与することを骨子としていた。しかし、貧民に権利意識が生じはしないか、我が国の家族制度を破壊しはしないかとの反対意見が強く、提案者から家族制度の美風を保持することと窮老者への養老金支給は別問題であるとの反論もなされたが、政府は、今後も隣保相扶の方針を継続し、国民がなるべく公費の厄介になることがないように要望するとの見解を示し、法案は否決された。老人のみを保護救済することが法的に認められたのは、養老院が救護施設の一つとして位置づけられた「救護法」(昭和七年一月施行)においてであった。
 明治・大正期、身寄りがなく年老いて窮迫した人々は、民間善慈団体の救済や隣保の共同体的扶助を受けた。隣保相扶の組織の中でも、老人救済は独立したものではなく、それは一般的な窮民救済の一例に過ぎなかったが、西宇和郡矢野崎村(現八幡浜市)には特異な例がみられる。この村では明治三四年に「窮民救助資金蓄積条例」を制定して資金を蓄積したが、住民はこの資金を村内の老病者救済に充てていた。この地のこうした事業が基盤となって、昭和二年八月二四日、西宇和郡八幡浜町大平に本県最初の養老院である愛媛養老院(老病者収容所)が設立された。経営は西宇和郡仏教団が進め、石見唯暁が代表者となり、昭和八年度の在院者は男三名女一名計四名であった。また、市制施行後の昭和一〇年三月には同市広瀬に老人救護施設である八幡浜方面寮も設置されている。
 このほか、孤児の収容保護施設である松山市の愛媛慈恵会でも大正初年から老病者を収容して救済を行っており、大正一五年には老病者が五名いた。愛媛慈恵会が本格的な老病者収容施設(養老部)を新築したのは昭和一〇年であった。また松山市の津田育英救済会(大正六年創立)では育英事業のほかに、「松山市在住六〇歳以上ノ孤独者ニシテ扶養者ナキ貧困者ヲ救済」し、宇摩郡上分町(現川之江市)の愛生慈善会でも養老事業を活動の一部にしていた。

 敬老会

 「老人は、多年にわたり社会の進展に寄与してきた者として敬愛され、かつ、健康で安らかな生活を保障されるものとする。」これは「老人福祉法」(昭和三八年制定)の第二条である。今日のように経済が先行し業績を重視する社会では、儒教倫理に基づく敬老精神は希薄化する兆しがみられるが、第二次世界大戦前の我が国では敬老会は地域共同体の重要な行事であった。
 江戸時代においても、松山藩では藩主が領内の長寿者を招いて酒膳を振る舞い、その長寿を祝すとともに領民を慰撫する行事があり、「養老の典」と呼ばれたが、明治一六年八月二日、藩政時代の養老の典を懐かしむ人々が松山市街西堀端町の勧善社で松山市街の八〇歳以上の長寿者八〇余名を招待して敬老の宴を催した。発起人は藤岡勘三郎、栗田與三、堀内胖次郎、逸見佐平ら松山の名士で、彼らの呼びかけで、この日、松山市街尚歯会を発足させた。この会には旧松山藩主久松定昭の養子定謨も帰松して発会の祝辞を述べている。これは、明治以降の愛媛県では最初に結成された敬老組織で、旧城下町内外の篤志家を会員に募り一口五〇銭の会費をもって運営された。松山の市制施行に伴って、この会は明治二三年以降松山市尚歯会と改称されたが、毎年四月、「諸老ノ健康ヲ抃賀シ併セテ欽慕ノ情ヲ寓スル」目的で長寿者を祝賀敬愛する会を催し、松山市長寿者番付ともいえる「松山尚歯会老人名簿」を発行した。なお、松山市の石手川堤防にはこの会の活動を記念する石碑が建立されている。
 大正期に入って、老人を敬賀する会である尚歯会や敬老会は県下各市町村で組織され、種々の敬老行事が行われた。特に大正八年から実施された民力涵養運動の実行要目に「敬神崇祖敬老尊長ノ精神ヲ振作スルコト」が取り上げられていたため、県下多くの市町村が婦人会(主婦会)、青年会、処女会と一緒になって七〇歳又は八〇歳以上の老人を招待して敬老会を開いた。会では、芝居、児童の学芸会、蓄音機を景品とする福引きなどの催しもあった。
 大正一一年、皇太子殿下の本県行啓を記念して民力涵養を図る県民運動が行われたが、この年、温泉郡東中島村(現中島町)、宇摩郡上山村(現新宮村)、伊予郡原町村(現砥部町)、西宇和郡磯津村(現保内町)など七町村では皇太子殿下行啓記念敬老会を開催している。また、新居郡氷見町(現西条市)では町長や駐在巡査を含む有志の発起によって、大正一四年一一月に皇孫殿下御誕生記念事業として会員を募集し、敬老会結成を計画した。計画では、一か年一円を拠出する会員を募り、同町の処女会と共同して毎年一回、町内三八人の八〇歳以上の老人を招待して長寿を祝うこととし、発会式は皇孫殿下の命名式当日に挙行することになっていた。
 今治市連合婦人会が大正一五年一〇月八日、今治市公会堂で開いた敬老会には市内二四二名の八〇歳以上の老人が参加した。敬老会開催に先立って長寿者の名簿を作成し二五四名が招待を受けた。このうち、最高齢者は九七歳の女性であると「海南新聞」は伝えたが、二日後の「海南新聞」は「今治市の高齢者、九九歳が現はれた」との見出しで、文政一一年生まれの男性を紹介する記事を掲載している。
 なお、大正一四年、皇室の慶事に際して九〇歳以上の長寿者が天盃を拝受したが、本県では男一五六名、女三三八名、計四九四名がこの栄に浴した。全国では男六、〇二七名、女一万三、五一一名であった。

 妊産婦・乳幼児・児童の愛護

 児童福祉の分野では、大正期の後半になって、それまでの貧困家庭の児童救育・救済・感化といった処遇理念から、児童保護、児童愛護といった理念へと大きく進展した。大正末期から昭和初期には、乳幼児死亡率の高さに眼が向けられ、妊産婦保護、乳幼児保護を中心として児童の保護・愛護の諸事業が重視され、実行されてきた。
 こうした児童保護事業進展の背景には、戦後恐慌、関東大震災、昭和恐慌の中で目立ってきた親子心中、幼児殺し、児童虐待、欠食児童などの問題があり、大正一四年五月から昭和二年七月までの調査では、親子心中だけでも全国で三一一件を数えている。こうした事態に対し、社会事業調査会は昭和二年一一月「児童保護事業に関する体系」を決議し、これを政府に提出した。これは従来の児童保護行政方針を大きく転換させるもので、妊産婦保護、乳幼児保護、病弱児保護、貧困児童保護、少年職業指導並びに労働保護、児童虐待防止、不良児童保護、異常児童保護の八分野にわたっていた。
 本県でも、この時期、愛媛県社会事業協会、愛国婦人会愛媛支部、日本赤十字社愛媛支部、恩賜財団済生会が積極的な活動を進めた。愛国婦人会愛媛支部は、大正一〇年一二月二三日、県下の下部組織に「妊産婦保護施設二関シ通牒」を発し、「我国ハ出産ノ注意保護ノ行届カザルタメ死産ヲ出スコト多ク、且、為二産婦ヲシテ往々命ヲ落サシメ人生ノ最大悲惨ヲ現出スルコト少ナカラズ」として、婦人会員が妊産婦保護事業を進め、国家社会に貢献するよう促した。大正一一年一月より県下各地の実状にそって実施された愛国婦人会の「妊婦産婦褥婦保護規程」は二〇か条からなるが、その一部は次のようであった。

   一、幹事部又ハ町村委員区二嘱託産科医、産婆ヲ置キ幹事委員等ノ紹介斡旋二依リ妊婦産婦褥婦等ノ診療介保二便宜ヲ与フルコト、嘱託産科医産婆ナキ場合ハ最寄開業医又ハ産婆ヲ紹介スル等適宜ノ措置ヲナスコト。
   二、貧困ニシテ治療又ハ介保ヲ受クルコト能ハサルモノハ、便宜他ノ救済団体二交渉斡旋シ、其ノ救療保護ヲ受ケシムルコト、但シ他団体二対シテハ予メ協定ヲ為シ置クヲ要ス
   三、家庭ノ情況悲惨ヲ極メ特別救済ノ必要アルモノハ幹事部長ノ申告二依リ、支部二於テ相当ノ救済ヲナスコト
   四、産科医産婆ノ謝礼薬価料金等ノ軽減方法二付テハ幹事部二於テ予メ協定ヲ為シ置クコト
   五、妊婦ニシテ他二勤務アルモノニ付テハ予メ勤務先へ交渉シ便宜保護ヲ与フルコト
   九、貧困者二対シテハ場合二依リ産具ノ無料貸与又ハ給与ヲナスコト
  一〇、出産二関スル心得ヲ印刷シ、実費又ハ貧困者ニハ無料ヲ以テ汎ク妊産婦二配布ヲナスコト、但シ予メ幹事部委員区二送付シ置キ随時交付スルコト、
  一四、嘱託産科医、産婆ハ其ノ門戸二適宜ノ標札ヲ掲ケシムルコト
  一五、出産並二幼児健康増進二関スル智識ヲ与フル為メ時々機会ニ於テ専門家ノ講話会ヲ開催スルコト
        (資料 大正一四年愛国婦人会愛媛支部「事務引継書」、六~八、一一~一三、一六~二〇条は省略)

 右の規程、第二条にある「他之救済団体」は恩賜財団済生会を指すものと思われる。済生会は明治四四年五月、日露戦争後急速に進んだ産業革命によって生み出された貧困者に対する救療を目的とし、明治天皇よりの救療資金一五〇万円と全国の民間有志の寄付金約二、五〇〇万円を基金として誕生した。この会は日本赤十字社と同様に全国的な組織をもち、本県では大正元年一二月二八日、「済生会愛媛県診療規程一及びその施行細則を定めて済生会事業が開始された。済生会は、一定の条件で赤貧者に無料で医療を受けることができる施療券を交付し、大正一四年までに延ベ一万九、七六〇名を救療してきた。この間、大正一一年七月二一日には診療規程の一部を改正し、妊産婦・乳幼児保護の立場から貧困家庭の妊産婦に対しても施療券を交付した。
 大正一一年六月、日本赤十字社愛媛支部は松山市、今治市、宇和島市で妊産婦の助産保護と虚弱児童の育成相談を開始した。また新居郡泉川村(現新居浜市)、同郡氷見町、越智郡波止浜町、喜多郡長浜町などでは、町村が費用を負担して児童健康相談所を開設している。これらは月一回~八回の相談日を設定して妊産婦や乳幼児の保健衛生上の相談、保育相談を行う機関であった。このほか、大正一一年から始まった「児童愛護デー」を期して県社会課や愛媛県社会事業協会は県下主要市町で乳幼児審査会を開始させるとともに各種の啓発行事も行った。
 大正一四年四月三日、西宇和郡川之石町での「児童愛護デー」行事では、同町の川栄座に託児所の園児や尋常小学校一年生が母親や姉と一緒に弁当を持って集まり、童話、遊戯、活動写真を楽しんだ。この催しは同町主婦会が主催し、町役場、小学校、処女会が後援し、西宇和郡社会事業協会の社会主事補村田吉右衛門も児童愛護に関する講演を行った。なお、西宇和郡社会事業協会は「児童愛護デー」の行事を郡内で活発化させるために、次のような啓発文書を出している。

   児童愛護の必要は今更説明を要しませぬが、今日四囲の状勢は児童生活を脅威し剰へ婦人家庭外の労働益々増加すると共に、往々にして児童の幸福を根底より破壊されんとしつゝあります。茲に於て世界各国共に相競ふて各種の方法を以て児童保護を実施されて居ります。児童愛護は実に児童当然の権利であり又お互いの義務であります。故に児童保護の一方法として児童愛護デーを設定し其の目的を達成せんとするのであります。
   古来我が国に於て行はるゝ上巳の節句と端午の節句とは共に児童愛護を目的とせる美風でありますが故に、之が趣旨の徹底に努め大に意義あらしめ、今後益々之が普及に努めねばなりませぬ。然るに太陽暦励行其他の事情により次第に衰退しつゝあるのみならず、其の目的を成人が奪取し児童愛護よりも寧ろ成人の為めの節句に転換されたることは甚だ遺憾とする所であります。依て左記により児童愛護デーをして徹底的其の目的を達成せられんことを望みます。

     記
  一、期日の統一 四月三日、六月五日を児童愛護デーとす(上巳の節句を四月三日に改め、端午の節句を六月五日に改む)
  二、方   法 当日は児童愛護の大宣伝をなすこと(各町村適当なる方法により左記事項徹底に努むること)○当日は児童本意に児童を愛護すること○当日は可成質素に精神的に重きを置くこと
  三、報   告 愛護デー後十日以内に実行状況、郡へ報告のこと

 松山市とその周辺部でも児童愛護の運動は盛り上がっていた。大正一一年、和気郡御幸村山越(現松山市)の長建寺住職隈江信泰は松山児童愛護連盟を組織して活動し、温泉郡立花村(現松山市)の松岡富太郎は私費をもって優秀児童歓待会を開いた。更に大正一二年の第二回児童愛護デー実施に際しては、県社会事業協会幹事松野勝太郎が「愛媛新報」に「児童愛護と子供の権利」という論説を連載して、児童保護・児童愛護の啓蒙を行った。

 常設託児所の設置

 我が国で最も古い託児所は、明治二三年新潟市で赤沢鍾美・仲子夫妻によって始められた家塾「新潟静修学校」付設の託児所といわれる。
 愛媛県では、明治三〇年代から貧困家庭の幼児救済や託児事業、日露戦争以降の軍人遺家族援護活動を続けてきた宇和島済美婦人会が、大正期に入って本格的な託児事業を進めた。大正一一年七月、済美婦人会の生みの親ともいえる今井真澄は、彼が住職を勤める龍光院福寿寺のおこもり堂を常設の託児所として提供した。ここに、母親が家庭外に働きに出る家の子供を一〇名前後預かり、済美婦人会員が交替で世話をみた。また、農繁期の季節託児所の開設も積極的に推進し、大正一三年六月には、大浦、柿原、伊吹、本九島に保母一名を派遣し、婦人会幹部が手伝いをするという形で農繁託児所が運営された。昭和に入っても宇和島済美婦人会は市内神田川原の法円寺に第一分園を開設、翌年七月、児童健康相談所開設、同年一一月より乳児保育をも始めている。
 表2-5には大正期後半から昭和初期にかけて新設された託児所をあげているが、既に愛児園、愛育園、保育園の名称をもつものがあり、幼児保護の新気運が感じられる。これらの契機となったものは紡績女工などの雇用対策、乳幼児死亡率の低減が叫ばれていた当時の社会背景があげられるが、愛媛県社会事業協会はこうした時代の要請にこたえるため大正一三年度から幼児保育職員養成事業に乗り出し、一、ニ〇〇円の予算で県下三か所で講習会を開催した。講習後も託児事業研究会を開いて託児所の普及と保育内容の拡充に努め、大正一四年度からは県下の常設託児所、季節託児所五〇か所へ平均三〇円の補助金を出して事業を助成した。
 大会一三年四月に開所した北宇和郡蒋淵村(現宇和島市)の海禅寺託児所は三〇~四〇名ほどの幼児を預かり、住職夫妻が、着物の着方・帯の締め方・履物のぬぎ方・食事の作法から神仏の拝み方まで細かい日常生活の習慣を指導するほか、唱歌・遊戯・綱引き・毬なげ・絵画の説明、ブランコ遊び、水遊び、お伽ばなしをして保育し、時々は運動のため野山へ出かけた。

 季節託児所の普及

 農業に機械化が導入される以前、我が国の農家は一年中ほとんど暇がないほど多忙を極め、殊に麦刈り・田植え・養蚕・稲刈りの時期には「晨に星をいただき夕に月影を踏みて帰る」生活であった。だから、大正期の農村では、生後数か月の乳児を背負って農作業をする婦人の姿、田の畦に蓑を敷き、笠を被らせて我が子を寝かせる母親の姿もみられ、「早乙女や泣く児の方へ植えて行く」という状況を呈することが多かった。
 こうした農繁期など一定の時期に、町村・町村農会・婦人会・小学校・寺院・個人の篤志家が乳幼児を保育する季節託児所(農繁託児所)は、大正一〇年代から昭和一〇年代まで農村社会事業の中心として活況を呈した。
 愛媛県では大正一三年秋の農繁期に、周桑郡・越智郡・伊予郡・喜多郡・北宇和郡で県下最初の季節託児所を開設し、同年九月には、松山市・今治市・宇和島市・西条町・宇和町・大洲村でそれぞれ農繁期臨時託児所施設協議会を開催して、この事業の発展を期している。また、周桑郡役所が郡内町村長宛てに通達した大正一四年五月一六日付「臨時託児所施設二関スル件」では、前年の秋に開設した田野村、徳田村(ともに現丹原町)、多賀村(現東予市)の託児所は児童保護、農家の作業能率増進ともに効果があったが、他郡では「有閑階級ノ婦女、之ラノ事業ヲ援助シ、協調諧和ノ実現二貢献シタル事尠カラズ」として、婦人会の積極的援助を促すとともにより多くの町村で託児所を開くように求めている。大正一四年の五月から八月にかけては、前記五郡のほかに宇摩郡、西宇和郡、東宇和郡、南宇和郡、宇和島市でも季節託児所が開かれた。
 昭和二年度の県下の季節託児所数は表2-6のように八八か所であり、その経営主体は婦人会・寺院・小学校が多く、寺院・公会堂・青年会堂・小学校などが託児所に当てられた。越智郡富田村(現今治市)では同村の歓喜寺・青年会堂・松木庵寺の三か所でそれぞれの地区婦人会が託児所を開いた。このうち庵寺を利用した松木託児所では、六畳と八畳の二間という狭い堂庵に一歳から五歳までの幼児四〇名を集め、一週間保育した。室内には揺りかご代わりに芋箍で作ったハンモックを張り、六坪ばかりの庭にはブランコが作られ遊び場とされ、婦人会員が一日五名ずつ臨時の保母として保育に当たった。
 季節託児所は農村向けの臨時施設であったから、高い経費をかけて立派な設備を有するものではなかった。できるだけ経費をかけず、しかも多くの幼児を保育することに主眼が置かれていた。常設託児所では保母の資格を厳しく規定されたが、季節託児所では子育ての経験と教養があり、子供好きの人なら誰でも臨時の保母として奉仕できた。だから専門の保母を雇い入れた季節託児所は県下にひとつもなかった。託児所の幼児は弁当を持参することが多かったが、越智郡清水村(現今治市)のように、子供に毎日米一合~一合五勺を持参させ、有志婦人によって簡単な炊き出しをするところもあった。また季節託児所の経費は間食費、消耗品費、設備費が中心であったから、子供一人につき一日三銭ないし五銭の保育料を徴収してよいとされていたが、県、町村、部落、農会などからの補助金や篤志家の寄付によって経営される場合が多かった。昭和八年度、本県では春期・夏期に一六四か所、秋期に九五か所の季節託児所が開設され、受託児数は一万四、五〇〇余名に達した。
 なお、喜多郡天神村(現五十崎町)の香林寺農繁託児所は事業開始に際し、村内に託児事業の広報ビラを配布したが、その中に次のような「託児所宣伝歌」をも印刷している。
  一、子は子宝、国宝 皆で立派に育てませう 人の子ぢゃとてよそ目に見るなよい子育てりゃ国のため お国の為なら我が身忘れて育てませう
  二、子供あっては野仕事できぬ 皆で進んで預けませう 子供預けりゃ親子が助かる親子が助かりゃ国の為 お国の為なら皆で進んで預けませう

表2-5 大正期~昭和初期創立の県下の主な常設託児所

表2-5 大正期~昭和初期創立の県下の主な常設託児所