データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

二 近世の窮民救済

 近世農民の生活困窮

 江戸時代も天災地変の多かった時代で、農民は旱魃・霖雨・蝗害などにより生活に窮することが多かった。享保・天明・天保のいわゆる三大飢饉に代表されるように、江戸時代には全国的な飢饉だけでも三五回を数えるが、農民の窮貧の極には堕胎・間引きによる口べらしがあり、餓死する者も数多くいた。
 「飢饉は二年続く」という諺がある。ある年にひどい凶作に見舞われると、食物が不足して、穀物の値段が暴騰する。穀物の値が高くなると他の物価も上昇するから、農民は種籾をも食べて飢えを凌ごうとする。餓死者が多く出ることから労働力が不足する。従って、翌年に天候がよくなっても、種籾と労働力が不足するから収穫量が減少する。収穫量が減少するから、端境期までは飢えを免れる術もなく、人々は二年続いて飢饉にさらされるのである。またこのような時には庶民の栄養状態も悪く、衛生状況も悪くなるので飢饉と疫病流行とは相伴って起こることが多い。だから飢饉の後には人口の減少がみられるのが通常であった(表1-1)。今日の日本では、飢饉による飢死は考えられたいが、藩単位の経済活動が中心であり、ひとたび飢饉に見舞われると津留を実施するうえに輸送も停滞することがある近世の社会では、穀類が不足する所と余裕のある所とが相隣りする場合もあった。
 このような生活困窮者の増加や餓死者などによる人口減少の原因は単に飢饉によるだけではなく、幕藩体制下の税制・農業政策・社会救済政策などに問題点があったことはいうまでもない。
 当時、農民の負担する貢租には本年貢(本途物成ともいう、田畑の収穫に対して賦課、米や大豆による現物納)、小物成(本田畑以外からの収益に課税した雑税、現物納より金納が多い)、高掛物(田畑の持ち高に応じて課税)、国役や助郷役などの夫役(河川工事などへの労力徴発や宿駅などへの人馬徴発、金納の場合が多い)などがあり、その負担は過重であった。農業が封建社会の基本的生産手段であり、農民が貢租の負担者であったから、身分上は武士につぐ地位にあっても、幕政担当者からは「百姓は飢寒に困窮せぬ程に養ふべし、豊かなるに過れば、農事を厭ひ、業を易ふる者多し、困窮すれば離散す、東照宮上意に、郷村の百姓共は死なぬ様に生きぬ様にと合点致し、収納申し付くる様にとの上意は、毎年御代官衆、支配所へ御暇賜る節仰出されしと云へり」(『昇平夜話』)という考え方で支配された。従って、農民は奸曲な役人に遭えば苛酷な誅求に追われ、ますます窮迫した生活を営まざるを得なかった。
 伊予国では一七世紀前半に幕府の大名配置策のために領主がめまぐるしく移り変わったが、一七世紀後半には、松山藩(家門一五万石)・今治藩(家門三万石―のち三万五千石)・小松藩(外様一万石)・西条藩(連枝三万石)・大洲藩(外様六万石―うち一万石は分家新谷藩へ内分)・新谷藩(外様一万石)・吉田藩(外様三万石)・宇和島藩(外様一〇万石―うち三万石を分家吉田藩へ分知するも元禄九年高直しを実施し一〇万石)の八藩が成立していた。これら諸藩の本年貢は表1-2に示している。「伊予の七ツ免」という語があるが、免一ツは石高一石に対して一斗の税を取ることである。免率は各藩で異なっており、石盛の方法・検地竿の長短・検見の方法に差があるため、農民の負担率を正確に算出することは困難であるが、伊予諸藩では五公五民か六公四民が一般的であった。本年貢以外にも小物成・高掛物などの雑税があり、農民の負担を一層重いものにしていた(表1-3参照)。
 伊予八藩の農民生活については本巻所載「愛媛の社会生活」中の近世伊予の村に詳述されているが、農民の生活困窮は一揆などの発生からも、ある程度は推測されよう。江戸時代と現代とでは社会体制が大きく異なるため、生活困窮の度合いを比較することはできないが、江戸時代の場合には、年貢の増徴に反対して農民が集結する(元和元年宇和郡)・旱害のため減租を要求する(寛永七年久米郡)・飢饉の救済を求めて役人宅へ押しかける(享保八年宇和郡)・年貢の減免や紙専売仕法改善を要求して強訴・逃散する(寛保元年久万山)など、生と死の境に立たされる生活が幾度かあった。こうした中で、宇和島藩の来村騒動における三好四郎右衛門、吉田藩の武左衛門一揆における武左衛門、宇摩郡天領の今城宇兵衛、西条藩の治兵衛・平兵衛など、我が身を顧みず農民のために一身一家を捧げたいわゆる義民の存在があり、それぞれ小祠や記念碑が残されている。

 近世の窮民救済策

 近世社会において、窮乏する人々への救済政策は幕府・諸藩をとわず御救小屋の設置、施粥の実施、救助米の払下げや下付、倹約令布告、米穀買い占めの禁令など様々に実施された。殊に天明の飢饉(一七八一年から一七八八年までの全国的な飢饉、特に奥羽地方の被害は甚大で、津軽藩では二〇万の餓死者が出たといわれ、全国でも約九二万の人口減少をきたした)以降、諸藩は凶荒備蓄制度を充実させた。幕府も老中松平定信による一連の社会政策の中で、貧民救済を制度化し、それは近代的救貧制度につながる点をもちはじめた。寛政四年(一七九二)、松平定信は「窮民御救起立」を献策して、これが制定された。そこには被救助者資格が次のように決められている。

 一、七〇歳より以上にして、夫並びに妻に別れ、手足の働も不自由にして、養わるべき子もこれ無く、見継やる(扶養する)べきものもなく、飢にも及ぶべきもの、
 一、一〇歳より以下にして、父母に別れ、見継やるべきものもなく、飢にも及ぶべきもの、
 一、年若に候へども貧賤なるもの、長病にして、見継やるべきものこれ無き類、

 こうした窮民には町役人などが調査の上、七分金積立(一七九一年、松平定信が江戸の町入用費の節約を命じ節約した金額の七分を窮民救済と庶民の低利金融のために積み立てさせた制度、この施策は近代へと受け継がれた)の中から、手当てを給付することにした。この「窮民御救起立」は江戸時代にあって既に近代的救貧制度といえる一例である。
 伊予国では「窮民御救起立」のようなものはみられないが、郷村や在町・城下町の実情を把握して窮民救済のための種々の方策が講じられている。そのうち、餓死者五、八一八人を出した享保大飢饉時の諸藩の救済策は別格としても、新田開発・池堤築造・川浚えなどの公共的土木事業を行っての夫食米の給与、老病者・盲人瞽女への扶持米給与、難渋者の子弟への養育米給与などの窮民救済策が注目される。また非常時に備えての凶荒備蓄についても、諸藩の囲い米や社倉のほか大洲藩領郡中の「郡中貯」・松山藩久万山の「久万凶荒予備」など、注目すべきものがある。
 江戸時代、窮民救済を任務としたのは郡奉行・町奉行・郡代であったが、彼らの職掌は年貢収納を第一としての民生一般支配であり、救済は、法令の伝達・戸籍・普請・風紀矯正・犯罪人の逮捕や吟味など他の多くの任務のうちの一つに過ぎなかった。大洲藩の場合、郡奉行五名、町奉行一名、郡代二名が置かれるのが通例であった。実際の業務は彼らの下役として置かれた代官や手代によって行われ、大洲藩では五名の代官がいた。

 享保の飢饉と伊予諸藩の救済策

 享保一七年(一七三二)は前年の冬以来気候不順で、五月ごろから雨が多く七月ごろまで冷雨が続いた。低温によって作物の生育は悪い上に、大規模な虫害が発生して畿内以西に大飢饉をもたらした。例年の半作以下の藩は全国で四六を数えた。被害については諸説があるが、全国の被害者数は二六四万六、〇二〇人、餓死者一万二、〇七二名に及んでいる(『日本災異記』)。この虫害の原因についてはイナゴ・ウンカなどの記録があるが伊予ではウンカによる損毛であった。
 「小松藩会所日記」によると、享保一七年七月八日、領内の稲に虫つきが甚だしく、稲を喰い痛めているとの報告があり、翌九日には、稲についている虫が段々と多くなり水田の水が醤油のごとく変色した。村々では祈祷を行い、昼夜虫送りを行った。夜中に松明の灯をかざして見てみると、虫は悉く稲の穂先まで上り稲穂を喰い荒していた。虫はウンカであり、蚊のような大きさで、飛びまわる様は蝉のように見えた。一〇日には、虫喰いにあった稲は段々と腐り始め、収穫は例年の半分という村もあれば、皆無同然の村もあった。それでも農民は虫送りに精を出していると記されている。小松藩では九月一四日に「予州私領地田方虫付之覚」(資近世上七八二~七八三)を幕府に提出し、早稲・中稲・晩稲ともに海岸部や平地部の村々では枯れ、腐ってしまっている。山寄りの村々ではまだ青みの残るものもあるが、実入りが悪く、収穫が平年の一割にも満たない惨状であると述べている。
 各藩ごとに独立した封建経済体制のもとでは、大規模な凶作に見舞われると必ず多くの飢人を出した。表1-4は『愛媛県史』資料編近世上に収録されている「虫付損毛留書」によって、享保一七年一一月から一八年二月にかけての伊予八藩内の飢人と餓死者数をまとめたものである。この数字は飢人救済のための救恤米の下げ渡しを意図して、実際より多く報告されたと思う箇所もあるが、飢人二七万九、三三五人、餓死者五、八一八人を数えている。享保六年の伊予国人口が五〇万四、〇四五人(「近世日本の人口構造」)であるから、実に五五%の人々が飢えに苦しんだことが分かる。
 「享保の大飢饉と松山藩の救済策」(景浦 勉論文「伊予史談」一〇〇号)によると、「松山藩の内で最も災害が激しかった伊予郡松前付近には、遂に野に一草を見出すことが出来なかった。従って食糧の欠乏に苦しんだ農民は、また穀類の騰貴に悩まされ、僅に貯穀せられていた雑穀によって、麦飯、粟飯、大根飯などを炊き、或は葛の根、蕨の根、楡の葉、糠の類等を米穀の代用食として、漸く飢を忍ぶ有様であった。かくして飢餓に瀕した農民の中には、路頭に食を乞ふて、放浪するもの尠なからず」とあり、松山城下では、こうした物乞いをする伊予郡の農民に対して蔀戸をおろして受け入れず、むしろ、このような飢民が多勢やって来るようになると、奉行配下の下役人が取り締まりに当たるようにさえなった。当時の村落には五人組があり、狭い範囲で共同して生きていこうとする風潮もありはしたが、享保の大飢饉という非常時においては、村落の枠を越えて相互に助け合い、ともに生きるという事例はみあたらない。
 松山藩では、このような事態に対処する種々の救済策は実施してはいるが、それは九万人もの飢人と五千人を超える餓死者が出るようになって後の対応であった。このため、藩主松平定英は享保一七年一二月一九日、かねてからの指示にもかかわらず凶荒に対する備えが不十分であったとして幕府から差控えを命じられている。
 この年の九月二三日、翌年の種籾を枕に餓死したという伊予郡筒井村(現松前町)の百姓作兵衛の話は「義農作兵衛」として有名である。作兵衛の行動と百姓魂は当時の人々の心を動かし、松山藩は安永五年(一七七六)六月、作兵衛を追賞して「義農之墓」を建碑した。彼の遺業は今日まで長く伝承され、神号を「瑞穂建功命」として松前町の義農神社に祀られている。
 次に伊予諸藩の具体的な飢饉救済策についてみてみよう。伊予では、享保一七年七月二六日の大洲・新谷両藩を皮切りにして、田畑の作物に虫が付き、それが日増しに多くなったことを主旨とする届を幕府に提出した。同年九月に幕府は被害地の諸侯に拝借金貸与を許し、一二月には飢民賑給奨励を諭告していたから、伊予各藩は拝借金・救恤米を願い出て援助を乞うた(表1-5参照)。救恤米は大坂から宇和島へ運ばれる予定であったが、東予地方の諸藩が深刻な飢饉であったため今治へ運ばれ諸藩に分配された。しかしこの米だけでは飢人を救うには不足であった。今治藩は豪商・豪農などからの臨時御用金や幕府からの拝借金を資金に大坂・尾道などで米穀を買い付け、救済に当てている。
 西条藩では、尾道の天野喜四郎の献策により、享保一八年、飢人救済事業として古浜の東側の干拓工事を実施している。この工事は荒瀬弥五右衛門を中心にすすめられたが、花屋権六は尾道で五千石の米穀を調達し、それを人夫の飯米(夫食米)として施与した。この事業は飢人救済に貢献するところが大きく、飢饉から救済された人々は大いに喜び、この浜を多喜浜と呼び始めたといわれている。
 飢饉の発生は藩財政を逼迫させたから、松山藩・今治藩では人数扶持を実施し、宇和島藩では半知借り上げ、小松藩でも俸禄制限が行われた。これらはいずれも藩士に対して行うもので、人数扶持とは、非常時に一人当たりの食糧配給高を決め、藩士の家族数に応じて俸禄の代わりに食糧を配給する制度である。また半知借り上げは、藩士の俸禄の半分を借り上げるという名目で減額し、残り半分を与える制度である。いずれにしろ、藩士にも生活の切り詰めと合理化を求めて、領民の飢えを救おうとした。ただ松山藩では、幕府からの拝借金一万二千両が救済のために使用されず、当時執政の要職にあった奥平藤左衛門から大坂の豪商平野屋五兵衛に残らず渡すという不始末があった。奥平藤左衛門は享保一八年九月五日、役儀召放しとなり、久万山へ蟄居を命じられた。

 富裕者による飢饉の救済

 一方、民間でも奇特な商人や農民など、生活に多少の余裕がある者が金品を出して飢人を救済した。幕府はこれを友救と称して諸藩に勧めた。「虫付損毛留書」には「救合書付」としてその一部を記録している。天領宇摩郡川之江村百姓惣左衛門は米八〇石を差し出した。これは金額に直すと九一両余りになり、破格のことであった。この外、天領一八か村で大庄屋二人・庄屋七人・百姓二四二人・町人一三人・神主一人・寺五か寺(大町村宝蔵院・上野村心光寺・中村眼寿院・西角野村瑞応寺・新須賀村円福寺)などから、米・雑穀・塩・味噌・芋種など、救恤の金品が差し出されている。
 松山藩内でも久米郡鷹ノ子村の百姓平左衛門や五左衛門らが、飢饉発生から翌年の収穫期まで、鷹ノ子村の飢人に大豆や蕎麦を賑給し、古川村の勘右衛門も村内の難渋者に大麦を一日五勺ずつ賑給した。また小松藩では、領主だけでは飢人の救済が不十分であるから、各所の富裕者も救済に協力すべしとの幕府からの命を受けて、享保一八年一月二九日、「此度之増飢人之義、何分所々ニ而申合、救取候様ニ可仕候」と周布郡内の庄屋に申し付けた。このため翌二月二日から三月にかけて、町年寄や富裕者によって施粥が実施されることになった(資近世上八五七)。今治藩では、飢饉が始まった一七年八月三日、領内今治村の町方五人衆・下弓削村・朝倉上村などの郷方五人衆・宇摩郡六人衆などと呼ばれた富豪を城内に招き、財政の窮状を述べて、臨時御用金の拠出を懇願している。この時、藩が要求した金額は明確ではないが、町方五人衆の一人片山与右衛門が「御用銀九十貫目、右の五人の者へ仰付らる」と記しているから、五人が協力して銀九〇貫目を拠出したのであろう。宇和島藩でも、享保一七年一一月二五日から翌年一月中旬まで城下の無縁者や町方の飢人に施粥を実施したが、藩士・寺院・町方からの友救があり施粥は三月まで続けられている。こうした富裕者による飢饉の救済は享保期に限らず近世を通してしばしばみられた。延宝三年(一六七五)、今治地方に飢饉があり、越智郡朝倉上村の庄屋七右衛門は近隣一五か村に米麦・金銭を与え、翌年、桜井村(現今治市)沖合いの平市島を拝領した。また八幡浜では、延享二年(一七四五)から享和三年(一八〇三)までおよそ六〇年間にわたる災害、飢饉時の救済金穀支出簿ともいえる「永代帳介抱附込座」が残されている。これは当地の豪商米屋善之丞が難渋者に米麦・銭札を施与していた記録である。
 富裕者による友救とは別に、飢饉により餓死した人々を供養する碑や墓石は、五、七〇五人の餓死者が出た松山藩内に多くみられる。浮穴郡下林村(現温泉郡重信町)の「餓死萬霊供養塔」、同郡高井村(現松山市南高井町)の「当郷餓死萬霊」供養塔、風早郡別府村(現北条市)の「為餓死人等菩提也」の供養塔のほか、現在の松山市内では堀江町の光明寺前、平田町の妙見寺境内、安城寺町の安祥寺門前、西垣生町の常光寺境内などに供養塔が建てられている。このうち、堀江町の光明寺前には供養塔に隣接して「追遠之碑」が、餓死者の一五〇回忌に当たる明治一四年に建立され、これが建碑された由来を次のように記している。

  享保一七年は稲虫による被害で飢饉は激烈を極め、藩は手の施しようがなかった。妻子は離散し食うものもなく、草の根・木の皮をかみ飢えをしのいだが、この異常な食べ物で身体にむくみを生じ、あるいはやせ衰え、堀江村でも村人八百余人のうち死者は半数を超えた。藩は大坂から少々の麦や糠を買い求め堀江浦に運んだ。飢人たちはこれを求めて各地から群がり集ったが、途中で倒れあるいは船の入港までに餓死するなど、餓死者は一日に三〇~四〇人に及ぶことがあった。これら餓死者を光明寺の門前に集め埋葬し、これを弔うために建立したのがこの供養塔である。

 伊予諸藩の凶荒備蓄制度

 幕藩体制下、農民は風水虫旱などによる凶作によって飢餓に瀕することが多かった。こうした飢餓を防衛するため、幕府は享保の大飢饉以前から御城米・城詰米などの名称で貯穀を行ってきたが、享保以降も幕領や諸藩に対してたびたび貯穀令を発してきた。
 宝暦三年(一七五三)四月、幕府は諸大名に対し租税収入の一〇分の一の貯米を命じ、宇和島藩は米一万俵を貯穀した。また、松山藩では、幕府が令した安永三年(一七七四)九月の貯穀令を受け、翌四年六月一五日、郷町に対して以後七か年の間に五万俵の貯穀を命じるとともに、藩士の俸禄削減である人数扶持をも布告した。当時の松山藩は、松山新田藩一万石の廃止や城下町の大火によって財政が逼迫していたから、従来、藩の経常費から支出してきた災害や飢饉の救済費を郷町に肩代わりさせ、財政難を緩和しようとした。貯穀の実施は年貢増徴につながるが、藩ではその使途を災害に際してのみ支出されると限定して、郷町の協力のもと五か年で三万一、九一一俵を貯穀した。これら貯穀は実際には籾または銀で蓄え、これを基本財産として利殖を図り、その利息分を救済費に充て、大災害の時には基本財産分をも救済に当てることとした。これらの貯穀は文政六年(一八二三)及び天保八・九年(一八三七・三八)の飢饉救済や困窮者への貸し付けに利用された。
 松山領久万山地方は山間部に位置し、享保年間、ここに二六か村約二万人が生活していた。この地の石高は約六千石(明治四年には七、三〇六石余)であり、農民は厳しい生活条件に置かれていた。しかしこうした環境が同地農民の相互扶助意識を高め、凶荒備蓄制度を発展させた。すなわち安永四年の藩命を受けて貯穀(非常囲籾)を開始し、天保九年(一八三八)には藩庁から下付されたおよそ二九石の米を貯穀に加え、同一〇年にも、久万山の人口減少を防止し人口増殖を図るために下付された米金(明門元備え金)を原資として得た利息で、困窮者を救うとともに家屋を建て農具を整えさせるなどして、農民の没落を防止した。更に弘化二年(一八四五)には「赤子養育米」の制度を発足させ、出産時の救助に供して堕胎や棄児を防止した。その後も災害時に藩から下された金穀残余を風損予備として蓄え(風損元備え)、また産物の売却差益(間銭)を積み立てて留保するなど種々の凶荒備蓄を行った。こうした久万山の凶荒予備制度は明治期になっても、久万凶荒予備組合に継承され、運用形態を変えながら今日に至っている(『久万凶荒豫備組合誌』)。
 寛政年間(一七八九~一八〇一)、幕命に従って藩庫への貯穀を進めた大洲藩は、藩の指導による在中貯えを企画し、寛政五年九月領内の各庄屋と内談して、小田筋(二七か村)、南筋(二八か村)、川筋(二六か村)、内山筋(二四か村)、替地郡中(三四か村)、忽那島(六か村)など郷村集団を一単位とする貯穀を始めさせた。この内、替地郡中(現伊予市・砥部町・小田町・広田村の大部分と中山町・松前町の一部、郡中と公称された)では「郡中貯」と呼ばれる凶荒備蓄制度が発達した。
 郡中では既に宝暦一〇年(一七六〇)に端を発するといわれる「用意麦」が行われていた。これは郡奉行が当時の良好な麦作をみて、この機に凶年の備えや難渋者の救済のために貯穀することを勧奨して始まったもので、村民が十分に協議して村毎に麦を人数割で拠出した。現存の史料ではその断片しか明らかにされていないが、同年七月、伊予郡上野村では村高の〇・二九%に当たる一石五斗の大麦が拠出された。こうした中で、前記寛政五年の貯穀が行われ、この地の備蓄は本格化した。この年の備蓄量は、代官・庄屋らの協議によって各村とも村高一石につき一升程度の出米とし、都合の悪い村は分納でもよいとされた。その後、寛政七年五月になると、郡奉行は村高一石につき一斗の割合で三か年の間に貯穀するよう通達し、これには各村出米量の二割を藩が補助として付加することを約した。
 郡中貯の中で寛政五年の貯穀を「小貯」、同七年からのものを「大貯」と称したが、大貯は享和三年(一八〇三)の暮れには約二千石に及んだ。これら貯穀は貸し付けなどの方法で増殖されたが、新米入れ替えに当たっては米相場を利用して新たな利殖を得、それを資金として更に米穀を買い入れ、これを「浮米」として小貯・大貯とは別の帳簿に記載した。その後文化四年(一八〇七)にも、藩が破産に瀕する庄屋を救済しようとして下付した元立米三〇〇石に浮米の口座から一〇〇石を加えて「郷約米」を発足させるなど、郡中貯は天保五年(一八三四)までに七種の貯穀を行うようになった。これらの金穀は凶荒対策を目的に蓄えられたものではあるが、実際には米穀運用により郡中村民の共有財産を増殖させ、これを低利金融や窮民救助にも利用された。なお、郡中貯は久万山の備荒制度同様、明治期になっても共有物組合として存続した(『大洲藩の凶荒備蓄制度』)。
 松山城下の町年寄らが文政三年(一八二〇)一月、町方貯銀一千両を町奉行所に預けたという記載は「松山町鑑」にみられるが、文政一二年には、町奉行井上團右衛門、大年寄河内屋源五兵衛らが発起人となって社倉を創設した。これは救荒銀とも称され、一家が一日一銭ずつを拠出して金銭を貯え、非常時に難渋者を救済しようとするもので、趣旨に賛同する者は誰でも参加できた。救荒銀の運用や救済例は不明であるが、天保三年(一八三二)までの社倉金高は五五四両余になっていた(『松山叢談第十二中』)。

 座頭・瞽女米と養老扶持の給与

 座頭とは、中世以来琵琶法師など当道仲間(盲人の職業を保護をする座)に入った盲人の四官(検校・別当・勾当・座頭)の一官位であるが、盲人の通称として用いられることが多かった。瞽女も音曲をもって貴紳に侍した盲女を御前と呼ぶのに由来するといわれるが、一般には三味線や歌謡をもって門付け遊行した盲女のことである。江戸時代、幕府申諸大名は盲人を保護するため、高利貸しの営業を認めその貸し金を官金と称して利を収める特権(座頭金)を与えたり、瞽女仲間に遊芸の道を保障したりした。
 伊予では、座頭金の記録はないが、元禄一一年(一六九八)三月二八日、吉田藩が「座頭養米規定」を定めている。これは、盲人が吉凶の占を業として隣国まで往来して布施を乞い、特に米麦の豊かな秋に在郷の家々を回り、農民に迷惑をかけることの防止策として規定したものであった。規定では、この年より毎年領内から米二〇〇俵を藩蔵に納めさせ、座頭には一人五俵、盲女には一人三俵ずっを毎年「養米」として給与することにしていた。当時、吉田藩領内には座頭二八名・盲女六名がいたが、盲者であることを証明する手形に庄屋が加判し、代官の奥書判を添えてあれば、養米が給与されることになった(「浦上家文書」)。
 大洲藩でも寛政期(一七八九~一八〇〇)の末に、座頭・瞽女の仲間に入ることを望む者は代官の許可を得て、座頭年行事へ申請書を提出すべきことが通達された。その請合証文雛形は村方三役の名前で座頭年行事へ提出され、それが認められれば、座頭としての生活が保障されることになっていた(「有友家文書」)。
 こうした盲人盲女への養米給付は伊予諸藩で実施されており、明治維新に際しても継続される旨の布告が相次いで出された。しかし盲人養米を領内の農民から徴収することは、農民には負担増であった。このため、明治三年三月の三間騒動では、農民の各種貢納減免要求箇条の中に「盲人養米引捨之事」がみえる。農民の要求に対して吉田藩庁では、直ちに盲人米の給付を廃止したのでは盲人がたちまち飢渇におよぶとして農民の要求を棄却している。宇和島藩では明治三年一二月、盲人盲女扮抱米の給付継続を布告するとともに、村浦役場での飯宿を乞うことを禁止し、松山藩では明治四年四月、明治新政府が出した「座頭瞽女救助布告」を領内に伝達し、領内から取り立てた米麦に政府の補助米を加え、盲人や瞽女に一定の救助米を給与することにした(資幕末維新一六九・七七七)。
 大洲藩では三代藩主加藤泰恒の治世(一六七四~一七一五年)に老人麦の給付制度が開始されたといわれる。老人麦とは、郷中に親・子・親類など扶養してくれる者がいない老人や、病気のため就業できない老人に、藩より恵与される手当てのことである。当初は老人麦の名のごとく麦の現物給付であったが、後には麦代給与に変わった。給与手続は、庄屋が事情を代官に具申して認可を得るが、男子(制限年齢不詳)は銀札二五匁、女子が二〇匁の給与を受けた。給与額はその後、女子のみ一八匁に減額されたが、大洲藩では明治維新まで、一村で二~五名の無縁老人が老人麦の給与を受けており、今日の老人福祉年金制度の先駆的施策として注目される(桜井久次郎著『大洲藩の凶荒備蓄制度』)。
 大洲藩の場合とは若干様相を異にするが、長寿者を褒賞する意味で養老米を給付したり敬老の催しが行われた例は伊予各藩にみられる。文化一〇年(一八一三)五月二四日、儒学の素養が深い町奉行宇佐美淡斉の発案により松山藩内の三津で「養老の礼」という催しが行われた。これは、父母への孝養をおろそかにし各自が得手勝手な生活をする世相を憂い、「国中の者に父母をはじめ目上の者を大事にせよと教る為」に企図した催しで、当日、町会所に町方の八〇歳以上の男女約五〇名を招待して、その長寿を敬賀した。養老の礼はその後「養老の典」などの名称で松山城下や在郷で実施された。また、松山藩に限らず、藩主や巡見使が領内を回領する際には、各地で長寿者が召し集められ、巡見使より種々の褒美を受けるとともに慰労の言葉をかけられることが多かった(『松山叢談第十中』)。
 文政年間(一八一八年~一八三〇年)、西条藩では九〇歳以上の「極老者」に養老米給付を布令した。藩内の該当者総数は不明であるが、船木組(船木・中村・上泉川・下泉川・金子・新居浜)では該当者が三名あった。郡奉行は、これら長寿者に「右の者ども今年九十四歳に相成候由達御耳、長寿之段御満足に被為思召候、依之、為養老年々米二俵宛被下置候」と申し渡すとともに、その家族へは「介抱の儀、廉抹の取扱いこれ無き様相心がくべく候」と命じている(『新居浜市誌』)。
 慶応四年(一八六八)八月、新政府は「養老之典」を執行し、八八歳以上の者に二人扶持、一〇〇歳以上には三人扶持を給与することを諸藩に布告した。このため明治二年一一月、伊予各藩や天領内の高齢者数調査が行われた。この調査結果は旧藩史料として愛媛県立図書館に収蔵されているが、この内、「預所布告控」に記された旧天領内の高齢者数は表1-6のごとく一七名(女一二名、男五名)で、それは人口の〇・一%にも満たなかった。なお、この時伊予国の最高齢者は一〇二歳の女性(宇和島藩内磯崎浦 ふゆ)で、一〇一歳の女性(同藩内真網代浦 里の)がこれに続く長寿者であった。

 生育米と棄児養育

 江戸時代、多くの子供を養育し生活に貧する農民や孤児を養育する者に対して、生育米・養育米などと称される一定量の金穀が支給された。天保一五年(一八四四)二月、大洲藩内の鵜ノ崎村庄屋が村内の「極難者」三家庭の救済を年行事に願い出た。ある家は六五歳以上の老人二人と二歳から一一歳までの子供四人を養う高一石余の貧農で、他も前者と同様の「今日之暮方六ヶ敷候者」や両親の離婚によって他家へ預けられた乳児の救済を嘆願したものであった。大洲藩での生育米給付の起源は不明であるが、各村の庄屋が生育米を必要とする者の実情を毎年二月末までに年行司庄屋(生育方)へ具申して、認可された者へは三月中に給付が行われていた。生育米は二歳から四歳までを対象として支給され、その額は家庭状況によって差があり、米一斗から四斗までの間であった(桜井久次郎著『大洲藩の凶荒備蓄制度』)。
 松山藩領風早郡の山辺の村々では、従来から稲の植え付けが思うに任せぬほど人口が少ない「高欠ヶ所」がみられた。松平定通の治世(一八〇四~一八三五年)に風早郡の代官になった広橋太助は、この地の貧民が堕胎を行っていることが人口寡少の一因だとして、養育米給与の制度を始めた。彼は村内の富裕者を諭して出銀させ、これを原資とする利息を、貧農家に出生者があった場合一人一年間米一俵ずつを三年間扶助する費用に当てた。この制度の実施に伴い、風早郡では堕胎する者がなくなり人口も漸増していった(『松山叢談第十二中』)。
 捨て子の養育についてはその具体例を示す史料を欠くが、明治三年四月、飢饉下の旧天領各村に布達された「棄児厳禁の告諭」には、捨て子は生活困窮のためやむを得ないこととは思うが、「天地生々ノ理ヲ忘却シ、人道ヲ取失ヒ、鳥獣ニモ相劣候所業」であり、その父母はいうまでもなく親戚をも処罰する。しかし極窮者で村内でも十分撫育できない場合には、「篤ト御詮議之上、育院へ御引取、相応御救助モ可被仰付候」との記載があり、土佐藩預り支配にあった川之江村近隣に育院があったことが知られる(資幕末維新四五六)。なお、当時一般的には捨て子の養育は費から支出されているようで、西条藩の「村方諸入用取扱」通達中に「捨子養育諸入用」の記載がある。

 幕末維新期の窮民救済

 ぺリー来航以後、我が国の政局は急激に変化し、やがて明治維新、版籍奉還、廃藩置県の断行と推移した。こうした情勢下、伊予でも安政大地震・洪水・コレラ大流行・長州出兵に伴う社会混乱・飢饉の発生・物価の高騰などがみられ、多くの窮民が出現した。
 嘉永七年(安政元年 一八五四)一一月から数度の大地震に見舞われた小松藩では、罹災者に救助米を施す一方、安政二年(一八五五)一〇月には囲籾五〇〇石を整える準備に入った。大洲藩は地震・肱川の洪水とそれらの復旧費によって財政難に陥り、安政三年四月から七年間の厳しい倹約令が家中に発布され、郷町に対しても五か年間の各種倹約が指令された。宇和島藩では地震による罹災者を救助するため嘉永七年一一月、救助小屋を建てて施粥を行い、吉田藩でも崩壊した家屋を片付け、そこに小屋掛けして焚き出しを実施して被災民を救助した。
 文久年間(一八六二~一八六四年)から明治初年にかけて穀類の高騰と旱魃のために、町人・農民が共に困窮した。松山藩では文久元年三月、城下の「極々難渋者」九〇人に一人につき一日三合の白米を施すとともに、難渋者には米の廉売を続け、大洲藩領の郡中では細民救助のため、波止場に堆積した砂除き作業を行い、これに参加した細民には一人三匁を限度に賃銭を払うとともに、一日二度、粥と味噌汁を与えた。この救済事業は三か月続けられ、毎日二五〇人前後が参加した。
 災害復旧や窮民救助に充当される伊予諸藩の出費は各藩の財政難をもたらした。宇和島藩は安政大地震被害の復旧に人夫延ベ一四万人余を要し、その夫食米として二、三八〇俵余(銀札にして一四二貫八五六匁余)を軍用金の備蓄から取り崩して支出した。こうした状況は今治藩でも同様であったと思われ、村費などをもって行ってきた飢人、難渋者、病難火難者などの救済が十分に行えなくなり、万延二年(一八六一)、一部の村々に「もやい」(頼母子)を奨励して、領民が藩の救済に依存せず、村内の共助によるべきことを強調した。
 明治二年は戊辰戦争で多額の軍費を必要としていたうえに数十年来の凶作に見舞われ、農村は疲弊の極に達した。今治藩内では「麦糟ハ勿論、藁ヲ食スルモノアルニ至リ」(「国分叢書」巻五)、藩庁では財政逼迫の中、施粥を実施するとともに物乞い禁止や各村内相互助け合いを通達した。慶応二年の大水害に続く明治二年の凶作で、土佐藩支配下にあった旧天領内川之江村でも多くの難民が生じた。この村では、三好半兵衛、窪田多兵衛、進藤友助ら富裕商人二六名が一八〇両を投じて窮民救助小屋を作り、村民一六二名が拠出した百石余の米を分与した(進藤直作著「伊豫川之江村の研究」)。
 こうした中で、種々の救助を受ける者に対する今治藩庁の考え方は注目される。明治三年三月、郡政役所から布告された飢え扶持受給者への「渡世心得」には、救助を受ける者の中には病苦が続いて生活に窮する者もいるけれども、平生の働きの悪さから生活難に陥った者は義理にも人並みの暮らしをするべきではない。今後、飢え扶持を受ける者は次のことを厳守しなければならないとして、(1)住居に畳を用いず莚を用いること、(2)食物の煮焚きに鍋釜を用いず土鑵子(土製の湯沸かし器具)を用いること、(3)下駄・傘・雪踏(雪駄)・羽織・足袋を用いないこと、(4)飢え扶持受給期間は役所から渡される白木綿切れを上着の左襟へ縫い付け、それを着用することの四か条を布告した(資幕末維新二八三)。
 なお、明治二年一〇月の松山藩における「公入用」予算案の中で、「貧民救助・撫児・養老」のための歳出高は一、四四七石九斗余であり、これは歳出高の一・五%であった。

表1-1 江戸・大坂・伊予国の人口増減

表1-1 江戸・大坂・伊予国の人口増減


表1-2 江戸時代(幕末)伊予八藩の免率一覧

表1-2 江戸時代(幕末)伊予八藩の免率一覧


表1-3 小物成・高掛物の種類(大洲藩の場合)

表1-3 小物成・高掛物の種類(大洲藩の場合)


表1-4 享保の大飢饉における飢人・餓死者数(享保17~18年)

表1-4 享保の大飢饉における飢人・餓死者数(享保17~18年)


表1-5 享保の飢饉における伊予各藩の主な救済策

表1-5 享保の飢饉における伊予各藩の主な救済策


表1-6 旧天領内における高齢者(明治2年11月調)

表1-6 旧天領内における高齢者(明治2年11月調)