データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)
一 古代・中世の慈善救済
古代社会の慈善救済と伊予
古代社会において、生活困窮者に対する援助は慈善救済事業が中心であり、皇室・高僧・篤志家による賑救の事例が多い。聖徳太子は四天王寺に四箇院(敬田院・悲田院・施薬院・療病院)を建てたと伝えられ、光明皇后は天平二年(七三〇)に施薬院を設けて薬草を病人に施し、孤児を収容する悲田院をも設けた。また、光明皇后は貧しい病人の垢を洗い、癩病患者の膿を吸い取ったという話も伝えられている。高僧による社会救済事業の中では、奈良時代の行基、平安時代の空也などが池溝や橋を築造した話が有名である。また香川県の満濃池を修築し済世利民にも意を用いた空海については、愛媛県内にも大師泉の伝説が残されている。
大宝元年(七〇一)に制定された大宝令では、村落共同体の相互扶助や家族内での相互扶助機能を拡大して、鰥(六一歳以上で妻のない男)、寡(五〇歳以上で夫のない女)、孤(一六歳以下で父のない者)、独(六一歳以上で子のない者)、貧窮(財貨に困る者)、老(六六歳以上の者)、疾(廃疾者)を救済する規定を設けている。これら鰥寡孤独貧窮老疾者はまず近親者に扶助させるが、近親者がない場合は隣保扶助とした。
古代社会での備荒制度には義倉がある。養老二年(七一八)に制定された養老令の義倉の条では、一定身分以上の者から粟を納めさせ、それを各地の国衙の倉へ貯え、飢饉に備えさせることを規定した。また天平宝字三年(七五九)には、常平倉を設けて穀価の安定を図り、諸国から上京した運脚夫に穀物を賑給しようとしている。このような律令政府の諸社会救済策が伊予国でどのように展開されたか、まだ分からないことが多い。
律令体制下の伊予国は一三郡(八六六年以降は宇和郡から喜多郡が分立して一四郡)に分かれていた。これら各郡の郡司は、中央から下向して来る国司とは異なり、地方の有力者の中から任命された。彼らは徴税や勧農などの民政面を主な職掌としていたと考えられ、農民の直接的な行政官であった。当時、困窮した農民に稲や粟の種子を貸し付け、収穫期に利息をつけて返還させる出挙という制度があった。これは本来、救貧・勧農を目的とするものであったが、後には義倉などと同じく雑税の一種となり強制的に貸し付けられ、その利稲は農民の負担となったとされている。伊予国では九世紀に七四万束に及ぶ出挙稲が計上され、郡司によって運用がなされていた(『愛媛県史』古代二・中世)。
古代社会では、天候不順が続くと農民は飢餓に陥り、また疫病の流行などに苦しむことが常であった。『続日本紀』によると、「天平宝字七年八月辛未朔、(中略)去歳は霖雨、今年は亢旱にして五穀熟らず、米価踊貴す、是によりて百姓ことごとく飢饉に苦しみ、これに加えて死亡数多し、朕これを念う毎に情深く傷惻む。宜しく(中略)今年の田租を免ず、一四日、丹波、伊予二国飢へ、ともにこれを賑給す」とあり、六国史には、七世紀末から九世紀中頃までに、伊予国ヘ一四回の賑給があったことが記されている。また宝亀一一年(七八〇)には、越智郡の越智静養の女が、困窮した農民一五八人に物資を施して爵位を賜った記録や、嘉祥三年(八五〇)には、鴨部福主・力田道吉らの篤行についての記録もある。
中世の救済事業と伊予
鎌倉時代に入っても天災・飢饉・疫病は毎年のように襲って来た。荘園領主や在地の地頭の中には、領主意識の高まりとともに自己の支配する荘園内で、撫民思想のもとに窮民の救済に当たる者もいた。寛喜二年(一二三〇)の大飢饉に際して、執権北条泰時は出挙米を主とする飢民救済や流浪者のための救済場を設置した。この時の布告は伊予国にも及んでいるが、救済の実情を示す記録はない。鎌倉後期に至り幕府の統制力が衰退してくると、農民は守護代・地頭・名主層などによる土地争奪の争乱に巻き込まれ、また既成の秩序を無視した活動をする者(悪党)による強奪・殺戮も加わった。
平安末期以来の社会不安と旧来の仏教の腐敗を背景にして、武士・農民・商人層に受容されたいわゆる鎌倉新仏教の開祖たちは慈善思想にも基づいた布教活動を進めた。伊予の部将河野通広の子、一遍は親鸞の悪人正機説を更に進めて、善人と悪人との区別もない完全な平等観に立ち遊行した。念仏を唱えて我を去れば、この世はすべて極楽であり、乞食も非人も癩患者もこの極楽へ往生できると説き、説教した先々でいただく供養の食べ物を、飢えた人々とともに分かちあった。彼は、奈良に北山十八間戸を建てて社会救済を行った忍性のように形ある事業を残してはいないが、一遍の思想や行動には現代に通じる社会福祉的観念がある。
南北朝の動乱の中で、守護や武士による荘園の侵略が激しくなり、従来の荘園領主の支配力が弱まると、荘園制の枠を超えた新しい村落(惣村)が形成された。自治的に結合した惣村では隣保の団結として結(田植えや屋根ふきなどの際の共同作業)、相互扶助として頼母子・無尽などの講が多く結ばれた。しかし同時に村落共同体から放出された浮浪者・年貢未進者、飢饉による離村者などは都へ流れ込んでいくことになった。伊予国でも生業を捨てて上京する者があり、元弘三年(一三三三)七月には上京を禁止すべき旨の勅命が伊予国へも下されている。
室町幕府によって任命された守護大名が応仁の乱(一四六七~一四七七)以降の長い戦乱の中で没落し、その後に戦国大名が出現した。彼らの中には富国強兵の観点から分国内の民政安定に尽くした者が多い。上杉謙信は凶作の救済と備荒貯蓄に努め、武田信玄は釜無川に信玄堤を築いて治水に意を用いた。
当時、伊予国では、河野氏宗家と予州家の分裂に加え、南予には西園寺氏、新居郡以東には阿波の細川氏が割拠し、それぞれの支配下にある部将(土豪)によって勢力争いが続いていた。その後も豊後の大友氏・周防の毛利氏・土佐の長宗我部氏などの伊予侵入が続き、農民は戦乱の中で業にいそしみ、自らの生命を防衛した。
この時期の社会救済についてもまだ解明が進んでいないが、天正元年(一五七三)の旱魃に際して善政を施した部将もいる。大森城(北宇和郡三間町)城主土居清良をめぐる軍記物『清良記』に「清良撫民事」と題する項がある。天正元年、西日本一帯は大旱魃で稲麦はいうまでもなく草木も枯れて、秋には路頭に餓死する者が多かった。百姓のみならず歴々の侍もみな葛や蕨の根を掘って食用にする有り様であった。この時、清良は家臣の松浦宗安(『清良記』全三〇巻中第七巻の「親民鑑月集」は我が国最古の農書で、彼の農村研究の成果をまとめたものといわれる)に、飢饉に対する善後策を尋ねた。宗安は、農民は今を生きるために葛や蕨を掘っているが、いつまでも農作業を投げ出していてはならない。まず第一に早く田畑を整えて麦を蒔かなければ、来年の収穫に間に合わなくなる。足軽衆を加勢させてでも麦蒔きをすべきであると答えた。城主の土居清良は足軽のみならず近習の者まで五百余人を駆り出して、十一月には麦蒔きを終え、十二月・正月には領内の民に米を施したことが記されている。
また轟城(川之江市金田町)城主大西元武は天正二年の旱魃に際し、「民ノ飢渇ハ我が心腹ノ愁ナリ」との気持ちで領民に救済米を与えたため領内に餓死する者は一人もなかったといわれる。飢饉に際しては各所で出米を乞う農民はいるものだが、戦乱の世であるため誰一人としてこれを救う将もいないが、備中守(大西元武)は何と仁徳の深い武将であろうかと「大西軍記」には記している。こうした記録は部将の武徳を顕彰するために書かれたものが多いから、史実としては十分な吟味を必要とする。しかし清良神社・大西神社などが今日も祀られ、敬慕されていることは注目に値する。