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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

第三節 農業開拓移住

 宇摩団体

 宇摩郡では、屯田兵移住とともに農業開拓を名目とした一般人の移住入植も見られるようになった。『屯田兵と北海道移住者たち』(昭和五九年刊)を発表された三宅杣雄氏の調査によれば、宇摩郡の土居町では、明治二二年野田の続木岸太郎が美唄に入植したのを最初に、二五年に五戸、二六年に五戸、二七年に八戸と次第に増加、以後大正一〇年までに二八八戸・一、二五八人余、屯田兵移住四五戸・二二八人を加えると、三七八戸・一、五八八人余の人々が移住している。
 明治二八年には、土居地区から四一戸の団体移住が実行された。通称「宇摩団体」といわれるこの集団は、野田八幡宮の神職真鍋家薫を団長にして野田・藤原・津根の人々が雨竜郡多度志村(現深川市)に集団入植した。真鍋は第二次移住募集で帰郷したが、目的を果たせず愛媛丸で帰道中発病し死亡した。残された移住者は協力して刻苦奮励、生計を維持する目途が立った明治三九年に宇摩神社を創設して真鍋ゆかりの野田八幡宮から分霊、昭和九年同神社境内に開拓記念碑を建てた。昭和二六年にはその子孫たちが、宇摩団体六〇周年記念式典をあげて、祖先の労苦をしのんだ。

 東伊予団体宮崎春次

 宇摩団体入植の翌二九年、中之庄・豊岡・中曽根村(現伊予三島市)の「東伊予団体」三五戸が北海道に移住した。その総代人宮崎春次は、中之庄村出身で村会議員その他の公職にあったが、北海道開拓の希望を抱いて、明治二七年一一月郷里を出発して小樽に上陸、滝川・雨竜・に上川地方を視察調査して二八年二月帰郷した。宮崎は開墾には団体移住が有利と考え、大阪から購入した幻燈器械を携えて中之庄と隣村を巡歴、北海道の将来有望なことを説いて回った。中之庄村長高倉要の助力もあって希望者が続出したので、同二九年三月五五戸の団体を組織して知事の移住許可を得た。団体構成員の多くは、自作兼小作もしくは小作農であったが、家屋を売却して多くは一、〇〇〇円、少なきは六〇円の資金を携え、第一次移住者三五戸・一七五人が郷里を出発した。三島から和船で多度津に至り、十数日船待ちしたが、出航する船がないため坂出港に至り、同地より直航して小樽に上陸、汽車に乗って滝川で下車、付近の家屋を借り共同自炊をして滞在した。宮崎春次はかねて一已村の多度志原野への入植を出願していたが認可されず、五月に至り北竜村(現深川市沼田町)のバンケボロマップ原野の貸付を受けた。しかし農耕の季節が切迫して新開地に入っては、その期を誤るおそれがあったので、団体員は一時菊亭農場の土地を借り、食料作物を播種して飢えをしのぐことにした。
 七月になり、屈強な者一五人が樹木・大笹にはばまれ、蚊虻の群集に悩まされながら三日を要して目的の原野にたどり着き、掘っ立て小屋を造った。一二月一同は借用農場で収穫した食料品を携帯して、貸与地に移動、冬季の厳寒の中樹木の伐採に従事した。翌三〇年四月第二次移住者二〇戸がこの地に到着、着々開墾地を広め、一戸一町歩近くの作付をしたが、鼠害を受け少しばかりの収穫を得ただけで、食料を貯蓄することも出来ず、すこぶる困窮を極めた。宮崎春次は私金を投じて米を購入して、各戸に配当した。人々は一日一人米三合にワラビ・ウバユリなどを混ぜたものを常食と定めて励まし合った。秋季に至りようやく食料を収穫して売却、相当の収入を得、初めて愁眉を開いた。やっと開拓村での生活が軌道に乗ったこの年の一〇月、心労が重なって宮崎春次が病没した。東予村民は春次の長男萬太郎を総代人に選び、①毎年一戸二円あてを拠金して伊勢講を組織する、②家屋の改築・新築は共同で弁ずる、③善良の風儀を維持し、賭博をせず、税納を怠らない、④みだりに負債せず、酒を慎む、などの団体規約を定めて春次の恩に報いようとした。こうした団結・努力が実って、明治三四~五年に貸付地全部を私有地として付与された。更に付近未開地の開墾を進めて、三九年時には団体員所有地積三〇四町三反歩、貸付地は二七町九反歩に膨れ、馬四〇頭を持ち、西洋式諸器械を用いて耕作するまでになった。
 明治三三年以来の伊勢講で移住者は交代で郷里の墓参に帰り、親戚知人に北海道での成功を語り、将来の有望を説いて勧誘したところ、毎年帰道時に四~五戸が随行して来た。同三九年時には先住民合わせて六九戸・約五〇〇人が東予村を形成していた。人々は良く和合し、勤勉節約を旨として貯蓄に努め、日露戦争中に軍事公債の応募額一、四〇〇円に達した。また、同三二年には多度志に通ずる道路を総出で開削、三三年には近隣農場の水害救助として二〇俵の麦を寄付、三四年には子弟の教育のため簡易学校を建設開校した。東予団体が成功するに至ったのは、「総代以下協力忍耐業務に精励せし結果にして、付近農民より模範的農耕地の評を受くる」と、道庁の明治三九年九月「移住者成績調査」でその事績が顕彰されている。
 東予団体と前述の宇摩団体は雨竜川をはさんで向かい合っており、互いに交流両団体の勧誘呼び寄せで、北海道に移住する宇摩郡の人々は跡を絶たなかった。表3-3の明治三四~四四年の移住統計によると、宇摩郡が全体の三一・六%を占め、隣りの新居郡の二六・二%を加えれば、全体の五八%近くに達した。なお、この時期の本県北海道移住数は一年平均二一四戸・八六九人で、府県中一五番目であった。

 篤農慈善家重延久太郎

 北海道庁発行の明治四一年三月「移住者成績調査」で、前述の井原彦太郎と共に模範開拓者として紹介顕彰された本県出身者に重延久太郎がいる。弘化二年(一八四五)野間郡松尾村(現菊間町)で生まれた。農をもって家業としていたが、土地を所有せず貧困の生活であった。弟伊平が近隣浜村の重延テイに入夫し卯平が生まれたが病死したので、久太郎は重延の家に入り、卯平を養育することになった。ここでの生活も苦しく、農業のかたから沖合漁業などに従事、時には田舎相撲取りとなって出稼ぎをした。たまたま人から北海道開拓の有望なことを聞き、明治一五年五月妻子を伴い単独渡航して小樽に着いた。糊口の資金を得るため、札幌郡白石煉瓦工場で労働に従事、やがて友人に勧められて開墾小作人に応じ、豊平村平岸(現札幌市)の未墾地を借り受けて、丸太小屋を造り、妻テイと共に力を合わせて手鍬をもって開墾に従事、蔬菜を栽培して妻がこれを札幌の町でさばいた。このとき町でとうきびを焼いて稼いだのが、札幌名物焼とうきび元祖といわれている。夫婦力合わせての精励努力で二年間に二万坪を開墾、地主の計らいで、年賦代金でもってこの地を所有することになった。その間豊平から平岸に通ずる道路一、九四〇余間を夜間独力で拓き、沿道移住者に便益を与えて感謝された。また、二二年豊平付近に流浪していた移住集団五〇余人のために施しを与え、役場に再三掛け合って夕張郡長沼村に貸与地を確保、生活費にと私財を投じ、これらの人々から慈父のごとくあがめられた。こうした義侠の行為を繰り返し、そのためにしばしば負債の肩代わりを背負わされたが、札幌の資産家から愛されて支援を受けた。慈善家として知られるようになった久太郎は道庁・役所からも再三褒賞を受けた。

 加藤農場

 北海道開発の将来性を見透して、華族や資産家が投資して大農場経営をしたことはよく知られているが、大洲の旧藩主子爵加藤泰秋の経営した農場もその一つであった。加藤農場は、明治二五年虻田郡虻田村(現虻田町)洞爺湖畔字ホロナイに八万七千余坪の貸下げを受け、二八年には更に五三万余坪の貸下げを得て開墾に着手した。小作者は香川県民が多く、洞爺湖に面しはるかに有珠山噴火を望む風光明眉な所であった。加藤家はその後近くの真狩字ルスツの六四万七、九〇〇余坪を購入して小作農業と牧畜を営んだ。

 近藤農場

 この農場は中川郡下名寄村美深原野(現名寄市)に設置された。農場主近藤直作は、周桑郡国安村の人で紙商を業としていたが、明治三二年渡道して商取引をし、三五年七月この地に四八万余坪の貸し付けを得て小作人を募集して農場を経営した。当初は密林で小作に応ずる者もなくすこぶる困難をきわめたが、同三六年郷里から小作人を迎えてようやく開墾を始めた。同四一年八月ようやく整地に成功して付与処分を受け、九八町歩を近藤が所有、五七町歩を小作人に配分した。

 愛媛団体

 近藤農場の開墾小作のために北海道に渡った移住者は近藤直作の郷土周桑郡の人々と推察される。この周桑郡から大正五年吉岡村(現東予市)二九戸が「愛媛団体」として北海道の奥地常呂郡武華村の上ポンムカ原野(現留辺蘂町)に集団入植した。これを勧誘したのが同村出身の曽我浦三郎で、明治末期に渡道して常呂村に住み木材業者として羽振りをきかしていた。曽我は郷里では北海道成功者と風聞されていたので、帰郷して弁舌を振るうと多くの者が移住に応じた。団長には宮田仲太郎が選ばれ、三九世帯一二○人が二月に故郷を出発した。一行は今治から尾道に渡って途中東京見物をして、一週間目の二月一二日にポンムカ駅に着いた。北海道の汽車は遅く、深い雪に閉ざされた原野と肌をさす寒気で、暖国から来た移住者は今更ながら望郷の念にかられたという。翌日入植地の地番割当て抽籤があり、それぞれ掘っ立て小屋に落ち着いて雪に埋れながらの伐採に着手した。四月二二日北海道庁長官俵孫一がこの地を訪ね、愛媛団体を慰問激励した。これを記念して愛媛団体は氏神を祭る玉甲神社を創建、長官がその大額を書いた。
 移住一年目で苦難の中にも何とか自給生活が出来るようになったが、開墾してみると南北いずれも高台傾斜地で岩盤地帯が多くて農耕に適さないことが判り、入植四~五年で他所に転出、または挫折して帰国する者が半数に及んだ。団長であった宮田仲太郎は入植地を離れようとする仲間を慰留しながらここで三〇年間頑張り続け、その間、町会議員にも選ばれた。やがて老齢に加えて糖尿病に苦しむようになり、やむなく長男の居る今治に引き揚げたが、再び北海道に舞い戻り昭和三年七二歳でこの地に没した。苦労して開墾した農耕地も、再び荒廃し、移住団のうち定着農家は八戸に減少した。
 このほか、愛媛県からの集団農業開拓移住者には、明治二八年上川郡鷹栖村、大正六年勇払郡占冠村などに入植したことが北海道の史料にかいま見えるが、その出身地区や移住状況の詳細は分からない。これまで略述してきた農業開拓移民団の入植場所を図示すると図3-5のようである。

表3-3 北海道移移住民の変化

表3-3 北海道移移住民の変化


図3-5 愛媛県人の北海道団体移住入植図

図3-5 愛媛県人の北海道団体移住入植図