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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

第二節 屯田兵移住

 屯田兵の設置と公募

 蝦夷地=北海道には、明治維新期、旧会津藩士伊達邦成とその旧臣、淡路島の稲田邦植とその旧臣など、主として戊辰戦争で朝敵であった諸藩の士族が移住して開拓の先駆者となった。明治六年、開拓使次官黒田清隆は右大臣岩倉具視に屯田兵制度の創設を建議し、翌七年に「屯田兵例則」が制定された。屯田兵設置の目的は、対外的には北海道をロシアから防衛するための軍事力として、国内的には士族を移住させることによって士族授産の道を開き、不平反抗の可能性を阻止し、同時に警察力の不備な新開地北海道の治安維持に当たらせるという多方面の効果をねらっていた。
 屯田兵の応募資格は一八~三五歳までの身体強健な士族で、合格者には移住支度料・旅費・家屋の外「官給品」と呼ばれる家具・農具・種子などが支給され、入地後三年間は米や塩菜料が配給された。給与地は当初五千坪であったが、のち一万坪に増加した。銃器類は官から貸与された。屯田兵の編成は、連隊―大隊―中隊―小隊―分隊―伍に組織され、日常活動の基本は、伍からなる分隊に置かれていた。屯田兵は、その名のごとく、平常は開拓・農耕に従事し、有事の際は兵役につくことが義務づけられ、軍事訓練が定期的に実施された。
 屯田兵の募集は明治八年に開始され、一〇年代の五年間を除いて明治三二年まで実施されて、合計七、三三七戸、三万九、九一一人が移住したといわれる。明治八~一七年には青森・酒田・宮城の士族屯田兵が札幌琴似村に入地したのを最初に、東北地方を中心に募集された。明治一八年「屯田兵条例」が制定されて屯田兵の増加募集が行われ、中部・中国・九州ついで近畿・四国にも拡大した。同二〇年愛媛県からも屯田兵が初めて北海道に渡った。
 明治一八年二月一八日、愛媛県当局は県布達でもって「各府県士族ノ輩北海道移住志願ノ者ハ本年ヨリ往キ五ヶ年間ニ於テ徴募シ屯田兵ニ編成」するので、県下士族中年齢一七~三〇歳で身体強壮の条件を満たす志願者は、戸長役場で心得書を閲覧熟知して戸籍写しを添え、願書を差し出すよう告示した。この年には公募に応ずる士族はなかったが、翌一九年に至り県士族の集団(旧丸亀藩士?)が屯田兵を希望した。県は一〇月一四日に「明治二〇年屯田兵徴募手続」を伝達して一二月五日室でに所定の願書を提出するよう指令した。筒井孝次郎以下四三戸の士族は、同二〇年五月室蘭兵村(輪西)に入村した。
 明治一八年からの屯田兵増殖五か年計画に続いて、同二二、二三年に更に強化策が打ち出され、これまで士族に限られていた応募資格が平民にも開放された。また、志願年齢が一七~二〇齢に改められた。同二四年四月二四日、愛媛県は明治二五年の屯田兵召募を行い、志願の者は市役所・町村役場備え付けの「屯田兵召募規則」を熟覧の上、一〇月一五日までに出願するよう布達した。また同日、「適当ノ者普ク誘導ヲ加へ願書差出候」と郡市役所・町村役場に督励した。更に一一月二六日には、志願者本人が合格しても、家族中に血統病に関する悪疾ある者、素行の悪い者、家族中に労働に堪える強壮者三人に満たない者などは、採用しないことを徹底するよう訓令した。
 この間、県下各地から志願者が応募したが、地域別には宇摩郡民が多く出願した。その中の一人明石六二は、明治二四年一〇月二六日に戸主明石量三と連名で「屯田兵志願ニ付御検査ノ上御採用被下度、然ル上ハ家族一統北海道へ移住シ共ニ御規則厳重ニ相守リ可申、依テ別紙戸籍明細書並ニ履歴書相副此段奉願候也」との「屯田兵服役願」を提出している。六二は宇摩郡津根村平民量三の長男で、当時一七歳、明治二一年七月長津小学校尋常科を卒業、学業優等で一八年一等賞(書籍など)、二一年二等賞(筆墨紙)を授与されている。また移住予定の家族構成は父量三(五五歳)、母ミネ(三八歳)、弟五六・十八(一三歳・七歳)、妹チク(一一歳)であった。
 県では、応募者の検査を郡市役所で実施した後、同二五年五月二日採用者を公表した。その員数は採用者七〇人・予備一二人であり、郡市別・兵種別の人数を表示すると表3-2のようになる。五月五日には京都に欠員が生じたとして越智郡の予備員一人が繰り上げ採用された。その後、他県での屯田兵希望者が不足したとして愛媛県では六月松山・今治付近で三〇人の再募集を行うことにした。県がこの地域を特に指定したのは、士族の応募を期待したからであったが、結局召募を満たすことはできず、表3-2に示すように宇摩郡の平民で過半数を補わなければならなかった。
 こうして、合計一〇七人の屯田兵とその家族が本県から移住することになった。移住先は歩兵が上川郡旭川上兵村と旭川下兵村(東旭川)、砲兵・騎兵などの特科隊は空知郡美唄兵村と高志内兵村・茶志内兵村(美唄・沼貝)であった。特科隊は七月に、歩兵屯田兵は八月に北海道へ移動するが、この段階で松山の士族二人が補充されて、東旭川では九二人の屯田兵とその家族が受け入れられた。

 松山士族の屯田兵移住

 明治二五年五月の屯田兵合格者八二人のうち、松山市は旧藩士族で構成され、その内訳は歩兵採用一一人、予備採用一人、騎兵一人、砲兵予備採用三人の計一六人であった。旭川兵村記念館の高垣仙蔵氏から提供された東旭川兵村「屯田兵移住者名簿」によると、歩兵は水野忠恭(中歩行町)、津田泰政(出淵町一丁目)、入山知故(北京町)、和田通直(久保町)、河野忠直(永木町)、柳田福方(小唐人町)、岸本正大(傘屋町)、松本知三郎(一万町)、木村亀太郎(宮古町)、西村建夫(北京町)、高橋英雄(南歩行町)、田窪通師(南京町)で、このうち一人は予備採用から正式採用に繰り上げられている。騎兵は渡部嘉市(玉川町)であった。これに七月の再募集で武田虎一(千船町)と野口浪江(宮古町)が採用され、北海道に渡って中山正賢が野口の家族から分籍して屯田兵に補充された。
 松山士族屯田兵中、小野忠恭と津田泰政は旧藩家老の家柄であった。小野家は二、〇〇〇石取りで代々城代家老を勤め、松山城東廓(現在の東雲学園敷地)に住んでいた。津田家は七〇〇石取りの常府御奉行を勤める家格で泰政の父東政は慶応三年(一八六七)家老代理として長州征伐の周防大島討入り謝罪のため山口に赴いた。忠恭と泰政は明治五年生まれ、二〇歳で屯田兵に応募した。松山高等小学校で同期生であった水野広徳は、自伝『剣を吊るまで』の中で、泰政について「体のどっしりした大人じみた人であったが、卒業の翌年屯田兵となって北海道旭川に移住した。この時松山からの移住者は相当沢山であったが、大部分は失敗して北海道を引き揚げた者が多い中で、津田君は成功者の一人として今なお旭川に踏み留まって居る」、忠恭については「之も屯田兵として北海道に移住したままその後聞くところがない」と述べている。
 津田泰政は北海道に渡って屯田兵になり、やがて屯田兵村監視を奉じ、日露戦争に従軍して軍功により陸軍歩兵少尉に任ぜられた。除隊後、東旭川村長に選ばれて四期務め、富良野町長にも選任された。町村長を退いてからは旭川七条郵便局長として余生を送った。泰政は、昭和一三年四月一五日にNHKラジオの全国放送で、「屯田事情と東旭川屯田兵村における服務と開拓の体験に就いて」を二〇分間語り、これを補足して「屯田概観」を「北之開拓」という雑誌に二四回にわたり連載した。更に津田は、昭和一六年刊行の『東旭川五十年史』にこれを整理して「愚徹津田泰政回顧録」を書いた。回顧録で、泰政は入村の様子をはじめ多くの事績を叙述しているが、津田家の事情と屯田兵に応募した心境には触れていない。水野と共に家老格の名家の維新後における凋落について語りたがらない事情があったのであろう。松山藩士族一六人のうち水野・津田らの一部を除けば、その住居地から推して下級士族・卒と思われ、代々の縁故で水野・津田に随行した旧陪臣も居たであろう。
 騎兵屯田兵として美唄兵村に入村するために、七月に先発した渡部嘉市を除き、水野・津田ら松山士族屯田兵一五人とその家族は、八月一〇日旭川兵村に入村した。松山出立の際、県知事勝間田稔は金一封と共に「赤きこころを中にして銃と鍬とを右左、家をとまして国を守り、高きほまれを世に残せ」の送別の歌を染め抜いた手拭を贈った。一行は、大分から三津浜に寄港した高砂丸に乗船して北海道に渡った。御用船高砂丸・山城丸に便乗して北海道に渡った旭川屯田村入居者は、愛媛県九二戸を筆頭に香川八五戸、青森五三戸、京都四五戸、大分四一戸など合計三九七戸、家族数三、三三四人であった。旭川兵村は第三中隊(下兵村)、第四中隊(上兵村)の各二〇〇戸を予定していたから、四〇〇戸を満たすため三戸の補充が行われた。愛媛県人では前述の中山正賢が屯田兵に採用されて分籍した。
 一行は小樽で一泊して、翌日炭鉱鉄道会社の石炭運搬用貨車に詰め込まれて、今の滝川駅手前の空知太駅まで運ばれた。滝川市街の旅館に分宿して翌日徒歩で出発、「広漠たる林野を貫通りする一条の殖民道路、人家はなく待遇する人もなく、草原林態北海特異の風物荒涼たる中を、老幼手に携え乳児は懐に、頑是なき幼児は背に、或いは手をひき手にすがりて兄や妹に助けらるゝがあれば、杖によりて行く老媼あり、花もはじらう年頃の娘が痛き足を引きづるもあり、虻蚊に悩む少女、草鞋・草履の紐づれに泣く児童、之をいたわる老翁もあり、家重代の伝来を覚しき槍薙刀、或いは伝家の位牌や宝刀を負える壮漢、犬殺棒の如きステッキに厚歯の学生下駄、朗々詩を吟ずるあれば、又俗歌俗謡を口ずさむもあり、チョン髷の老爺さん、大小手荷物色とりどり思い思いの服装風俗」(津田泰政『屯田回顧録』)で、一六里の道中であった。音江法華(現深川市音江)で一泊して翌朝国見峠を越え神居古潭峡谷を通過して忠別太(現旭川市忠和)に着いた。小樽を出発して三日目であった。
 忠別太駅逓で、来着者は点呼を受け、屯田兵として入るべき兵屋番号の抽籤を行った。津田泰政は一二七番、水野忠恭は二八番を引き、下兵村(第三中隊)ではあるが、南北に兵屋が離れた。水野の両隣りには、西村建夫(二三番)と木村亀太郎(二七番)が住むことになった。一行は、昨年永山兵村に入居していた屯田兵に案内されて、兵村道路とは名のみの萱蕗野草の茂る荒道を押し分け、大樹林地帯を潜り抜け、草原地を越えて、兵村所在地にたどり着いた。旭川上下兵村は図3-4のように風防林を隔てて東西に分かれ、僅かに三〇間を隔だてて兵屋が立ち並んでいるが、昼なお暗い大森林の中枝葉にさえぎられ熊笹におおわれたマッチ箱的板張り家屋に、「懐かしき故郷を見捨て楽しがるべき新天地を憧れて遥々と到着して見れば此の有様に、咄嵯腰を脱かして路傍にへた張った老母も有った。」と津田泰政は入村の様子を述懐している。津田らが八月一〇日に入村したのに続いて、一一日には一五戸、二百には六一戸と愛媛県からの移住者が到着、一四日の青森四七戸を最後に入村が完了したので、八月一五日を移住記念日として旭川神社の大祭日と定めたのであった。
 入居後五日間は炊き出しの給食を受け、荷物受け取りなどで村役場の中隊本部まで一〇~二〇余町の泥田のごとき悪路と樹枝トンネルを通り抜け往復した。八月一七日、屯田兵入隊式が永山の第三大隊練兵場で挙行され、永山屯田兵四〇〇人と一緒に整列して大隊長和田正苗中佐の閲兵と訓示を受け、屯田兵としての一歩を踏み出した。訓練は一〇月早々に実施されることが予告され、その間、兵屋周辺の用水溝掘り、道路の新設、伐木整地、隣地との境界標の杭打ち、共同風呂小屋などの建設に従事した。ついで、家族総出で給地五町歩の開墾に当たった。旭川屯田村は大雪山系の火山樹林、湿地帯で老樹が埋没し、石礫がおびただしいため唐鍬歯先の破損磨滅甚だしく、作業は困難を極めた。この悪条件に難渋しながらも「壮者は大地に鍬を打ち込み、初者は柴を集め株土を払ふもの笹刈する者等分担に奮闘努力」して、日一日一鍬一鍬と大地を征服していった。開墾した土地は、麦・豆・粟・黍・蕎麦などを耕作したが、馬鈴薯は適作で一反歩六〇俵の収穫があり、ほかに亜麻・大麻を栽培して副収入を得た。その後稲を試作する者も出て、次第に水田化が進み、明治三〇年代には村挙げて共同で灌漑溝を開掘して引水、水田を普及していった。しかし厳寒の中苦労は続いたので、屯田兵の義務年限が終わると兵村を出る者も多く、津田野泰政が回顧録を書いた昭和一五年頃には屯田入植者のうち村内に留まる者は三分の一に減少していた。

 その後の屯田兵募集

 明治二六・二七年、愛媛県は屯田兵召集の区域外にあったが、二六年一〇月の台風水害で田畑を流失し生計に苦難する者が生じたため、陸軍省に働きかけて屯田兵募集を要望すると共に一二月一五日付で東中予の各郡役所に訓令して罹災者のうち志願者を至急取り調べ報告するよう求めた。「官報」一二月二九日付で屯田兵補欠を本県から召集する旨の陸軍大臣告示があり、県は翌二七年一月三日に、志願者は一月二九日までに願書を県庁に提出するよう通達した。
 採用検査は、札幌から出張した陸軍歩兵大尉大島幸衛が立会い、三月一四日松山市(応募者一三人)、一六日今治町(九八人)、一九日川之江村(五六人)でそれぞれ実施された。検査終了後、大島大尉は北海道の厳しい自然条件について語り、移住者は大木・荊棘うっ蒼として万事に不便であり、開墾は困難であるので、家族全部が十分に勉励する覚悟を要し、心なき婦女子を誘って移住しては後悔する。屯田兵移住は扶助年限に限らず永久に土着する信念でなければならない。北海道で湖口の道を失えば人家稀疎であるから容易に生活の道はなく、満期後自活するには扶助期間において是非給与地を開墾耕作することが必要であると説諭して、不安があればいつでも取り消し可能と付け加えた。合格者は三八人で、一六七人の志願者中二二・八%という合格率は、召募検査がかなり厳しかったことを示している。これを郡市別に見ると、宇摩郡が二三人(歩兵一八・工兵三・騎兵二)と圧倒的に多く、越智野間郡一一人(歩兵一〇・工兵一)がこれに次ぎ、他は下浮穴伊予郡二人、松山市と新居周布桑村郡各一人に過ぎない。その後、四月一七日に予備の二人が繰り上げ採用されて、合計四〇人になった。彼らは四月二六日今治町に集合し、二八日日の出丸で北海道に向かい、歩兵は空知郡南江部乙兵村・北江部乙兵村(滝川)、特科隊は同郡茶志内兵村(沼貝)に入村した。
 明治二八年には屯田兵四八人が雨竜郡南一区兵村(一区)と同郡西秩父別兵村、東秩父別兵村、納内兵村(秩父別)に入植した。同二九年には四二人を採用、うち一人が取り消し、四一人が北一区兵村と西秩父別兵村、東秩父別兵村、納内兵村に分散入村した。明治三〇年以後屯田兵召募は減少、本県でも同年七人、三一年八人、三二年八人が採用移住したにとどまった。屯田兵募集は、同三二年の天塩川流域士別、剣渕兵村入村者を最後に中止され、彼らが現役期間を終えた三七年、「屯田兵条例」も廃止された。
 こうして愛媛県では九回屯田兵募集が行われ、二九八戸、一、四八一人(男八五八・女六二三)が移住入植したといわれる。但しこの数は調査曳れもあり、先述の各年度の屯田兵召募移住者合計数とも若干の差異がある。いずれにせよ、ほぼ三〇〇戸・一、五〇〇人程度の県人が明治二〇~三二年間に屯田兵とその家族として北海道に渡ったのであった。

 宇摩郡屯田兵井原彦太郎

 愛媛県の屯田兵は宇摩郡からの移住者が最も多く、郡市別人数の判明する明治二五、二七、二九年では全体の五〇%近くを占めている。同郡は法皇山脈が海に迫り河川が少ないといった自然条件のため用水に不足をきたして豊かな水田が少なく、しばしば干害に苦しんだ。また別子銅山の存在に関連して早くからこの地域に商業的農業が展開されていて、これが農民層の分解をもたらした。これに地租改正による増徴が自作農の没落を進めて多くの貧農が生じた。
 のちに開拓模範農民として称えられた井原彦太郎は、明治七年一二月宇摩郡下分村(現川之江市)で井原照吉の長男に生まれた。家は農を業としたが土地を所有せず、同郡中之庄村(現三島市)に出て七反歩を借り小作に従事し副業として染業を営んだ。しかし小作地は海岸に面した狭小の土地で、地味痩薄であるため肥料その他耕作費に多額を要して実収入少なく、生計に不足をきたし困窮の日々を送っていた。そうした時、父が新聞紙上で北海道の地積広大、地味肥沃、かつ農業移住者には土地を無償貸与し、成功の後には付与される特典があることを知り、移住を考え始めていたところ、屯田兵募集の勧誘があった。彦太郎は当時一七歳、三八歳の父照吉の命ずるままに、これに応募して合格、明治二五年八月九〇円を携え両親と共に郷里を出発して渡道した。旭川兵村に入居して、家計万端、開墾一切は父が家長として取り仕切り、彦太郎は屯田兵として練兵に携わった。
 宇摩郡では、こうした土地のない貧農が適齢の息子を屯田兵戸主にして、新天地での成功を夢みて渡海していったようである。屯田兵の先任者たちが精励努力すれば土地を所有して生活の維持発展を図り得ることを郷里に知らせると、希望を屯田兵に託して応募する者が続いたと考えられる。彦太郎は父と共に精励して最初配当された一町五反歩の半ばを初年度に開墾、種々の作物を播種して予想外の収穫を得た。同年耕馬一頭を講入し洋犂をもって給与地全部を墾成、更に三町五反の未開地を給与されて、これを馬力でもって開墾、多くを水田に造成した。この結果、移住三年目には五町歩の成墾地を所有して農作収入で生計を営むことができるようになった。井原は屯田兵満期後馬車一台を購入、農作のかたから運搬業を開始して両三年のうちに負債の償還を終わり、年々多少の余剰を生じるようになったので、未開地を次々に譲り受けて水田に造成した。また、三九年からは繁殖・搾乳を目的に牝牛一一頭を飼育、更に養難に乗り出し、旭川に購入した宅地には苹果(リンゴ)百余本を植え付け、間作に蔬菜類を栽培などした。この結果、明治四〇年時には、耕地一五町歩を、乳牛一一頭・養鶏六〇~七〇羽を所有、一か年の収益は九〇〇円にのぼり、雇人二人を用いるまでになった。この成功の足跡は明治四一年三月道庁の「移住者成績調査」で紹介顕彰された。井原彦三郎は地域の組長・区長として公共事業にも尽くし、昭和一三年時には東旭川村長に選任されて、村政を担当した。

図3-3 屯田兵村分布図

図3-3 屯田兵村分布図


表3-2 明治25年屯田兵第1合格者

表3-2 明治25年屯田兵第1合格者


表3-2 明治25年屯田兵第2合格者

表3-2 明治25年屯田兵第2合格者


図3-4 旭川兵村宅地割一覧図

図3-4 旭川兵村宅地割一覧図