データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)
第一節 福島県安積への移住
安積原野の疏水・開墾事業
福島県安積原野の開拓は、明治維新期の士族授産事業として知られ、今日の郡山地方発展の基礎を築いた。この開墾事業に旧松山藩士族一五戸が移住入植して加わった。
江戸時代の安積平野は水利の便に乏しかったが、維新期の福島県典事中条政恒らが開拓の急を説き、灌漑用水を猪苗代湖から引くことを政府に働きかけた。内務卿大久保利通はこれを容れて、安積疏水を政府の直営事業とし、明治一二年一〇月起工、一五年八月完成した。同時に安積原野の開拓に取りかかり、禄を失った士族に開拓入植を促した。これに応じて、明治一一年一一月の九州久留米士族を最初に、鳥取・岡山・高知・松山の士族が移住した。各藩士族の移住地は図3-1のようであった。
明治一四年七月、愛媛県は旧松山藩士族富田義貫ほか四九名の安積開拓移住を福島県に照会した。この時に作成された「移住志願者家族姓名年齢記」によると、応募者の住居は松山城下中歩行町・杉谷町・弓之町・鉄砲町・小唐人町・御宝町・北京町・南京町などであり、この地域の居住者は旧足軽・卒-下士層であった。彼らの多くは秩禄処分と物価高で窮状にあり、その中の五〇戸が同盟結合して、温暖の松山を捨て厳寒の安積原野に移住入植、開墾農業に生計の活路を開こうとしたのであった。
同年八月、福島県から回答があり、一〇~一五戸の移住しか詮議の対象にならないとして、人員の削減を要求してきた。これにより、五〇戸の集団移住は不可能になり、改めて移住者の選択が行われた。その結果、岡村冨則・宝崎久遠・山本正・平井久一・仙波義賢・光本忠彌・村上彌太郎・和久脩ら一五戸が移住者に決まり、同一四年一二月に「移住開拓之儀ニ付上申書」が提出された。上申書には、来年三月中旬に安積原野に入植したいこと、貸下げ金は出来る限り節約して非常の時に備え置き、各々開墾に励んで国益に報いたいとの覚悟が示された。これに付して、移住者個別に「移住願」と「身元書」が提出された。身元書の一、二を例示すると、和久脩(四二歳)は、妻(三六歳)、男子二人(一二歳・三歳)の家族構成で、公債証書・宅地・家・土蔵などの資産皆無、職業雑業、安政二年旧足軽に召し抱えられ、慶応三年江戸常詰、明治元年帰国、三年徒士-士族の称号を得、六年戸長補、一二年地租改正雇を拝命、一三年罷免といった履歴、光本忠彌(三六歳)は、妻(三二歳)、女子三人(一〇歳・八歳・三歳)の家族構成で、公債証書・田畑・宅地・家・土蔵皆無、職業雑業、安政六年旧松山藩足軽に召し抱えられ、明治六年士族に編入されていた。このように、金禄公債を売却し、土地・家屋などの資産もなく、定職を持たない人々が新天地を求めて福島県安積郡牛庭原開拓所に移住入植しようとしたのである。
旧松山藩士族の安積移住と開拓
明治一五年三月二一日、宝崎・和久・村上・平井・仙波・山本正・山本銀次郎・森丑太郎・光本忠彌の九家族三四名が本県を出発した。松山から福島県庁まで里程三一九里余、一人一日三〇銭宛の旅費を愛媛県庁から繰り替え支給されての旅立ちであった。三津浜から神戸経由、横浜までの船旅を続け、横浜から汽車に乗って東京へ、東京見物して奥州路に入り、四月八日郡山に着いて一〇日福島県開拓課にあてて到着届を提出した。なお和久脩は、旧松山藩関係者に挨拶などのため東京にしばらく滞在したので、遅れて郡山に着いた。惣代人岡村冨則ら他の六家族は出立間際になって移住を取り止め、小山宇太次ら小山四兄弟と宇太次の子加藤政義、山本正の父山岡與一郎の一家がこれに代わった。実際に安積牛庭ヶ原に移住した一五戸の松山での住所・家族構成は表3-1のようであった。このうち、森丑太郎と山本銀次郎はほどなく開墾地を離れて帰郷、森の弟庄平と銀次郎の縁女コトが留まり、コトは彌惣次と称する人物と結婚して山本姓を名乗らせ、毛佐治を生んだ。
明治一五年九月、旧松山藩主久松家から宝崎久遠ら移住者一三人に七五〇円の恵与金が贈られた。開拓団はこの金員を個々に割り当てるとともに苗代共有田平農業馬の購入に充てた。松山からの移住者に加えて、同一六年二月四日には東京在住の元松山藩卒の大川鋳之介、翌一七年一月七日には元同藩江戸常詰で帝国農科大学種芸試験場に奉職して種芸栽培に通じた田中利助が移住してきた。惣代人和久脩の移動途中での東京滞在はこの田中の勧誘も目的であったのであろう。更に駒場農学校出身で当時開成山農学校の教諭兼農場主任であった飯田定一が開墾指導に当たることになった。
飯田・田中を指南役にして松山士族の牛庭原開拓が開始され、明治一七年には収穫が可能になった。しかし水稲の成績はあがらず、反別一斗五、六升しか、収穫できなかった。このため、同一八年からじき蒔を試み、馬骨粉肥料を施したところ、かなりの効果をあげて反別七~九斗は取れるようになった。各入植者の田畑配置図は図3-2の通りであり、明治一八年当時平均二町三反を所持していたが、大部分は畑で、桑を植えて養蚕を行い、瓜・西瓜の栽培に活路を見出そうとした。しかし養蚕は手間賃に取られ、瓜・西瓜の栽培も天候不順や商人に買いたたかれたりで、収入源とはならなかった。
松山開墾地での累積損失赤字額は、政府・県からの貸下げ金未納分を含めると、明治二〇年二、四三七円余、同二一年二、六六〇円余に達し、勧業銀行・農工銀行からの低利貸付を受けねばならなかった。赤字は年々膨張し、その返済能力がないため、やむなく地元資産家から高利の融資を受けて、銀行の返済にあてた。この結果、明治三〇年代の中頃には田畑は抵当として債権者に奪われることになった。山本正・小山亀太郎・小山政就・山本與一郎・飯田定一以外の土地は、郡山の大地主橋本万右衛門、野田の開業医尾形家、地主金貸の大野家の所有に変わり、開拓者の多くは小作人に転落、宝崎久遠・村上彌太郎・小山政則・森庄平は牛庭原を去った。このような状況は他の開墾地でも同様に見られ、大蔵垣原の旧久留米士族、山田原、赤坂の高知士族のほとんどは開拓村を離れた。松山開拓地は没落しながらも移住戸数一八戸中一二戸と最も多く留まり、農業技術者飯田定一、篤農家田中利助、郡山町役場に移って開拓者とのパイプ役を果たした大川鋳之助、医者の資格を得て村医・校医になり村会議員を務めた山本正らは、地域に尽した人々として『福島県史』『郡山市史』に収録されている。しかし大半の人々は小作人として苦難の道を歩み、明治三五年の暴風、三七、八年の凶作の時は小作料も納められない困窮に追いこまれた。
大正一五年に刊行された『安積開墾大観』は「農芸に腕揃ひの愛媛、併し小作人が多い」の見出しで、「茲も亦他の開墾地と大した変わりもなく、時に消長はあったが、遺族の数が比較的多く他に類の無い程現地に止まって居ることは珍しい現象である。併し最初所有した土地が、今なお手に有る人はと問はば、是は意外にも少なく、ほとんど無いといっても宜い位であらうか。大体勧業銀行より土地抵当で低利の金を融通した結果、一時凌ぎやすかったには違いないが低利に安心した油断大敵、その利子の払込に窮して無理な金の算段、低利に代ふるに高利を以てした結果、多年苦労の結晶たる土地は、サッサと資本家の所有となり、小作人として父祖の開拓した田畑を耕作しなければならぬ憂き目を見て居ることになったのは、誠に以て遺憾の極みである。」と記している。
これらの人々に父祖の開拓した土地が再び帰ってくるのは、戦後の農地改革以後であった。子孫一五人は昭和三六年一〇月安積開拓八〇年祭に当たり、基金を拠出して三島神社境内に「移住八十周年記念碑」を建て、祖先の功績をたたえた。また松山士族開墾の足跡は、柳沼文英編著『牛庭原開墾百年の歩み』(昭和五八年刊)で刻明に記述されている。