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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

二 苦境期から興隆期へ

 照明用・動力用のガスは衰退へ

 明治期を通じて、電灯との激しい競争に悩まされてきたガス事業ではあったが、明治末期までの電灯は、光度も弱く、度々停電した。従って、ガスマントルの出現にも助けられて、各地にガス事業が開始されると電灯をガス灯に切りかえるもの、あるいはガス灯を併用する家庭や商店も多かった。しかし、明治四三年(一九一〇)にクーリッジがタングステン電球を発明。それが一般に利用されるようになると(既に大正初年にはタングステン電球は従来の炭素電球とほぼ肩を並べるところまで普及していた)、これまでの電灯の欠点であったフィラメントのもろさ、光度の弱さが改良され、さらに消費電力量が三分の一に減少した。また、発電の主力が火力から水力へ移るにつれて発電コストの低下をもたらし、ライバルのガス事業は大きな痛手を受けることになった。この結果「街灯は大正三年の九、五二五基、屋内灯も大正四年の一五五万二、〇〇〇基をピークに、以後潮が引くように減っていき、昭和一〇年代には完全に電灯の世の中となっていた」(日本ガス協会編著『解説・命を歩んだ。明治の中ごろに出現したガスエンジンは、中小企業では蒸気機関てかわるほど評判がよかったが、これも電気モーターの出現によって「大正三年の二、六九一基をピークに、以後減少の一途をたどっている。停電時の予備として一部で使用されていたものも、大正四年に日本に登場したディーゼルエンジンによって、完全に命脈を絶たれてしまった」(前掲書参照)。

 ガス受難時代の到来

 大正三年(一九一四)七月第一次世界大戦の勃発とともに、物価・賃金は上昇し、特にガス製造の原料となる石炭は品不足のために暴騰した。しかし、ガス事業は市町村と取りかわした契約のために関係機関の許可なく勝手に料金を値上げすることができず、全国各地のガス会社は大打撃を被った。その影響は大正六・七年になってピークに達し、大正五年の中備・竜崎を手始めに、大正六年に柳井・徳山など一四社がガス事業を廃止し、高松・広島など一六社が電気事業に合併された。翌七年も余波が続き、高知・直方など九社が廃業に追い込まれている。
 このようなガス事業の受難時代にあって、松山瓦斯も今治瓦斯も他のガス会社と同様に大きな経営危機を迎えた。まず、今治瓦斯は大正二年五月にガスの供給を開始したが、地域の人々のガスに対する認識不足と料金の点で需要の伸びは極めて悪く、世間の風評では倒産は時間の問題だと言われるほど経営状態は良くなかった。よたよた歩きの今治瓦斯にとって、第一次世界大戦による石炭価格の暴騰は経営の基盤を根元から揺り動かした。そこで行われた苦肉の策は、同じく暴騰している鉄材の価格に目をつけ、事業を縮少してガス供給管を売却し、収入の一助にすることであった。選ばれたのは需要量も少なく遠距離で採算が良くない波止浜線で、大正五年(一九一六)五月二九日付で、今治町(現今治市)本社から波止浜町瓦斯溜りまでのガス供給管撤去を、専務取締役深見寅之助の名で申請し、翌五月三〇日付で愛媛県知事坂田幹太によって許可されている。
 他方、松山瓦斯の状況も似たりよったりであった。当時、松山では伊予水電と松山電軌とが電灯・動力の競争をしていたので、ガスは灯用・動力用ともこれらと競合し、需要家を得ることはなかなか難しかった。生産能力は三、三九八立方㍍あったが、実際の供給はその四〇%あまりにすぎず、無配が続いていた。当時の新聞が、松方の率いる東京瓦斯工業の系列に組み込まれるという合同説を、しきりと流すほど経営は危機にひんしていた。
 大正七年(一九一八)一一月に至り、松山瓦斯は採算の大幅な悪化のために供給を一時休止し、今治瓦斯と同様にその供給管を売却した。松山瓦斯の鉄管はドイツ製の鋼鉄であったため、極めて高価格で売却できたと言われている。同社は約五か月後の大正八年四月から、ガスの供給を従来の三分の一に縮少して事業を再開した。しかし、休業中に灯用のガスは電灯に大きく取って代わられ、主力を熱用に注いだが経営は依然として苦境が続いた。

 瓦斯事業法の制定

 瓦斯事業法は大正一二年(一九二三)四月九日に公布され、一四年一〇月一日に施行された。それ以前は全国のガス事業者を統一的に規制する法律は制定されておらず、各府県がそれぞれ規則を定めて取締まりを行うとともに、市町村と事業者との間で結ばれた契約によって、料金その他の変更に対する制約を課していた。
 愛媛県では明治四三年八月に瓦斯営業取締規則(県令第三七号)が定められ、それに基いて例えば今治瓦斯の営業許可に際しては、明治四五年六月に県知事名で二七条に及ぶ命令書が出されている。さらに、翌大正二年一月には今治町と今治瓦斯との間で一八条に及ぶ契約書が取り交わされ、今治瓦斯は道路・橋・堤防などの公共の工作物の使用や独占的な供給権を認められる反面、今治町に毎年一定額の納付金を収め、料金その他の変更に対する規制や契約満了時の町による買収権を認めている。
 しかし、大正八年四月に道路法が制定されると、道路の使用を基礎にした独占的供給権の賦与ができなくなり、一方、ガス会社の供給区域も漸次拡大して市町村の領域をこえ、一市町村による料金の規制や買収権の行使も実体にそぐわなくなってきた。加うるに、第一次世界大戦中の料金改訂の政治的抑圧などの諸問題もあって、瓦斯事業法の制定となり、事業の規制監督権は国の手に移管された。
 同法は、(一)事業特許主義 (二)道路その他の公共物の使用 (三)料金その他の供給条件 (四)保安及び衛生上の規定(五)事業の譲渡または買収 (六)ガスの熱量・圧力・成分など質の規定を主な内容としていたが、他方においてガス事業の健全な育成をはかる側面もあり、以後のガス事業の発展に貢献するところが大きかった。

 第二興隆時代と愛媛のガス事業

 第一次世界大戦後、輸出は沈滞し、株式の暴落や銀行の取付がおきるなど、経済界は激しい恐慌に見舞われた。しかし、ガス事業は戦時中に暴騰した石炭価格が漸次低下したのに反し、一般家庭の代表的な燃料である薪や木炭の価格は依然として高値が続き、しかもガスの安全性と便利さが認められ、「文化燃料」として家庭用や商工業用に伸びていった。今治瓦斯においても、かまぼこや菓子などの食品の製造、伊予ネルの加工などにガスが盛んに利用されるようになっている。
 昭和に入ると、瓦斯事業法のおかげもあって各地のガス事業は順調な歩みを続け、大戦中に廃業に追い込まれていた会社を再開したり、また新しく会社を設立するものなどが続々と出てきた。図公3-1に見られるように、明治末期から大正の初めにかけて生じたガス事業ブームを第一期の興隆時代とすると、昭和初頭のガス事業者の急激な増加は、第二次興隆時代と呼ぶことができる。全国のガス需要家戸数も、大正三年(一九一四)の六四万三、〇〇〇戸が、大正一二年(一九二三)には四六万三、〇〇〇戸まで落ち込んでいたが、九年後の昭和七年(一九三二)には一七九万戸と約四倍の急増ぶりを示している。今治瓦斯なども、大正七、八年のころまで八〇〇戸に満たなかった需要家が、昭和七年には一、八五三戸と二・三倍になっている。
 この第二興隆時代には四国の他の地域でも、まず昭和四年五月に宇和島瓦斯が供給を開始。同年六月にまったく新しい会社として設立された高知瓦斯が一一年ぶりに供給を開始。さらに同年一〇月には坂出瓦斯が供給を開始している。昭和七年度における四国の各ガス会社の需要家戸数、一日平均販売量、興業費及び配当は表公3-2のとおりである。新設の高知・宇和島は無配であるが、今治瓦斯・松山瓦斯は九%の配当をしている。なお経営状態のそれほど良ぐない高松・丸亀が一〇%の配当をしているのは、四国水力電気の兼営によるものだからである。

図公3-1 ガス事業者数の盛衰

図公3-1 ガス事業者数の盛衰


表公3-2 ガス需要家数・一日平均販売量等(昭和7年)

表公3-2 ガス需要家数・一日平均販売量等(昭和7年)