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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

一 わが国及び愛媛におけるガス事業の創業

 わが国最初のガス灯の点火

 わが国においてガス灯による照明事業が開始されたのは、明治期に入ってからであるが、ガスを灯用に利用することは、既に幕末に試みられていた。『東京瓦斯九十年史』(昭和五十一年刊)によれば、本邦ガス灯第一号とみられているのは、天保から弘化にかけてのころ、南部藩蘭医、島立甫が江戸亀井戸の自宅でともしていたもので、時の老中、阿部伊勢守や堀田備前守がこれを見物したと伝えられている。石炭を乾溜する器械は、輸入説と国産説とがあり、はっきりしない。主たる目的は、造船に必要なコールタールを採るためであったが、時勢に合わず、わずか一年余りで廃止されたと言われている。
 同じく『東京瓦斯九十年史』によれば、さらに安政二年(一八五五)に、これまた南部の人、大島高任が水戸藩の反射炉附属の工場で、照明用にガス灯を利用して成功している。使用した石炭は助川海岸で採れたものであり、器械は武州足立郡川口村の鋳物師、村田利八が製作したものである。新政府が誕生してからは、明治三年(一八七〇)一月に、大阪造幣局で英国人トーマス・ウィリアム・キンドルの指揮のもと、ビーハイブ窯一一座を築造。明治四年四月からコークスを製造し、これを金銀鎔解用に使用。発生ガスは局内のガス灯に使用している。
 なお、欧米では既に、文化九年(一八一二)にロンドンでガス灯・コークス会社、文化一二年(一八一五)にアメリカ合衆国のボルチモアでガス灯会社が起こされている。

 横浜を初めとするガス灯事業の開始

 わが国で最初にガス灯による照明事業が企業化されたのは、外国人が多数居住する横浜においてである。明治三年(一八七〇)、当時、横浜駐在のドイツ領事シキルツ・ライスが、その経営するシキルツ・ライス会社の名前でガス事業の出願をしたが、神奈川県令井関盛良は諸般の理由から、遅れて出願をした高島嘉右衛門等九名の発起する日本人側の会社に免許を与えた。一説によると県令は、ガス事業のような公益企業は将来有望な事業であり、これを外国人の経営に委ねてしまうと、後の世に禍根を残すことになると考え、高島にガス事業の建設をすすめたと言われる。
 高島はフランス領事の斡旋でフランス人技師プレグランを招へいし、その設計並びに監督によって施設は明治五年に竣工。同年九月、横浜市馬車道附近のガス灯十数基が点火された。現在、横浜市中区花咲町の市立本町小学校の正門の脇に、ガス灯一基と記念碑が立てられている。碑文には、「日本最初の瓦斯会社跡・中区花咲町・明治参年高島嘉右衛門ココニ瓦斯会社ヲ興シ本邦最初ノ瓦斯燈ヲ点シタリ 明治七年明治天皇皇后親シク点火模様ヲ叡覧アラセラレタリ」としるされている。横浜にガス灯がともされた翌年六月、東京では東京商業会議所が自らの手でガス事業を営むことになり、翌明治七年一二月に金杉橋と京橋との間に、八五基のガス灯が点じられている。
 ガス灯に比較すると、電灯の出現ははるかに遅かった。明治一六年(一八八三)、大阪紡績が一万五、〇〇〇錘という大規模体制で操業を始めたが、この工場が翌一七年皇居に次いで、民間最初の電灯による照明を実施した。しかし、本格的な電灯による照明事業の開始は、東京電灯会社が日本郵船等に内外灯を点じる明治二〇年(一八八七)一一月である。横浜瓦斯会社に遅れること一五年である。ところがそれ以後の発展は目ざましく、神戸・大阪・京都・名古屋等に続々と電灯会社が設立され、明治二〇年代だけで、東京電灯を含めて合計三四社の電灯事業が営業を開始している。
 それと対照的に、ガスの方は振るわず、横浜・東京に続く第三の事業である神戸瓦斯株式会社が開業したのは、約三〇年後の明治三四年(一九〇一)であった。

 ガス灯と電灯との競争

 明治二〇年一一月に営業を開始した東京電灯会社の同二○年末の電灯取付数は、一三八灯であったが、二二年末には、二、八五一灯、二三年末五、五六五灯、二四年末一万〇、〇三六灯と急激に増加した。先発のガス灯事業に対する後発の電灯会社の宣伝も非常に活発で、東京電灯の『電気灯案内』(明治二三年四月発行)には、電灯の効用として「油姻を吐くことなし」、「室内の空気を熱することなし」、「チラツクこともなければ少しも眼に障ることなし」、「火を発することなく又毒気を吐くことなければ総て安全なるものなり」などと、ガス灯と対比しながら猛烈な売り込みをはかっている。銀座付近では電灯に代えるために軒並みにガス灯廃止の申し入れがあったり、また明治二四年二月、東京市会は市内のガス街灯四七五基を全廃し、これを電灯に代える発議を全会一致で議決するなど、ガス灯事業の経営を取り巻く環境は大変厳しかった。
 この事態を打開する一つのきっかけは、明治一九年(一八八六)オーストリア人ウェルスバッハの発明したガスマントルであった。それ以前のガスの炎は生の裸火であったが、マントルの応用で炎は強烈な白熱色を放つようになり、ガス灯は全く面目を一新した。わが国においても既に明治二七年(一八九四)に横浜停車場などに使用されて好評を博している。
 もう一つのきっかけは、日清戦争後のわが国の経済の活況によって、照明用以外に、燃料・動力など新しい用途にガスが利用され始めたことである。ガスの需要は、印刷・小機械製作・揚水ポンプ・昇降器・製鋼をはじめ、飾職・洋裁・西洋洗濯・菓子製造・食堂業などに徐々に広がり始めた。また、ガス煖炉が好評をえたり、洗濯器・乾燥器・焼物器・風呂など―器具はほとんど輸入品であった―が出廻り始め、ガスの供給はようやくガス灯事業からガス事業に脱皮するきざしを見せていた。
         
 ガス事業ブーム

 ガスマントルの出現、ガスの燃料・動力への利用に加えて、日露戦争後の先進国への仲間入り、洋風の生活様式へのあこがれという潮流の中で、ガス事業の開業が相次ぎ、明治三八年(一九〇五)に大阪、同三九年博多、四〇年名古屋・金沢・八幡などで開業。明治四三年には京都・広島・仙台など。そして同四四年にはさらに高松・静岡・熊本などを加え、明治四五年の事業者数は七九。大正四年には九一を数えるに至っている。
 このようにガス事業が各都市に急速に普及したのは、ガス事業の宣伝、技術的進歩、そして生活様式の変化などが、一つの原因であったことは否定できないが、もう一つ無視できないのは、中央財界の実力者がこの事業の将来性に目をつけ、盛んに地方に進出してきたことである。これらの中央の企業家の中には、ガス供給事業の収支計算を度外視し、ただ権利の獲得のみを目的とするものもあり、ガス事業は一つのブームを巻き起こした。
         
 松山瓦斯の開業

 四国におけるガス事業は、明治四三年(一九一〇)四月に高松、同年一一月に松山で事業経営の許可が与えられ、高松では明治四四年七月から、日本瓦斯株式会社の高松出張所としてガスの供給を始めた。これに対して松山瓦斯株式会社は、資本金三〇万円で発足。松山市江戸町の工場にドイツのカールフランケ社製の新式の機械を据付け、明治四五年一月、湊町や大街道での試点火の後、営業を開始した。ガス管総延長八、七二八㍍、供給管取付数七〇〇、屋内取付数三五〇であるが、同社はこれまでのようにもっぱら照明用に供給するのではなく、当初から昼間の炊事や動力用に供給を伸ばしていく方針で出発した。
 松山瓦斯も他の多くの都市と同様に、最初は日本瓦斯の福沢桃介の系統によって設立され、設計も前東京瓦斯の技師長であった渡辺扶が担当した。日本瓦斯は明治四三年に創立され、全国各都市にガス会社を設立したが、各地の情勢は必ずしもガス事業の経営に有利ではなく、取得した権利をそのまま譲渡したり、また短期間の経営の後、これを他に譲渡することが多かった。松山の場合は、創業後これを東京電工株式会社に譲渡したが、同社も遠隔の地でガス事業を経営することの難しさを考え、地元の有力者徳本良一が多くの株式を取得したのを機会に経営権を手放した。
 しかし、松山瓦斯はドイツ製の機械や鉄管を使用し、その他の器具類もほとんど高価な輸入品を用いていたので、設備面ではその優秀性を誇っていたが、逆に設備費が負担になって極めて苦しい経営状態であった。このため徳本社長は他に人材を求め、高須峰造社長を経て、大正四年(一九一五)香川熊太郎が社長になり、松山瓦斯の基礎を築いた。
         
 今治瓦斯の開業
 
 松山と同様に、今治においても最初明治四五年(一九一二)二月に会社設立の申請をしたのは、日本瓦斯の福沢桃介を発起人代表者とする三〇名であり、同年六月一〇日に愛媛県知事伊沢多喜男によって営業許可、工事施行の特許が与えられている。しかし、大正元年(明治四五年)九月五日に、発起人代表阿部光之助から会社成立延期の申請があり一〇月二日許可。さらに一〇月二〇日発起人代表八木亀三郎から成立延期と資本金変更の申請があり、同年一〇月三〇日と三一日にそれぞれ許可されている。
 『四国瓦斯株式会社五十年史』(昭和三七年刊)によれば、許可が下りてから四か月以内に関係書類を提出して認可を受け、認可された日から二か月以内に着手。着手してから八か月以内に施設を竣工させなければならない規定になっていたが、期日に間に合わないというので、再度延期の申請をしたと述べられている。
 さらに、同書はわずか八か月の間に再度代表発起人が代わったことについて、当時の波止浜の財力は県下においても極めて強力な存在であったため、ガス事業の経営も中央に依存する必要はないという意見が強くなり、主導権が福沢桃介から波止浜財閥に移ったと。また、今治の最も有力な財界実力者であった阿部光之助が一時代表発起人でありながら、その後の経営陣に参加していなかったことは、伊予ネルの革新期、すなわち手織から動力織機への転換期でこれに専念しなければならなかったことや、ガス事業の競争相手である愛媛水力電気の社長であったことなどに原因があったのではないかと述べている。
 一説には、憲政会の阿部光之助のグループが愛媛水力を起こして電気事業を創始したのに対し、波止浜の八木亀三郎を中心とする政友会のグループがガス事業を起こしたとも言われている。いずれにせよ、明治末期から大正初期にかけて、来島海峡にのぞむ一田舎町にすぎなかった今治町(現今治市)で、地元が主導権を握って近代的なガス事業を起こした背景には、それなりの強力な推力と熱情があったと考えられる。
 施設工事は翌大正二年(一九一三)早々に着手され、同年五月ガス供給開始。ガス製造能力一日二三〇立方㍍、需要家七七四戸、導管延長三万五、八八〇㍍で営業が開始された。社長は八木亀三郎、専務は八木雄之助・深見寅之助の二人で、東京の福沢・高木等は資本的には参加していたけれども、直接重役陣には加わらないでこれらの工事を直接担当したようである。

表公3-1 東京瓦斯(株)の灯火・燃料使用需要家数

表公3-1 東京瓦斯(株)の灯火・燃料使用需要家数