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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

五 県内主要各市の上水道

 松山市の上水道

 松山市は元来豊富な地下水に恵まれ、水質も良好であったため、〝水を金で買う〟といった水に対する切実さが無かったため、水道敷設の気運が盛り上がり難かった。しかし大正末期から昭和の初めにかけて、人口の増加とともに、井戸などを媒介として伝染病が広がるなど、汚染されるようになったため、市民の間に上水道敷設の必要性が言われ始めた。そのため松山市では、昭和三年(一九二八)三月水道調査費を計上して、水源予定地温泉郡湯山村宿野々(現松山市)の調査を行い、敷設計画をたてたが、水利・財源問題などのため進展せず、昭和六年時期尚早として打ち切られた。その背景には財源の問題も確かにあったが、松山市が比較的水に恵まれていたこと、さらには市民の保守性にあったものと思われる。その後昭和九年夏、大干ばつに見舞われ松山市内の井戸がほとんど枯れて、飲み水にも不自由する家庭が続出したこともあって、再び水道敷設の要望が高まった。
 このようにして昭和一〇年六月、臨時市議会で「水道敷設議案」が議決されたので、松山市は直ちに内務大臣あて認可申請を行った。この時の計画水源地は、温泉郡余土村(現松山市)内を通る重信川伏流水(市坪水源地と言った)であった。しかしこの「市坪水源地」計画に対して、地元重信川・石手川流域の各村が猛反対したため、認可に手間どったが、他に新たな水源地を求めることが出来なかったので、政府はようやく昭和一二年三月末、厳しい条件つきで「市坪水源」計画を認可した。しかし地元の反対は依然として根強く、測量も出来ない状態であった。その後事態打開のため、山越補助水源地、湯山水源地案などを検討したが、根本的解決を得られないまま経過した(『愛媛県史資料編社会経済下』公益参照)。
 昭和一六年(一九四一)に至り松山市は、丸善石油誘置のため大量の工業用水を確保することが必要となった。そこで工業用水と上水道共同の水源地建設を計画し、水源地を解決の見通しのつかない市坪から重信川下流の温泉郡垣生村(現松山市)に変更することとし、その調査並びに建設計画作成を進めた。このようにして、昭和一八年三月、政府に水源地変更(温泉郡垣生村東垣生へ)を申請し、翌四月認可された。その認可書は次のとおりである。
 〈厚生省媛衛第三二五號 愛媛縣松山市〉「昭和十八年三月二十三日発土第三六號申請水道水源地位置変更及竣功期限延長ノ件認可ス」 昭和十八年四月七日 厚生大臣小泉親彦 内務大臣湯澤三千男
続いて昭和一九年、「水道布設工事一部設計変更」を申請し、同年八月二一日認可された(『愛媛県史資料編社会経済下』公益参照)。ここに長年難航した松山市の上水道創設事業がようやく軌道に乗り、直ちに水源地工事に取りかかった。しかし、戦争は次第に激烈さを加え、相次ぐ空襲 、資材不足などのため工事は進展せず、上水道工事は水源工事を実施しただけで終戦を迎えた。
 終戦後、丸善石油は一時閉鎖され、工業用水道工事は打ち切りとなったが、上水道工事は翌二一年九月、戦災復興事業の一環として再開された。工事施行に当たっては、水源は戦時中施行した施設を使用することとし、水源に隣接して浄水場を設け、そこに沈でん池・緩速ろ過池・配水池を築造した。そしてここから竹原町のポンプ場までの送水管は、戦前に敷設していた工業用水道用六〇〇㍉㍍鉄筋コンクリート管を水道送水管に転用し、市街地には径四〇〇㍉㍍以下の配水管を敷設した。しかし敷設した六〇〇㍉㍍水道送水管は戦時中に製造された粗悪品であったため漏水が多かったのでこれを径五〇〇㍉㍍鋳鉄管に取り替えることとし、昭和二七年(一九五二)一二月着工した。
 このように工事の手直し、計画の練り直しなどのため予想以上の日時を費やしたが、翌二八年一月二六日送水管敷設工事が完成し、同年三月一日松山市の一部(旧松山市城南・城西地区の中心街)に通水を開始した。受益可能世帯数は五、〇〇〇戸であった。ここに昭和三年、松山市に上水道設置の声が上がってから二五年を経過して、ようやく上水道が一部通水とはいえ出来た。市では同年四月水道局(公営企業体)を設置し、上水道の普及に努めたが、同年の給水戸数は約一、〇○○戸、給水開始三年後の昭和三一年三月現在で普及率二〇%に満たない状態であった。その後、旧市内の配水管敷設工事は次第に拡張され、三一年度には城北・城東地区へ伸びた。さらに三四年度までに、旧市内のほとんどの地域が給水区域に入った。また垣生浄水場のろ過池(四池)も完成し、昭和三六年三月、総事業費五億三、〇〇〇万円の費用と一七年の歳月を費やした松山市創設水道事業が完成した(図公2-1)。その主要施設は次のとおりであった。

 取水施設
 〈垣生〉集水管(径九〇〇㍉㍍)二〇五㍍、ポンプ井三、連絡井一
 
 浄水施設
 〈垣生〉緩速ろ過池四、浄水池一、ろ過池用ポンプ四

 送水施設
 〈垣生〉ポンプ井一、送水管(径五〇〇㍉㍍)垣生~竹原間四、八三五㍍、〈竹原〉着水井一

 配水施設
 〈竹原〉浄水池二、ポンプ井二、配水ポンプ五、〈城山〉配水池四

その後も次の通り三次にわたり拡張工事を実施した。

                   計画給水人ロ

 第一次拡張事業   昭和三七年四月一日着工  昭和四一年一二月二四日竣工 一二万五、五〇〇人

 第二次拡張事業   同 四二年三月三〇日着工 同 五二年三月三一日 竣工 二五万〇、〇〇〇人

 第三次拡張事業   同 五一年一月三一日着工 同 五八年三月三一日 竣工 三六万五、〇〇〇人

その結果、昭和五八年三月末現在、松山市上水道の規模は、〈計画給水人口〉 三六万五、〇〇〇人 〈現在給水人口〉三五万六、九四六人 〈普及率〉八六・八% 〈計画一日最大給水量〉 一九万立方㍍ 〈一
日平均給水量〉一二万五、三六六立方㍍ 〈一人一日最大給水量〉五二〇㍑となった(写真公2-7参照)。
         
 今治市の上水道

 今治市は蒼社川が排出した土砂で形成された沖積層であるため、井戸水の水量は豊富であったが水質が飲用に不適なものが多かった。そのため市民の保健衛生面並びに入港船舶に対する給水の必要もあって、早くから水道敷設が論議されてきたが、大正九年(一九二〇)市制施行を契機に水道設置の要望が高まった。そのため市は大正一〇年度において上水道調査費五〇〇円を計上して、基本調査を進めた。この調査は昭和六年まで毎年継続して実施され、水質調査・水道敷設計画・試掘井戸のさく井などを行ったが、計画が適切でなくまた多額の経費を要するなどの理由で、長らく具体化するに至らなかった。
 しかし、昭和七年(一九三二)三月、元大阪市水道部長の澤井氏が現地を調査した結果、蒼社川の伏流水を水源として極めて経済的に敷設できることが判明したので、それに基づき基本計画を作成し、同年五月一二日の市会において「上水道敷設事業施行の件」をはじめ関連する諸案件を可決した。よって直ちに内務大臣に事業認可を申請し、翌八年八月認可された。この今治市創設水道の事業概要は次のとおりである。
 〈給水区域〉今治市一円 〈計画給水人口〉五万五、〇〇〇人 〈一人一日最大給水量〉一五〇㍑ 〈平均給水量〉一〇〇㍑ 〈一日最大給水量〉八、二五〇立方㍍ 〈水源〉蒼社川の伏流水(日高村大字片山地内蒼社川左岸堤内桑園。現今治市片山水源地)〈集水管〉径七五〇㍉㍍有孔コンクリート管一五〇㍍。径四〇〇㍉㍍管延長一、九 三〇㍍(ポンプ井→配水池)  〈配水管〉径七五~四五〇㍉㍍、延長五万三、四二二㍍
この工事は昭和九年三月着工し、同一一年三月末工費六六万七、一八九円(うち国庫補助金一七万一、〇〇〇円、県費補助金一三万六、八五一円その他起債)で完成し、四月から給水を開始した。当時市の歳入は約六〇万円であったから、これは画期的な大事業というべきで、事業規模は既設の宇和島市(一日最大給水量五、六二六立方㍍)を上回る県下では数少ない戦前完成の本格的な都市上水道であった。
 その後、次のとおり拡張工事を行った。
 第一次拡張事業 昭和三〇年一二月着工、三六年三月完成。〈給水人口〉一〇万人 〈一日最大給水量〉二万四、〇〇〇立方㍍ 〈総事業費〉二億〇、六八八万円
 第二次拡張事業 昭和四一年四月着工、五一年三月完成。〈給水人口〉一〇万八、〇〇〇人 〈一日最大給水量〉五万六、〇〇〇立方㍍ 〈主水源〉玉川ダム 〈総事業費〉二六億七、五六〇万円
そして、昭和五九年度末の事業規模(今治市水政局調べ)は次のとおりである。
 〈給水人口〉一二万五、二三二人 〈行政区域内人口〉一二万五、六〇二人 〈普及率〉九九・七% 〈一日最大給水量〉六万三、七九〇立方㍍ 〈一人一日最大給水量〉五〇九立方㍍

 八幡浜市の上水道

 八幡浜市は海岸部に位置し、もともと水利に乏しいにもかかわらず水の対策は一向に講じられず、水の悩みが長く続いた。ようやく昭和四年になって、一部有志が簡易水道組合を組織し、同年一一月計画給水人口二、〇〇〇人、一日最大給水量一六八立方㍍の小規模水道を起工し、翌五年二月完成したが、一般住民はその恩恵にあずかることができなかった。
 そのため、昭和初期に相次いだ夏の干ばつで特に海岸沿いの住民は飲料水の欠乏に苦しみ、一般町民の間に本格的な水道施設を要望する声が高まった。そこで町当局(当時)は上水道敷設を計画し、昭和七年(一九三二)一二月内務大臣の事業認可を得て、翌八年一一月着工し、一一年三月完成した。なお既設の組合簡易水道はこれを買収し、町営創設水道に統合した。創設水道の規模は次のとおりであった。
 〈給水区域〉旧八幡浜町一円及び大字矢野町の一部 〈計画給水人口〉二万人 〈一日最大給水量〉二、五〇〇立方㍍ 〈水源〉千丈川とその支流五反田川の合流点の下流新川 〈工事費〉既設組合水道の買収費を含めて一五万七、六九三円(全額起債)
その後次のとおり拡張工事を行った。
 第一次拡張工事 〈着工〉昭和二七年八月 〈完成〉三一年三月 〈工事費〉五、三〇〇万円 〈計画給水人口〉三万六、〇〇〇 人 〈一日最大給水量〉八、一〇〇立方㍍ 〈水源〉松柏地区千丈川左岸。
 第二次拡張工事 〈着工〉三四年三月 〈完成〉三六年八月 〈工事費〉二、三五〇万円 〈計画給水人口〉四万人 〈一日最大給水量〉九、〇〇〇立方㍍ 〈水源〉五反田地区にさく井。
なおその後も施設の整備・充実を図り、昭和五七年度末の事業規模は次のとおりとなっている。
 〈計画給水人口〉四万八、四六二人 〈現在給水人口〉三万八、八六四人 〈普及率〉九〇・九% 〈一日計画最大給水量〉二万二、〇六〇立方㍍。

 新居浜市の上水道

 新居浜市は戦前一般に水が豊富で、殊に市の中央を流れる国領川の河水はほとんどが伏流水となって、一般住民の飲料水や工場用水をまかなったので、水道の必要性はあまり感じられていなかった。ところが昭和二一年一二月の南海地震によって市内一帯の地盤が沈下して、水量が枯渇し、特に海岸に近い市街地では井戸水に塩分が浸入し、湿地帯には汚水が混入する危険が加わるなどしたため、市民の間に水道の早期建設を望む声が高まった。
 これより先、市内の湿地帯である新田地区では、戦前既に小規模な簡易水道を敷設して一部住民に給水していたが、南海地震の影響で水源の井戸に塩分や汚水が浸入するようになったので、昭和二六年(一九五三)一二月、「簡易水道地盤変動復旧事業」の認可を得、二分の一の国庫補助を受けて補修・拡充工事に着手し、同二八年一〇月完成した。これは「滝の宮水道」と言われるもので、水源は新田地区の深井戸。計画給水人口三、〇〇〇人、一日最大給水量三六〇立方㍍、給水区域は市内新田町及び磯浦町の小規模なものであった。
 ところが、市中央部に対する南海地震の影響は日を追って激しくなり、昭和二八年には隣接する東部四か村を合併したこともあって、単に一部地区だけにとどまらず、市内全域に水道施設を建設する必要が認められるに至った。そのため昭和二九年一月、市議会において「上水道敷設」の件が議決され、直ちに厚生省に認可申請を行い、同年三月「南海地震地盤沈下復旧事業」として認可を得た。これに基づき同年九月起工し、翌三〇年一〇月には一部給水を開始した。続いて工事は順調に進められ、昭和三五年三月新居浜市創設上水道が完成した(図公2-3)。その規模は次のとおりであった。
 〈給水区域〉尻無川以西の市街地 〈計画給水人口〉三万五、〇〇〇人 〈一日最大給水量〉七、三五〇立方㍍
 〈水源〉市内滝の宮町及び政枝町に深井戸三 〈工事費〉一億七、七〇〇万円(うち国庫補助一五〇万円)。
なおさきに設置していた新田地区の滝の宮水道は、新居浜水道創設に伴って統合された。またこれとは別に、市の東部旧角野町(昭和三四年新居浜市に合併)には、新居浜創設水道建設以前既に水道が敷設されていた。その概要は、
 〈着工〉昭和二五年四月 〈完成〉二七年三月 〈給水区域〉旧角野町一円 〈計画給水人口〉一万一、〇〇〇人 〈昭和三一年現在給水人口〉五、一五五人 〈普及率〉三四% 〈一日最大計画給水量〉一、六五〇立方㍍ 〈工事費〉二、二一〇万円(うち国庫補助金四〇〇万円)〈水源〉国領川伏流水、であった。この施設は、角野町が新居浜市に合併されたのに伴い、新居浜水道とともに一括経営されることとなった。
 新居浜市の上水道はその後も拡張整備が進められ、昭和五七年度末の規模は次のとおりとなった。
 〈計画給水人口〉 一三万人 〈現在給水人口〉 一二万一、九八九人 〈普及率〉九〇・六% 〈一日計画最大給水量〉六万八、一四〇立方㍍ 〈一日平均給水量〉三万〇、二六一立方㍍

図公2-1 県内上水道の普及

図公2-1 県内上水道の普及


図公2-2 今治市上水道の経路 ―ダムから家庭まで―

図公2-2 今治市上水道の経路 ―ダムから家庭まで―


図公2-3 新居浜市創設上水道系統図

図公2-3 新居浜市創設上水道系統図