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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

三 西南戦争と日本銀行の開業

 西南戦争と通貨の増発

 明治政府は、二六五年間に及ぶ徳川時代を受け継いで新政権としてスタートしたが、廃藩置県をはじめとして内政の確立に数々の苦難を繰り返しながらも、ともかくも最初の一〇年を無事に乗り切ることができた。新政府の中心勢力は、何と言ってもかつての倒幕の急先ぽうとなった薩摩であり、また長州である。とかく武力を背景として事を進めたがる薩摩出身者に対して、長州出身者は時代の進運を察して、内政の充実を第一にすることを主張する。両者の思想上の確執は絶えないのであるが、遂に明治一〇年(一八七七)、これまでの狂瀾怒涛の時期を、実力をもって切り開いてきた薩摩の勢いは西南戦争となって爆発した。明治維新の盟友は今となっては、戦場で雌雄を決しなければならない運命に置かれた。同年二月中旬に西郷隆盛は兵を率いて鹿児島を出発する。その進路に横たわる熊本城には、政府軍が西郷軍の東上を許さないとして待ち構える。激しい戦闘と一か月に及ぶ寵城戦の後に、三月下旬に至りようやく援軍として到着した政府軍は、まず田原坂の堅塁による西郷軍を撃破して、熊本城の救援に成功し凱歌をあげる。同年五月に西郷軍の一部は大分県を攻略するが、戦争の帰趨は既に政府軍に帰していた。東京では鎮圧の兵力を増強するために巡査を募集し、陸軍省に付して新選旅団を編成する等、政府は総力をあげて内乱の鎮定に当たった。同年九月下旬に西郷隆盛は鹿児島の城山において自刃して戦争は終わりを告げた。新政府が成立してから一〇年目を迎えた最大の難局を、明治政府は自らの実力をもって収拾することに成功した。これによって明治政府の勢威は大いにあがったが、そのために要した軍費は膨大なものがあり、その始末をつけるために、政府は同年末に予備紙幣二、七〇〇万円を発行しなければならなかった。勝利を手中にした後に、政府は通貨の増発によるインフレとの闘いにやがて腐心しなければならなくなる。

 国立銀行の設立ブーム

 明治九年(一八七六)、正貨準備の緩和等を内容とした国立銀行条例の改正が行われてから後は、国立銀行の設立は極めて活発な時期に入った。条例改正時の明治九年度末までに設立された国立銀行は、総数で一二行であったが、条例改正後の明治一〇年度に入ると、同年度の認可数はその二倍を超える二七行に達し、総数で三九行となった。さらに明治一一年度になると、前年度の西南戦争の際の国内景気上昇の影響を受けて、国立銀行の設立申請は一種のブーム状態に達し、その有様はわれもわれもと競い合うかのように相次ぎ、同年度中に設立の認可を受けた国立銀行の数は一〇九行に達した。従って年度末の国立銀行の総数は一四八行となっていた。このような状態を迎えて、政府は条例改正の目的は十分に達せられたものと判断し、また当初予定した資本金総額がほぼ満たされるに至ったこともあって、次第に国立銀行設立抑制の方針に転じ、明治一二年度においては、わずかに五行の新規設立を認可したにとどまり、同年一一月に京都第百五十三国立銀行の設立認可を与えた時点において、以後は国立銀行の設立を許可しないとの方針を明らかにした。
 明治六年八月に第一国立銀行が開業してからまる六年余を経過して、国立銀行の総数は一五三行に達し、日本国土のほとんどを被うに至った。しかし、その後の政治経済情勢の大きな変動を幾度か繰り返すなかで、一〇〇年余りの歳月を経た今日において、国立銀行設立当時の名称を伝える銀行はごく少数であり、四国に限ってみれば香川県高松市に本店を有する百十四銀行がみられる程度に過ぎなくなった。

 愛媛県における国立銀行の誕生

 西南戦争終了後の国立銀行の設立は、前述したように極めて旺盛なものがあった。このような気運は愛媛県においては比較的に早い時期に結実している。現在における地方銀行の基礎は、この時代に築かれたとみることができる。すなわち、明治一一年(一八七八)一月に第二十九国立銀行が資本金一○万円をもって開業の免許を受けて、同年三月に西宇和郡川之石浦(現保内町)において初代頭取清水一朗のもとで開業した。また、これよりやや遅れて明治一一年九月、第五十二国立銀行が資本金七万円をもって開業の認可を受けて、同月に温泉郡紙屋町(現松山市)において初代頭取小林信近のもとで開業した。この国立銀行は旧松山藩士族の出資が多く、翌明治一二年一月には資本金を一〇万円に増額している。前者の第二十九国立銀行は南予に位置し、後者の第五十二国立銀行は中予を拠点とする銀行であったが、東予地方においては、明治一二年四月に第百四十一国立銀行が、資本金五万円をもって開業の免許を受けて、同年七月に新居郡東町(現西条市)に初代頭取木村幾久太郎のもとで開業した。これら愛媛県における三つの国立銀行は、その内容に若干の相違はあったが、いずれも旧藩の士族授産を目的とした銀行であった。しかし当初、資金源として期待していた金禄公債の集まりが思うように進まず、他方では貸付けだけが先行する結果となり、さらには対象事業の経営難から貸付金の返済が滞る事態が起こる等から、その経営は決して順調とは言えなかった。
 ちなみに第二十九国立銀行の明治一四年の考課状によれば、最初の貸付先が旧宇和島藩主伊達家の機関銀行である第二十国立銀行(東京)であったが、その後、地元商業の発展の影響を受けて、対商人金融が七八%となって大部分を占め、旧士族に対する金融は四%に低下していた。また第五十二国立銀行の同年の考課状によれば、貸付金は旧士族に対するものが六四%と半分以上の割合であり、商人に対する金融は二二%となり、全体の四分の一にも満たない状況であった。なおこの銀行は、明治一二年七月に興産会社と同じく大蔵省為替方の取扱いを開始していた。なお、第百四十一国立銀行については、資料の都合でその内容が明らかではない。

 隣接県の金融機関の動向

 さて、愛媛県と対岸に位置する広島県は、古くから瀬戸内海の水路を通じて何かと交通の便がよく、経済的なつながりも深かった。また東西に長い愛媛県の南予地方は豊後水道を隔てて、大分県あるいは宮崎県との経済交流が活発であった。従って、これらの経済的通路を通って金融機関の業務が発達したのは自然の勢いであったと言える。全国的に国立銀行の設立が盛んとたった明治一一年(一八七八)一一月、尾道においては、広島県内の最初の銀行として、第六十六国立銀行が資本金一八万円・従業員三〇余名をもって誕生した。この銀行の行動半径はやがて尾道から島伝いに今治へ向かって伸びてくる。また翌年の明治一二年四月には、第百四十六国立銀行が資本金八万円をもって広島において設立された。同行の活動範囲は、開かれた内海を通し経済活動の流れに乗って松山へと向かってくる。丁度このころ、太平洋の向かい側の米国では、トーマス・エジソンが白熱電灯を発明していた。これと同じ白熱電灯が東京の鹿鳴館において点灯するようになるのは、八年後の明治二〇年のことであった。人々はそれまでのランプや瓦斯灯の生活から一挙に、まばゆいばかりの電灯の下での生活へ移されて行き、文明開花の恩恵を身をもって知ることができるようになった。しかし、そうした思いは、花のお江戸の出来事であって、それが四国の松山に到達するには、まだまだ歳月を必要としていた。
 当時の金融機関が国立銀行ばかりでなかったことは、既に私立銀行の三井銀行が明治九年から営業していたことで明らかである。これに引き続いて、明治一三年一月には、同じく私立銀行として安田銀行が東京において開業した。また同年の四月には、後の三菱銀行の前身である三菱為替店が同じく東京で開業している。さらにはこれら私立銀行の他に、政府系の金融機関として横浜正金銀行が、貿易港横浜を本店として明治一二年に創立され、翌明治一三年二月に開業している。同行は明治初期の輸入超過による金貨の大量流出を経験して、これに対処するためには、輸出を盛んにして外貨を手に入れる以外に方法はないとの考えから、外国為替と貿易金融の専門金融機関を設立する必要があるとの事情から生まれたものであった。

 愛媛の私立銀行・銀行類似会社

 明治一三年(一八八〇)は愛媛県下においても、多くの金融機関(私立銀行及び銀行類似会社)が誕生した年である。西南戦争による好景気と、これに乗じた多数の国立銀行の設立を眼の前にして、多少の資産と才覚ある者はその心が動かないはずはない。好機逸すべからずとばかりに、各地に各種の規模の金融機関があたかも雨後の竹の子のように数多く誕生した。それらの主なものを挙げると、次のとおりである。
 まず愛媛県下の最初の私立銀行としては、明治一三年六月、宇和島銀行が北宇和郡本町(現宇和島市)に資本金五万円、頭取佐野徳次郎をもって設立された。これより数年遅れて郡中銀行が明治一九年三月、資本金五万円をもって伊予郡灘町(現伊予市)に設立された。頭取は宮内直吉である。宇和島銀行の開設より一か月先に、楽終社が北宇和郡吉田町に資本金一万〇、八〇〇円、社長遠山矩道をもって設立されていた。これが後の吉田商業銀行である。
 これらの他に数多くの銀行類似会社が誕生しているが、代表的なものを挙げれば、積漸社(越智郡片原町、社長阿部直平)、称平社(伊予郡灘町、社長篠崎鎌九郎)、集贏社(喜多郡新谷町、社長平野正臣)、漸成社(北宇和郡丸穂村、社長告森桑圃)、南しゅん(金へんに隼)社(北宇和郡吉田本町、社長赤松則傚)などである。なお、既述した種生会社は明治一五年一一月には資本金三万五、〇八一円、社長清水静十郎となり、信義社と同様に銀行類似会社に名をつらねることになる。また、既に成立している興産会社は資本金一〇万円であり、年度末純益金七、五〇〇円を計上する等、銀行類似会社のなかでは最大の規模と利益をあげていた(表金1―3参照)。

 不換紙幣整理と不況の深刻化

 明治一三年(一八八〇)一月、大蔵卿松方正義は、かねてから懸案となっていた紙幣の整理に着手した。約一年の準備期間を経て、不換紙幣の大整理が本格的に進行し始めたのは、明治一四年一〇月からであった。また松方大蔵卿は紙幣の整理と並んで正貨準備の蓄積をはかり、正貨と紙幣の間の値開きができる限り無くなることによって、通貨価値の安定をはかり、さらには各国立銀行が、それぞれに発行している国立銀行券の統一をはかるために、蓄積した正貨を基礎として中央銀行を設立し、この中央銀行だけが兌換銀行券を発行することによって通貨の全国的統一をはかり、これを主軸として近代的な貨幣制度と金融制度を確立しようとした。このような大蔵卿の構想は、やがて一年後に日本銀行の創立となって現実のものとなった。その間、インフレと闘って通貨の価値を守るために、金融市場に過剰となった紙幣を大々的に整理することによって物価は次第に安定し、さらには下落するまでに至った。しかしながら、一方ではこのために商況が不振となり、不景気の状態をつくり出してしまった。そのなかでも中産階級以下の者は雇用の機会を失って、生活の困窮を訴える者が続出する有様となった。いわゆる松方デフレと称された時期であったが、これが明治一八年末まで続くことになって、その間に米価は表金1―4のように不況の深刻化とともに下落し、他方では農家の公租の負担が増大して、租税が納付できないために強制処分を受けた者が全国で一〇万人を突破したと言われる。

 日本銀行の開業と兌換銀行券の発行

 明治一五年(一八八二)六月、不換紙幣の整理と不況のまっただ中で日本銀行条例が公布となった。松方大蔵卿が年来あたためてきた構想はようやくのことで制度化する運びとなった。日本銀行条例公布の目的は、具体的には紙幣の整理と兌換制度の確立、そして健全通貨制度と銀行制度の整備、さらには近代産業育成の金融円滑化等、当時の混乱した通貨金融制度を根本的に建て直すことにあった。同条例による日本銀行は資本金一、〇〇〇万円、半額政府出資であって、同年の一〇月一〇日の吉日を選んで開業した。いわゆる「銀行のなかの銀行」(BANK OF BANKS)という言葉で表現される中央銀行が、わが国において初めて日本銀行として誕生した。言うまでもなくその誕生と同時に、日本銀行には銀行制度の中核的存在としての役割と、通貨の番人としての重責が双肩に課せられることとなった。この時以後、日本の金融制度は大蔵省の指導の下で、日本銀行を中心として展開されて行くこととなる。日本銀行本店が東京日本橋に開業してから早くも一年を経過して、明治一六年に四国松山の第五十二国立銀行は、日本銀行松山国庫金の取扱いを開始する。次いで翌明治一七年七月には兌換銀行条例が施行されて、日本銀行の兌換銀行券発行の体制は整えられた。あとは準備の完了を待つばかりである。造幣局ではおかね(硬貨)はつくるが、お札はつくらない。日本銀行券は大蔵省の印刷局でつくられて出番を待っていた。お札の表面には大黒さまの像が印刷されていたので、後になって一般に大黒札と呼ばれるようになった。明治一八年(一八八五)五月に、日本銀行は初めて兌換銀行券を世に送り出した。そして翌年からは日本銀行券を銀貨に兌換する事務を開始した。明治四年に新貨条例が制定されてから、わが国は金銀複本位制を採っていたのであったが、日本銀行の兌換銀行券の発行とともに、一時的ではあったが、銀本位制を採用することとなった。この制度が明治三〇年(一八九七)の貨幣法制定による金本位制採用の時期まで続くのであった。

表金1-2 愛媛県における国立銀行設立状況

表金1-2 愛媛県における国立銀行設立状況


表金1-3 銀行類似会社一覧表

表金1-3 銀行類似会社一覧表


表金1-4 米相場の動き

表金1-4 米相場の動き