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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

二 国立銀行条例の制定と改正

 明治初期における銀行業の創生

 徳川封建制度の下における金融機関としては、掛屋・札差・両替等があって、相当に普及し発達していた。しかし、それらは封建制度の崩壊、明治維新の諸変革によってかく乱され、ほとんどがその機能を失っていた。このような事情からして、明治政府による金融組織の育成は、新しく西欧諸国における近代的金融制度の移植によって行われなければならなかった。
 明治政府は明治元年に商法司を置いたが、翌二年には通商司をもってこれに代えて、貿易・運送・金融・商業組織の近代化を計画した。そのなかで通商司の全国八支署の下に設立された東京・大阪等の為替会社は、同時に設立された通商会社に対応する金融機関であって、その業務は預金・貸付及び為替等にわたって、政府より貸下げられた太政官札と、自らが発行する兌換券を使って、諸会社が必要とする商業資金を提供することを目的とした。しかしながら、その経営は特権と政府の保護の下で行われたために、当時の金融情勢に対する認識不足と適確な運営方針の欠如によって、数年も経過しないうちに失敗してしまった。
 為替会社が失敗した後に、政府は一方においては近代的貨幣制度の確立を急ぐとともに、地方において種生講に見られるような銀行類似会社が、各地に発生している事情にかんがみて、こうした傾向と並行して政府の指導の下に国立銀行の成立を急ぐこととなった。まず愛媛における銀行類似会社としては、まずは明治三年(一八七〇)八月、温泉郡本町(現松山市)に設立された「興産社」をあげることができる。興産社は松山藩の御用商人であり、当時、松山藩の掛屋(為替方)を預っていた栗田与三・仲田伝之□(長に公)(じょう)らの数人の手によって、地方産業の振興と凶作救済の目的をもって、藩の保護の下に設立されたものであった。そして明治五年八月に、当時ほぼ同様の目的をもって設立されていた商法社と、市街地の土地建物を抵当として、一般市民に対して金融の便を図っていた家質場所を合併して、新しく興産会社となった。この会社の資本金は六万円であって、貸金・預金・為替・物産の売買等を主な事業としており、同時に愛媛県の資金取扱いと用達を兼ねていた。明治七年(一八七四)には、この会社の汽船和合丸(五六トン)が三津浜・大阪間に運航を開始している。興産会社は明治二六年(一八九三)には、松山興産銀行となりその後、明治四〇年に仲田銀行となって、やがて伊豫合同銀行から伊豫銀行へと合流していくこととなる。
 次に、信義社は旧宇和島藩の士族等が明治五年八月、北宇和郡佐伯町(現宇和島市)にそれぞれ資本を持ち寄って資本金九、〇五〇円で設立したものであって、貸金業と活版印刷業を兼営していた。当初は貸金よりもむしろ活版印刷の営業に主力が注がれていたが、前述の興産会社と同様に信義社は後になって、金融機関的色彩を濃くしてくるのであった。興産会社が商業金融を主力としたのに対して、信義社は近在及び東宇和郡の製糸業等に対して不動産金融を中心として行った点に特色を有した。信義社はその後、信義株式会社と改組し、やがて大正一五年(一九二六)に宇和島銀行に合併されることとなった。
 さらにこれら二社よりやや遅れて、明治八年には西宇和郡川之石浦(現保内町)に、矢野小十郎等の同地方の有力者によって潤業会社が設立され、近在及び東宇和郡の製糸業等に対して資金の融通を行った。この会社は明治一一年、第二十九国立銀行の創立によってその任を終えて解散した。また同じ明治八年の四月に栄松社が、温泉郡(現松山市)に資本金七万円で旧藩主久松家の出資をもって設立されており、銀行類似の業務を営んだ。栄松社はその後、栄松合資会社を経て明治三九年(一九〇六)に第五十二国立銀行に合併される道をたどった。
 これら銀行類似会社はいずれも小規模であり、その運営は必ずしも組織立ったものではなかったが、いずれも後になって、正式な金融機関としての位置を確立していくものであって、これらの会社の存在が、その後の銀行業の発展の草分け的存在となり、愛媛の金融機関生成の基礎となった歴史的意義は、誠に大きいものがあると言わなければならない。

 国立銀行条例

 明治五年(一八七二)一一月、待望の「国立銀行条例」が制定される運びとなった。その内容は、銀行は株式会社の組織をとり、資本金は五万円以上が必要であること、またその六割は金札をもって政府に納め、これと引換えに六分利付金札引換公債証書を受け取り、さらに、この公債証書を抵当として同額の銀行紙幣を発行して、資金の収集と融通をつかさどることが認められた。この場合に、国立銀行券は正貨兌換であったので、銀行は資本金の残り四割を正貨で払い込んで、兌換準備に充当する必要があった。
 このようにして、資金の収集と融通の目的をもって各地に国立銀行が設立されることを明治政府が期待していたことは、『太政官布告』「貨幣流通のよろしきを得、運用交換を円滑にすることは、物産蓄殖の根元であり、富国の基礎である」と記録されたところによって明らかである。しかしながら、明治初期の情勢において、この条件を充足して国立銀行を設立することは至難の業であって、ます明治六年六月に第一国立銀行(現第一勧業銀行)が設立され、八月に開業したのを手はじめとして、これに続いて三銀行が設立された程度にとどまった。既に日本の社会では太陽暦が採用されており、あらゆる分野で新興の勢いが盛んであった。しかし一方では政府の台所は火の車であって、政府紙幣は濫発されており、対外貿易は輸入超過のため金貨の海外流出は止める術もなかった。明治政府はここで意を決して、明治九年(一八七六)八月に国立銀行条例を改正することとなった。
 国立銀行条例の改正とは、従来の国立銀行券の発行制限を緩和し、拡張することであった。銀行は資本金の八割に相当する金額の四分利付き以上の国債を大蔵省に預け入れて、同額の銀行券を受け取り、これを銀行資金として運用することができるようになった。この改正によって国立銀行券は、正貨兌換から政府紙幣兌換へと内容が改められ、また銀行券の四分の一に相当する政府紙幣を積み立てることが規定され、同時に銀行の最低資本金も引き下げられることとなった。このようにして、国立銀行券が正貨兌換ではなくて紙幣兌換の性格を帯びるようになり、その発行が容易となったことは、やがて国立銀行の設立が盛んとなる原因となって、各地に国立銀行を設立せんとする当初の目的は達成されたけれども、その後、政府紙幣の濫発とともに国立銀行券の過剰発行を引き起こし、ひいてはインフレーションの素地をつくることとなったのは避け難いことであった。
 このころ、華族・士族以下の家禄と賞典禄を廃して、金禄公債証書発行条例が定められ、士族授産のための養蚕や製紙業が各地に起こり、その資金面を担当する金融機関の役割が重要視されるような社会情勢が現出していた。愛媛県においても、銀行類似会社がこのような役割を分担したが、東京においてはこの時期に、わが国最初の私立銀行である三井銀行が明治九年(一八七六)三月に設立認可を受けて、同年の七月に資本金二〇〇万円をもって営業を開始していた。

表金1-1 明治5年11月の「国立銀行条例」によって設立された国立銀行

表金1-1 明治5年11月の「国立銀行条例」によって設立された国立銀行