データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

二 戦時体制下の社会

 恐慌→非常時→戦時経済

 昭和二年(一九二七)の金融恐慌、同五年の昭和恐慌の発生、そして恐慌期の六年九月に満州事変勃発、それにより株式・商品相場の大暴落など昭和初斯は激しく揺れ動く。さらに昭和一二年七月七日、蘆溝橋事
件が発生し、日中戦争の発端となる。同年七月一一日、政府は華北派兵を決定、七月二八日華北で総攻撃開
始、八月一三日、上海で日華両軍が衝突(第二次上海事変)し、戦局は漸次拡大へと向かっていく、そして昭和一六年太平洋戦争の勃発。わが国は、昭和恐慌から抜け出したのかどうかわからぬうちに、戦時経済へ
の移行を早めていった。まさに時代は「恐慌」から「非常時」へ、「非常時」から「戦時経済」への道をたどっていくのである。
 満州事変から日華事変へと時代が進む中、経済も平時経済から戦時経済へと方向を転じていった。経済の直接統制の必要から政府は、昭和一三年四月、「戦時ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セ
シムル様人的及物的資源ヲ統制運用スル」ことを目的にした国家総動員法を公布、直ちに施行したのである。
 戦時経済への移行に伴い物資不足が顕著となり、物価は騰貴した。そして昭和一二年八月、政府は暴利取締令の大幅改正をして物価抑制に努めた。取締対象品目も三二品目にまで漸次拡大した。とは言っても「暴利」とは、そもそも何か、その基準はなく、施行上多くの問題があった。そこで商工省は物品ごとに最高価格を設定した。しかし取引業者は市場で抱き合わせ、三転売買・綿糸織布(最高価格のとり決めなし)の売買などで、最高価格制度の網の目をくぐり抜けた。しかしいずれにせよ、自由主義経済社会での「自由なる価格形成」に対して、政府が直接介入し始めていくのである。また昭和一三年四月、政府は物価抑制のため物価委員会を発足させた。これは中央と地方物価委員会の二つから成る。前者は商工省に、後者は都道府県に設置された。

 戦時経済下の市民生活

 本県にも地方物価委員会が設置される。委員会は繊維品・食料品・化学工業品・金具品・燃料雑品など各分科会から構成される。委員長は古川県知事が就任、委員には地方財界人・学識経験者などから成っていた
。また松山市にも昭和一三年七月「松山市戦時経済統制対応委員会」が設立される。当委員会は、愛媛県戦時経済統制即応部と連絡・協力を密にしながら物価等の問題について審議する調査機関であった。つまり物
価統制・物価騰貴抑制・物価統制による業者の救済、物資・物価の調整に伴う監視、重要物資の廃品回収に関する事項などを調査する機関でもあった。当委員会設立と同時に松山市で委員会が開催されて、地方日用
品標準価格が決定された。この標準価格が松山市の公定価格とされ、この価格以上で商品を販売しないということを業者・消費者に公表した。委員会設立と同じころ、松山市内の呉服商組合・菓子商組合は、消費節
約・貯蓄実行などを協議して包装紙の廃止を決めた。これにより買物客は風呂敷持参を求められることになる。
 昭和一三年、物品販売価格取締規則が制定され、物価の抑制を行うが、実際は同規則制定から一年三か月間で、九・三%の物価上昇率であった。当局の公定価格は、最低取引価格として闇取引市場で利用された。このため政府は、中央物価委員会を強化して総合的・恒久的物価対策を目ざした。そして昭和一四年八月三〇日、物価統制実施要綱が決定された。その直後の九月三日、第二次欧州大戦が勃発し、わが国の物価に影響を及ぼし始めた。思惑がらみの物価騰貴に、政府は物価騰貴抑制の緊急措置を求められることになり、ここに九・一八ストップ令を含む価格統制令が、国家総動員法第一九条により、昭和一四年一〇月一八日に発布されるのである。九・一八とは政府の方針決定の前日九月一八日であったということ以外、特別の意味を持つものではなかった。九・一八価格に凍結された物品を「価格停止品」と呼び、これを表示するためにマル停マーク(停)が付けられた。価格統制令以後の新しい商品には、マル新マーク(停)が付けられた。業者の組合で九・一八価格と異なる価格を協定し、当局の認可を受けた商品には、マル協マーク(協)が付けられ、認可価格品には(許)マークが付けられた。
 政府の意図とは反対に商品には、公定価格と闇価格が付けられた。統制が厳しくなればなるほど闇取引は活発となった。昭和一三年八月に経済警察制度が発足しているが、経済警察創設時から昭和一六年(一九四一)三月までの間に闇取引などで検挙された者の数は、全国で四六万人に及ぶものであった。愛媛県でも闇取引などの経済事犯で検挙された者は、昭和一五年に三、六○○人、検挙数六〇〇件であった。主な違反としては、宇摩郡の製紙原料紙くず、今治市を中心にしたスフ・タオル、松山市の米穀類、上浮穴郡の三椏・楮、喜多郡・宇和島の焼ちゅう・砂糖などの闇取引事件などがあった(『愛媛県警察史』、四七五ページよ
り)。
 昭和一四年二月八日、経済統制諸法令の趣旨内容を広く知らしめるために「愛媛県経済警察協議会」(『愛媛県史資料編社会経済下』商業参照)が設立された。会長に知事、副会長に経済部長・警察部長が就任、
協議員には各産業団体・主要商工会議所・主要市の市長・学識経験者が加わった。協議会の目的乃至役割は、経済統制諸法令の違反防止対策の協議をはじめとして、警察と経済諸団体との意見の交換などであった。
 政府の統制強化は、繊維製品・米・麦・砂糖・マッチ・木炭・大豆・ゴム靴・酒・味そなどの商品に及び、昭和一六年四月一日「生活必需物資統制令」の発布をみることになる。この統制令は切符制に法的根拠を
与えた。愛媛県でも、砂糖・マッチ・木炭などの生活物資に配給制度が既に導入され、市民生活に不便をひき起こしていた。マッチ・砂糖不足からマッチ飢饉・砂糖飢饉と言われ、市民生活のすみずみにまで統制経済の波はおし寄せていた。砂糖の不足は、サッカリンやハチミツで補い、また新聞では、砂糖について一人当たり必要消費量や栄養面からその功罪を論じ、砂糖不足による市民の不満を和らげようとする動きがみられた。
 奢侈品も統制の対象にされた。昭和一五年七月六日公布、翌七日実施の「奢侈品製造販売制限規則」がそれである。一般に七・七禁令と呼ばれた。この禁令の指定物品は、高級衣料・貴金属・家具・高級玩具・象
牙製品・高級飲食器具・厨房器具・果物など多岐に及んでいる。業者の中には、廃業・転業を余儀なくされる者もあらわれた。『中外商業新聞』七月六日付には、「奢侈品けふ限りの夢、国民生活廻れ右」の見出しで七・七禁令を報じ、『海南新聞』七月一○日付には、「奢侈品を駆逐し一段と生活を刷新せよ、奢侈品は実生活には不必要、手持品も使用御遠慮の事」という見出しで七・七禁令を市民に報じていた。県内では、七・七禁令実施とともに精動女子部と警察が街頭に出て、奢侈品を身につけている人達に注意・警告を発した。七月一九日付『海南新聞』は、「街頭の奢侈品退治、婦人精動と警察が提携して〝満艦飾娘〟等へ警告」の見出しで当時の様子を伝えている。町中には魔女狩り的現象と「ぜいたくは敵だ!」のスローガンの立て看板が見られ、国民の統制下の消費生活から束の間のぜいたくをも認めないような社会が現出してきた。
 戦時下、物資は軍事優先で消費にまで物資を回す余裕は、もはやなくなっていた。繊維の場合、昭和一七年一月、「繊維製品配給消費統制規則」で配給・統制下におかれている。これは点数制に基づく総合衣料切
符制の導入である。衣料切符制の適用範囲は内地のみで、国民一人当たり一か年の衣料消費総合点数は、年令・性別・職業に関係なく都市部とその周辺では一〇〇点、その他は八〇点とする。各種衣料には点数がつ
けられ、自己の点数の中で購入が許された。この総合点数も戦況の悪化につれ数回引下げられることになる。砂糖については昭和一九年末から配給打ち切り、米は配給量二合三勺から二〇年七月に二合一勺に減らされ、しかも配給米の中身たるや雑穀や代替品の比重が高くなる。市民の食卓にはカボチャ・乾パンが登場し、日常的な光景となる。戦争遂行のため、政府は直接消費生活の統制を強化し、国民生活に多大の不便をもたらした。皮革は戦時重要物資のひとつで、このため製靴業者は、苦肉の策としてゴム・紙を代用品として利用、業者の中には、北海道産の肉の厚いスルメイカの皮を使用するものもあらわれるなど、戦時経済下、生活必需品の生産・消費についてのエピソードには事欠かない。

表商3-3 松山市日用品標準価格

表商3-3 松山市日用品標準価格