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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

二 米騒動

 庶民生活と物価

 大戦の影響は国内経済社会の各方面に及んでいた。大戦ブームは企業家に意外な利潤をもたらし成金が輩出した。一方には物価の騰貴と低賃金に喘ぐ人々が多数いた。生活苦に喘ぐ人々は富の不平等な分配に反感を禁じ得なかった。大正六~七年ごろから物価騰貴から生活苦に悩む人々が、賃金引上げ要求を理由に同盟罷業の行動に出た。県内では大正六年(一九一七)一〇件の同盟罷業がみられ、同七年には九件が確認される。庶民の主食である米価は、大戦勃発時から大正五年にかけて他の物価に比較して低い水準にあった。本県の大正五年の米価(中)は一石当たり一三~一五円台の水準にあった。大戦中、米価がどのような推移をたどったかは、表商2-1の示すとおりである。また大正元年から八年にかけての愛媛県の物価の推移を示したのが図商2-1である(詳細は『愛媛県史資料編社会経済下』商業参照)。三五~三六品平均物価指数は、米(中)・裸麦・大麦・小麦・大豆・しょう油・清酒・茶・鰹節・牛肉・食塩・和白砂糖・和赤砂糖・洋赤砂糖・木炭・石油・半紙・美濃紙・紡績綿糸・洋産生金幅・晒木綿・晒金幅・花色絹・甲斐絹・松角材・松四分板・杉四分板・薪・和鉄塊・洋鉄塊・藍玉・干鰮・鯡油粕・石炭の品目から成る。二八~二九品目は、第一次大戦の影響を強く受けて、高い価格を示した石油・松角材・杉角材・和鉄塊・洋鉄塊・藍玉・石炭を除いた物価指数である。一四~一五食料品とは、米・裸麦・大麦・小麦・大豆・清酒・しょう油・茶・鰹節・牛肉・食塩・和白砂糖・和赤砂糖・洋白砂糖・洋赤砂糖の食料品の物価指数である。図商2-1の物価指数を見ても分かるように、大正五年から六年三月まで米・裸麦の物価は大きな変動をみていない。米の場合、大正元年を一〇〇として大正五年三月六四、同年六月六七、同年九月六八と大きな変化はみられない。大正五年一二月になると物価指数は七四の水準にあって、翌六年三月に七二であった。米価指数の急激な上昇をみたのは、大正六年六月から翌七~八年にかけてである。大正七~八年の二年間の米価指数の最低値は、大正七年三月の一二五、最高値は大正八年一二月の二五九であった。裸麦も米と同じような傾向をたどっている。裸麦の物価指数の最低値は大正七年三月の一三三、最高値は大正八年一二月の二六六であった。米・裸麦の物価指数は大正七年六月ごろまでは一四~一五食料品平均物価指数よりも低い水準にあったが、大正七年九月ごろからそれらの平均物価指数を凌ぐ高水準に転じていった。米価の騰貴に対して賃金は思うように上がらず、人々の不満はつのるいっぽうであった。このような世相を反映して、ノンキ節にはこう歌われた。「米はなくても日本人は偉い、それに第一辛抱強い、天井知らずに物価が上がっても、湯なり粥なりすすって生きている、ノンキだね」

 暴利取締令

 物価騰貴に対して政府が無為無策をきめこんでいたわけではない。大正六年九月、政府は農商務省令第二〇号、暴利取締令(暴利を目的とする売買の取締りに関する件)を発令し、物価の騰貴に歯止めをかけよう
とした。政府は米穀取引所・綿糸取引所に対して買占め、売惜しみの行為があれば営業停止も辞さないとの強い態度でのぞんだ。対象品目には投機対象となっていたとされる米穀類・鉄類・石炭・綿糸・綿布・紙類
・染料・薬品であった。同法による物価の抑制は一時的成功をおさめたが、決定的抑制は難しかった。事実政府は大正七年には、暴利取締令を発動して米相場師岡半右衛門に戒告を発し、岡所有の買玉を三〇日以内
に処分することを命じた。これは全国取引所の間から非難の声がわきあがった。松山・新潟の米穀取引所を除く全国の取引所では同盟罷業の挙に出た。

 米価の暴騰

 政府の意図に反して米価は騰貴の傾向を強めていた。人々は米価の上昇に対して所得の伸びが追いつかないために不満をつのらせていた。米騒動勃発前夜の大正六年(一九一七)六月ごろからの『愛媛新報』から
当時の模様を追ってみよう。「本年三月頃までは白米一升が僅か一六銭位だったのが、今では二五銭もするので一定の収入によって生活を営んでいる家は大恐慌、でも馬鹿と相場には勝てぬので何うすることも出来
ず愚痴をコボして居る。之に反して思う笑壷に入れているのは商家と農家とでお役人等の苦しみは空吹く風位にしか思っていない。……」(大正六年六月一九日付)。大正六年一〇月には松山の白米小売相場一斗二
円六五銭の新記録を生み、八幡浜では大阪相場と同じに白米相場が奔騰し、町民は奸商的行為からであると非難した。大正六年一〇月三〇日付『愛媛新報』は、「松山の白米小売相場一升二七銭。松山はじまって以
来の高値。新米も一石二四円七〇銭の高値。」と米価騰貴の様子を伝えている。白米小売相場一升二七銭でみると、五人家族の一日消費量を二升だとすると、一日五四銭を米代に支出することになる。一か月では米
の消費支出は一六円以上になる。大正六年六月時点での巡査の月給は平均一六円であったから、給与のすべてが米代に支出されたことになる。ちなみにこの時期の小学校女子教員の平均月給は一二円五八銭から一五
円六九銭、男子教員は一八円五〇銭から二三円五七銭、県庁の属・技手の月給は、一五円六〇銭から三二円五〇銭、書記で一六円七〇銭から三七円四〇銭の水準にあった。米価の騰貴のため誰もが生活困難を痛切に
感じていた。官庁や企業の間では、物価騰貴に対応して給与の引上げを行ったが、多くの人々は生活苦に喘いでいた、というのが実情である。米価はその後も上昇の一途をたどっていく。大正六年一一月、松山の白
米小売相場は二八銭五厘という空前の高値がつき、同年一二月上旬、糯米が一升二八銭の高値となった。米価の上昇は大正七年になっても続いた。事態を重視した若林賚蔵知事は、愛媛県告諭を大正七年四月一九日
に発した。それは、日常必需品を保蔵して社会の平静を乱すことのないようにとの趣旨である。大正七年六月三日の松山の白米小売相場は栄吾無砂一斗三円、一等二円九五銭、二等二円九〇銭、三等二円八〇銭であった。そして四日後には、それぞれ五銭の値上がりをみせた。六月二
七日の松山期米は二六円七九銭の相場を示し、これは大阪期米相場を一円一九銭上回るものであった。そのため世間では、米穀仲買人が買煽りをして暴利を貧っているのではないかといった噂が流布した。これに対
して松山米穀取引所理事香川熊太郎は、仲買人の買煽りの事実はないと反論した。

 米騒動の発生に向かって

 大正七年(一九一八)六月、米価の騰貴の時期、三津・松山・郡中の米所有者はほとんど売り尽くして持ち米はないといった状況であった。また伊予郡では在米六万俵のうち、ほとんどが農家の手持ちだと言われ
た。郡中港からは、そのころ一日平均四〇〇俵、一か月で一万一、一九四俵が大阪・広島・山口・兵庫へと積み出されていた。ちなみに郡中町(現伊予市)の米消費高一か月一、二〇〇俵であった。
 さて米価暴騰の原因は一体何であったのか。まず第一は第一次世界大戦により、ヨーロッパの食糧需要が増大し、日本からヨーロッパへ米の輸出が増加したことである。かつ日本への輸入米であるはずの朝鮮米・
サイゴン米がロシア・アメリカヘと供給されたこと。そのため国内の米穀需給のバランスが崩れることになった。対外的要因に加えて対内的要因としては米穀生産量の低迷が考えられる。愛媛県でも米の生産は大正
六年の一四万三、〇〇〇トンから一三万六、〇〇〇トンと減少していた。このように米の海外輸出と外米輸入の頓挫、そして国内米穀生産量の減少が米価の騰貴につながり、ここに農家の売り惜しみや米穀取引業者の買
い占めなどの思惑が絡んだのである。
 思惑が思惑をよんで米価は騰貴の一途をたどり、全国各地で米騒動が発生することとなる。生活苦から人々が立ちあがって自然発生的に米騒動が全国各地で頻発した。政府は物価騰貴の原因を「奸商」、「米商人
投機」に帰せた。しかも新聞がそれに同調するかのように報道をしたことも、米騒動を誘発する結果となったとも言われる。
 米騒動をみると、米移出に反対して騒動が発生しているようである。米の積み出し港で大衆は県外移出を米商が行うから米価が騰貴するとみた。今治では大正七年八月九日、漁民(約三〇〇戸)が一昨日来の暴風
雨のため不漁となり生活困窮のところ、この日、米穀商が県外への移出米(玄米一、〇〇〇俵)を積み込んでいるのを漁民の妻が目撃し、これを家々に告げたところから神社などに人々が集まり始め、移出米積み込
み船と米商を襲撃せんとする動きへと発展していった。このため警察などが乗り出して事態の収拾に当たった。西条では米穀商が米を買い占め、これを県外に移出しているとして、住民が「山椒大夫」、「人殺人」と罵声を浴びせた。米移出による米価の暴騰に対する人々の批判から騒動の発生。また米価の騰貴のため生活困窮を打開するために、その救済を役場・資産家などに強要するものや、米穀商に対して米価の引下げ・廉売を強要するものもあった。宇和島の米騒動は、米価の騰貴から代替食としていた甘藷が、日本酒類醸造株式会社により買い占められ、価格をつり上げている、との不満から同社の焼打事件が発生した。暴徒は会社に対して甘藷の買い入れ中止を強要する。
 愛媛県下では、米価の急騰につれて不穏な空気がみられた。大正七年八月の旧盆に人々は広場で盆踊りで集まっていた。今治では旧盆の二二日、盆踊り終了後も八〇名が残って、午前二時ごろから路上で盆踊りを
始め不穏な事態が発生。北宇和郡岩松村(現津島町)では八月二二日、臨江寺で恒例の素人角力が開催されていた。午後七時ごろ、一人の酔払いが当地の多額納税者宅に乱入、暴力をふるって警察に連行された。こ
れを知った当地の住民三〇〇人が派出所に殺到している。米価の騰貴は人々に不穏な事態を引き起こさせる引き金となっていた。米価の高値に驚いて米を買わずに帰る人々もみられた。八月八日、松山の米屋では、
米相場乱調子を理由に白米小売相場の発表を中止、この日以後、「米価は空前の狂騰・市民怨差の声おこる」、と『海南新聞』は報じている。米価暴騰下、米屋の中には人々に米の廉売をするものもいた。大洲では米屋が協同して、安米販売所を設けて町民一人一回五升以内を一升三八銭で廉売している。松山市役所では外米廉売計画を八月九日に発表し、その日の夕方から市内の白米小売値は一升五厘~二銭方下落した。また三津の米穀商は在米二〇〇石を九六〇円で売放した。しかし米価の上昇傾向は依然続く。八月一三日、松山署には「現在の米価の高値は不正米穀商の売惜しみによる、市民はすでに餓死の状態におちいっている」、と述べ、この改善策を求めて、「それいかんによっては市内の不正米穀商を悉く焼打ちにする」といった脅迫状が届いた。この一三日、政府は「米価対策費として一、〇〇〇万円の支出を計上、これで地方蔵穀者から適当な価格で米を買い上げ、これを必要な地方に分配する」と発表した。翌一四日、内帑金三〇〇万円を天皇に下賜願うことを決定した。本県へは五万三、〇〇〇円が配分された。政府の緊急対策が発表される日、本県では若林県知事が米価騰貴に関する告諭を発表、それは全国における内地米は一般需要を充たすに十分であり、県民は平静の態度をもって常道を逸することのないようにとの内容である。米は十分にあるというものの、市民は納得しにくいものがあった。このころ、米一升五二銭、人足一日の労銀七〇銭で、一日働いて一升五合の米も買えない有様であった。

 米騒動の発生

 八月一四日、郡中町(現伊予市)において最も心配されていた米騒動が起こった。町内で細民救済寄附金を集める一募集人が酒商を訪れ、寄附を願い出たところ「五〇銭の米が何だ、夫が買えぬようなら死んでし
まえ」、と言ったことが騒動の原因となる。住民は、この暴言を知るや憤激して酒商宅を襲撃せんと八月一四日午後七時ごろ、法螺貝を吹き立てて三〇〇名が港町住吉神社に集結し始める。彼らは酒商宅を襲ったの
ち、同町内の二〇余りの米穀商や精米所等を襲った。郡中騒擾も同日午後一一時ごろ鎮静化に向かった。郡中米騒動による被害者は米商以外の人々にも及び、その被害状況は表商2-2のとおりである。 八月一四日の郡中米騒動は翌一五日松山へ波及した。同日午後九時ごろ、素鵞村(現松山市)米穀商の自宅に同村の住民が細民救済のため米価割引販売を強要したことに端を発する。米穀商は「自分は既に細民救済のために相当の義損金を寄附しており、米価割引の必要はない」と反発した。戸外で様子を伺っていた住民十数名が、これに怒って同家に侵入して「安売りしなければ叩き潰せ」と叫び、家の中を荒した。結局、その米穀商は暴徒を前に「米価十五銭にて販売」との貼紙をさせられることになった。勢いに乗った暴徒は、その足で近くの米穀商をも襲い、「米価十五銭」の貼紙をさせ、さらに彼らは港町の呉服商神谷鶴之助の店へおしかけた。同店でも暴力を振い、「白米五百俵を一升十五銭にて販売」の貼紙をさせた。一五日の夜、港町・小唐人町界隈は納涼散歩者も多数出ていたため、その中から同調者もあらわれ、暴徒の数は五〇名に増えた。暴徒はここで二手に分かれ、一派は弁天町の森川米穀商に向かったが、警察官に阻まれ、大事に至らなかった。残り一派は米穀取引所理事香川熊太郎宅へと向かった。彼らは香川宅の門灯・門戸などを壊して引上げた。松山米騒動も八月一五日未明に鎮静化した。
 松山米騒動の背景には米穀商達が米を安く仕入れ、高く売って利益を得ている。しかも量目その他でごまかしを行い暴利を貧っている。さらに神谷呉服店・香川熊太郎らが定期米の買占めをして、市価を暴騰させ
ているといった噂が引き金となっていた。松山では一六日も騒動再発の動きがみられ、銀行家・大商人へは脅迫状が届けられていた。そのため松山警察署は厳重な警戒体制をとった。県知事は松山第二十二連隊から
七箇中隊の派遣を要請し、午後五時ごろから市内の要所々々に武装兵が警備に当たった。厳しい警戒体制により不穏な動きが発生したものの一七日午前四時、市内の警戒体制は解除された。
 郡中・松山の騒擾事件は、松山の米穀商達に米の廉売や小売値協定を促すことになった。また久松家・新田長次郎・神谷呉服店・大丸呉服店・井上要・仲田伝之<長公>からは多額の米廉売寄附金が提供された。

 日本酒類醸造会社焼打事件

 松山米騒動が鎮静化するや、そのあと宇和島で騒擾事件が発生する。宇和島では日本酒類醸造会社が米の代替食となっていた甘藷を買い占め、価格を騰貴させているという声が市民の間で高まっていた。しかも同社が神戸の鈴木商店の経営であったことが一層、襲撃の対象にされた。当時、世間一般では米価の騰貴を奸商鈴木商店、つまり金子直吉こそ元凶であるという見方が根強くあった。しかし金子直吉自身は、政府の指示により外米二六万袋を緊急輸入し阪神・中国・四国地方、いわゆる米騒動頻発地域に廉価で補給して、米価の抑制に少なからず努力している。また同店の鈴木よねは、一〇万円の廉売資金を提供していた。しかし大衆は鈴木商店本店焼打のほか、系列会社である神戸製鋼所・神戸新聞社・神戸信託銀行・兵庫精米工場を襲っている。鈴木商店に対する一般大衆の動きは宇和島にも伝わり、鈴木商店経営の日本酒類醸造会社は、甘藷の値上がりもあって住民の注目するところとなっていた。
 大正七年八月二一日未明、宇和島町の電柱約一〇〇本に「米価調節協議につき八月二二日午後九時鶴島町埋立地に集合すべし、共助団」という貼紙がなされる。これにより同日午後七時ごろには数千の群衆が集ま
り、米価引下げ問題を協議する。当然、結論は米価値下げ談判となり、群衆の一団が町の米穀店におしかけ米一升二五銭の廉売強要や米穀店を荒し回るなどの暴挙を働いた。他方、群衆の一派は鈴木商店経営の日本
酒類醸造会社に押しかけていた。暴徒は当直者に、「我々細民の糧食である甘藷の買占めをするとはけしからん」として、その買占め中止をせまった。会社は焼酎・味淋の原料として大量の甘藷を買い入れていた。
暴徒の一人は会社支配人幸松文太と技師長に対し「甘藷買入れ中止に加えて、会社が細民を苦しめたのだから三年間、営業を停止しろ」と強要した。同社地区は騒然となっていた。その時、会社裏手から火の手があ
がる。暴徒は火災発生による社員の消火作業を妨害し、中には万歳を唱える者がいる有様で、遂に同社は全焼してしまう。火災発生から一八時間後に鎮火したが、被害額は一〇〇万円にも及んだ。日本酒類醸造会社
が焼打ちにあったのは甘藷の買占め、鈴木商店に対する世間の反感、特に宇和島では鈴木商店が、地元資本家によって設立された日本酒精会社を強引に買収したとの見方が強かったことがあげられよう。しかし、こ
の事件で山下亀三郎は、「鈴木商店が日本酒精会社を強引に買収したのではなく、同社の経営者である山村豊次郎・福井春永の二人が日本酒精会社の買い取り方を山下に依頼してきたのだ」と語っている。
 宇和島の騒擾事件では、強盗・放火・鎮火妨害・放火窃盗・窃盗罪などの罪名で逮捕者五〇名を出した。
 郡中・松山・宇和島のほか愛媛県内各地で、不穏な動きが八月の旧盆の前後にかけてみられた。温泉郡新浜村(現松山市)・三津浜町、八月一四日、西宇和郡八幡浜町(現八幡浜市)では町内劇場の警鐘を築港付
近に持って行き、乱打して人々を集め、米屋襲撃の動きをみた。八月一六日には喜多郡五十崎村(現五十崎町)、翌一七日伊予郡中山村(現中山町)、八月二一日、北宇和郡吉田町・新居郡氷見町(現西条市)、八
月二二~二三日にかけて、越智郡桜井町(現今治市)では住民が志々摩が原に集合して米の廉売の要求をせんとの動きをみた。八月二三日、北宇和郡岩松村(現津島町)、二五日、上浮穴郡小田町村、二六日、宇摩
郡上分町(現川之江市)で不穏な動きをみている。

 米廉売の動きと騒動の終わり

 大正七年八月一四日郡中に端を発した米騒動事件によって、県内各地で米の廉売の動きがみられた。また外米が到着して各地に割り当てられる。松山市では外米廉売のため公設市場が八月二四日に開設され、市民
に一升二〇銭で三升までの購入が認められた。休業中であった伊予米穀取引所では二四日、立会いを再開した。県内各地で米の廉売に加えて施米・現金給与施行の村もあらわれた。また寄付金の醵出もあった。新居
郡西条町(現西条市)では三、〇〇〇円、多喜浜村(現新居浜市)二、六四五円、新居浜町(現新居浜市)一、一四〇円のほか、伊予郡からは、八月一五日から二六日の一〇日間で一万二、四九一円の寄付の提供をみた。町・村で米廉売や寄付金の提供は、米騒擾事件の発生を少なからず終熄させることになったようである。米の廉売は県内各地で実施され、その実施状況は(『愛媛県史資料編社会経済下』商業の大正七年八月~一〇月における愛媛県内廉売状況を参照されたい。)米騒動も一応の終熄をみたものの九月になると再び米価の騰貴をみ、九月一七日には白米小売相場一升五〇銭に騰貴し、再び騒動発生の動きがみられた。そのため若林県知事は、「本県の米価は全国一で、米所有者が妥当な相場で売らないならば収用令を適用する」と発言した。この収用令適用をおそれた農家からは持米の投げ売りが始まった。またこの時期、新米が出まわり始め、米相場も次第に落ちつき始めた。
 米騒動も次第に終熄し、県議会では今回の騒動に対して、県当局・警察当局の対応をめぐって質疑応答がみられた。政友会の深見寅之助は県会において「今治町・三津浜・吉田町の場合、不穏な動きに対して警察
当局が未然に防いだが、しかし郡中・松山・宇和島の騒動発生は、警察当局に手落ちがあったのではないか」と厳しく追求した。
 米騒動については幾つかの原因があったことは言うまでもない。『岡田温手記』(岡田慎吾所蔵)は、その原因をふたつにわけて記している。騒動惹起の近因は米価と物価の暴騰、遠因としては富の不平等な分配に対する羨望・憤慨・反抗心であったとしている。

表商2-1 愛媛県における米価の推移

表商2-1 愛媛県における米価の推移


図商2-1 大正元年~8年の愛媛県の物価指数

図商2-1 大正元年~8年の愛媛県の物価指数


表商2-2 郡中米騒動被害者とその被害状況

表商2-2 郡中米騒動被害者とその被害状況