データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)
一 景気の変動
大正の社会と経済
明治時代はヨーロッパからの近代文化の積極的な移植に全力が注がれてきた。大正期は、そうした明治の精神を受け継ぎながら、独自の文化をつくり出した。わずか一五年足らずの短い時代であったが、そこには近代資本主義社会のさまざまな顔があった。全国各地に電化の波が押し寄せ、近代交通の発達は都市化を促進し、都市労働者の形成をみた。農村地域にも社会の新しい波が押し寄せていた。ラジオや映画の普及・レコード・蓄音機・カフェー・ダンスホールが松山の町にもあらわれ、市民に娯楽をもたらした。新しい動きの中で、社会の底辺には低賃金労働者が多数いたことも忘れてはならない。他方、戦争景気により一旗あげた企業家もあらわれ、人々は彼らを戦争成金と呼んだ。多数の低賃金労働者と他方では巨万の富を築いた成金の存在は、当然のことながら貧困や政治などに対する人々の関心を高めさせた。松山市では『旬刊新聞・大衆時代』が発刊され、県内の政治や労働問題、商工業問題、社会問題を市民層に訴えかけていた。
日露戦後の外資導入政策の悪影響、国際収支の悪化など政府の経済政策も行きづまりの状態を呈し、また産業界では日露戦後の工場拡張の結果、生産過剰と過剰設備に直面していた。今治の綿ネル工場では綿糸暴落と生産過剰で操業短縮と賃金カットで窮境を乗り切ろうとしていた。県内の不況に喘ぐ産業にとって大正三年(一九一四)の第一次世界大戦の勃発は、さらに追い打ちをかけるものであった。県内の養蚕業者・製糸業者は大戦勃発で窮地に追い込まれた。生糸相場は二〇〇円の大暴落となり、中小製糸工場では休業は不可避とされた。海外輸送の停止と原棉の輸入途絶のため、今治の福島紡績では操業短縮をはかり、工場労働者を二分して、交代で五日間の休業策を取り入れた。また砥部の陶器業者も輸出途絶のため操業短縮へと向かい、伊予絣業界でも大戦の影響を受けていた。業界全体が操業短縮や賃金カットで不況対策をとり入れ、大衆は底知れぬ不況感に陥っていた。愛媛県議会では大正三年一一月、予算審議の過程で清家吉次郎が綿織物の販売不振、染料不足から一反の綿織物について、染めた商品の場合二〇銭以上の損失を綿織物業者が被っていること、生糸では一〇〇斤について三〇〇円程の損失を業者が被っていること、その金額を概算すると県下で、一〇〇万円をくだらない損額であると論じているが、この内容からも当時の不況をよみとることができよう。
大戦景気
大戦勃発から一年後、アジア市場はヨーロッパ商品の供給を断たれたこともあって、その埋め合わせとしてわが国の商品を求め始めた。しかも銀塊相場の暴騰の結果、中国・インドの購買力が増加し、アメリカの生糸需要も加わってわが国の産業はにわかに活気づいた。巷では大戦景気から莫大な利益をあげた成金が注目された。大戦景気は国内に物価騰貴・企業利潤の増大・株価暴騰・企業熱の高まりをもたらし、また輸出拡大による正貨の流入は、金融の緩和をもたらし大戦景気は過熱の一途をたどった。大正六年二~三月の『愛媛新報』の記事から大戦景気の状況が、うかがえる。「伊予製糸会社が好況で需要に応じきれず丸網抄紙機増設」、「大洲地方の改良半紙好況。相場昻騰して一貫目四円の高値。」「北宇和郡吉田の機業者保田安吉ら織物株式会社(力織機一〇〇台)創立中。」「北宇和郡八幡村の西村製織合資会社(原田式力織機五〇台)開業、十月までにさらに力織機一〇〇台増設の予定。」「松山紡績会社、英国に注文した機械二八台のうち一四台到着して据付け。」
松山紡績会社は綿糸が未曾有の騰貴を示し、綿布の輸出拡大のためであろうか、大正五年九月、六、〇〇〇錘の紡錘を増設し、女工五〇〇人を新規募集するほどの活況下にあった。綿糸・生糸価格は大正四~七年にかけて投機家の思惑も加わって暴騰の一途をたどっていく。その間、政府はあまりの投機熱に対して無視できなくなり、投機抑制のため暴利取締令を大正六年九月に発令する。綿糸価格の場合、同法により、大正六年七月の四六五円から同年一〇月に二一六円に下落するが、しかし大きな綿糸需要からその後高騰していった。大戦景気についてもう少しみてみよう。
大戦景気は今治の繊維産業にもはっきりとあらわれている。綿ネル生産の場合、大正元年五六万七、〇〇〇反、同四年九七万四、〇〇〇反、五年一四〇万反、六年一八五万反と急増している。大正六年ごろ、今治の興業舎は松宮合名会社工場(力織機一一四台)を借りて第二工場とし、自社製品の販路をインド・ジャワ・ロシア市場にまで伸ばそうとしていた。ちなみにこの時期、今治の綿ネル機数・手機二、四五五台、足踏機四八〇台、力織機二、二七八台、職工数七、七九九人(男七〇七人、女七、〇九二人)であった。さて製糸業界も好況の波に乗って工場の拡張や女工不足に直面していた。北宇和郡では工場の設備投資の拡張の結果、多数の女工を募るものの各業界の雇用増加のため女工不足に直面していた。『愛媛新報』大正五年一二月一六日付記事から女工不足の状況を知りうる。「北宇和郡には製糸工場が現在三十六ヶ所、釜数一千九百がある。来年春には南予製糸株式会社の二百釜のほか、松丸に百釜の工場新設がなされる。しかも生糸界好況に伴って既設工場が拡張をするとなれば、来年春繭製糸業の頃には二千五百釜以上に増加することは必至である。当然、その段階にいたれば女工の争奪戦がひきおこされるであろう。……」。本県の製糸業は、大戦勃発による欧州養蚕の大凶作のため世界の供給不足が生じたこと、かつアメリカからの生糸需要に支えられてブームを享受できた。大正五年一一月、生糸価格一四〇円台に騰貴し、業界にとって、またとない利潤獲得のチャンスであった。製糸業界の好況の波に乗って大正六年一二月、南予製糸株式会社(資本金三〇万円、二〇〇釜)が山下亀三郎・今西林三郎らにて北宇和郡八幡村(現宇和島市)に創立された。山下は船成金として一世を風靡した人物である。また今西は嘉永五年(一八五二)北宇和郡の農家に生まれ、明治一五年(一八八二)に大阪同盟汽船取扱会社を設立して社長になった。彼は関西において多方面で活躍し、大阪工業会創設に当たっての中心人物でもあった。大正期、関西財界の有力人物であったが、大正一三年(一九二四)惜しくもこの世を去った。製糸業界の好況期には、周桑郡丹原町に周桑製糸会社、温泉郡横河原に愛媛蚕業株式会社、北宇和郡松丸に明治製糸株式会社が設立される。大正六年の製糸業戸数七四七戸(器械製糸一〇一戸、座繰製糸五三六戸、玉糸製糸二六戸)であった。
生糸産額は大正五年、九万五、九〇二貫で金額にして七九八万四、七三〇円、大正六年一一万九、四五二貫、一、〇一五万一、九七〇円で、同七年一二万八、七六六貫、一、三〇六万一、〇三三円、八年一五万〇、八九三貫、二、四三〇万九、六八三円と生産量・価額ともに増加した。しかし大正九年には両者とも減少をみた。製糸業が盛んになると繭取引は、これまでの製糸業者や仲買人と農家の直接取引から繭取引所で行われ始めた。大正八年、宇和町に繭取引所が創設された。また八幡浜には、株式会社八幡浜繭糸取引所と株式会社西宇和繭売買所の二つがあった。前者はカネカ(社長は高橋万太郎)と呼ばれ、後者はマルニと呼ばれ大正一一年に創立されている。マルニの社長摂津静雄は摂津製糸会社の社長でもあった。八幡浜の繭取引は、浜松・豊橋をも凌ぐほどで、中四国・九州の繭相場を支配するとまで言われ、カネカ・マルニ両者で年間四〇万貫を取引していた。大戦景気は産業界に設備拡張の動きをもたらした。また紡績業では吸収合併の動きがみられた。大正七年後半期に本県の綿糸紡績工場は、倉敷紡績松山工場(旧松山紡績)、近江帆布株式会社八幡浜工場(旧愛媛紡績)、今治紡績合名会社(旧福島紡績)、三島紡績、東洋紡績川之石工場(旧大阪紡績)の五工場となった。東洋紡績川之石工場では、職工数約二、〇〇〇人の大会社であった。製糸業界でも合同化の動きがそのころみられた。大正九年の戦後恐慌が訪れると企業合同の動きは消え去ったが、その推進の声は摂津静雄らによって唱えられていた。前後するが大戦景気は製紙業界にももたらされた。大戦勃発によって、イギリスからの苛性ソーダ、ドイツからのウッドパルプの供給途絶は業界を一時、窮地に陥れたが、原料供給を他の国に求めることで窮境の克服に成功した。大戦景気による物価騰貴とともに紙価も高騰を続け、紙業界は好況ムードに酔いしれた。伊予紙の相場は大戦前、一本(四、〇〇〇枚)三円五〇銭から大正六年ごろ、五円三〇銭にハネ上がっていた。値上がりの結果、宇摩郡には紙成金と呼ばれる新興資本家を生み出した。ブームは鉱山や造船にも及んでいた。例えばアンチモニー価格は大正三年(一九一四)一〇〇斤一六円から同四年五月、六〇円に高騰し、銅価は第一次大戦勃発時の一トン四〇ポンドから、大正四年には八〇ポンドと二倍の値上がりを示した。銅価格の騰貴は県内に鉱山熱をもたらし、当局に提出された採掘願いは大正四年末で八九〇件を数えた。採算がとれず廃鉱となっていた鉱山にも再び採掘が開始されるなど、大戦の影響は大きなものがあった。船腹過剰に陥っていた海運業界もブームの到来をみた。大戦により船腹需要は拡大し、船価は上がり船舶建造熱が高まった。大戦によって船舶の傭船料はヨーロッパで四五円、国内で三八円、船価では七〇〇円と大戦前夜に比べて十数倍の値上がりをみた。山下亀三郎は海運ブームで巨利を得、世間は彼を船成金と呼んだ。それまでの彼は明治四〇年(一九〇七)から大戦前夜にかけて海運業界不振で青息吐息の状態で、周囲の人々に彼は泥亀と呼ばれるほどの窮地にあった。しかし海運ブームの到来で山下は好機をつかむことに成功、大正七年には、この一年間だけで三、〇〇〇万円の巨利を得た。
山下は大正六年五月、山下汽船を合名会社組織から株式会社組織に変更し、資本金一、〇〇〇万円にして神戸に本店を構えた。山下は汽船会社のほかにも福島炭鉱株式会社(資本金二〇〇万円)、奔別炭鉱株式会社(資本金一〇〇万円)、さらには新興財閥の鈴木商店と共同で、伊予商船株式会社(資本金一五〇万円)を設立するなど事業心旺盛な人物であった。県内の造船業界も好景気であった。波止浜船渠造船所をはじめ中小造船所は昼夜兼行の建造で賑わいをみていた。大戦勃発で造船用鋼材が入手できないため、木造船の建造が一時的に高まりをみた。業界のブームで労働者不足が顕著となり、下駄の歯入れが船大工として働く有様であった。当然、船大工の間では賃金の上昇がみられた。一日二円五〇銭の賃金を得るものもあらわれ、月収七〇円、しかも夜業のため月収一〇〇円の者も珍しくなかった。
大戦景気沸騰の中、産業界は予想外の利潤を手にした。国内では米麦が豊作のため大正五~六年ごろまで物価は騰貴しなかった。また賃金は上昇したものの、相対的に低い水準にあったところから企業利潤は大きくなった。そして企業設立・設備の拡張の動きがみられる。資本調達は、輸出増加に伴う正貨の国内流入や日本銀行の金利引下げによって、国内金融が緩和されたために容易となっていた。