データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

四 岬十三里に見る交通の変遷

 佐田岬半島は延長約五〇㎞、日本で一番細長い半島である。最大幅六・ニ㎞、最狭部は〇・八㎞しかない。九州に向けて細長く突き出し、伊予灘と宇和海を分けていて、伊予灘側を上場、宇和海側を下場といっていた。岬十三里というのは、この細長い半島の道のりを表す言葉である。
 こういう地形だけに、総じて交通不便で、陸の孤島とか陸続きの離島とかいわれてきた。げんに、八幡浜・三崎の海上航路が戦後、離島航路補助法に基づく航路助成を受けて運営されてきたのは知る人ぞ知るである。

 海上交通

 それだけに、海上交通がまず発達した。明治二〇年代からいわゆる渡海船営業を行うものが現れる。『伊方町誌』によると、同町小中浦の渡辺紋治が明治二五年、八幡浜通いの渡海船を始めている。また、同じころ大通喜代蔵・渡辺政敏らが土佐宿毛方面に航海し始めた。次いで二八年には、川之石の中妻弥七が三崎・八幡浜間の渡海船営業を始めた。
 本格的な沿岸定期航路は、明治三六年(一九〇三)宇和島運輸が汽船品海丸によって三崎・八幡浜航路の運行を開始したのが最初である。寄港地は、三崎・井ノ浦・名取・大久・川之浜・加周・九町・伊方・川之石・八幡浜の順であった。これ以降汽船による航路は急速に発達し、明治四〇年、末永四郎平が瀬戸内側の三机・長浜・高浜航路を(大正二年には三机・宇品線も)、四五年には宇和島運輸が三瓶名取線を開設、さらに大正中期にかけて三年、伊方・八幡浜線(菊池重久)、六年、三瓶・八幡浜・別府線(青木運輸)、七年、三崎・八幡浜線(八幡浜運輸)と新しい航路(業者)の登場が相次ぎ、沿岸航路花ざかりの時代を迎え、これが昭和の初めごろまで続く。特に宇和海側では宇和島運輸・青木運輸・八幡浜運輸の間で三つ巴の競争が繰り広げられる。地元町村側も積極的で、明治三七年西宇和郡会は瀬戸内側の磯津・二名津間に二〇〇円、宇和海側の三崎・三瓶間に四〇〇円の航路補助費支出を決めている(『西宇和郡制史』)。
 瀬戸内側の航路は宇和海側ほどにぎやかではなかったが、八幡浜に鉄道が開通する昭和一四年(一九三九)ごろまで、そしてその後も松山市・中国・阪神方面への短絡ルートとして重要な役割を果たした。当時この方面への往来には、宇和海側から山越えして大成・伊方越・九町越などから乗下船するのが常であったからである。『愛媛県誌稿』は西宇和郡の海運について「本郡は海岸の出入に富み無数の岬角半島に突出して到る処良錨地を抱き、西方は遥かに九州東岸の諸港と相対し、南は高知県及南予の諸港と相通し、船舶の出入頻繁にして海運の利頗る大なり。」と述べている。
 しかし、昭和一四年国鉄八幡浜駅の開業(及び国鉄の南下)は海岸航路に徐々に影響を及ぼしていく。まず瀬戸内側の航路が消えていった。次いで宇和海側も自動車交通の発達につれて次第に航路数・便数が減少、遂に昭和六〇年九月末をもってこの海域から定期航路が消滅した。(三崎半島関係航路の変遷については「県史資料編社会経済上」交通運輸をも参照されたい。)

 道路交通の発達

 明治三三年(一九〇〇)西宇和郡議会は土木費補助規程を制定して、里道の改修に着手、特に八幡浜・三机線はこの地域の幹線であり県指定線に準ずる重要道路として郡営とすることが決議された(明治三七年)。大正八年(一九一九)道路法の公布に伴い、西宇和郡議会は郡内道路の整備に乗り出し、九年三月郡道の認定を表交3―26のとおり決定した。『愛媛県史概説』によると、大正九年以降のこの地域における県道の認定状況は左記のとおりである(なお、郡道制は、大正一二年(一九二三)廃止された)。
  大正 九年四月  八幡浜川之石線
  大正一〇年五月  川之石長浜線 川之石三机線
           大洲川之石線
  大正一二年四月  三崎三机線
  昭和三年 九月  三机三崎線 三机長浜線
 昭和三年(一九二八)には、県議会において「三崎半島梯形道路計画」が決議された。図交3―17のとおりで、八幡浜から宇和海側の各町村を経て三崎に至る路線を県道甲号線とし、長浜町から瀬戸内海側に沿って三崎に至るものを県道乙号とし、さらに要所ごとに半島横断道路を開設しようとするものであった。まさに、三崎半島道路マスタープランであり、現在でもそのまま通用するものである。しかし、この計画はほとんど実現をみないまま終戦を迎える。戦後の昭和三三年ようやく県道八幡浜三崎線が完成、同路線は三七年に二級国道大分大洲線として認定され、その後国道一九七号となって現在に至っている(一九七号については後述)。
 ここで、この地方におけるバス交通の歴史を簡単にふりかえっておこう。昭和五年、八幡浜・保内・川之石間に中央自動車のバス路線が開通する。この路線の運行者は三共自動車を経て伊予鉄道に引き継がれる。戦後になって伊予鉄バスは、昭和二三年五月伊方線、二六年一〇月三机線、そして右に述べた道路開通に伴い三四年一〇月三崎線を開設、ここに初めて八幡浜・三崎間のバス路線が開かれたのである。この間、人々は海上航路に依存して八幡浜方面に往来せざるを得なかった。

 頂上線

 国道一九七号は高知市を起点として四国西南部を通過し大分市を終点とする延長二七〇・八㎞に及ぶ路線で、四国西南地域と九州中部を結ぶ唯一の幹線道路である。またそれは、岬半島を縦貫してこの地域を八幡浜市・大洲市さらには県都松山市と結ぶ地域幹線道路である。この道路の前史はさきに述べたように長く険しいものがあった。佐田岬半島部分におけるこの道路の改築工事は、昭和四一年度から調査を開始、四五年度から着工し、図交3―18のようにほぼ全線にわたって旧道と離れた短縮ルートをとって施工されており頂上線と呼ばれている。すでに一部開通しており、昭和六二年度には全線開通の見込みである。現道の八幡浜・三崎間五四・一㎞が三九・一㎞に短縮され、所要時間も従前の一一○分から五〇分と半分以下に短縮される。このルートは前述のように昭和四四年開設の国道九四フェリー(三崎・佐賀関)を通じて大分県と結ぶ九四連絡幹線道路である。また将来は、九四海底トンネル(現在は鉄道トンネルとして計画されている)によって九州と直結されることによって、東の本四連絡橋と結んで西日本の幹線ルートとなる可能性も秘めている。

表交3-26 郡道認定道路(大正9年西宇和郡会)

表交3-26 郡道認定道路(大正9年西宇和郡会)


図交3-17 三崎半島梯形道路計画(昭和3年愛媛県会)

図交3-17 三崎半島梯形道路計画(昭和3年愛媛県会)


図交3-18 国道197号と関連道路の状況

図交3-18 国道197号と関連道路の状況