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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

五 リアス式海岸のショートカット――南予の運河――

 南予地方の海岸線はいわゆるリアス式海岸で、あるいは湾入深く、あるいは狭長な半島が突出し、変化に富み景観は優れているが、海上・陸上共に長い迂回を要し、交通不便の一因となっている。そのため、この地方にとって特に重要な意味をもつ海上交通の不便を緩和するために、ここにあげる三つの運河(人工航路)が掘削されている。

 船越運河と細木運河

 北宇和郡津島町と南宇和郡内海村の境界あたりから、長さ二〇㎞近い半島が曲がりくねって宇和海に突き出ている。由良半島であり、この尾根を郡境線が貫通している。半島の中ほどからやや付け根寄りの船越地区を開削したのが船越航路であり、船越運河とも呼ばれている。この地名からわかるように、陸地の幅が狭くなっているところで、昔の人はほんとに船をかついで山を越えたのであろう。昭和二九年(一九五四)運輸省の手で三浦半島の細木航路と共に調査を開始、細木航路開削に続き三五年度から総工費二億三、〇〇〇万円と七年の歳月をかけて完成をみた。これにより、約一〇㎞の半島迂回距離短縮があり、水産物増産、船舶の燃料費節約など多大の効果がみられるに至った。延長は約三〇〇m、水深三m、底幅二〇m、最大航行可能船型は約一〇〇トンである。潮流の年間平均流速は二・〇ノットである。四九年七月、運輸大臣によって開発保全航路(運輸大臣がその管理・維持について責任をもつ)に指定された。
 細木運河は、宇和島市の西端、宇和海に突出した三浦半島の先端寄りに位置し、細木航路とも呼ばれる。航路開削の事業は、昭和二九年(一九五四)運輸省第三港湾建設局による調査によって着手され、同三一年着工、総工費約一億円と五年の歳月をかけて竣工した。これにより約二㎞半島迂回距離が短縮され、漁獲物増産を含めて年間数億円の経済効果があるものとみられている(『愛媛の港湾』)。なお、航路の通過船隻数は年間約三〇万隻(昭和五五年調べ)であり、この海域に多い遊漁船による利用も含まれている。航路の規模は、延長約一九〇m、水深三m、底幅二〇mで、最大航行可能船型は約一〇〇トンである。また、潮流がかなり激しく、年間平均流速は二・六ノットに達する。四九年七月一三日、運輸大臣によって開発保全航路に指定された。

 奥南運河と山下亀三郎

 奥南運河は三つの中で一番歴史が古い。北宇和郡吉田町の西端・大良鼻の基部に位置し、宇和島湾と法華津湾を結ぶこの運河(航路)は、江戸時代初期にさかのぼるもので、間の堀切りと呼ばれていた。『吉田町誌』によると「東宇和郡沿革史」に、寛永三年(一六二六)法花津新蔵人、奥浦鼻(間口)の堀切工事を為す。南北長百弐拾間横参間なり。這は新蔵人資産豊富奢に長じ鷹野をなす、其科料として此工事を命ぜられしものなり(不鳴條)、と出ているという。
 明治四三年(一九一〇)当時には、延長一一〇間、幅最広水面上八間、最狭水面下五間、深さ干潮時干潟となる。満潮時九尺、五〇石以下小船通過、大良回航より二里近くなる。日々通船約五〇隻、土橋七間と出ている(『奥南村誌材料』)。大正初めには土橋も欠落、運河も土砂の流入によって舟行に支障をきたす状態になっていた。村当局は、運河改修の請願書を郡に提出していたが、折よく喜佐方村(現吉田町河内・沖村)出身の山下亀三郎(山下汽船の創設者)の後援が約束されたことによって、改修計画はにわかに具体化、大正七年(一九一八)七月、山下の寄付金を加えて郡の直営事業として掘削に着工した。しかし、玉津側出口の岩盤掘削に手間どり、昭和二年(一九二七)ようやくにして完成した。
 運河のほとりには、

     頌  徳
  往昔法花津氏ノー族此ノ地峡ヲ掘割シテ舟行ヲ通ス爾来年ヲ経ルコト久シク砂石堆積シテ屡村民ヲ苦ム会々大正六年喜佐方ノ人山下亀三郎工費トシテ私財数万金ヲ投ス郡即一大工事ヲ企・(画へんにりっとう)シ年ヲ閲スルコトト五資ヲ費スコト十有余万ニシテ成り舟行自在又往年ノ苦無ク幾多ノ船客漁人等皆氏ノ徳ヲ頌セサルナシ乃此ノ碑ヲ建設シテ之ヲ後昆二伝フ
     昭和二年四月           奥南村

とあり、いまに地元の人はこれを山下運河と称している。なお、橋梁架設工事は村営で施行、大正一五年に竣エし、奥南橋と命名された。
 現在の奥南運河は、昭和三〇年代以降の整備によって以前の屈曲していた水路を改良し一層掘り下げたもので、水深三m、底幅二〇mが確保されており(延長は約四〇〇m、なお維持浚渫が続けられている。昭和四九年一〇月、運輸大臣によって開発保全航路に指定された。