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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

四 三津浜港から大松山港へ

 歴史的に松山港の中心をなす三津浜港に焦点を当て、松山市における港湾の発展を跡づけてみよう(『松山市誌』 ほかによる)。
 天保桝形を中心とする三津浜港は、その当時としては画期的なものであり、帆船中心の時代には瀬戸内有数の良港の名をほしいままにしたが、新しい汽船時代の港としてはほとんど役に立たないものとなってしまった。そこで、表交3―22に見られるとおり、明治初年以降、地元の有志を中心にして度々築港の計画が出されたが、実現するに至らないまま明治二〇年代を迎える(その当時の姿は小説『坊っちゃん』に描かれているようなものであった)。

 三津浜対高浜

 ところが、明治二四年(一八九一)一月伊予鉄道が株主総会において松山~三津間の鉄道を高浜まで延長することを議題にあげたのを契機に、それまでは必ずしも顕在化しなかった高浜港との対抗意識が三津浜港関係者に俄然強まることとなった。伊予鉄道はかまわず高浜までの延長を実行する。そして案の定、山陽鉄道・大阪商船を結ぶ宇品航路の船車連絡運輸が開始される(明治三六年三月)。これをより便利にするため高浜駅が桟橋に近い埋立て地に移設されるやら、大阪商船会社は支店を三津浜から高浜に移すやらで三津の人々の心中は穏やかならぬものがあった。町は伊予鉄三津駅と港間の人力車賃に補助を出して船利用客の負担を減じようとしたが、こんなことではとうてい高浜港の優れた船車連絡の便宜には対抗できなかった。
 問題をこみ入らせたのはこの三津浜対高浜の対立に政治的対立がからんだことである。高浜整備を推進する伊予鉄道の社長井上要は進歩党の代議士でもあったので、三津浜側はあげて対立政党の政友会勢力を応援しこれを利用しようとした。反伊予鉄意識がこうじて、鉄道で打撃を加えようと、明治四〇年(一九〇七)には松山電気軌道会社が設立され、当時まだ松山にはなかった電車を伊予鉄道と併行して走らせ、両社の激しい競争風景が全国の話題となる(『愛媛県史概説』上)ような事態も起こった。しかしこの時点では三津浜港の退勢をくつがえすことは不可能で当時の新聞は次のように書いている(伊予日々新聞明治四二年七月一三日付)

  「高浜開港の設備ようやく整いて大阪商船支店は高浜経営に全力を注ぎ、其汽船は三津浜を去って高浜に錨を投ずることとなるや、三津浜は俄に貨客の来往減少して其生存の基礎に一大動揺を来しぬ。次で宇和島運輸汽船も又寄港を廃止するに至り、三津浜はわずかに社外不定期船の寄港によって三百年来商港として立ちし港湾の余命を保つに過ぎざる有様となりぬ。今日十一年に於ける出入船舶数を見んか、汽船千五百九十九隻、帆船百六十隻にして之を高浜開港以前、三十九年の汽船七千百五十二隻、帆船千三十六隻に比せんか、出入共に殆んど五分の一に過ぎず、従って旅客貨物の数に於ても、又大に減少を来せり」

 こうした状態の中、政治情勢は三津浜側に有利に変わっていた。すなわち、政友会系の県知事安藤謙介が就任していたからである。明治四一年三津浜築港費が県会で可決され、同四二年七月には多数の来賓のもとに三津浜築港起工式と祝賀会が行われた。明治期を通じて衰退の一途をたどっていた三津浜に光が差してきたようだった。ところが、好事魔多し、同年七月安藤知事の休職、代わって伊沢多喜男の就任によってこの光は一瞬にして消え去った。加えて三津浜築港推進の中心人物の汚職事件が発覚、泣き面に蜂の有様であった。しかし、大正期に入っても関係者の地道な努力が続けられ、大正五年(一九一六)ようやく町営築港計画が県の認可するところとなり、同年八月起工、同一二年五月竣工式を挙げることとなった。

 三津浜港から松山港へ

 下って昭和三年(一九二八)、町は当時漸増しつつあった機帆船の入港に対応するため内港の拡張改修工事予算を可決した。この費用を捻出するため町当局は思い切ったことをやった。三〇〇年間民営の歴史をもつ三津の魚市を買収し、町営に移したことである。この工事は昭和六年着工、同一六年に完成したが、これによって三津内港は「絶対安全な内海随一の安全港、機帆船港」となった。
 昭和一二年六月新浜村が三津浜町(ともに現松山市)に合併され、以後高浜港は三津浜町に編入され、内務省告示により高浜港は三津浜港に統一改称された。これにより三津浜対高浜問題は行政面では消滅したことになる。それもあって、これより先の一二年四月、三津浜町長高橋惣太郎は日本港湾協会に、三津浜・高浜両港を含めた大三津浜港の港湾計画策定を依嘱した。これが大松山港計画につながっていく。というのは、当時からぼつぼつ松山市との合併問題が取沙汰され始めていたからである。町当局としては大三津浜港計画のための工費(日本港湾協会の案では総工費三六〇万円)をどう捻出するかに苦慮していたのである。結局、三津浜町出身の黒田政一松山市収入役(のち助役・市長)らの努力によって、一五年八月松山市との合併が実施された。高浜・三津浜問題はより大きい袋に包みこまれる。
 昭和一六年丸善石油の進出などがあり、松山港になってからの計画は大規模でより工業港的なものになる。一七年内務省神戸土木出張所に立案を依頼した松山港港湾計画は、総工費一、八〇〇万円、現内港入口防波堤より八〇〇m沖合に、大可賀新田北西端より北々西方向へ延長一、二四〇mの防波堤を築き、港内泊地を浚渫、一万トン級船舶の航行回転を可能にすることなどを含んでいた。現在の外港である。しかし、この計画は着工間もなく戦時の混乱の中で中止される。

 大松山港の建設

 戦後の松山港整備は三津浜内港から着手された。戦前のものを第一期とすれば、第二期工事である。昭和二二年(一九四七)に始まり同二五年に完了した。外港の修築は二二年度から運輸省第三港湾建設部(現第三港湾建設局)の手に移され、再開される。その後、西部工業地区への企業の進出が相次ぎ、それに対応する工業港的機能の整備が進められる。原油をはじめ輸入貨物も増え始め、昭和二六年重要港湾、同二九年開港の指定を受けた。
 一方、終戦直後は一時停滞した旅客輸送も急速に復活し、大小定期船の出入りが頻発になり、昭和四〇年代以降はそれらの多くがフェリー化したため、従来の港には見られなかったタイプのフェリー埠頭や桟橋の整備が必要となってきた。『松山市誌』(昭和三七年)は、その時点において、今後大松山港はどのような計画をもって発展させるべきであろうかと自ら問い、次の三つの方向を挙げている。第一は工業港としての整備、第二は商港としての整備、そして第三は観光港としての整備がそれである。それ以降、松山港はほぼこの路線に沿って整備が進められて来たが、この間において港湾の役割り、港湾に関する人々の考え方も少なからず変わった。現在の視点から松山港のこれまでの歩みを改めて問い直してみる必要がある。

表交3-22 三津浜港の近代100年 1

表交3-22 三津浜港の近代100年 1


表交3-22 三津浜港の近代100年 2

表交3-22 三津浜港の近代100年 2