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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

三 安居島舟運の盛衰

 安居島・あいの島

 安居島は斎灘に浮かぶ小島で、北条市に属し(北条港から一四㎞)、安居・小安居の二島から成る。有人島の安居島は東西約一・ニ㎞、南北約〇・二㎞、高さ五六m。寛政年間(一七八九~一八〇一)まで無住の島であったが、風早郡代官広橋太助が就任して下難波村(現北条市)の草刈場とし、浅海・下難波・北条の農民を移住させた。文化一四年(一八一七)浅海の大内金左衛門が島に渡り、その後定住者が増加した。
 好漁場であった上、帆船にとって北風を防ぐ風待ち港としてよく、またクダコ水道など松山沖の水道を抜けて梶取の鼻(波方町)あるいは御手洗島(大崎下島)に向かう航路のほぼ中間に位置したために、間の島と書かれている文献もある。広橋太助は築港も整えたので、集落が形成されるにつれて商船の往来が増え、これを目当てとする遊女が来島し、最盛期の明治二〇年ごろには八〇名近くもいたといわれている。しかし、動力船の時代となり、昭和八年(一九三三)を境に遊女の姿も消えた。また、漁業と風待ちの港として、さらには以下で述べる海運業の基地として栄えた安居島も、漁業の衰退、船の近代化による寄港の減少、近年では海運業従事者の北条地方への移住によって人口の流出が続き、昭和五五年国勢調査時の人口は七四人(男三二、女四二)であった。昭和五六年には小学校も閉鎖され、全くの老人隠居島となっており、往時をしのぶよすかもない。一般に離島は、陸上交通の発達によって「鉄道の終点から結ばれる袋小路になってしまった」(宮本常一)のだが、安居島の場合も例外ではない。

 安居島船主の台頭

 漁業の繁栄と商船の寄港という環境の中から、海運を専業とする船持ちが生まれてきた。『北条市誌』によると、明治二〇年代に入ると、二〇~四〇トン級の帆船を操って朝鮮海峡を渡り釜山・木浦方面へ出かけ、現地の漁民が獲った魚介類(主に鯛・スズキ)を買い入れ、それを活魚のまま阪神方面の市場へ移送する津島屋・能間屋・山高屋らがいた。これがいわゆる「活船」の安居島における発祥である。第一次大戦を契機として、産業界では石炭の需要が増大するようになり、大正六、七年ごろになると波止浜・多喜浜の塩田燃料用の石炭を運賃積みする船主船長が三隻ぐらい現れた。一方、北条・菊間の木材・瓦を買い付けて、長崎県五島列島で瓦を売り、朝鮮の釜山で木材を揚げて商売し、帰りの便には仁川で硅砂を積み若松のガラス工場に荷揚げした後、石炭を積んで塩田へという、ワンラウンド三か月がかりの買積・賃積混交の航海をする船主もいた。これが大正一〇年(一九二一)ごろになると、ほとんどが当時有利な運賃の石炭輸送へと移行し、若松~阪神間に就航するものが多かった。当時における船舶の保有状況は表交3―21のとおりである(現北条市域内の町村)。安居島の数値は北条町のものに含まれている。
 昭和五年(一九三〇)になると従来の帆船に加えて三〇馬力程度の焼玉エンジン機帆船が現れ、昭和一四年ごろには八隻に増加した。
 昭和二四年ごろ、安居島では旧陸軍が計画造船していた二〇〇トン級の機帆船を一五隻買い入れ、石炭輸送を再開した。その後、同二五年に始まる朝鮮戦争特需も手伝って船数も増加の一途をたどった。

 戦後の安居島船主

 昭和三〇年、安居島に二隻の小型鋼船が出現し、地元機帆船業者に脅威を与えた。来島どっくが始めた鋼船の月賦払い建造方式を各造船所が採り入れたことにより、昭和三二~三三年ごろから、機帆船を売りに出し、鋼船を建造しようとする動きが強まった。
 三六年ごろから次第に石炭から石油に内航海運の大宗貨物が変わり、タンカーが盛んに建造されるようになった。このころから船主は、(回送店の支配下にあるとはいえ)自ら運賃稼ぎをする運航業者から、運航業者にチャーターに出す単なる船主(あるいは船主船長)、つまり貸船業者化していく。多くの船主船長は陸に上がり、経営者となった。昭和四〇年代からは内航船から近海外航船、さらには遠洋大型船を保有する船主が続出し、北条船主(そのほとんどが安居島船主)は県内でも一大勢力を形成するに至った。しかし、昭和四八年(一九七三)のオイルショックを契機とする不況の中で、戦線縮小を余儀なくされた船主も多かった。
 なお、安居島船主を中予地方島しょ部におけるもう一つの船どころである中島町粟井の船主と比較する時、次の二点が指摘される。
 (一) 買い積み中心の時代においては、その伝統の古い粟井船主は雑貨・木炭など息の永い取引関係を必要とする商品を対象としたのに対して、安居島船主は活魚・木材など市況商品・投機的商品に傾いた。一方後者は早くから国外へ進出した。
 (二)戦後の高度成長期、安居島船主は外航船保有にいち早く踏み切ったが、粟井船主は慎重であった。これが両者のその後を分けた一要因ともなっている。

 女船長さん

 北条港と安居島を結ぶ定期航路は典型的な福祉型離島航路である。
 この航路は、北条の岩代易吉・利助親子が、明治初年ごろから大正末期まで手漕ぎ帆送の小廻船で郵便物・雑貨などを積んで運航したのに始まるという。昭和初年に長嶋年松がそれを受け継ぎ、六トンの船に一二馬力の軽油エンジンを積んで運航を始めたが、当時としては驚異の的であった。ところが昭和四年(一九二九)一月、年松が不慮の海難事故で急死したため、妻がその後を継いだ。今は長嶋勝美が経営主となり、長嶋逓送有限会社を設立し、妻が船長、夫が機関長という夫婦船で知られている。使用船舶は昭和三〇年代初めまでは木造だったが、三五年一二月鋼船第八通信丸(四三トン、一五〇馬力)を建造、さらに昭和五一年第一一通信丸(六八トン、四七〇馬力、定員九〇名)が進水して、所用時間も四〇分に短縮された。通常一日一往復、夏季などは一日二往復運航している。
 前述のように島が活力を失っているため、同航路は利用客が減少し収支率も悪化する傾向にある。

表交3-21 大正10年の在籍船舶(現北条市域内)

表交3-21 大正10年の在籍船舶(現北条市域内)