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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

2 菊間瓦の発達

 菊間瓦の創始

 菊間製瓦業の起源は平安時代、弘安年間(一二七八~八八)で、伊予の豪族河野氏の作事方をつとめたと『河野家々譜』を史料にあげた「沿革概況」(明治三八年〈一九〇五〉)もあるが、河野家家譜を詳細に検索するも不明である。また、天正元年(一五七三)豊後(大分)へ来た明人によっていぶし瓦の製瓦技術が伝来し、一大進歩をしたけれども戦乱でやや衰微したという。
 文禄四年(一五九五)加藤嘉明が松前城を築くに当たり、菊間瓦の生産者は作事方となった。松山城築城の時は、慶長九年(一六〇四)八月二九日「九千八拾枚おたにつくりくらの奉行に可相渡候、まる・ひら・ともへ・からくさ・むねかわら也□□」と瓦を納入したものと思われる。これは菊間瓦に限定できないが、以降松山城は蒲生氏時代に一応完成した。寛永一九年(一六四二)、松平定行は天守閣を五層より三層に改築したが、天明四年(一七八四)天守閣は落雷で焼失したので、文政三年(一八二〇)再建に着手し、安政元年(一八五四)に完成した。松山城の瓦には菊間と記した銘・商標が多数みられる(昭和八年〈一九三三〉松山城小天守閣焼失の時の調査)。
 安永六年(一七七七)松山藩では瓦株の制度ができ、浜村に二六株が公認された(株札支給、天明年中一株増加し一時二七株となる)。他に東野をはじめ、三津・堀江・垂水・上野・和田・鹿之峰などに合わせて二七株、合計五三株が瓦株仲間を構成した。安永七年より天明四年までは御役銀米として「毎年米一俵弐斗宛」、天明五年以降は「銀二四匁」の上納をしている。明治四年(一八七一)までに同じ性格の株仲間として存続したのである。

 菊間瓦の進展

 従来伝法村(現大阪市此花区)で瓦の生産があった大坂表は、他地区からの売り込みが禁じられていたが、文政三年(一八二〇)になって解禁された。この時菊間付近の業者は、一五万枚の瓦を送り新しく販路を開拓した。野間郡(現越智郡)内の瓦師三〇名が関係していた。文政四年の「根方帳」によると浜村二六株のほかに、佐方二株・高田一株・長坂一株で合計三〇株が所在していたことがわかる。
 松山藩における製瓦の支配組織は 『菊間町誌』によれば次のように、

 作事奉行―御用瓦御奉行―瓦職頭―諸郡瓦師総代―年行司―吟味方―瓦師
                 ―瓦御目付
              
           ―大庄屋―庄屋―組頭―年行司―吟味方―瓦師
 郡奉行―代官―
           ―元締

職域と地域の二重の支配を受けていた。瓦職頭は、東野村(現松山市)の束本家が代々世襲し、藩より扶持米を受けていた。職務は直属する御用瓦方奉行よりの伝達を取り次ぎ、瓦師よりの願書や職内株仲間の問題に関与し差配した。
 年行司は地域の瓦師より選ばれ、浜村瓦師の株仲間では二名であった。慶応三年(一八六七)『浜村庄屋御用日記』に、利左衛門・豊次両名が年行司と記されている。生産・販売・検査などの現場の統轄者で職頭より任命されていたという。吟味方は、年行司の補佐で株仲間からの選出である。
 瓦株は営業権であって特定の者を指定したわけではなかった。従って村内では株の売買・貸借・抵当・供与などが公然と行われている。安政三年(一八五六)の『浜村根方帳』によれば、瓦株を所持する業者は一一名で、他は借株で営業している。当時の瓦職場は水尻より岩童子に至る海岸に限られていたようである。

 瓦の流通

 元禄(一六八八~一七〇四)・享保(一七一六~三六)以後になると、庶民の間に瓦の需要が増大する。瓦の販売は、幕府・諸藩及び朝廷などを対象とした注文販売(御用瓦)と、一般の人びと向けの小売・注文販売によって行われた。とくに御用瓦は、文政二年(一八一九)『瓦職内申定』によると、注意をはらって生産され、さらに製品は年行司場に集められ、品質の厳密な検査が実施された。菊間瓦の名声は御用瓦をとおして、品質の評価が、一般にも有利に作用した。
 明治三八年(一九〇五)の『営業概況』(伊予製瓦組合菊間事務所)によると、安永二年(一七七三)神奈川御小屋敷御用瓦、文政元年京都禁裏御営繕御用瓦、文政三年より始められ、安政元年に終わる松山城復旧の御用瓦、文政一〇年松山藩大坂屋敷、参勤交代時の三津・津和地の御小屋御用瓦、安政二年(一八五五)には江戸御屋敷御用瓦、元治元年(一八六四)には京都御本陣御用瓦の調達を仰せつけられ、また、明治元年(一八六八)広島藩より四か年間に一〇万枚の御用瓦の注文があり、従来より御用瓦師という誇りがあった。
 一般向けの販売を地域的にみると、領内と領外にわけられる。領外で販売された地域は、安芸(広島)を第一として、備後・豊後・日向・讃岐・伊予など、主に瀬戸内海、九州地方であった。文政三年一二月付けの浜村瓦師から大坂の伊勢屋弥兵衛・竹屋太郎兵衛あての手紙によると、大坂市場の積極的な開拓をとおして、菊間瓦を全国市場に直結させ、生産の増大をはかろうとしている。販売方法には、問屋販売と直接販売(小売・注文)とがあった。広島藩領では、広島城下・椋之浦・にし海・竹原・宮島・只の海・呉浦・川尻浦・広浦・倉浦・倉橋・廿日
市・尾道・三原にそれぞれ問屋をおいて販売し、代価の一割を問屋に与えた。直接販売は、消費者・建築業者などに小売・注文により直接売却したものである。
 瓦は重量物であるから、船による海上輸送が中心であった。浜村(現菊間町)には「浜村瓦売船」と呼ばれる七端帆の瓦輸送専用船が一七隻(安政四年)あり、瓦輸送に重要な役割を果たしていた。また、瀬戸内海を通航する諸藩の回船が寄航して積み帰ったり、瀬戸内海の渡海船が運ぶこともあったという。
 年間の総売上げは不詳であるが、嘉永五年(一八五二)には、他領への移出高が銀三〇〇貫余あったといわれる。このように菊間瓦は、浜村の経済に大きな比重を占めていたのである。