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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

一 明治一〇年農産物構成の特徴

 諸改革と商品経済化

 明治一〇年(一八七七)ごろといえば、内務省が創設されて殖産興業政策と地租改正及び秩禄処分が強行され、しかも明治一〇年の西南戦争によるインフレーションが昻進していく時期である。愛媛県の地租改正事業は、明治八年八月に開始されたが完了は大幅に遅れ、明治一三年二月にようやく事業がほぼ終了し、同一四年四月に政府から改租許可の指令がおりた。明治初期の愛媛県は、前述のように、農村の商品経済化はあまり進んでおらず、この時点においても、これら諸改革の影響ははっきりと現れていない。維新後一〇年間の農業はほとんど江戸時代の姿のままで停滞していた。それでも、安政の開港以降の農民的商品経済が全国的に展開する過程で、愛媛県の産業構造もしだいに動かしがたい変化が生じ始めていた。
 これを内務省勧農局編『明治十年全国農産表』によって概観してみよう。「農産表」は「物産表」による調査から生糸以外のすべての工産物を削除し、農産物のみについて国別、郡別の集計をこころみ、さらに、初めて米麦など農産物生産高の全国計を算出したものである。明治九年から一一年までは『全国農産表』として刊行され、明治一二年~一五年分はたんに『農産表』となり、さらに一七年分から『農商務統計表』に統合される。ところで、明治九年四月一八日の全国的な府県大統合に伴い、愛媛県の県域は同年八月二一日に讃岐国を加えたものとなり、明治二一年一二月に讃岐国が分離して香川県を復活するまで、その県域が維持されることとなった。したがって、この間の統計数値は、愛媛県のうち伊予国分が現在の県域に対応するものとなる。
 『明治十年全国農産表』によれば、伊予国の農産額は約三七八万円で、そのうち「一般供需二緊要ナル」普通農産の産出額は二九三万円、「産出ノ地方限リアル」特有農産物価額は八五万円となっている(表産2―11)。米の産出額が総産出額の四六%を占めるが、特有農産物も二三%にのぼり、米作中心の農業ながら、多種の特有作物が栽培され、そのうち大半が商品として販売されていたことがうかがえる。明治七年の農産物構成に比べると、普通作物では甘藷の生産額が大幅に増した。また、特有作物は構成比が六%から二三%(一部工産物と海産物を含む)へと全体的に比重を高めた。とくに、僅少であった生糸と繭の伸びが著しく、養蚕・製糸の普及を物語っている。いずれの指標にもこの間の農村における商品経済の急速な進展の兆候が見られるのである。

 相対的に低い農業生産力

 右のような伊予国農産物構成の特徴を明らかにするため、全国集計と対比してみよう。生産額に人口数を加味して一人当たり生産額を算出してみると、伊予国の一人当たり農産額は四円六〇銭一厘で、全国の六円二四銭九厘をかなり下回っている。一人当たり水準でみる限り、愛媛県は必ずしも農業県とはいえないのである。全国平均に比べ、普通農産額は二〇%、特有農産額は三八%も下回っている。内訳をみると、普通農産では米の一人当たり生産額が大きく下回り、その他耕種も低水準で、ただ芋類だけが全国水準を大きく上回っている。県民の食糧を賄うためには穀物を一部移入するとともに、主食の相当部分を芋類に依存していたことがわかる。特有農産では、全国水準を上回るのは生蝋・楮皮及び和紙類・甘蔗・食塩の四品目のみであり、実綿・繭・生糸・菜種をはじめいずれも全国平均を大きく下回った。このように明治一〇年の愛媛県の農業は全体として生産力が低水準にあり、とりわけ商業的農業の規模が小さかった。なかでも急速に近代産業に発展しつつあった繊維関連の産物が低位にあった。他方、生蝋・和紙などの比較的早く衰退期を迎える在来産業関連作物の比重が高かったのが特徴である。

表産2-11 明治10年の日本全国及び伊予国の農産額

表産2-11 明治10年の日本全国及び伊予国の農産額


表産2-12 愛媛県における米の生産価格及び平均価格

表産2-12 愛媛県における米の生産価格及び平均価格


表産2-13 愛媛県農業生産高の推移

表産2-13 愛媛県農業生産高の推移