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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

第二節 明治初期の職分構成

 人口の動向

 維新政府は、学制・徴兵制度・税制・郵便制度などの新制度の創設移植の基礎条件として、また治安対策上の必要から戸籍編成を急いだ。早くも明治二年二月(旧暦)、各府県あてに行政官(同七月民部省となる)から「戸籍ヲ編成戸伍組立ノ事 戸ロノ多寡ヲ知ルハ人民繁育ノ基戸伍ヲ相組ハ衆庶協和ノ本タリ」と令し、翌三年にかけて、府藩県に対し戸籍改正と人口調査を何回となく指令督促している。しかし、その結果は断片的なものしか得られず、明治四年四月四日に「全国惣体ノ法」としての戸籍法が制定され、同五年二月から施行されることになった。この戸籍編成を基に、新たに結成された県民掌握の行政機構を通して新政府の諸政策が全国各地で実施されていくのである。
 さて、戸籍法に基づいて行われた「戸口調査」によって作成された「戸籍法」と「職分表」から間接的に当時の社会経済の動きを探ってみよう。人口の動向をみると、全国と愛媛県ともに毎年着実な増加がみられ、その背後に経済の安定した推移がうかがえる(表産2―9)。愛媛県の人口は、明治五年(一八七二)の七七万五、九七四人を一〇〇とすれば、明治九年は一〇二・三で、全国の伸びを一ポイント以上下回っている。このような人口増加テンポの鈍さは、愛媛県における経済諸改革の遅れ、経済発展の後進性の一面を反映しているといえよう。

 職分構成

 続いて「職分表」をみると、当時はいまだ旧幕時代の封建的身分制を多分に引き継ぎ、また経済活動の大部分が生業形態で営まれていた。そのため身分・職業・産業の諸概念が未分化な状態にあり、「職分表」から粗略ながら職業構成とともに産業構成をとらえることができる。
 表産2―10は、明治七年及び八年の職分表を集括したものである。まず、全国の数値からは、明治初期のこの段階ではわが国有業人口の構造にはほとんど変化はみられない。有業者の圧倒的多数(七七~七八%)が農林漁業に従事し、商業及び工業に就業する者は少なく、それぞれ産業構成の四%と七%にとどまっている。ただ、「公務」として類別した官員及び兵隊の数が年を追って増加する傾向がみられる。
 続いて愛媛県についてみると、明治七年から八年にかけての有業者の増加があまりに大きく数字に疑問があるものの、就業構成は全国のそれとあまり異ならないことが読み取れる。農漁業人口は両年の数字に大きなズレがあるが、これは調査の捕捉率が高まったための増分と思われる。構成比は全国なみであったとみてよい。ただ全国に比べ商業及び工業就業者の比率がやや小さく、商工業を合わせて、全国が一〇%を超えるのに対し、愛媛県は七~八%と低い。これを、前に見た生産物構成では愛媛の工産比率がかなり高かったことと考え合わせると、愛媛県において商工業経営の近代化が他地域よりやや遅れ気味であり、商工業の大部分が農家の副業的形態で営まれていたということであろう。それでも雑業人口割合は比較的高く、町場ではかなり商品経済が進展し、農村でも兼業化が進み賃稼ぎの就労が拡がりつつあったことがうかがえる。また、明治新政府の官僚統治機構の急速な整備が、地方末端まで及んできたことを示す官員及び兵隊数の急増がみられるが、それはもちろん職分構成の全体を変化させるほどのものではない。なお、讃岐が愛媛県に編入されていた明治九年~二〇年の職分表については、讃岐国を合算した数字のみしか示されていないので、伊予国だけの分析は不能である。職分のより詳しい区分数字については、『資料編社会経済上』産業構造、明治九年職分表参照。

表産2-9 人口の動向(明治5~9年)

表産2-9 人口の動向(明治5~9年)


表産2-10 職分表による明治初期の職業(産業)構成

表産2-10 職分表による明治初期の職業(産業)構成